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連載長編小説『滅びの唄』第五章 支柱 5

 直属の上司は高橋とは違って無給休暇を認めてくれた。祖母が搬送された日に電話をして、その時に休暇は認められたのだが、昨日の退社直前にも祖母の容態を気にしてくれていた。それが杉本には嬉しくもあり、また同時に心苦しくもあった。なぜなら、杉本は今祖母の側ではなく東京にいるからだ。目の前には牧田夫人がいて、彼女はドーナツと紅茶を食べている。杉本は待ち合わせに余裕を持って行動しており、そのため持て余した時間でカツサンドを食べた。それが朝食代わりだった。
 平日の午前十一時過ぎということもあってか、牧田夫人の入ったカフェは空いていた。以前沙希と話をした表参道のカフェは活気に溢れていたが、こちらのほうは古風な雰囲気を漂わせた落ちついた空間だった。杉本は、こちらのほうが好みだった。
「沙希さんからすでにお聞きかもしれませんが、今日は森岡珠里さんのご家族のことについてお話を伺いたくて来ました。牧田さんは、森岡鉄平さんの不倫を二十年前にすでにご存知だったと聞きました。これについて、いったい誰から不倫の話を聞かれたんです?」
 牧田夫人はフォークを皿に載せた。真ん中が空洞となった楕円型のドーナツが、フォーク一つで映えた。
「真弓さんからです」
「ご本人から直接お聞きになったんですか」牧田夫人が首肯するのを確認して、杉本は続けた。「その話を森岡真弓さんが口にした時というのは、いったいどういった状況だったんでしょう? たとえば、お子さん同士を公園で遊ばせている時、とか」
 牧田夫人は微笑を帯びた。
「子供同士は大して仲良くなかったんですよ。別に仲が悪かったと言ってるんじゃないですよ。まあ、ぼちぼちというか、幼稚園では仲良くしてましたけど、公園で遊んだり、そういった交流はなかったですね」
「では、牧田さんと森岡真弓さんが親しくなった経緯は何だったんです?」
 子供同士の交流がそれほど多くないのに、夫の不倫を打ち明けられるほどの信頼関係を築けるものなのか? そんな機会が果たしてあるのだろうか。
「初めて話したのは幼稚園のお迎えに行った時ですかね。子供同士が同じ組だったんで、さよならの会をやっている間に少し話したんです。趣味の話なんかをしたんじゃないかな、内容まではあまり正確に覚えていないけど、とにかくそれから少しずつお茶をする機会が増えまして。ある日夫の話をしていたら、森岡さんの家は旦那さんが不動産業を営んでおられると知りまして、ウチの主人も会社を経営していたものですから、あの頃はバブルで景気がよかったでしょう? それでお互いの夫の事業のことなんかを話していました」
「なるほど、それである日突然、森岡鉄平さんの不倫について打ち明けられたんですね」
 牧田夫人は険しい顔でかぶりを振った。
「それが、前兆はあったんですよ。もちろん後になって思えば、ですけどね」
「前兆、というのは?」
「真弓さんと出会ってから一年も経たない内だったでしょうか。森岡さんの旦那さんが事業で失敗して、家計が苦しいらしいということは少し噂になっていましてね、それで真弓さんに事情を聞いて、何か協力できないかと思ったんですけど、話をする時間が取れないって断られ続けまして」
 杉本はそれがなぜか、すぐにわかった。
「パートに出ていたからですね?」
「そうです。だから真弓さんと会えるのは珠里ちゃんのお迎えの時、それもちょうどお迎えに行く時間が重なった時だけになってしまって……」
「ではお迎えの時に、何度かお会いになられたんですね?」
 牧田夫人はそれを認めると、紅茶を一口飲んだ。ここから森岡一家の辛い話になるためか、食欲はないらしい。ドーナツに添えられたフォークに見向きもしない。
「ある時訊いたんですよ。最近お茶をする機会も減ってしまって、聞くところによるとパートに出てるってことだけど、大丈夫? って。そうしたら真弓さん、いつも通り笑って、心配かけてごめんなさい、パートには出てるけど、それほど深刻な問題じゃないの、って」
 それは嘘に決まっていた。森岡鉄平は不動産業に失敗し、多額の借金を背負ったと聞いている。森岡真弓がパートに出ることになったのは、間違いなくその影響だった。深刻な問題でないはずはなかった。
 しかし一方で、これまで夫に任せっきりだった労働というものを自身が体験して、そのやりがいをどこかで感じていたのかもしれない。そうであれば森岡家としては深刻な状況でも、森岡真弓個人としては前向きな考えを抱いていた可能性はある。本当に困窮し、追い詰められた人間がいつも通り笑うとは思えなかった。多少は顔が強張るものではないか?
「それから数ヶ月が経って、真弓さんからお茶をしませんかって連絡がありました」
「森岡さんのほうから?」
「はい。見せたいものがある、と」
 杉本は何だか不気味な感じがして、息を呑んだ。森岡真弓の見せたいもの、というのはむろん夫の不倫に関係した何かだろう。しかしそんな不名誉なものをわざわざ他人に見せるだろうか。森岡真弓は当時、いったい何を考えていたのだろうか。
「不倫の証拠ですね?」
「はい。その時には珠里ちゃんが歌手活動を始めていた時期で、なかなか時間が取れませんでしたけど、真弓さんの都合に合わせてお会いして。改まった感じの真弓さんを見て、あたしは旦那さんが破産したのではないかと思い、覚悟を決めました。でもその証拠を見せられた時、ちょっと驚いたことがあって……。まさか不倫だなんて、その時は思いませんでしたし、それに何より……」
「何です?」
 胸がざわざわっと気味悪く震えた。まるで体内で虫が暴れ回っているかのようだった。杉本はいつのまにか、表情を歪めていた。
「真弓さん、旦那さんの不倫を探偵に調べさせていたんです。時期は珠里ちゃんが歌手活動を始める少し前から歌手活動を始めた辺りだったと話していました。あたし、こんなの失礼ですけど、初め探偵を雇っていたことを聞いた時、森岡家にそんなことをする余裕なんてあるのかなって思っちゃったんです」
 おそらく森岡真弓は、夫の借金返済のために働き始めたのではなく、夫の浮気調査に探偵を雇うために働きに出たのだ。杉本は直感的にそう思った。そして杉本はそれを確信していた。牧田夫人の言うように当時森岡家には探偵を雇う余裕などなかっただろう。探偵を雇うためには、自分でお金を稼ぐしかない。そして夫に知られないようにするために、家計を持ち直すことを建前として、必要とする以上の余分な金額を稼がなくてはならなかったのだ。そのために、森岡真弓は娘のお迎えの時間以外に人と会うことなどできなかったのだろう。
 杉本は何も答えず、相槌を打つだけだった。
「その証拠というのは、どんなものだったんです?」
「実は――」牧田夫人は持参した鞄に手を入れた。「その証拠、あたしが預かってるんです」
 雷に打たれたような衝撃を杉本は覚えた。その証拠が入った封筒を牧田夫人は差し出した。それを受け取ろうとした杉本の手が震えて、ブラック・コーヒーの入ったカップに当たった。コーヒーは床を焦がし、カップは床の上で骸となった。
 速やかに処理をする店員と共に杉本はカップの破片を取り上げた。杉本はその破片をまじまじと眺めた。そしてゆっくりと、塵取りに載せた。
 一件落着すると、杉本は牧田夫人に詫び、封筒を受け取った。
「申し訳ありません。まさか浮気調査の証拠を牧田さんがお持ちとは思わなくて……取り乱してしまいました」
 杉本は封を解いた。封筒は牧田夫人の用意したものらしく、浮気調査の資料などは中に入っておらず、中からは写真が数枚出てきた。杉本はその写真を見た――。
「え? ……」
 その瞬間時が止まった。音が消えた。視界がぐるりと回り始め、やがて一周すると時は流れ始めた。しかし流れる時間は遥かに緩やかになり、牧田夫人の瞬き、ホール内の店員の歩く速度、微風に靡く観葉植物の葉、それらすべての動きが瞬間ごとにはっきりと見えた。その衝撃に杉本の頭はのぼせてしまい、全身の血が沸き立つ体はもはや感覚がなかった。
 指先に持つ写真は、重力を失ったようにまったく動かなくなった。
 その写真には森岡鉄平が女性と手を繋いでいるところが写っていた。そして森岡鉄平の横にいるその女性は――。
「津田志帆という女性だそうです」
 その名前を杉本は知らなかった。しかし顔はよく知っていた。祖母は言っていた。これは祖父が大切にしていた写真なのだと。昔の悪友津田辰郎の娘の結婚式で撮影した写真なのだと。
そう――。
 森岡鉄平の不倫相手は津田志帆――現在は結婚して三浦という姓に変わっているが、彼女は正真正銘祖母の持つ写真に写った花嫁姿の女性なのだった。
「事業に失敗して借金があって、旦那さんには浮気されて、真弓さんは離婚も考えたそうなんです」
 杉本は弱々しく笑いながら、頷いた。もはや牧田夫人の話は入って来なかった。ただその音声だけが、右から左に通過していくだけだった。
「でも」
 その時スマートフォンが震えた。杉本は気にしなかった。牧田夫人が話している最中だからではなかった。そんな礼儀など、もはや考えることすらできなかった。杉本の頭に中には、三浦志帆を介して繋がった森岡鉄平と祖父、という構図だけがふわふわと浮かんでいるのだった。
「珠里ちゃんがいたでしょう? その頃は話題になっていて、娘のために別れることができなかったんです。それで思い詰めた真弓さんは、あんなことを起こしたんじゃないですかね」
 杉本は、未だ振動を繰り返すスマートフォンの鬱陶しさを感じながら、ぼんやりと答えた。
「真弓さんが火を?」
「正確なことはわかりません。でも旦那さんの不倫の証拠をあたしに渡して、その直後に亡くなったというのは、偶然じゃないと思うんです」
「あの火災は、森岡真弓さんによる用意された事件だったということですか」
「あたしは、そう思っています。スマホ、ずっと鳴ってますよ」
「すみません、失礼します」
 杉本はスマートフォンを確認した。千鶴から十件以上の着信が来ている。メールもすでに五十件を超えていた。千鶴のしつこさを煩わしく思いつつ、杉本はメールを一つ開いた。
 件名には「大至急」とある。
 そこには祖母が危篤状態であることが記されていた。
 杉本は咄嗟に一万円札を抜き取りテーブルに載せ、退席することを詫びると一目散に店を飛び出した。まばらな通行人の間を走り抜け、最寄り駅で電車に飛び乗る。座席が満席であることを確認した杉本は吊革を掴んで正面を向いた。彼はどこも見ていなかった。全速力で街を駆け抜けたせいで脈拍は上がり、初夏の太陽と湿気でじめじめした嫌な汗が全身から噴き出した。ガタンゴトンと鈍間な電車に腹が立った。
 どこも見ていない杉本の中ではまとまらない考えがごちゃごちゃしていて、むしろ景色を眺める時よりも情報量が逼迫していた。杉本の思考で今最も大きな割合を占めているのはむろん祖母のことであった。危篤といってもどれほどの状態なのか、助かる見込みはあるのか、鈍間な電車に揺られて帰ったとして、果たして祖母の最期を看取ることができるのか、もう一度祖母と話をすることはできるのか。その合間を縫って時折祖母の存在を凌駕してしまうのは、やはり森岡鉄平の不倫の証拠となるあの写真だ。あの写真には三浦志帆の姿が映っており、三浦志帆は杉本の祖父と面識があった。そして三浦志帆の父親であり、杉本の祖父の悪友である津田辰郎が森岡珠里のコンサートを主宰していた。二十年前の火災があった日、祖父が劇場にいたのは偶然なのだろうか。
 今祖母はどんな様子なのだろう――。
 少し冷静になって考えを整理してみても、やはり杉本の思考は目まぐるしく主題を変化させていく。杉本は祖父のライターを握りしめ、「じいちゃん、ばあちゃんを助けてあげて」と祈った。
 そんな状況であっても、杉本の脳は進むべき道を把握しているらしく、杉本の無意識の内に乗り換えを繰り返し、いつしかS市に戻って来た。杉本は電車に乗りながら千鶴と連絡を取り、自分の現在地と病院に到着するまでに掛かる時間を伝えていた。千鶴はそれに「了解。急いで」と返事をするだけで、杉本はその文面から、祖母の容態の深刻さを悟っていた。電車を降りた杉本はタクシーを拾って市立病院に向かったが、昼下がりの市道は混雑を極めた。杉本はずっと先まで続く渋滞に決断を下し、料金を払ってタクシーを降りた。スマートフォンの地図アプリで最短ルートを心得、車では入れない路地を進み、その狭い道を杉本は全速力で駆け抜けた。
 ようやく祖母の元に着いた時、病室は静かだった。ただ祖母の脈が途絶えたことを示す無情な機械音だけが室内に木霊していた。
 千鶴が振り返った。彼女は目元を濡らしていた。
「凌也……清子さんの顔、見てあげて」
 前に進もうとしたのに、なぜか一歩後退した。杉本はドアに手を掛けると、横隔膜が爆ぜるように痙攣するのがわかった。その瞬間、杉本は強烈な吐き気を覚えた。その場に蹲り、声にならない声を上げた。呼吸を荒らげ、薄く湿った目は血走って千鶴を見つめていた。
 間に合わなかった――祖母を見送ることができなかった。その強烈な悲哀と虚しさが杉本の胸を締め付ける。
 杉本は横隔膜を激しく上下させながら、四つん這いの状態から動かなくなった。
 杉本に肩を貸す者がいた。廣澤医師だった。杉本は白衣の袖を掴んで立ち上がると、のろのろと歩を進めた。掌で顔を拭って祖母を見る。ただ眠っているだけに見える。白い肌からは刻まれた皺が浮き上がっていくように見え、祖母は死んだのではなく若返ろうとしているように思えた。しかし唇は確かに閉じられていて、息を吹き返す気配はまるでなかった。
「いつ頃?」
 杉本は側の千鶴に訊いた。
「凌也の到着するちょっと前。五分は経ってなかったと思う」
「そうか……」
 嗚咽に近い声が、横隔膜に突き上げられてまた出てしまった。ドン、と音を立てて椅子に座った杉本は祖母の手を取った。まだ温かみがある。しかし徐々に冷たくなっていくのがわかった。
 祖母の手を握ったまま、杉本は目元を押さえて泣き続けた。千鶴に背中を撫でられた直後、目の端で祖母の顔が白い布に覆われるのが見えた。

第六章へと続く……

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