連載長編小説『怪女と血の肖像』第三部 怪女と血の肖像 34
第三部 怪女と血の肖像
34
末包有紗を逮捕した。彼女の身柄はすでに武蔵野署にある。午後、堂島総合病院で二十五年前の惨劇を聞き、彼女が隔離されているという山小屋を目指した。末包有紗の父親は不動産業を営んでおり、強盗殺人の後その殆どの資産を手放したのだが、現在娘有紗が住む山だけは残してあったという。その山が、丹生脩太の目指していたキャンプ場から車で十分ほどの場所にあった。それを知った時、天羽は樽本京介殺害事件において丹生脩太は犯人ではないと確信した。実際、丹生脩太は犯人ではなく、殺人事件に巻き込まれていた。
天羽が山小屋に着いたのは午後三時を回ろうかという頃だった。堂島総合病院から阿波野を連れて急行し、古藤に拳銃を三丁持って加勢するよう指示していた。天羽と阿波野は古藤を麓で待ち、十数分遅れて警部補が到着すると二台の車でタイヤ痕によって作られた獣道を進んだ。
捜査本部では特殊部隊の派遣の準備が進められていた。末包有紗が誘拐犯で、被害者が生きているのだとすれば、交渉もしくは強行突入でその命を救わなければならないからだ。天羽たちも山小屋に着いてしばらくは中の様子を警戒し、無闇に立ち入ることはしなかった。杉の丸太で建てられた山小屋にインターホンはなく、あまりに物音がしないので、天羽は何度かドアを叩いたが反応はなかった。古藤が頷き掛けるので天羽は中に入ることに決めた。ただし犯人を刺激することは避ける。正面衝突は特殊部隊が到着してからだ。まずは中の状況を確認する必要があった。
小屋の中に入ると、リビングダイニングと思われる無人の部屋があり、檜でできた大きな桶に洗濯板が浸かっており、今時珍しい土窯や囲炉裏まであって、キッチンというより炊事場というほうがしっくりくる。台所の上には収穫されたばかりの野菜が籠に入れられていた。他にはクロスの掛かったテーブルに萎れた花が生けてあり、木製の椅子、二十年前のカレンダーなどがあった。部屋の隅には糸のほつれた布団が丁寧に畳んである。そのすぐ傍に、無数の髑髏……。しかも額が割られたものばかり。
三人は奥の部屋に進んだ。ドアは二つあった。一方はバス・トイレと洗面所でもう一方は……。ドアを開けた瞬間、異臭に吐き気を催した。
天羽は銃を持つのとは逆の手で喉を押さえた。息を止め、一思いにドアを開けると、そこに一人の女性がいた。部屋の八割が鉄格子で囲われていて、末包有紗と思われるその女性は、真ん中の檻の中にいた。一体の死体と共に……。
痩せこけた裸体。白髪に覆われた長髪。間違いなく、丹生脩太だった。死んでいる、と一目でわかるのは大量の血を流して倒れているからだった。胸の辺りに傷が見られる。出血はすでに収まっていて、どす黒く固まり始めていた。
末包有紗は天羽達を見て事態を察したらしく、落ちていた包丁を取り上げて、自らの胸に刃先を押し当てた。それを見て古藤が飛び出した。檻に鍵はされておらず、鈍い音とほぼ同時に古藤は女の身柄を確保していた。末包有紗は古藤の腕の中でもがき、軽く血が滲んだ自分の胸元を拭うと、棚や椅子の置かれたほうに手を伸ばした。古藤は片手で華奢な女性を押さえつけながら手錠を掛けた。
末包有紗はしゅんと静まり、抵抗しなくなった。天羽は彼女に歩み寄り、丹生脩太を指差した。「あなたが殺したんですか」
彼女は答えなかった。
まあいい。おそらく凶器はこの包丁だろう。天羽は落ちている二本の包丁を見てそう思った。このどちらかが丹生脩太を殺したことは間違いない。続いて天羽は永川雄吾の顔写真を取り出し、手をかけていないか、あるいは見覚えはないかと訊いたが、返事はなかった。黙秘、というよりは子供が不貞腐れて口を利かなくなってしまったといった様子だ。
「詳しいことは署のほうで」
そう言って、天羽は彼女が手を伸ばしていたほうを見た。スケッチブックが何枚も並べられて作られたキャンバス……全裸の女性の横顔。視線の先の髑髏。体中につけられた無数の傷。ぞくっと全身に鳥肌が立つのがわかった。ビッザロ……。猟奇そのものだった男は、今その報復を受けたかのように血に塗れて死んでいる。頭の陥没した、狂気の女性に囚われて。
檻の外の床にはいくつもの髑髏がごろりと転がっている。どれも額が割れている。末包有紗と同じように……。真太はどこにいるんだろう……もはや弟が生きているとは考えもせず、その髑髏を一つ一つ見比べて、皮を失った人間を探し当てようとした。できるはずもなかったが。怪訝そうに阿波野に名前を呼ばれ、天羽は我に返った。
「署には報告しました」古藤が言った。「これから鑑識が来るそうなので、自分が残ります。警部は彼女を連れて先に署に戻ってください」
わかった、と答え、天羽は末包有紗を引き受けた。古藤は一旦手錠を外した。白いワンピースがあったのでそれを着せ、今度は天羽が手錠を掛けた。そのまま車両へと連行し、天羽は彼女と一緒に後部座席へと乗り込んだ。血と土の臭いが強烈で、窓を開けずにはいられなかった。人通りのないところでは窓を開け、通りに出ると窓を閉めた。阿波野にはできる限りアクセルを踏み込ませた。サイレンも鳴らしていたので、署までは五十分掛からずに到着することができた。
末包有紗はやはり何もしゃべろうとしない。取調室で向かい合ってからかれこれ三時間近く経つが、何を訊いても反応すら見せない。大きな二重瞼の可憐な顔が刑事を睨むばかりだ。何も言わなくても、丹生脩太の血糊がついた包丁の柄からは彼女の指紋が検出されていて、誘拐殺人の罪からは逃れられないのだが。
すでに古藤も現場から引き揚げて来て、署に戻っている。天羽は舌を鳴らし、腰を上げた。
「この青年に見覚えはないか」
天羽が取り出したのは真太の写真だった。山小屋からは永川雄吾の血液も確認されており、丹生脩太、永川雄吾両名があの場で殺されたことは事実として判明しており、二人が車乗り捨て誘拐事件の被害に遭ったことを疑う余地はない。この連続失踪事件が始まった時期を見ても、末包有紗が失踪事件の犯人であることは間違いなかった。つまり真太を攫い、殺害したのもこの女であり、天羽が追い続けた大悪党が狂気を剥き出しにする末包有紗なのだった。
やはり彼女は答えない。写真に一瞥をやるものの、ハイエナが餌から興味を失くした時みたいにそっぽを向く。何を訊いてもこれだ。埒が明かない。
「もういい。だがな、これだけは言っておく」天羽は拳を固め、テーブルを力一杯叩き、女をねめつけた。「おまえは死刑だ」
末包有紗にこれ以上構ってはいられない。やることがまだ残っている。いや、ここからが正念場だった。丹生脩太の遺体の傍に落ちていたもう一本の包丁、こちらには誰の指紋も残されていなかった。残っていたのは指紋が拭き取られた痕のみ。末包有紗が真犯人ならそんなことをする必要はなく、実際にその他の刃物類にはすべて彼女の指紋が残っていた。ではなぜ指紋を拭き取る必要があったのか。それは真犯人が別にいるからだ。それは現場に残されていた凶器が物語っている。
翌日、監察医からの報告が上がって来た。それによると丹生脩太の命を奪った傷は末包有紗がつけた胸の傷ではなく、その前につけられた背中側の傷だと判明したそうだ。その背中側の傷と照合したところ、傷口とぴったりと型があったのは指紋が拭き取られた包丁だったという。これは想定外の事態だった。誰もが困惑した。
だが天羽は、一人腑に落ちていた。すべてが繋がる。あとは証拠を集めるのみだ。それは時間の問題だった。
天羽は堂島翼に任意同行を求めた。
35へと続く……