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連載長編小説『別嬪の幻術』20
20
朝一番で野々宮に連絡した。丹羽裕人と話がしたい、と。真綾に話を聞いても、結局僕はすっきりしなかった。昨日もなかなか寝つけず、寝てもすぐに目が覚めた。顔を洗った時に鏡を見たが、気持ちばかり目の下に隈ができているような気がした。それほど目立たないので気にはしなかったが、目から頬にかけて、ひいては顔全体が重く感じた。まるで鉛のヘルメットを被っているかのようだ。
頭の感覚が鈍い。自転車で風を切っていると、風の軽快さにそれを余計に思わされる。脳の疲労が取れていないのをあからさまに感じる。秋らしい落ち着いた気温の中を颯爽と駆け抜けられたことだけが、唯一の救いだった。中京にある丹羽の自宅に着くと、すでに野々宮は到着していた。どうやら目の下の隈は僕が思っていたよりも目立つようで、野々宮は寝不足かと訊いて来た。「ちょっとね」とだけ答え、苦笑するに留めた。目を擦ると、眼球がひりひりと痛む。
野々宮の国家権力を使い、京都市議を引きずり出した。たぶん僕が単身乗り込んでいたら、丹羽に会うことはできなかっただろう。インターホンでやり取りをして、文字通り、門前払いを食らうだけだ。警察手帳とは頗る便利なものだと思った。まるで日本のパスポートじゃないか。
丹羽は朝に弱いタイプなのか、瓜実顔は少しむくんでいた。七三分けの髪も今日は無造作に下りている。部屋着姿なのも違和感しかない。アイドル市議は上下とも黒のスウェット姿だった。野々宮は今日も背広を羽織っている。同じ公務員でもまるで違うなと思った。今日は日曜日だ。丹羽は僕が来ることを知らなかったはずだが、僕を見ても表情は変えない。ちらりと一瞥をくれただけだ。
「野々宮刑事、警察が一般市民に振り回されてたら、治安維持なんかできませんよ」
僕がこの場にいる意味を察したらしく、丹羽は京都人らしい嫌味ったらしい言い回しをした。俺なしでも市議が話に応じてくださればこんな手間は掛からないんですがね、と野々宮は負けじと言い返した。
丹羽はふんと鼻を鳴らした。「人前に出る仕事やさかい、誰彼構わず会うわけにはいかんやろ。市民の暮らしをよりよくしようと努めてるけど、中には我々を憎く思う市民もおるかもしらん。その市民がどんな暴挙に出るか……何かあってからでは困りますんで」
丹羽は挑むような目を刑事に向けた。野々宮は動じず、しかし丹羽の視線はさらりと躱した。僕を見た野々宮が、顎で丹羽のほうをしゃくった。丹羽は身なりを整えるために少し時間をくれと言ったが、手間は取らせないからと引き留めた。丹羽は答えるまでに妙な間を取ったが、不承不承ながら玄関に留まった。
僕は、昨日千代の実家に足を運んだことを確認してから、なぜ千代を知っているのか、なぜ千代が洞院才華の行方を知っていると思ったのかを訊いた。重大な質問だ。しかし丹羽はなぜそんなことを訊かれるのかと驚いた様子で、僕を見ていた。
「それはつまり……どういうことや?」丹羽裕人は長い首を揉んだ。顔をしかめている。質問の意図が呑み込めず、混乱しているのかもしれない。だが僕はもっと混乱していた。どういうこととは、どういうことなのか。
「質問のままです。なぜ千代を知っていたんですか」
「そら、才華の友達やさかい」
友達……丹羽の言葉を繰り返しただけで、僕は言葉を繋げなかった。千代が学内で洞院才華と会っているのを見たことがない。彼女は何かと話題になることが多い学生だが、彼女の話題になっても千代が友達であることを仄めかすことはなかった。僕が彼女の愚痴をこぼしていると、千代は決まって味方をしてくれた。
徹底されていた……だがなぜ、何のために? なぜ洞院才華との関係をひた隠す必要があったのか。もしそれが今回の事件と、つまりテロ計画に繋がっているのなら――そう考えると、身の毛もよだつ思いがした。千代は何者なのか。疑念の渦が大きくなっていく……。
「そうや。幼稚園の頃からの」
「幼馴染ってことですか?」
丹羽はこっくりと頷いた。僕のペースも丹羽のペースも崩れている。空間が歪んでいるようだった。それは気持ち悪いというよりも、ぎこちないというほうがしっくりくるかもしれない。さっきから、体中が痒い。
「知らんかったん?」
僕は頷かなかった。頷けば、この二年間、千代に欺かれ続けていたことを認めることになると思ったからだ。この二年、彼女はどんな気持ちで洞院才華への愚痴に笑みを浮かべていたのだろう……。僕と幼馴染の板挟みになって苦しくなかったのだろうか。いっそのこと幼馴染だと紹介しようとは思わなかったのだろうか。万人がその美貌だけでなく性格まで賞賛する洞院才華だというのに、僕はどうやっても彼女を受け入れられないと考えたのだろうか。まさか、僕を奪われるなどと考えるはずはない……。
「でも、ずっと会ってないですよね?」
丹羽の質問には答えず、僕は訊いた。丹羽はぽかんと口を開けただけだ。今彼には、僕が落第の当落選上にいる落ちこぼれ学生に見えているかもしれない。丹羽の表情だけで、答えは聞かなくてもわかった。
会っているのだ……。会っていたのだ……。僕の知らないところで、学外で、二人は会っていたのだ。別に二人が友人だったことも、顔を合わせていたことも、僕が責めるようなことじゃない。だがなぜ嘘を吐き続けたのか。僕が洞院才華を目の敵にしていたから? そんな理由ではないはずだ。千代なら、「一度話してみれば? 絶対好きになるから」とでも言って僕と洞院才華を会わせたはずなのだ。なぜ僕と洞院才華を会わせなかったのか。可能性としては一つしか思い浮かばない。
二人は共犯者だから――。
嗚咽が喉元までせり上がって来た。僕はそれを飲み込んだ。指先がぴりぴりと痺れるような感覚があった。やけに頭が重い……後頭部だ。見えない後ろ髪を地面に引っ張られているような、痛みと息苦しさ。くそったれ。くそっ。くそっ。何が僕の味方だ! 誰よりも、僕の敵だったんじゃないのか……。
「一人にしてくれ。ちょっと、落ち着きたい……」
どうやって切り上げたのか、丹羽は自宅に入り、僕は野々宮と駐輪場まで戻っていた。野々宮は「気をつけろよ」とだけ言ってセダンに乗り込んだ。刑事を見送ることもせず、僕は自転車に跨った。力ない足でペダルを漕ぎ、二条城を訪れる観光客に邪魔だと毒づきながら、丸太町通まで上った。京都御苑で、少し休息を取った。体力の消耗がひどい。自販機で水を買い、水分を取った。
何を思ったのか、僕は千代のインスタグラムを見ていた。僕はSNSをやっていない。だからわざわざインターネットで検索して、千代のアカウントを見ているのだ。アカウント名は知っている。千代はそれほどまめに投稿するタイプではなかったが、旅行に行った時や遠出した時、誰かの誕生日などには投稿をしていることが多い。僕の誕生日を祝う投稿もあった。千代が準備してくれたショートケーキ。それを柄にもなく嬉しそうに見つめる僕が映った写真。風見も生きていた……。他にも、ゼミの仲間とバーベキューに行った写真や僕とのデートの模様を切り取った投稿があった。最新の投稿は千代の誕生日のもので、僕が贈ったブレスレットを手首につけ、それを自撮りした写真がたくさんの絵文字と一緒に投稿されていた。絵文字が多過ぎて、どれが本当の感情かわからない。僕はくすりと笑ってしまった。少し遡れば、九月二日にも投稿があった。生前、風見が彼のアカウントで見た千代の投稿を僕にも見せてくれた、あの投稿だ。僕の帰省に合わせて東京旅行にやって来た千代と真綾。半袖姿の二人に、あの頃はまだまだ夏だったなと思い出してみる。明治神宮前でのツーショットもあった。夕方だが蒸し暑かったのだろう。真綾は大量の汗をかいていて、化粧が剥がれかけている。千代は撮影前に汗を拭いたのか、真綾と比べれば涼しげだ。
みっともない……ふと我に返り、僕はスマートフォンの電源ボタンに触れた。二人の思い出は、たったそれだけで闇に葬られた。千代が吐き続けた嘘と同じように。
建礼門の前を通り万里小路に入ると清和院御門から寺町通に出た。清和院御門まで来れば、千代の実家はとっくに過ぎている。僕は千代を避けた。まるで千代の実家の周辺に結界が張られているかのように、僕は近づきたくなくなったのだ。千代の実家には一瞥もやらず、そのまま今出川通に出た。加茂大橋を渡り、東大路まで戻って来て、閑散とする古都大学を横目に一乗寺まで戻った。
心労は恐ろしい。無意識だったが、京都御苑から一乗寺のアパートまで、いつもの倍以上の時間が掛かった。のんびりと漕いでいたわけではないから、その分体力的な疲労も溜まってしまった。一つ溜息を吐いた。今日は早めに寝よう。そう思い、自転車の鍵を抜こうとしたが、ふとその手を止めた。
「待てよ……」
無意識に呟いていた。自転車の鍵を抜き取り、僕はそれをじっと見つめた。まさか――。僕は部屋に駆け込み、スマートフォンを開いた。確認したのは千代のインスタグラムだ。僕の頭の中に、一つの仮説が思い浮かんだ。閃いたと言ってもいい。きっかけは、自転車の鍵をかけたことだった。僕は千代のインスタグラムの投稿を見て、にやけが止まらなかった。目を閉じて、思い浮かんだ仮説を頭の中で繰り返す。いける。これだ。これが真実か。僕は君に騙されていたんだな。すっかり騙された。だがもう、僕を欺くことはできない。
スマートフォンの画面を操作して、野々宮に電話を掛けた。刑事はすぐに出た。野々宮は無事に帰れたかと心配したが、そんなことはどうだってよかった。
「調べてほしいことが二つある。それで事件は解決だ」
21へと続く……