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連載長編小説『別嬪の幻術』14-2

 京都駅から地下鉄に乗り、今出川まで上った。駅を出て、京都御苑の脳天を睨んでいるといつしか寺町通に出ていた。寺町通を下れば千代の実家がある。ちらりとそちらを見て、僕は加茂大橋を渡った。しかしそこで、僕は進路を変えた。大学には戻らず、川端通を下った。洞院家の旅館を見上げ、敷居を跨ぐか否か、数十秒迷った。恐怖を感じて、わなないている自分もいた。それでも行くしかないと僕は思った。避けては通れない道なのだ。それに、これですべてが明らかになるかもしれない。そんな期待もあった。未曾有のテロの危機が迫る以上、もたもたしてはいられない。
 旅館に入ると、洞院才華の母親がやって来て、僕を見ると顔をしかめた。客ではないことはもはやわかり切った話だ。女将は「おこしやす」とも言わなかった。心なしか、梁の上の木彫りの龍に睨まれている気がした。ここは天龍寺だろうか……そんな冗談で内心笑えるくらいには落ち着いている。靴を脱ぎ、僕は旅館に上がった。
「ご予約してはりませんやろ?」口調は柔らかいが、非難の色を滲ませて女将は言った。
「でも今日は旅館に上がらないといけない用がありまして」
「何ですのん、その用って……」僕が軽く頷き、ずかずかと廊下に向かって歩き出したのを見て、女将は慌てて追いかけて来た。「待っておくれやす。今主人を呼んできますさかい、そない勝手なことしたあきません。通報することになりますえ」
 女将が天皇帰還説についてどれだけ知っているかはわからない。あのリストに女将の名前はなかった。洞院恭介でないと話にはならないはずだ。僕は大人しく女将に従った。玄関に戻り、洞院恭介を待った。
 亭主は五分ほどで現れた。ちょうどチェックアウトの客が玄関に現れ始め、女将はそちらの対応に追われ始めた。ここでは何だから、と洞院恭介は僕を館内に案内した。深紅の絨毯が敷かれたスペースにテーブルが二台、それぞれソファが向かい合うように四つ置かれている。洞院恭介に促されて、僕はソファに尻を沈めた。思いの外柔らかいソファで、体がぐっと沈み込んでしまう。亭主の仲間に襲撃でもされたらひとたまりもない。僕は浅く座り直し、すぐに動き出せるように体勢を整えた。
「また事件のことですか」と洞院恭介は言った。僕が事件のことで旅館を訪ねるのは今日で三度目だ。亭主も不愛想になっていた。
 しかし考えてみれば、たった一人の愛娘が失踪し、娘と同じ大学の学生が殺人事件に巻き込まれているというのに、洞院恭介はどこか他人事のように捉えている節があった。普通は血眼になって娘を探す。だがそれも、今は消化済みだ。
 僕は首を捻った。
「今日は事件のことでお話しを訊きに来たのではなく、才華さんに会わせてもらいたくてここに来ました」
「才華に? 才華は行方が知れとりまへんのや。警察に捜索願を出してますけど、音沙汰は何もない」
「見つかるはずはありませんよ」僕は微笑を浮かべた。洞院恭介が上目遣いに僕を睨んでいた。「才華さんはずっとこの旅館にいる。そうでしょう? だから警察はどこを探しても彼女を見つけることはできない。たった一人の愛娘が行方をくらましているのに平然としていられるあなたは才華さんがどこにいるかを知っている、その安否についてもわかっている。それはつまり、この旅館に彼女がいるということです」
「何のためにそんなことする必要がある言うんや……。必要なら、全館案内しましょか。才華はどこにもいやしまへん。築山はんには落ち着いてるように見えたかもしらんけど、才華がおらんくなってから、毎日気が気でないんどす。平静を装ってんのは仕事があるからや。心は一日中泣いとりますえ」
「ぜひ、案内してもらいたいですね」
 ほんなら、と洞院恭介は潔く腰を上げた。その潔さはむしろ自信の表れだった。それはそうだろう。旅館に洞院才華はいないのだから。洞院恭介としては、僕をさっさと立ち去らせたいはずだ。僕はソファに腰を落ち着けたまま続けた。
「でも館内を案内していただく必要はありませんよ。宿泊中のお客様もおいででしょうから。迷惑を掛けるつもりはありません。僕が見せてもらいたいのは、工事中の別館のほうです」
「何を……」
 洞院恭介は目を見開き、垂れた頬を揺らしながらソファに座った。どんと勢いよく腰を下ろしたせいで、床が揺れた。亭主は人目を気にするように、周囲を見回し、声をひそめた。
「何を言い出すんや築山はん。あんたも今言うたけど、別館は工事中どす。入れるわけありまへんやろ」
「でも内装工事はとっくに済んでいるようですが。九月中には終わっていたでしょう? 外装も、もう終わりが見えているじゃないですか。何より、二週間以上人が生活しているところに人が入れないわけがない」
「別館て……才華はいやしまへん」
「それは見てみないとわかりません」
「それはできまへん。堪忍やで築山はん。工事現場に部外者入れて、何かあったらどないしたらええんや。そもそも何で別館に才華がおると思うんや」
「まず第一に、本館を使うわけにはいきませんから。人気旅館で、連日満室でしょう。そこを才華さん監禁もしくは軟禁のために一室確保し続けるというのは旅館にしてみれば決して少なくない損失です。その点内装工事の終わった別館なら、心配はいらない。誰の目にも触れない。だから別館なんです」
「それで、何で才華がうちにおると思うんや」
 僕は今朝コピーした書類をテーブルの上に広げた。それを見て、洞院恭介はまた目を見開いた。立派な体格の亭主が、膝に手を置いたまま硬直し、肩を震わせている。
「才華さんはある時この計画が急速に推し進められる事態に陥ったことを知ったんです。彼女がこの件に関係しているかどうかはわかりません。その点については今日この後話を聞きたいと思っています。問題なのは、才華さんがこの話を聞いた後に姿を消したということです。こんなものを残していたんですから、計画に全面的に賛同していたわけではないのでしょう。支持者だとしても、決行は今ではないと考えていた可能性はあります。そんな才華さんを、躍起になっているこのリストにある方々は疎ましく思っていたかもしれない。でも抹殺するわけにはいかない。なぜなら彼女は、このリストに名前のある洞院恭介さん、あなたの娘さんだからです。才華さんが殺されることはまずない。でも今は外に出すわけにはいかない。彼女を留め置くための場所として最適なのはこの旅館です。それにちょうど別館を新築している最中で、都合がよかった。実際、この件に関わった二人の学生が殺害されていることを考えれば、真っ先に姿を消し、未だ殺害されていないという状況も飲み込めます。この書類はお渡ししましょう。その代わり、才華さんに会わせてください」
 洞院恭介は二枚の書類をじっと見下ろした。口は閉ざされているが、頬が歪むので、奥歯を軋らせているのがわかる。
 もし、と僕は続けた。「もし、才華さんがここにいないのであれば、これは正真正銘失踪事件です。才華さんが自ら望んだことでないのなら、たとえあなたの友人の自宅にいたとしても、その友人は逮捕されますよ」
 洞院恭介は立ち上がった。手には拳が握られている。浮き出る血管に葛藤が滲んでいた。
「書類はいりまへん。どうせコピーしたはるんどっしゃろ。もろたかて、どうにもならんさかい。ついてきとくれやす……」
 書類をぐしゃぐしゃっと掴むと、僕は立ち上がった。廊下を歩く洞院恭介の後を追い、日本庭園を眺め、関係者以外立ち入り禁止と書かれた張り紙のあるドアを出て、川端通の脇に出た。最後はここに渡り廊下を作る予定なのだろう。北山から吹き下ろす風が加茂の湿気を含み、微かにニスの香りを漂わせる。木造の、新築の匂い。廊下にはまだビニールが敷かれていた。
 洞院恭介は僕を三階に案内した。どうやら三階に洞院才華はいるらしい。廊下の窓から川端通を見下ろしてみたが、二階からだと何とか飛び降りられなくもない。三階になると、高さに身が竦む。清水の舞台から飛び降りるようなものだ。
「ところでなんやけど」と洞院恭介は急に重い足取りになって言った。「あの書類、どこで見つけはったんやろ?」
「才華さんから聞かされてないんですか?」
 洞院恭介は口をへの字に曲げ、頷いた。「ずっと探しとったんどす。血眼になって……。築山はんに先を越されてしもうたけど」
 ではやはり、洞院才華は失踪直前にあの書類を洞院恭介はじめ天皇帰還説の面々に見せたのだろう。そして計画中止を訴えた……。これから自分の身に起こることがわかっていたから、自分が大学に来なくなったら月読神社に向かうよう言い残していた。月読神社にテロ計画の証拠があることは家族にも伏せて……。
 だがそれならなぜ、佐保と風見は殺されたのか。二人を殺した人物は月読神社に証拠品が眠っていることを知っていたはずだ。洞院才華はそれを佐保に発見させようとしていた。天皇帰還説の中に、裏切り者がいるということか……あるいは洞院才華の気が変わってしまったのか。
 僕は口を噤んだ。今堀に教えを乞うてまで月読神社に証拠品を隠したのだ。夢催眠……洞院才華は自由を奪われている間に自分の術で自らを洗脳し、あるいは洗脳され、天皇帰還説を支持するようになったのかもしれない。だから佐保を殺した……その可能性もなくはないだろう。だが月読神社に証拠を隠したのは、彼女なりに覚悟があったからだろう。ここで僕が明かしてしまうわけにはいかないと思った。
 洞院恭介が追及してくることはなかった。川端通からは最も遠い東側の客室の前で立ち止った。亭主は黙ったまま部屋に入るよう手で促した。手にはマスターキーが握られていた。僕は解錠し、ドアを開けると、靴脱ぎで靴を脱いだ。部屋の中からお経のような音声が聞こえて来る。恐る恐る襖を開け、和室に踏み入ると、部屋の隅に座っていた黒い髪が揺れた。肩に掛かる髪が舞踏会で優雅に舞うドレスの裾のように円を描いて半回転すると、額の中央で前髪を分けた京美人がこちらを見た。
 形のいい唇は恐怖で震え、薔薇色の頬は今や白々としていた。茶色の瞳は大きく見開かれ、部屋に入って来た男の顔を認めたのか、動揺を見せた。
「築山はん……。こんなとこで何してはるんどす?」
 僕は洞院才華の元に歩み寄った。洞院恭介は部屋の外で待っているようだ。僕は半身の体勢で洞院才華の傍に片膝をついた。月読神社でテロ計画の証拠を見つけたこと、洞院才華が旅館で不自由を強いられているであろうこと、佐保と風見が殺されたこと、事件解決のために話がしたいことを一息に伝えた。
 洞院才華は佐保が殺されたと聞き、手で顔を覆った。泣いている場合じゃないと僕は窘め、洞院才華を立たせた。ここにいてはどうにもならない。軟禁状態が続くだけだ。僕はAIスピーカーを見下ろした。そこから、止めどなく音声が流れ続けている。お経ではなかった。
「こうでもせんと、自分がおかしくなるおもたんえ。夢催眠でしか、自分の気を保つことはできひんかった……。これがないと、たぶんうちはとっくに壊れてたわ……」
 僕はAIスピーカーを停止した。
「もうこれはいらない。今すぐここを出る」
「ここにたどり着くとしたら築山はんやとおもてたんえ。ちゃんと来てくれはった……」
 別に君を助けるために来たわけじゃない、と僕は胸の中で言った。しかし洞院才華の言葉に悪い気はしなかった。僕も同じことを考えていたからだ。この事件を解決するのは僕しかいない、本物の天才は洞院才華でなく僕だと証明する、と。
「言っておくが、僕は君を疑ってる。味方じゃないからな」
 洞院才華はくすくす笑った。馬鹿にされているような気がして、彼女の腕を掴む手に余計に力が入った。この女は本当に気に入らない。憎らしい。だが今はそんなことを言っている場合ではない。
「ここを出て、とりあえず大学に向かおう」
「あかん築山はん」洞院才華はかぶりを振った。「大学行ったら、うちが急に来たて騒ぎになるやろ。大学には行けしまへん」
 確かにそうかもしれない。今騒ぎになっても面倒なだけだ。収拾がつかず、事件解決どころではなくなるかもしれない。じゃあどこに行けばいいというのか。僕は考えを巡らせた。鴨川公園に逃れる……しかし旅館の目と鼻の先だ。洞院恭介にはすぐに見つかってしまう。加茂大橋を渡れば、寺町に千代の実家がある。でもあそこはだめだ。千代は僕と同じで、洞院才華を嫌っている。両親の説得も大変だろう。……そこまで考えて、今退避するだけなら、あそこがいいと思った。避難場所の条件は、鍵を閉めて洞院恭介の入ることのできない場所、もしくは追っ手を巻けるだけの広大な土地。京都御苑なら、天皇帰還説の支持者に見つかっても巻くことはできるかもしれない。それに御所なら、洞院才華を見られてもそれほど騒ぎにはならないだろう。
 洞院才華も同意見だった。二週間この部屋に軟禁されていたのだ。遠くまで足を延ばすこともできない。一旦京都御苑に移ろうということになった。
「その後は?」
「大丈夫どす。行く場所ならあるさかい」
 部屋を出ると、洞院恭介は廊下で待っていた。僕に続いて部屋を出る娘を止めようとしたが、洞院才華は「もうこんなところにはいられへん」と言って廊下に出た。意外にも、洞院恭介は娘を引き留めようとはしなかった。

15へと続く……

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