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連載長編小説『怪女と血の肖像』第一部 怪女 2

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 午後五時を回ったが、刑事課に差し込む日光はまだ昼間を思わせるほど眩しい。しかしくたびれたシャツに疲労を滲ませ、欠伸を繰り返す部下を見て、やはり夕方なんだなと天羽義尋は思った。
 天羽は黒い背広を脱いだ。夏場はそれが、彼の帰宅の合図だった。ちょうど背広を腕に掛けると、今年刑事課に配属された阿波野巡査がお疲れ様ですと挨拶を寄越した。若いだけあって、他の刑事ほどの疲れは見えない。どちらかといえば体力的な疲労より、精神的な疲労のほうが溜まっているのかもしれない。阿波野は最年少ということもあり、周囲に目を配ってこうして真っ先に挨拶をする。素晴らしい心掛けだが、それが彼のストレスになっていなければいいのだが。気弱そうな顔をしているから、天羽も気を遣ってしまう部分がある。
 阿波野に続いて古藤が挨拶を寄越した。彼も天羽の部下だった。長い手足をきっちり揃え、四十五度のお辞儀をしている。さすが警部補。阿波野巡査とはものが違っていた。そんなことを思いながら頷き掛けていると、事件発生の一報が入った。
 あちこちで溜息が吐き出される中、天羽はデスクに戻り、背広を着直した。所轄刑事らしい向上心のない一幕に怒号を飛ばしたくなったが、天羽はそれを飲み込んだ。手帳や腕章など、備品を揃えると阿波野を運転手につけ署を出た。
 通報によると、吉祥寺の家屋で刺殺体が発見された。通報があったのは午後五時過ぎ。吉祥寺交番の巡査が現場に向かったところ男性の死体を確認。武蔵野署に無線連絡を行った。
 現場は吉祥寺の住宅街に並ぶ、築五十年ほどと思われる一軒家だった。天羽が到着した時、すでに被害者の身元は判明していた。樽本京介、二十五歳男性。すでに身分証も見つかっている。
 樽本京介は腹這いに倒れていた。そのせいで、オレンジと金に染められた頭髪にどうしても目が行ってしまう。その鮮やかな金髪に物々しく飛び散った紅点を見て、天羽は視線を少しずらした。背中全体が血で染まっており、さらにはフローリングの床までその血は流れ、固まりつつある。楕円を形成する血溜まりのちょうど中心に、刃物で刺された傷跡が見つかった。
 相当深いな、と天羽は思った。もしかしたら、背中側から心臓にまで達しているかもしれない。だとすれば即死だっただろう。出血の量を考えても、その可能性は高い。
 鑑識の動きを目で追っていた天羽の元に古藤がやって来て、ジップロックの袋を顔の高さに上げた。その中には血に染まったナイフが入っていた。
「犯行に使われた凶器だと思われます」
 ジップロックを受け取り、天羽はナイフを取り出してみた。柄の部分が檜になっていて、その先に十センチに満たない刃がついている。見た目は鍔をつける前の日本刀を小さくしたような感じだ。刃渡りは短いが、骨に邪魔されなければ背中側からでも十分心臓に達する長さがあった。ただし、背骨を考えると、心臓を一突きというのはかなりの力が必要になる。
「鑑識に回せ。指紋が残っているかもしれない」
 返事をすると、古藤は天羽の前から立ち去った。凶器を残していくとは、間抜けな犯人だ。屋内で背中を刺されていることを考えても、顔見知りの犯行だろう。それほど手間取らないだろうと天羽は思った。
 天羽は阿波野に呼ばれて、第一発見者の浅倉瑠璃の元へ向かった。浅倉瑠璃は玄関の外にいて、両手で顔を覆っている。ひっひっと肩を震わせているから、まだ泣いているのだろう。肩を震わせる度にヘアアイロンで巻いた髪を後ろで束ねたポニーテールが揺れる。ブロンドに近い茶髪のせいもあって、天羽は魔法の箒みたいだなと思って見ていた。
「お話よろしいですか」と柔らかい声を心掛けたが、浅倉瑠璃が落ち着く様子はなかった。頷いてはいるものの、これではまともな話は聞けそうにない。もう少し時間が掛かりそうだ。そう思い、天羽は浅倉瑠璃を落ち着かせるよう阿波野に言い残し、再び屋内へと戻った。
 そこに古藤がやって来た。
「家の中を一通り調べましたが、一部屋だけ鍵が掛かっていて入れない部屋がありました。その部屋の鍵だけ見つかっていません」
「その部屋は?」
 こちらです、と古藤の案内を受け、天羽は問題の部屋の入り口に立った。リビングと繋がる部屋だ。確かに、ドアノブはびくともしなかった。改めてすべての鍵を試してみたが、開かなかった。その中には玄関の鍵もあった。
「浅倉瑠璃が家に来た時、玄関に鍵は掛かっていたのか?」
「通報を受けて駆け付けた巡査の話ですと、鍵は掛かっていなかったそうです」
 受け入れ難い現実は、じわじわとその姿を現す。浅倉瑠璃も、樽本京介の死体を見た直後は今より幾らかは冷静だったということか。
 古藤は他の部屋についても報告を行ったが、鍵の掛かった部屋以外に怪しい点は見当たらなかったという。現場となったリビングがあり、そこから通じる鍵の掛かった部屋、一階には風呂とトイレがあり、階段を上がると一台ずつベッドの置かれた寝室が二部屋、もう一つある部屋にはギターや詞の書かれたノートなど樽本京介が音楽をやっていたことを示す遺留品が発見された。
 ミュージシャンか。オレンジと金の頭髪にようやく合点がいった。ビジュアル系バンドならもっと派手なのだろうが、黒髪短髪の天羽にしてみれば樽本京介の頭髪は十分派手だった。ミュージシャンはよくわからない髪色を組み合わせることが多々ある。そこにカリスマ性を見出しているのだろう。樽本京介もそういう類の音楽家だったのかもしれない。
「どうしてベッドが二台あるんだ?」天羽は疑問に思ったことを古藤に投げてみた。
「さあ……」古藤は腕を組み、顎を触った。「どうしてでしょう。ゲストルームとかですかね」
 人の出入りが多い家だと面倒だ。その分容疑者は増え、調べることも多くなる。アリバイの裏付けや動機の有無など、地道な捜査の量が増えれば増えるほど余計な労力が必要になる。それが仕事なのだが……。
「一応、ベッドの毛髪や各部屋の備品も鑑識に調べさせておけ。何かの手掛かりになるかもしれない」
「了解しました」そう言うと、古藤は一礼して立ち去った。
 天羽は屋外に出た。天羽が出て来るのがわかったらしく、阿波野と目が合った。困ったように眉を八の字に曲げているが、それはいつものことだ。彼の傍にいる浅倉瑠璃はいつしか手をだらりと下げ、茫然自失としているものの、さっきと比べれば落ち着きを取り戻していた。決して高圧的ではない阿波野の功績かもしれない。
「お話よろしいですか」
 天羽が訊くと、浅倉瑠璃は小さな声ではいと答えた。露になった彼女の顔はふくよかで愛嬌があった。アーモンド型の目は大きく魅力的だが、今は赤く腫れていた。
 天羽は手帳を取り出した。
「浅倉瑠璃さんで間違いないですね」事務的な確認を行うと、彼女は首肯した。「ご職業は?」
 浅倉瑠璃は軽く目元を拭うと、「看護師をしています」と答えた。
「樽本京介さんとのご関係は?」
「彼とは、付き合ってました。恋人です」
 念のため、恋人であるという証拠を求めた。浅倉瑠璃はスマートフォンを取り出し、写真フォルダに残る恋人とのツーショット写真を何枚か提示した。四季折々、様々な場所に出掛けている写真だった。写真によっては、樽本京介の髪色が違っている。どうやら半年に一度、髪色を変えていたようだ。
「あなたが遺体の第一発見者とのことですが、今日ここには何を?」恋人の自宅なのだ。浅倉瑠璃が足を運ぶことは何も不自然なことじゃない。これも事務的な確認になる。
「今日はこの後デートの予定でした。食事をして、その後ナイトプールでも行こうかと話してたんです。でも待ち合わせ場所に彼が来ないし、電話も繋がらなかったから、変だと思って家まで来たんです」
「すると恋人は殺されていた」
 浅倉瑠璃はしゃっくりのような悲鳴を上げ、弱ったように唇を波打たせた。目にはまた涙が溜まっている。天羽は謝罪した。
「遺体を発見した時の状況を話してもらえますか」
 浅倉瑠璃は端正な顔を握り潰された紙のようにぐしゃぐしゃっとしかめた。血を流す死体を一般市民が目にする機会など一生に一度あるかないかだ。仕事上死体を何体も見て来た天羽でさえ殺人現場を見るのは気が引ける。浅倉瑠璃の表情は当然のものだ。
「五時過ぎに到着したと思います。インターホンを鳴らしたんですけど、応答がなくて。何度か試した後、玄関のドアをがんがんと叩きました。それでも返事がなくて、おかしいと思ってスマホを確認したんですけど、彼からは何の連絡も入ってなくて、それでドアを開けてみたら、鍵は開いてたんです。彼の靴も玄関にあって、寝てるのかなって。夜な夜な作詞に耽るなんてことも珍しくない人でしたから。良い詞が思いついた時は時間を忘れるような人だったので、それはそれであたしにとっても喜ばしいなんて思ってリビングに上がると……」
 浅倉瑠璃はそこで言葉を切った。それ以上は話したくなければ話さなくてもいい。腹這いに倒れ、背中から大量の血を流して倒れている恋人を見てしまったのだ。発見当時の状況を理路整然と話せるだけでも大したものだ。
「あなたは合鍵を持っていなかったんですか。インターホンを鳴らして、その後ドアを叩いて呼び掛けたとのことですが、恋人なら合鍵で自由に出入りできても不自然ではないと思うんですが」
「持ってたんですけど、二ヶ月ほど前に鍵を返してほしいって言われて……」
「それはなぜ?」
「わかりません。ただ、同じ時期に同居人ができたとは聞かされました。同居人ができたから、合鍵は返してくれって」
 居候……あるいはシェアハウス、ということだろうか。
「その同居人とは?」
「知りません。面識もないので……。聞かされているのは男性ということくらいです」
 その同居人との間に何らかのトラブルを抱えていた可能性はある。ただ、同居人が樽本京介を殺害したとして、なぜ玄関の鍵を掛けずに家を出たのか。気が動転していたというのだろうか。
 天羽は阿波野に大家を呼ぶよう命令した。阿波野は猫背気味の背中を少し伸ばすと、返事をして仕事に取り掛かった。
「同居人のことは大家に訊くとして、いくつかあなたにお伺いしたいことがあります。失礼ですが、今日の予定は? 五時過ぎにここに来たとのことですが、仕事は休みだったんでしょうか」
 休日なら、夕方からではなく昼間からデートに出掛けられたはずだ。
「昨日が夜勤で、今日は休みでした。なので朝方帰宅して、それから睡眠を取りました。起きたのは十五時くらいでした。それから軽食を摂って、支度をしてアパートを出ました」
「失礼ですが、お住まいはどちらで?」
「代々木です。勤めている病院も代々木にあります」
 そうですか、と何でもないふうに相槌を打ちながら、天羽は手帳にメモを書き込んだ。続いての質問に移る。
「樽本さんとはいつからお付き合いを?」
 年齢は樽本京介より浅倉瑠璃のほうが二つ上だ。話し方を見ていても出身は東京だろう。学生時代の先輩後輩かな、と天羽は考えていたが、浅倉瑠璃はまったく別の返答を寄越した。樽本京介とは勤務先の病院で出会ったらしい。二年ほど前まで樽本京介の祖父が入院しており、浅倉瑠璃はその病棟に勤めていた。祖父の見舞いに来ていた樽本京介と出会い、それからおよそ一年後に交際に発展したそうだ。
 つまりその後十ヶ月近く、彼女は合鍵を持っていて恋人の家を自由に出入りできた。しかし同居人ができて鍵は没収された。浮気を疑うこともあったかもしれない。彼女にはアリバイがない。
 だが彼女は、二人の仲は円満だったという。喧嘩をすることもあるが、それがむしろ相性の良さを物語っていたと話した。
「樽本さんは有名なミュージシャンだったんですか」
 浅倉瑠璃の眉がぴくりと動いた。天羽は思わず耳を掻いた。耳を掻くのは気を紛らわせたい時の天羽の癖だった。失礼なことを訊いたかもしれないと思ったのだ。
「音楽には疎くて」取り繕うように天羽は言った。
 しかし浅倉瑠璃はゆらゆらとかぶりを振った。口元には初めて微笑が浮かべられた。看護師らしいにこやかな、人に癒しを与えるような笑みだった。これが本来の彼女の表情なのだろう。
「まったく売れてませんでした。メジャーデビューすらできてない状況でしたから。よくてライブハウスに出させてもらえる、普段は路上ライブとか、公園に小さなステージを自分で立ててライブをしたり、そんなバンドでした」
「バンドだったんですか」
 てっきり樽本京介は一人で音楽を作り一人で歌う、いわゆるシンガーソングライターだと思っていた。部屋に残っていた楽譜を見れば、音楽をよく知る者ならバンドの曲だと見抜いたのだろうか。
 浅倉瑠璃は小さく頷いた。
「フブ、というバンドです。彼はヴォーカルでした」
 天下布武の布武だと浅倉瑠璃は付け足した。他に樋口、猪田、斉木というメンバーがいるという。彼らの連絡先を彼女は知っていたので、天羽はそれを控えた。
「樽本さんは普段はどう生計を立てていたんでしょうか。売れないバンドをしているということですが」
 樽本京介の自宅は築五十年ほどの老朽化が進んだ家屋ではあるものの、一軒家だ。吉祥寺の平均的な家賃を考えても、売れない音楽家が一軒家に住むのは経済的に厳しい部分がある。
 浅倉瑠璃は「普段はフリーターです。いくつかアルバイトを掛け持ちしてました」と答えた。
 それでも家賃と光熱費で一杯一杯ではないだろうかと天羽は思った。借金について訊いてみたが、浅倉瑠璃は知らないと答えた。樽本京介は金に困っているとは決して口にしなかったという。プライドの高い男だったのだろう。芸術家とは、概してそんなものだ。恋人には知らせず借金をしている可能性は十分考えられる。
 他の樽本京介の交友関係を訊いたが、今現在関わりがあるのはバンドの仲間と彼女自身、そして同居人くらいではないかと浅倉瑠璃は言った。樽本京介は交友関係が狭く、学生時代の同級生と飲みに行くなんてことを殆ど聞いたことがないという。例外なのは伊坂翔平という男だけだそうだ。伊坂翔平は樽本京介の親友で、彼女も何度か面識があるとのことだった。その中で樽本京介を殺害する動機のある者に心当たりはないかと訊ねたが、浅倉瑠璃は首を捻った。
「伊坂君とは仲が良かったですし、伊坂君も彼の音楽活動を応援してくれていて、よく食事の面倒なんかを見てくれているようでした。バンドのみんなとはぶつかることもあったみたいですけど、それはまあ、喧嘩というほどのものじゃないと思うので……」
 考えられるとすれば、やはり同居人だと浅倉瑠璃は言った。恋人の音楽活動について浅倉瑠璃自身はどう考えていたのかと訊いたが、もちろん応援していますという返答があった。
 彼女に訊きたいことは一通り聞き終わった。天羽は近くにいた警官に彼女を自宅まで送り届けるよう言った。まだ空は明るいが、日は傾いて来た。殺人犯は近くに潜んでいるかもしれない。万が一のことを考えたのだ。
 まもなく阿波野が大家を連れて戻って来た。大家は七十代前後の白髪混じりの男性だった。時刻は午後六時半を過ぎたところだが、まるで夜中に叩き起こされたかのように不機嫌で、腫れぼったい目を険しく細めている。自分の所有する物件で殺人事件が起きたことへの怒りかもしれない。
 天羽は阿波野に布武のメンバーに当たるよう指示し、自身は大家とリビングへと入った。すでに遺体は運び出されている。これから司法解剖が行われることになる。
 大家の口から洩れる小言を一通り聞き終え、同情するふりをした後、天羽は二ヶ月ほど前から入居した同居人について訊いた。大家は同居人と面識があるようだった。大家の話では、同居人が入居してからは樽本京介の分まで家賃を引き受け、そればかりでなく樽本京介が滞納していた分の家賃までその同居人が支払ったという。一人入居者が増えシェアハウスのような形になることは樽本京介から聞かされていたそうだが、大家でも、同居人の名前は知らないようだった。「そのうちね、聞こうとは思っとったんじゃ」というのが大家の言い訳だ。
 天羽は続いて樽本京介について浅倉瑠璃と似たような質問をしたが、彼の印象は浅倉瑠璃の語ったものと変わらなかった。最後に鍵の掛かった部屋について訊いたが、大家はこの部屋を知らないと言った。
「確かにここに部屋はあったけれども、鍵はつけとらんかった。新しく入った子がつけたんじゃないかね」
 二人目の入居者の見た目を訊いたが、大家は首を捻った。
「見た目は四、五十代かな。わしほどじゃないが白髪交じりで、長い髪をしとった」大家は三角形を作るように頭から肩にかけて手を動かした。「げっそり痩せとってね、猫背で、ちょっと不気味な人じゃったよ」
 樽本京介との接点も、同居の経緯も大家は聞かされていなかった。

3へと続く……

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