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連載長編小説『怪女と血の肖像』第二部 血の肖像 27

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 美しい横顔。細い首と浮き出た鎖骨。骨張った肩から伸びる長い腕。白くて長い指。その上に乗る煤けた髑髏。いつもより時間が掛かっている。三原色あればどの色も作り出すことはできるが、時間は掛かる。裸婦を描くといっても全身をべっとりと一塗りすればいいというわけじゃない。人間の体というのは、特に女性の体には、陰影が多い。角度によっては、複雑な形をしていて、それを正確に写生しなくてはならない。女は繊細なのだ。
 今回は水彩の肖像画だから、絵の具が乾くのを少し待たなくてはならない。下手に筆を重ねると、色が混ざって滲んでしまう。油絵だと上描きすればやり直しがきくが水彩画はそうはいかない。ただ、肌のシミや汗を滲ませて表現できるのは水彩画の利点だ。僕は絵の具が乾くのを待ちながら、筆先で所々滲みを作った。
 明日中には色を塗り終えられるだろう。それから一晩乾かして、最後に血を通わせる。完成は明後日だ。自分でも満足している色のついた怪女像。そして紫に近い黒の髑髏。明日はより繊細な作業に入る。何時間掛かるだろう。女の忍耐力と気分次第で作業ができる時間は変わって来るだろうが、夜には終わるはずだ。ようやくたどり着いた、芸術の極致。華奢な肉体に刻まれた無数の傷。これこそ芸術。女の体など下絵に過ぎない。傷は自ら芸術性を放っているが、柔な肉体は傷が刻まれて初めて芸術性が見出せるのだから……。
 たぶんもう夜だ。ここへ来て三日か四日は経つ。窓はなく、時計もないので正確な時間はわからないのだが、女は定期的に外に出て行くこともあれば小屋に引きこもる時間帯もある。それが昼と夜の違いだと僕は思っている。それに女が外出しなくなると、外から聞こえて来る虫の鳴き声の種類が変わるのだ。昼間と思われるうちは蝉の鳴き声が喧しいくらい聞こえて来るのだが、ある時からぴたりとそれがやむ。まるで虫達の間でシフトが組まれているようで、蝉の鳴き声がやむとそのバトンを受け取った虫が夜に沿うような風流な鳴き声を響かせる。何の虫かはわからない。
 虫の鳴き声が入れ替わってから、女は外出しなかった。昨日は今朝方髑髏と灰になった男を狂気の巣窟に引きずり込んだ女だが、今日新たな獲物はいないようだった。どうやら女は、毎晩男を攫うわけではないらしい。むしろ連日獲物を捕まえに出ることのほうが珍しいのではないか。いくら女が愛した男の致命傷を自らにもつけたがっているとはいえ、毎日男を殺していたら日本人男性はたった六千万日で絶滅してしまう。六千万日が何年なのかは想像もつかないが。
 僕にとって重要なのは、女が二日連続で男を――僕とあの男を小屋に誘い込んだことに何か意図的なものがあるのではないかということだ。僕は、昨夜女に殺される直前に男が呟いた「ビッザロ……」が頭から離れないでいる。僕ははっきりと男の顔を見た。だが知った顔ではなかった。でも男は僕を知っていた。ビッザロの血の肖像を何枚か観たことがあるのかもしれない。だからキャンバスを見て、製作途中の絵のタッチからビッザロだと直感した……いや、それはあり得ない。ビッザロの特徴は血だ。血塗られた肖像画。それがビッザロの絵なのだ。男が死の直前に見た肖像画はまだデッサンの段階だった。こう言っては何だが、血の通っていない絵はたとえ僕が描いたものでもビッザロの絵ではないし、ビッザロの肖像に血以外に突出した特徴があるわけでもない。つまり男が熱心なビッザロファンだったとしても、僕をビッザロと見抜けるはずはないのだ。僕はビッザロを名乗り出たことは一度もない。なぜ知っている……。それを考えると、立て続けに連れ込まれた僕とあの男、この連日の拉致監禁には何かしらの意図があるのではと考えたくなる。僕が山道を登っている時、前後に車は走っていなかったが、僕以前に車が一台も走っていなかったはずはない。女が男一人で走っている車を標的にしていることは十分考えられるが、それでも偶然が過ぎるのではないか。僕が捕らえられ、次いで捕らえられた男が僕の正体を知っているなんて。
 男が殺される瞬間が蘇って来た。それから、斧で首を切り落とされる瞬間も。この二つはもはやセットだ。どちらかを思い出せばもう一方も思い出される。僕は死んでも、あの光景を忘れることはないだろう。とりわけ、マグロの解体ショーでもやるみたいにあっさりと首を切断した女の、感情のないあの顔を。女は男を惨殺し、遺体を始末することに復讐や恨み、憎しみといった感情は見せなかった。淡々と、木こりが木を伐採するように仕事をこなしていた。僕のことだって、連れ込んで、目を覚ましたらすぐに殺そうとした。僕と男を殺す順番にこだわりはないようだった。それを思うと、狩りに出るのも、性欲を満たすのも、生気を宿すのも、すべて女の気まぐれなのだろう。僕は訊いてみることにした。
「昨日殺した男が最後にビッザロと呟いたんだ。ビッザロが何か、知ってるか?」
 女は首を捻っただけだった。女は嘘を吐くようなことはない。嘘を吐く必要も場面もないからだ。たとえ彼女が知る限りの世界の闇を語って聞かせても、数日のうちに自らの手で僕を葬り去るのだから。彼女は本当にビッザロのことは知らないのだろう。やはり偶然としか思えない。そもそも彼女の生活範囲はこの山と、せいぜい山を下ったところにある山道までだ。外界との繋がりは完全に絶っている。
「ここに、誰か訪ねて来ることはあるのか」
 外の世界と交信するには、それしか手段はないように思えた。僕が知る限り、女はスマートフォンを触っていない。僕が嵌められた山小屋の一室はたぶんリビングだが、そこにテレビや電話はなかった。電子機器とは無縁の生活を送っているはずだ。
 女は小さく溜息を吐いた。それは珍しいことだった。僕は女の美しい横顔に感情が翳るのを見た気がした。
「あたしは隔離されてる。普通じゃないことがまだわからないの?」
 自分が普通じゃないと、彼女は自覚しているようだった。僕にはそれが意外だった。怪女も人の子なのだ。人間なのだ。そう思った。

28へと続く……

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