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連載長編小説『怪女と血の肖像』第一部 怪女 5

        5

「丹生脩太、三十一歳。個人事業主とのことですが、業務内容は不明。都内の中学校を卒業後、進学はせず、事業を起こしています。アルバイト歴はなし――」
 今朝発足した武蔵野署の特別捜査本部で捜査一課と合流し、これから本格的な捜査が始まる。そのための捜査会議だ。天羽の部下である武蔵野署の刑事が昨夜古藤に指示され調べ上げた丹生脩太の略歴を話している。同じ内容を、昨夜署に戻った天羽は一足早く聞かされていた。
 まず驚いたのがやはり年齢だった。丹生脩太の容貌は運転免許証の照会により今朝方確認した。その容貌は大家と伊坂翔平が語った通り、とても三十一歳には見えなかった。白髪交じりの長髪はかさかさしていて、細い眉に吊り上がった目元、げっそりとこけた頬は五十代に見間違えられても仕方がないものだった。六十代に見えなくもない。
 最終学歴が中卒なのは、どうやら家庭の事情が関係しているようだった。その点についても部下はざっと調べを済ませており、丹生脩太は早くに両親を亡くしていることがわかっている。今から二十五年前、丹生脩太が僅か六歳の時に父親が肺癌で死去。母親も、その七年後に死去している。闘病の最中、自殺したらしい。丹生脩太が十三歳の頃だ。
 丹生脩太には皓太という四歳下の弟がいる。中学卒業後働き始めたのはその弟を養うためだったようだ。その甲斐あって丹生皓太は大学まで進むことができ、今は地方公務員として働いている。
 前科歴についても調べさせたが、見つかっていない。交通違反すら一度もないようだった。丹生脩太名義の資産を調べさせたものの、今のところ見つかっていない。本住所も現場となった吉祥寺のシェアハウスで登録されている。
 略歴を見ても、今一つ人物像が掴めない。それが天羽の感触だった。職業不詳という点が大きな問題だった。本人に問い合わせることができれば大したことではないのだが、丹生脩太は今現在帰宅していない。
 逃亡している、ということだろう。つまり樽本京介を殺害したのは丹生脩太だということだ。それは鑑識の照合の結果、出された結論でもある。
 丹生脩太の略歴について天羽の部下が話し終えると鑑識課長が立ち上がり、鑑識結果を話し始めた。
「現場に残されていたナイフですが、付着していた血液は被害者のものと一致しました。凶器と確定して問題ありません。それから凶器に残されていた指紋ですが、検出されたのは一人のものだけで、その指紋は現場の至る所から採取されています。被害者の指紋とは一致しなかったので、同居人丹生脩太の指紋で間違いないでしょう」
 続いて監察医が立ち上がり、解剖結果を報告した。その報告によると死因は失血死で間違いないとのことだった。凶器であるナイフは刃渡り九センチのもので、背中から斜めに食い込むように筋肉を貫き、刃先が僅かだけ心臓に達していたそうだ。おそらく一突きだということだった。
「ただし丹生脩太の外見から考えると、一突きで心臓に刃が達するというのはあまり現実的ではない、というのが正直なところです」
 げっそりとこけた頬から想像するに丹生脩太は腕っぷしが強くない。免許証の顔写真には肩までが写されているが、首は細く、肩にも肉がついていない。証言通り、撫で肩であることも確認できる。
 樽本京介は筋肉質な体つきではなかったが、成人男性の一般的な体格をしていた。その樽本京介を背中から刺し、筋肉や骨を貫いて刃先が心臓に達するなど、病的なまでに細い丹生脩太の腕力では考えにくい。ただ、考えにくいというだけであって、まったく不可能とは言い切れない。たとえば背中からナイフを刺し、樽本京介が腹這いに倒れてから全体重を使って刃を押し込み、心臓まで達したのかもしれない。
 監察医は天羽の考えと同じことを言った。考えにくいが不可能と言い切ることはできない、と。また死後硬直の程度から死亡推定時刻は午後四時から五時の間と割り出された。被害者はほぼ即死だったというので、犯行時刻もそれと重なる。
 丹生脩太が犯人で間違いない。それが捜査員の総意だった。捜査一課から派遣された係長は捜査一課長に連絡を取り、丹生脩太を指名手配することに決めた。早速緊急配備が敷かれることになったが、丹生脩太が殺人の逃亡犯であるならば、とっくに東京を飛び出しているだろう。しかし都内に潜んでいる可能性も否定できない。天羽は地域課に協力を要請した。
 捜査一課の捜査員達は現場周辺の聞き込みに当たる。所轄の捜査員は防犯カメラの映像を確認するようにと指示があった。確認するのは昨日の朝から犯行時刻までの時間帯だ。捜索範囲はまず吉祥寺周辺、その後武蔵野署の管内全域の映像を確認する。改めて天羽から指示を出し、映像の確認は古藤に任せた。
 天羽は阿波野を連れて署を出た。丹生皓太に話を聞くことは若林署長を通して捜査一課も認めてくれている。阿波野の運転で板橋区役所に向かった。丹生兄弟は皓太が大学を卒業するまで両親と暮らした小金井でアパートを借りていたが、今は別々に暮らしている。丹生皓太の住所はときわ台だった。職場である板橋区役所に通いやすいから引っ越したのだろう。
 本庁舎に入り、窓口で丹生皓太に話しがあると言った。警察手帳を見せると、職員は慌てて手元の受話器を取り上げた。少々お待ちください、と言うので天羽と阿波野は一般客と同じように椅子に腰掛けた。ぽん、という音の後に番号が呼ばれるのを三回ほど聞くと、さっきの職員が二人の元にやって来て、案内してくれた。
 職員通路に入り、空いている会議室に通された。そこにはシャツの腕をまくった男性が控えていて、刑事を見ると立ち上がって軽く頭を下げた。頭を下げるスピードはゆったりとしていた。
 生真面目そうな男だ、と天羽は思った。丹生脩太の風貌から、鋭い目つきを想像していたのだが、丹生皓太は兄と似ても似つかない、穏やかな目元をしていた。鼻筋も綺麗で、口角を上げるように微笑を帯びた口元は華やかさを持っていた。この兄弟は本当に四つしか歳が違わないのかと疑ってしまうほどだった。
 天羽は昨夕起きた殺人事件の概要を掻い摘んで話した。「被害者の樽本京介さんと丹生脩太さんは同居していたんです。あなたのお兄さんですね。その脩太さんは昨日から自宅に帰っていません。ですので唯一の肉親であるあなたにお話を伺いたいんです」
 背筋をぴんと伸ばし、時折相槌を打ちながら聞いていた丹生皓太だが、最後まで聞くと「はあ」と戸惑うように漏らしただけだった。どうやら樽本京介殺害事件については知らなかったようなので、少し困惑しているのかもしれない。突然刑事が来て、あなたの兄が指名手配されることになりましたと言われて冷静でいれるはずがない。
 テーブルの上で大きな手を組むと、丹生皓太はこちらを見て言った。「警察は、兄が樽本さんを殺したと考えてるんですね」
「まあ、そういうことです」と天羽は耳を掻いた。「皓太さんは樽本さんと面識は?」
「ありません。兄が樽本さんという方と同居していたことも聞かされていませんでした。初耳です」
 同居を開始してまだ二ヶ月だ。弟に報告できていなくても、不自然ではない。仕事が忙しいとか、もう少ししたら話そうと思っていたとか、理由はいくらでも考えられる。ただし、伝えなかった理由があるのだとすれば、話は別だが。
「脩太さんと樽本さんの関係については何も知らないということですか? たとえば、過去の会話の中に名前が出たことがあるとか、その程度でも結構です」
 丹生皓太は数秒瞬きを繰り返し、記憶を遡っているようだったが、やがて首を横に振った。
「樽本という名前に聞き覚えはありません」
 そうですか、と天羽は呟いた。「質問を変えます。脩太さんとはどれくらいの頻度で会われてますか」
「最近は会っていませんでした。もう二年近くになります」
 それが事実だとすれば、丹生脩太は吉祥寺に帰らない時、弟の自宅に泊まっていたわけではないということだ。やはり別に住居を構えているのか、ホテルを利用しているのか、考えにくいが、恋人がいるのか。
「会わなかった理由があるんですか」
「僕のほうにはありません」
「と、言うと?」
「僕からは連絡を取ったりするんです。今年の正月も、顔くらい合わさないかって電話したんですけど、兄が会ってくれなくて。せめて正月くらいは顔を合わせて元気な姿を見せたいと思ってるんですけどね。僕は兄には本当に世話になりましたから。でも、なかなか忙しいみたいで……」
「早くにご両親を亡くされたと伺いました。その後は脩太さんがあなたを?」
 丹生皓太は柔和な笑みを口元に浮かべ、首を縦に振った。兄への本音を語るのが照れ臭いのか、彼はこっちを見たりテーブルに視線を落としたりしながら、両親を亡くした時のことを口にした。
「兄は弟思いで、優しい人です。それは両親を亡くした時だけじゃなくて、大人になっても変わりませんでした。未だに連絡は取りますからね」
 天羽は黙ったまま頷き掛けた。
「僕は正直、父のことは覚えてないんです。父は僕が二歳の時に亡くなってしまっていますから。ヘヴィースモーカーで、それが祟って肺癌を患い、亡くなったと聞いてます。それからは母が女手一つで僕達を育ててくれました。でも僕にとっては兄が父の代わりみたいなところがあったので、父親のいない悲しみを感じることはあまりありませんでした。幼い頃から兄には可愛がってもらっていましたし、よく一緒に遊びました。僕は母にも兄にも大切に育てられました。大人しい性格だったこともあるかもしれません。父は亭主関白で、母が何か文句を言うと暴力を振るっていたそうなんです。だから母は、息子達には女性に手を出すような男には育てたくないと思っていて、父親とは違った穏やかな子に育つように、貯金を叩いて僕達に芸術を習わせました。兄は絵画を、僕はピアノを。でも母が亡くなって、僕はピアノを辞めました。母にやらされていたという認識はなかったですが、母が亡くなったことのショックが大き過ぎて、ピアノどころじゃなかったんです。元々ピアニストを目指していたわけでもないですし、これから生きていくだけでも大変だっていう中で、習い事を続ける余裕はないと思ったからです。母は自殺でした。たぶん、父の傍で副流煙を吸い続けていたから、それが一つの原因で肺癌を患いました。母の肺癌はステージで言うと二か三程度で、治療をすれば治すことができるものでした。でも母は、抗癌剤治療の苦痛に耐えかねて、入院中に自殺しました。僕は塞ぎ込んでしまって、食事も口にせず、衰弱したことがあります。その時でも、兄は僕の傍を離れず、お兄ちゃんがいるから大丈夫だと言って励ましてくれました。それから少しずつ僕も立ち直って、兄と一緒にアルバイトに出ようかなんて小学生ながら考えていたんですけど、兄がお金のことは大丈夫だから、お兄ちゃんが稼ぐからって言って、僕をここまで育ててくれたんです。本当に兄には感謝しています。でも二年近く会えていないというのが現状で、少し寂しいですね」
 丹生皓太は終始落ち着き払っていた。彼の話を聞いて、天羽は胸にじんと来るものがあった。自分の境遇に重なるものがあったからだ。天羽にも三歳下の弟がいる。
 だが感傷に浸っているわけにもいかない。天羽は丹生皓太に兄の職業を訊ねた。丹生皓太は兄を誇るように胸を張った。
「画家です」
 中卒で個人事業主……弟を大学まで行かせた丹生脩太。なるほど、と天羽は腑に落ちた。画家として一定の成功を収めていたのであれば、弟を養うだけの余裕はあっただろう。
「活動は本名で?」
「いや、覆面画家です。本名だと何かと勘繰られることもあるから面倒だって。母の死がショッキングだったこともありますし」
「その……ペンネームというべきなんでしょうか。脩太さんのペンネームを教えてもらってもいいですか」
 丹生皓太は苦笑した。申し訳ありませんと謝ってから、弟である自分も兄のペンネームは知らないのだと言った。丹生脩太は徹底して姿を隠しているというわけか。ただ本名でも何点か絵画を出展しているとのことだった。
 天羽に美術の知識はないが、近年巷でも有名な現代画家の代表格といえばバンクシーだろう。バンクシーも神出鬼没の覆面画家だ。丹生脩太とバンクシーはまったく別物で、丹生脩太は営利目的だろうが、覆面画家にしろ覆面作家にしろ、作品が注目されればそれと正体不明というミステリアスな響きが相乗効果を生み、価値が急騰することもある。丹生脩太がそういう状況にあったとすれば、樽本京介の滞納分の家賃、さらには二ヶ月先の家賃まで支払いを済ませていたことにも頷ける。
「ところでなんですが、脩太さんに連絡を取っていただけますか」目下最大の課題は丹生脩太の身柄を確保することだ。丹生脩太が苦労を重ねつつもその華々しい才能で命よりも大切な弟を育てて来た感動ストーリーにはつい体が火照ってしまうところだが、情に流されるわけにはいかない。いくら弟思いの心優しい兄でも、殺人犯である以上逮捕しなければならない。
 それは丹生皓太も理解してくれているらしい。戸惑いつつも、兄の番号に電話を掛けた。ただ一言、「兄は人を殺したりなんかしませんよ」と穏やかな表情を崩すことなく丹生皓太は抗いの言葉を放った。
 丹生皓太はスマートフォンをテーブルに置き、スピーカーフォンにして兄の応答を待った。天羽と阿波野も彼の座る椅子の後ろに立ち、丹生脩太と表示される発信画面を見つめていたが、繋がらない。何度掛け直してみても、電波の届かない場所にあるかすでに使われていない番号だと感情のない声が説明するばかりだ。
「どうしたんだろう」と丹生皓太は不安げに呟いた。スマートフォンを食い入るように見つめ、画面に吸い寄せられるように発信ボタンを押したが、結果は同じだった。「こんなこと、今までなかったのに……」
「脩太さんはいつも電話にはすぐに?」
「大体はそうです。出られなくても、すぐに折り返し掛かってきます」
 だがそれから二十分が経っても丹生脩太からの着信はなかった。弟によると、十五分あればいつも折り返しの電話があるとのことだった。GPS機能で居場所が割れることを気にして電源を落としているのかもしれない。天羽は丹生脩太の電話番号を控えた。
「最後にですが、脩太さんの交友関係について教えていただきたいのですが」
 中卒で画家になったからには、交友関係はかなり限定される。それも丹生脩太は覆面画家だ。その名を弟にも明かさない徹底ぶり……美術界でも親交のある者は少ないかもしれない。本名で数点絵画を出展しているとのことだが、あまり期待はできなさそうだ。
 兄とよく遊んでいたと丹生皓太は言った。丹生脩太と繋がりがある、もしくは繋がりがあった人物がいるとすれば、それは中学までの同級生である可能性が高い。丹生皓太も面識はあるはずだ。
「兄には二人、仲のいい友人がいました。今も食事に行ったり出掛けたりする仲です。僕は連絡先を持ってないんですけど、一人はどこで何をしているか知ってます」
「その人物を教えてください」
「ドウジマツバサ君です。堂島総合病院の一人息子で、ツバサ君も病院で医者をやっています。確か脳外科医だったと思います」
 ツバサは翼と書くそうだ。堂島翼――堂島総合病院と手帳に書き込んだ。堂島総合病院という病院名は聞き覚えがあった。足を運んだ記憶はないが。
「堂島総合病院というと、小金井にある、あの?」
「そうです」と丹生皓太は首肯した。「もう一人はキミシマタツト君なんですけど、タツト君は整体師だったかな、兄がよくマッサージしてもらってたそうなんですけど、どこの整体院かは聞いてないです」
 漢字を確認した。君島辰斗と書くらしい。整体院については問題ない。堂島翼に聞けばわかるはずだ。
 天羽は礼を言い、会議室を出た。丹生皓太は律儀にも本庁舎の入り口まで見送ってくれた。警察にここまで手厚く応対してくれる者は少ない。勤務中はいつも険しい顔になる天羽だが、丹生皓太の穏やかな笑顔につられて、つい相好を崩してしまう。
 生真面目で人当たりの良い丹生皓太……彼の兄が殺人犯というのは、彼だけを見ていると信じ難いことだと天羽は思った。

6へと続く……

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