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連載長編小説『十字架の天使』4-2
昼食を済ませて署を出ようとしたところ、福岡に話し掛けられた。
「小松がネットカフェを利用してた理由を突き止めたらしいじゃねえか。まさか帰れば現実を突き付けられるからネットカフェに寄っていたとはな。商社マンで美人な婚約者がいて幸せの絶頂にいるはずの人間が誰よりも虚しい思いをしてたなんてな」
「彼の気持ちを考えると何とも言えませんね。鳴海聖子の事件当日の様子についてはどうでしたか」
福岡は昨日の捜査会議の後、恵比寿で鳴海聖子について聞き込みを行っていた。その報告を薙沢はまだ受けていないが、福岡が大きな顔をしかめるのを見て、特に成果はなかったのかもしれない、と思った。
「まず鳴海聖子が立ち寄ったカフェの店員に話を聞いたが、鳴海聖子は窓際の席に一人で座っていたそうだ。来店はおそらく初めてだったということだ」
「初めて来店した客をよく覚えてましたね」
「若い男の店員が覚えてたんだよ、薄っすらとだがな。客を見て、綺麗な人だと思っていたらしい。初めは芸能人じゃないかと思ったそうだ」
そう思うのも無理はない。特に鳴海聖子よりも若い店員なら、彼女の切れ長の目尻に大人の魅力を感じたのかもしれない。魅力的な女性には自然に目がいくものだ。
「店内のカメラも確認した。鳴海聖子は確かに窓際の席に三十分ほどいた」
「座席は店員が案内したんですか」
福岡はいや、と首を捻った。
「空いてる席に自由に座れる店だ。被害者自身が窓際の席を選んだ」
「鳴海聖子はずっと一人だったんですか」
「ああ。だが外の様子を気にしているようにも見えたから、誰かと待ち合わせていたのかもしれない。たとえば――」
「売春相手」
そうだ、と福岡は言った。「その可能性が高いと思ってる。鳴海聖子が店を出る時も、時間を見て、というよりも外に何かを見つけて席を立ったという印象だ」
「じゃあ待ち合わせの時間よりも早く恵比寿についたからカフェで時間を潰していたってことですかね」
「もちろん、考えられることだ」
「その後については?」
「今のところ不明としか言えない。一応付近の防犯カメラの映像は所轄捜査員にすべて確認させているがまだ何の報告もない。俺も昨日近くの商業施設の防犯カメラをいくつか確認したが、そこに被害者が何度か映り込んでいた。だが一人だった」
薙沢は顎に手をやった。
鳴海聖子は誰かと待ち合わせていたわけではないのか。だとすれば考えられることは一つだった。
「やはり買い物ですか」
「買ったとしたら化粧品くらいだ。店を出る時と入店時の荷物が増えていないからな。化粧品なら持っていたバッグにそのまま入れられる」
正確なことは付近の防犯カメラの映像の確認が終わらなければ何も言えない。薙沢は話題を変えた。
「他の三件の事件現場付近での鳴海聖子の目撃情報はどうなってるんです?」
「今のところ、目撃情報は得られていない」野太い声が言った。
振り返ると寺戸がいた。お疲れ様です、と福岡が言ったので薙沢もそれに倣った。
「鳴海聖子にパパ活を持ち掛けていたSNSのアカウント主についても特定が難航している」
福岡が舌を鳴らした。
「まったく面倒ですね。まるで自分の身を隠すためにSNSで迫ってるみたいだ。誰が送信したかすぐにわかるようにメールでやり取りしてくれりゃいいのに」
「メールじゃ知人にしかコンタクト取れないじゃないですか。知人との間で売春なんて殆ど成立しませんよ」白井尚希は特殊な例だ。「SNSで誰とでも繋がれるからパパ活なんてものが横行してしまった。パパ活は言い方を変えただけの売春ですからね」
「その通りだな」寺戸が言った。「とにかくSNSについてはサイバー班に任せるしかない」
「そうですね」と福岡が素早く頷いた。
「そういえば今日、小松さんが自宅に戻る日でしたね」
「ああ」
「見張りは続けるんですか」
「一応な」
「一つ思ったことがあるんですが」と薙沢は言った。「昨日署に戻った時は鳴海聖子と売春相手の間に何らかのトラブルがあって殺害したのではと言いましたけど、これって鳴海聖子と小松さんの共通の知人についても同じことが言えませんか」
「どういう意味だ?」
「二人とも知っている人物が鳴海聖子の売春相手だったとしたら、そこでトラブルが起きてもおかしくありませんし、小松が浮気を察していたことも説明がつきます。売春絡みじゃなくても、鳴海聖子の散財癖を考えれば金銭のトラブルがあったかもしれません」
寺戸は唸った。
「可能性は十分考えられる」
「だが金を貸してたやつが殺しをするか?」福岡が言った。「金銭トラブルでいえば磯山夏妃の事件があるが、殺されるとしたら債権者のほうじゃねえのか。金を貸してるやつを殺せば一円も返ってこないんだからよ」
「鳴海聖子が殺そうとしていたとすればどうです?」
「はあ?」
福岡が呆気に取られたように声を出した。
「被害者は自傷癖があるようなヒステリックな女性でした。知人から書面に残らない借金があったとして、その額の大きさのあまり自棄を起こした。衝動的に殺害しようとしてナイフを手にしたが、逆に自分が死ぬことになった。そう考えれば被害者がナイフを順手で持っていた理由についても説明がつきます」
寺戸は眉間に皺を寄せ、薙沢の考えについて検討しているようだった。言葉を繋いだのは福岡だった。
「ちょっと待てよ。じゃあ何で胸に十字架が突き立てられてる? 鳴海聖子が誰かを殺そうとして返り討ちにあったとして、鳴海聖子を殺した人物はどうしてわざわざ十字架を突き立てる必要がある?」
「確かに、突然刃物を持った人物に襲われて模倣犯を思いつくほど冷静でいられるとは思えない」
寺戸が賛同したからだろう、福岡は胸を張った。笑みこそ浮かべないが、内心ではしてやったと思っているはずだ。福岡は干支がちょうど一周することもあり可愛がってくれているが、圧倒的縦社会である警察組織に属しながら後輩に手柄を取られてばかりいるのは面白くないだろう。
「それについては俺もまだ考えが及んでいません。これから捜査検討が必要かと」
「だが面白い。おまえの大胆な発想にはいつも驚かされる。その発想がいくつも事件を解決に導いているんだから、検討する価値はあるだろう」
薙沢は腰を三十度曲げた。「ありがとうございます」
「今のところ小松諒太と鳴海聖子の共通の知人とわかっているのは被害者の友人だった深川梨華と小松の同僚であるエグサアキオ」薙沢はすぐに頭の中で江草秋生と変換した。小松諒太とは同期入社で親交が深い。小松諒太のマンションに遊びに来ることもあり、鳴海聖子とも面識がある。「それから東亜商事の関連会社の松崎という社員だ。松崎は業務上小松と関わりがある、かつ、鳴海聖子とは中学の同級生だ」
「あとは吉高和也ですね」薙沢は付け加えた。「吉高も鳴海聖子の小中学校の同級生です。小松さんとは直接関係はありませんが、小松さんがよく利用していたネットカフェの店員です」
「そいつは関係ねえだろ」福岡が言った。「五年も会ってなかったんだろ?」
「はい。婚約についても知らなかったと」
「第一、事件が起きてから小松と被害者の関係を知ったんだから、事件に絡みようがない」
「まあでも、金の貸し借りがなかったかくらいは調べさせよう」
「わかりました」と福岡が頭を下げた。
「それじゃあ俺は聞き込みに行きます」
「江草や松崎と会うのか?」
薙沢はいいえ、と首を横に振った。
「今日は鳴海さんの葬儀なので、今回の事件の関係者には当たりません」
わざわざ教会まで押しかけて参列者全員から逐一話を聞くのは不躾だ。何よりそれは故人への冒涜になる。
「これから磯山夏妃の関係者に接触しようと思います」
「おいおい大丈夫か」福岡がしかめっ面で言った。「これは連続殺人だが捜査本部は別々なんだ。勝手に他のヤマに足を踏み入れると苦情が来るぜ」
「鳴海聖子は磯山夏妃のSNSをフォローしてましたから、口実はあります」
福岡は小さく舌を鳴らした。
「まったく無茶言うなおまえは。迷惑被るのは係長なんだからな」
「それで事件が解決するなら私に迷惑が掛かっても構わない。だが失敗したら、わかってるな?」
寺戸は穏やかな表情のまま低い声で言った。まさか一度の失敗で左遷されることはないだろうが、薙沢の背筋は伸びた。
上司に敬礼すると、薙沢は署から出発した。
4-3へと続く……