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連載長編小説『破滅の橋』第六章 希望の橋7
7
山小屋を出て峯本のそばに立つと、ありがとう、といった。彼はにこやかなまま首を傾げる。
「浩平君にいわれへんかったら登山なんて来んかったやろうし。私、今すっごい楽しくて。だから、ありがとう」
登山に行こうと提案したのは峯本だった。もちろんきっかけを作ったのは祐里である。梨沙との相談の後、「今度の休日、どこか出掛けへん?」と祐里は切り出した。
「あまり人前には出たくない」と断られた。もちろん、彼が誘いに乗ってくるとは思っていなかった。予想通りである。
「リフレッシュしたいと思ったんやけど……」祐里は彼の様子を窺いながらいう。「何か自然に触れられるものがいいと思ったんやけどなあ」
彼はうん、と歯切れ悪く答えただけでやはり外出する気はないようだった。ところがその三日後、彼は突然掌を返したように「登山とかはどう?」と聞いてきたのだ。
峯本に何があったのかは知らない。祐里が彼に対して何か特別なことをした覚えもない。ただひとつ、祐里は髪を短く切ったのだった。まさかそんなことは関係ないと思いつつ、二人で出掛けられることの喜びを噛みしめた。
午前中に登山を開始し、山小屋に到着したのは午後二時を回ってからだった。出発から何時間も経つのに、今もまだ、彼と二人で外出していることが嘘のようで実感がない。これを機に、どんどん二人で出掛けられるようになれば、そんな希望を祐里は抱いた。
祐里、と峯本はこちらを見ずにいった。「夕陽がきれいだ」
彼の向いているほうに祐里は目をやった。登山を開始したのは午前中だったのに、もう太陽は傾き始めている。昼間の太陽とは違ってほのぼのと柔らかく輝いていた。遠くに見える景色が、夕焼けに染まり始めている。
「きれいやなあ」祐里は妖しく染まり始めた空に見とれた。
「ちょっと来てくれ」
峯本は祐里の手を引いた。とてつもなく強い力に引っ張られ、少し戸惑った。しかし祐里は黙って彼について行った。大自然の中を、好きな人に手を引かれて駆けるのも悪くないと思ったのだ。
行く先にはただ木々が無数に生えているだけだ。雨は降っていないが、冷え込んだ山頂の気温のせいで地面が湿っている。彼は無言のまま祐里の手を引く。すっかり山小屋が見えなくなり、気がつけば七合目まで戻っていた。陽光が細々と木々の間を縫うように差し込むから、祐里は不安になった。
「どこ行くん? こんなところまで来たら危ないで」
「もう着くから。とっておきの場所だ」
そういうと、彼は脇道に逸れ、暗い林の中を進んだ。
視野が広くなった途端、祐里は驚いて大きな目を見開いた。まさかこの山の中にこんな場所があったなんて。
祐里は唖然としたまま目に映る風景を眺めた。二人の立っている場所は断崖絶壁の崖の上だった。向こうにも山が続いているが、その間には深い谷がある。谷を渡るために架けられている二十メートルほどの吊り橋があるが、使われている木材はずいぶん古いもので足を乗せると少し軋む。峯本が吊り橋の中央まで迷いなく進むが、足元はやはり不安定だ。
峯本が手招きする。祐里は手摺の紐縄を握りしめ、恐る恐る橋の上を歩いた。少し下を見ただけで、深い渓谷に怯えた。
「祐里、きれいだろう」
祐里は峯本が顎をしゃくったほうを見た。二人が登ってきた山に、夕陽の三分の一が重なっている。橋の上からだと、視界が開けていることもあって淡く照らされた街を一望できた。
甘美な眺めだった。思わず峯本の横顔を見上げた。
「何でこんな場所知ってたん?」
「昔、この山に登ったことがあるんだ。それで道に迷ってここを見つけた。あの時もちょうどこのくらいの時間だったな」
峯本は微笑を浮かべた。
「この景色に心打たれて、自分の決意を伝える時はここにしようって思ってた」
「うん」と壮観な景色に目を蕩けさせながら頷いた。じっと景色を眺めていると、何だか涙が溢れてきそうだった。
そんな祐里の体を、峯本がそっと抱きしめた。祐里は彼の胸に顔を埋めながら戸惑った。彼の目を見返すと、照れ臭そうに顔を歪めている。
「こんなどうしようもない男だけど、もしよかったら俺と付き合ってくれませんか」
祐里は思わず一歩後ずさった。眉間に皺が寄るのがわかる。力を抜くと、熱いものが込み上げてきそうだった。
祐里は胸の前で手を握ったまま、じっと彼を見据えた。
「やっぱりだめか」峯本は苦笑した。
祐里はううん、と首を横に振った。一歩前に踏み出して彼に笑顔を向けた。洟をすすり、峯本の背中に手を回した。「だめと違う。私もずっとそう思ってた。でも浩平君、きっと受け入れてくれへんって……。絶対に付き合えへんやろうって思ってた。私嬉しい」
「ごめん。こんなことでまで気を遣わせて。祐里のことは、俺が絶対守るから」
うん、と祐里は頷いて笑った。体全体が熱かった。神経が昂っている。峯本の胸の中で彼の顔を見上げると突然恋人同士になったことが現実味を帯びてきて涙が溢れた。もう我慢できなかった。
祐里は峯本の胸に頬を当てた。顔を見られないように、涙を彼の服につけないように、心を落ち着けるために、彼を手放さないように。
第七章へと続く……