連載長編小説『別嬪の幻術』8
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闇の底で光が地を這うように、音がぬるりと聴覚を刺激する。着信音だった。アラームも不快だが着信音で目が覚めるのはもっと不快だ。アラームだったら、セットしたのは自分だから誰のせいにもできないが、朝の着信は完全に相手が悪い。左目を薄っすらと開け、目薬を差した直後のようにぼやける視界で音のするほうに手を伸ばした。闇雲に手を伸ばしたせいで、千代の平たい乳房に手が当たった。平たいが、指先で押し上げるだけの弾力はある。少し硬いものに手が当たったと思ったらそれは彼女の乳首だった。タオルケットを巻き込むように、千代は体を少し捻った。
スマートフォンを手に取ると、僕はベッドを出た。知らない番号からの着信だった。だが電話に出て声を聞くと、それが誰なのかすぐにわかった。二度しか会ったことのない男だが。こめかみに目立つシミを僕は思い出していた。柏原刑事だ。
「こんな朝からどうしました?」今日は土曜日だ。すでに午前九時を過ぎているが、学生の土曜日は十五時までが午前中みたいなものだ。欠伸を我慢したせいで、特別低くくぐもった声になってしまった。しかし柏原刑事は起こしてしまいましたかなどと詫びることもなく、自分の都合で話し始めた。
「落ち着いて聞いてください。……今朝、風見蒼介さんが殺害されました。場所は奈良原佐保さんと同じ松尾大社です。殺害方法も同じく毒殺で、死亡推定時刻は昨夜午後八時から十時の間と考えられています」
僕が言葉を失ってしまったからか、柏原刑事は何度も僕の名前を呼んだ。まるで鼓膜だけが耳を飛び出し、窓にでも張り付いてしまったかのように、刑事の声が遠くを彷徨っている。まるでトンネルの端から叫ばれた声が反響してからようやく聞こえて来るような感覚だった。風見が……と呟いた時には、電話は切れていた。柏原刑事が何を話したのか、他に何かを告げたのか、僕の耳は聞いていなかった。鼓膜がどこかへ飛び出していたから……。
誰から、と言う千代の声で我に返った。彼女は起きていたらしい。僕ははっとして、慌てて服を着た。ちょっと出て来る、と言って松尾大社に向かおうとしたが、千代に腕を引かれた。そのままベッドに押し倒されると、まだ全裸の千代が笑顔で覆い被さって来た。どうやら僕が胸を触ってしまった時には起きていたみたいで、もう一回、と誘われた。昨日遅くまでしたじゃないか、と断ると千代は頬を膨らませた。僕は細い腕で千代を押しのけた。彼女も華奢だから、さすがに腕力は僕のほうが上だ。
起き上がり、僕はふっと息を吐いた。千代に誘われた今の一瞬で、ずいぶん冷静になれた。いつもはどんどん興奮していく状況だというのに。そう思うと、どこかおかしかった。
風見が殺された……佐保と同じく松尾大社で。昨日、風見は自らが解決しなくてはならない事件だと言っていた。それに、佐保に聞かされていることがある、と。そのヒントを持って、風見は松尾大社に向かったはずだ。もしかすると、佐保もそのヒントから答えを手に入れるために松尾大社に向かったのかもしれない。そこで殺された……。やはり松尾大社が殺害現場になっていることには理由があるのだろう。あの夜、レンタカーで松尾に行っていなければ、僕は今ここにいなかったかもしれない。そう思うと肝が冷えた。だが怯んでいる場合ではない。松尾大社には確実に何かがあるのだから。しかし連続殺人犯が潜んでいることを考えると迂闊に近づくこともできない。あの夜も、のろのろと路地を行く車を犯人が怪訝な目つきで見ていたかもしれないのだ。何もわかっていない今の状況で近づくのは得策とは言えない。ひとまずサイダーを喉に流し込んだ。目の奥が、沸騰するような刺激を受けた。
どこか行くのかと千代に問われたが、少ししたらと答えた。シャワーを浴び、トーストを食べ、それから松尾大社に向かおうと思っていた。しかし出発の前に来客があった。柏原刑事だった。今は千代も下着をつけ、シャツ一枚だが僕のシャツを着ていた。太腿がちらりと覗けるが、下着は見えないので構わず刑事を玄関に上げた。ドアは開いたままだ。千代も玄関に出て来た。柏原刑事はちらりと千代の生足に目をやり、手帳を開くとペンを持つ手で首筋を揉んだ。
怪訝そうに首を傾げる千代に柏原刑事は風見殺害事件について概要を伝えた。千代は小さな悲鳴を上げるのと同時に口元を手で覆い、鳩尾を殴られたみたいに背を丸めた。
犯行時刻、死亡時刻、殺害方法は佐保の時と殆ど同じ。だが殺害現場は土俵のある駐車場ではなかったらしい。境内から赤鳥居を出て左手の路地、つまり嵐山、渡月橋へと向かって行く路地で風見は遺体となって発見されたらしい。今朝六時半頃のことで、現場に急行した柏原刑事はその直後から僕に電話をくれていたらしい。あいにく気づくことはできなかったが。確かに着信履歴がいくつも入っていた。第一発見者はその路地の住民で、日課にしている軒先の掃き掃除を始めて少ししたところ、人が倒れているのを見つけ、声を掛けた。風見は佐保と同様に血の混じった吐瀉物で口元を汚し、冷たくなっていたそうだ。
風見が殺された路地は、車でだが僕も通った。夜は人気のない、とりわけ暗い場所だ。不意を突かれれば、とても逃げることはできないだろう。ただ疑問なのが、なぜ佐保と殺された場所が違うのか、という点だった。佐保の殺された駐車場と風見の殺された路地は上空から見れば線対称のような位置関係だ。まるで寺門に立つ仁王像……神社の鳥居の前に座す阿吽像のように。言ってみれば二人は赤鳥居まで来て、別の方角に足を向けたということだ。二人は同じヒントを共有していたはずなのに、なぜ……。
今考えられるとすれば、二人とも松尾大社から嵐山に向かうつもりだったのではないか、ということだ。佐保は駐車場で殺された。車が一台停まっていた。その車で嵐山へと向かうつもりだったのではないか……風見は嵐山へと向かう路地で死んでいた……。しかし佐保が殺された時に駐車場に停まっていた車の持ち主は佐保と面識のない人物だったし、事件への関与もないと考えられている。二人は同じことを探っていた。しかし向かった方角は別々……犯人が捜査を攪乱しようとしたのだろうか。しかし風見は男だ。鍛えていることもあって、強引に嵐山方面に連れ出すにはやや無理がある。殺害してから遺体遺棄の場所を変えるにしても、イリシンで殺している以上吐瀉物等の問題も出て来る。やはり風見は自らの意志で嵐山に向かおうとしたと考えるのが自然だろう。しかしそれでは佐保との位置関係がおかしくなる。不可解だ……。
柏原刑事は僕と千代にアリバイを確認した。前回同様、全員に確認しているという決まり文句を添えて。昨夜から今朝方まで、僕と千代は二人でいた。それを話すと、刑事は何も疑わなかった。千代の恰好が物語ってくれたのかもしれない。
「ご協力ありがとうございます。また何かあれば」そう言って、柏原刑事はアパートを去っていった。
刑事が去ると、僕は千代の体を支えながらベッドに戻った。千代はベッドで横になると、枕に顔を埋めて泣いていた。その枕を洗濯するのは僕なのだが。手の甲で洟を拭う千代を見て、そんなことを思った。僕はただ、茫然としているだけだった。
気がつくと、二時間が過ぎていた。すでに昼時になっていた。千代は泣き止んでいたが、食欲は出ないようだった。化粧を失敗したかのような真っ赤な目を虚ろにしているだけだ。弱々しい呼吸をするだけの二時間、時々大きく鼻を啜っていた。僕も同じだった。食欲はない。
そんな時、またスマートフォンが着信を告げた。今度は知らない番号ではなかった。野々宮、と画面に表示されている。なぜか、腹が音を立てた。
風見の事件をもう耳に入れたのか。さすがに刑事だ。情報が早い。一度もしたことのない尊敬を野々宮に抱きかけたが、通話を始めて最初に野々宮が訊いて来たのは風見のことではなかった。
「ガシーヌっていうのはどんな薬だ」
僕は一瞬耳を疑った。一連の殺人事件にガシーヌという薬は無関係だからだ。それとも野々宮は、駒場敬一、佐保、そして風見が殺された事件で使われた毒物がガシーヌとでも考えているのだろうか。だったら笑い種だ。一連の事件で植物毒が使用されていると解析したのは警察御用達の監察医ではないか。
そもそもガシーヌとは毒薬ではない。化学療法において癌細胞を消滅させる効果を持つ抗癌剤である。今から六年前に古都大学附属病院と京都新薬が共同開発していた薬品だ。その効果は絶大で、使用すると百パーセント癌細胞を消滅させることがデータとして表された。臨床試験に移る前に行われたマウス実験では殆どのマウスが死亡した。しかしいずれのマウスからも癌細胞は消滅しており、当時の学者達は人間なら耐えられるかもしれないとして臨床試験を実施した。結果は目を瞠るものがあり、マウス同様被験者から癌細胞はすべて消滅した。その成果のあまりガシーヌは魔法の薬とも呼ばれたが、一方で心臓に負担が掛かり過ぎるという副作用を持ち、被験者の中には癌は完治したものの心不全により死亡するという患者が現れた。それは決して少なくない数だった。また、幸い命を落とさなかった被験者も、その副作用に見舞われてペースメーカーをつけざるを得ない者が殆どだった。この結果を受けて臨床試験は打ち切られた。実用性はまだないと判断されたためだ。しかしこの新薬によって消滅しなかった癌細胞はなく、劇薬とされる一方で魔法の薬と呼ばれ、今も待望論が囁かれているということは耳にしたことがある。研究開発自体は継続して行われており、その研究に僕自身携わったこともある。現在も強烈な副作用の改善が試みられているが、実用化は遠い。
そうした概要を話す間、野々宮は黙って聞いていた。僕が話し終わるのを待って、「やはり知っているんだな」と言った。研究にまで携わっていたとは、驚いたのだろう。
しかし僕は、事件とガシーヌがどう関わっているのかがまるでわからなかった。それを問うと、早瀬という議員を知っているかと問い返された。早瀬誠……京都を地盤にしている衆議院議員だ。票を入れたことはないが、名前はもちろん知っている。以前国会中継をちらっと見た時にマイクの前に立っていた。国会議員が目を開け口を開けているのが意外だったが、おそらく耳は皆閉じていた。その時早瀬は富士山噴火により首都圏が被る被害を算出し、表やグラフを交えて首都を移転すべきだと訴えていた。当然ながら、移転先は京都とのことだった。いや、京都人に言わせれば、首都を移転するのではなく、元々京都だから帰って来るだけ、といったところか。
そんな早瀬議員のことを思い出すうちに、脳内で繋がるものがあった。駒場敬一だ。彼は増税に対して反対運動を行っていた。とりわけ皇室への反対派閥を率いていた、と。首都移転ということは当然すべての政府機関が京都に移り、むろん皇室関係者も京都に移ることになる。それは京都人にとってはある種悲願と呼べるかもしれない。早瀬が皇室に特別な執着があるとすれば、駒場敬一の反対運動は見過ごせなかったはずだ。
やはり野々宮は、それについて言及した。確かに、動機としてはあり得る話かもしれない。だが野々宮の言葉を借りれば、国家権力が平和的なデモを弾圧することはないはずだ。僕はその点を突いた。しかし野々宮はひらりと躱した。
「国家権力がデモを弾圧することはない。だが個人は別だ。たとえばの話だが、総理大臣が一個人として目障りな人間を殺すことはあり得なくない。たとえば警察庁長官、警視庁総監、検察庁長官、新都大総裁……こうした人間が国家権力を使って邪魔者を消すことはない。平和的である場合は。だが個人間でトラブルがあれば別だ。突発的、衝動的な事件というものは起こってしまうかもしれない。あるいは、計画的犯行でもな。つまりは国会議員だろうが、一個人を殺してしまう可能性はあるということだ」
「いや、それはそうなんだろう。でも早瀬が駒場敬一を殺害する理由は何だ? 反対運動が目障りだったから、それが理由なら平和的デモを力で潰そうとしたようなものじゃないか」
「駒場敬一が早瀬に接触して、早瀬の個人的な弱味となる証拠を突き付けたとしたら? 政治家と言えば――」
「隠蔽、賄賂……上げればキリがない」
「まさにそういうことだ。さすがだな。新都大を蹴る男だ」野々宮は愉快そうに笑った。「早瀬はさっき話したガシーヌの開発に関わっている」
僕は押し黙った。まさか、というのが本音だったが、僕達学生は言わば駒だ。いくら開発チームに加わっていたとしても、トップに誰がいるのかなど知るはずはなかった。夢の抗癌剤を開発していたのだから、トップの椅子に政治家が座っていても不思議ではなかった。
僕は野々宮が何を言いたいのかを理解した。
「臨床試験……だろう?」
野々宮は電話の向こうで指を鳴らした。僕は無意識に前髪を掻き上げていた。溜息すら漏れた。
「御明察。マウス実験でマウスが全滅したガシーヌを強引に臨床試験に押し上げたのが早瀬だった、という仮説が立てられる。早瀬は六年前、京都新薬と古都大学から合わせて数千万円の金を受け取っている。口利き料と考えてもおかしくはないだろう?」
どうりで、臨床試験に強引に進めたわけだ。臨床試験が始まった六年前の詳細は知らないが、マウス実験でマウスが全滅していながら「人間で試しましょう」とは普通ならない。薬品の世界は日進月歩で危険はつきものだが、新薬を開発する際に最も重視すべきは患者――特に被験者の身の安全、副作用に対するアフターフォローだ。そこを見誤れば取り返しのつかないことになる。実際、臨床試験では決して少なくない人数が命を落としている。被験者のうち七割が末期癌患者だった、という注釈は必要かもしれないが。それでも、たとえ死期の迫った人間であれ、実験の犠牲になっていいという話ではない。癌で亡くなるよりも心不全で亡くなるほうが苦しい場合もあるかもしれない。真綾の母親もその実験で亡くなったうちの一人だ。
「野々宮がガシーヌに興味を持ったことはわかった。でもきっかけは何だ? そもそも早瀬に目を付けた理由は?」
野々宮はもったいをつけるように一拍置き、一段と声を落として言った。
「洞院才華だ」
「どういうことだ?」わけがわからない、とは言わなかった。その言葉は天才にとっては禁句だ。天才に解けない謎はない。フェルマーの最終定理だって解けなければならない。ただし僕は数学の天才ではないので解けない。それだけだ。しかし五十前後のおっさん議員と二十歳そこそこの別嬪のどこに関係があるというのか。交際関係にある、などと抜かせば大笑いしてやる。
野々宮は言い淀んだ。焦らされているようで僕は気に食わなかったが、刑事はどうやら話題にする人間の名前を思い出すのに少し時間が掛かっただけらしい。
「ニワヒロト。知ってるだろう?」
僕は頷いた。丹羽裕人……二十代後半で京都市議を務めている人物だ。百八十センチ近い長身で手足が長く、瓜実顔の男だった。京都御苑の前で街頭演説しているところを見掛けたことがあるが、演説に耳を傾け、彼を囲んでいるのは年配の女性ばかりだった。それを見てアイドルか、と毒づいたことを思い出した。端正なルックスとそのスタイルの良さで女性から圧倒的な支持を得ている。仕事ができるかは知らないが。
「アイドル市議が洞院才華と?」
「知らないのか?」意外そうに野々宮は言った。「洞院才華と丹羽裕人は従兄妹だ。洞院恭介の姉の子供が丹羽裕人だ」
「知らなかった。彼女の家族構成に興味はないからね。それで、早瀬に行き着くということは、丹羽裕人と早瀬が繋がってるってことなんだな」
「ああ、ずぶずぶとまでは言わないが、かなり親しいそうだ。政治家同士、国政市政の理想を語り合っているのかもしれない」
「つまり、早瀬が駒場敬一を口封じのために殺害して、京都にいる間に佐保を殺したと、野々宮はそう考えてるのか」
早瀬誠がガシーヌの完成を急いでいるのなら、古都大学一の天才と呼ばれる洞院才華を連れ出し、極秘裏に開発させているという可能性もある。彼女は医学部生であって薬学は専門外だが、彼女に限っては門外漢という言葉は当てはまらない。まるでピタゴラスだ。
佐保が殺害されたことも、洞院才華から何か知ってはいけないことを知らされていたとすれば、早瀬が消そうとした理由として説明がつく。そして佐保から何かを聞かされていた風見が同じく松尾大社で殺されたことも……。
「俺はそのセンで追うつもりだ」
「深追いは禁物だぜ」僕は忠告した。刑事にはいらぬ忠告かもしれないが。「昨日、もう一人被害者が出たみたいだからな」
これに野々宮は食いついて来た。当然風見の事件を知った上で電話して来たものだと思っていたが、東京ではまだ報道されていないらしい。僕は風見殺害事件の概要を話して聞かせた。その上で、野々宮に頼みたいことがあった。
長沢徹平のアリバイだ。彼は洞院才華と同じ高校の出身で、現在は新都大学に通っている。駒場敬一とは一悶着あったようだし、京都に来る理由もいろいろと作ることができるだろう。事件関係者を見渡した時、洞院才華が夢催眠で操るとしたら、彼が最も都合がいいのではないかと思った。東京京都間を自由に飛び回れる人物は限られている。
野々宮は了承したが、わけを訊かれたので洞院才華の優秀論文を教えてやった。概要は話したが、専門的なことが知りたければ論文を読むといい。
「長沢徹平の九月二日のアリバイだが、ない」野々宮は言った。「夏休みということもあって、家に一人でいたそうだ。誰とも顔を合わせていないし電話のやり取りもない」
「やはり彼女がキーか。月曜日から、もう一度彼女について調べてみようと思う」
「何かわかれば連絡してくれ」
「もちろんだ」
9へと続く……