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連載長編小説『滅びの唄』第二章 歌姫の声 6

 徒歩だと、翠風荘から劇場まで四十分ほど掛かった。なぜわざわざ歩こうと思ったのか、杉本は自分でもわからなかった。ただ、夜風に当たりたいと思ったことは確かだった。すっかり気温は上がって、夏日も増えてきた。しかしまだ、陽が暮れると肌に涼しい季節であった。
 杉本は髪の生え際に滲む汗を指先で拭った。乾いた額が気持ちいい。
 国道沿いは行き交う車のヘッドライトで眩かったのだが、劇場へと続く市道に入って以来、すっかり辺りは暗く静まり返った。しんとしたこの静けさが杉本は嫌いではない。
 だがあまりに静かだと思った。車はもちろん、通行人さえも違和感を覚えるほどに少ない。いや、正確に言えば今市道に立っているのは杉本ただ一人なのだった。他者の音のない、静寂な空間。劇場というあらゆる音が混在する建物の側で、杉本はその異様さに鳥肌立った。音といえば、空中に吹く風、そして市道の真ん中に植えられた木々のざわめきしかない。そこかしこで虫が鳴いているはずだが、今は木々の揺れる音に掻き消されてそれは聞こえない。
 暗闇に並ぶ木々の影がまるで踊っているようだ。不思議なもので、いずれの木々も同じ動きをしていた。まるで命が宿っているかのように、杉本には見えた。その木々をよく観察すると、揺れた枝葉は劇場を指差していた。杉本はその指示に素直に従った、あるいは木々に操られたかのように、劇場へと進んだ。
 やがて敷地に入っていくと、声が聴こえた。今日も歌っている。轟々と落ち葉を吹き晒す春風を切り裂いて、甲高い歌声が杉本の耳に届いている。
 周囲を見回した。
 耳を澄ました。
 そして声のする方角をしっかりと捉えた。その瞬間、杉本はあることを確信した。これは幽霊なんかじゃない。歌っているのは生身の人間だ。なぜなら歌声は一つの方向からのみ聴こえるのだ。
 まだ歌声は続いている。日本語ではないようだ。何かのオペラに登場する唄なのだろうか。杉本はオペラに対する知識がなく、聴こえて来る歌が何なのかがわからない。
 杉本を侵入者だと見なして何かを警告しているのだろうか。
 それとも歓迎されているのか。
 あるいはまったく別の意図が含まれているのか。
 いずれにせよ、なぜ歌声が響いてくるのだ。この荒廃した敷地で、焼け落ちた劇場で、そして森岡珠里を彷彿とさせる甲高い歌声が。
 杉本は確信しながら、少しの迷いがあった。歌声がたとえ人間のものであって、霊的なものでなかったとしても、その歌声の主と面識を持つことは己の身を滅ぼすことに繋がりはしないか。歌声の真相を暴くことで、己の体を傷つけられることもあるのではないか。こんなところに出没する人間が、良識あるまともな人間であるだろうか。
 憶測が恐怖を生み、そして恐怖は不安を呼び起こす。杉本の感じる得体の知れない慄きは体全身を駆け巡り、神経を麻痺させるのと同時に足をすくませた。
 これまで何度も目にしてきた夕闇に佇む灰の劇場が、妖怪の棲み付く城のように見えた。それは背後の山々の威厳によってさらに助長される。何とも言い難い居心地の悪さだ。得体の知れない怪物を目にした時、きっとこんな感じなのだろうと杉本は思った。
 重い足を一歩ずつ動かし、劇場に近づく。霧の掛かったような声は今尚褪せているけど、聴こえる声量が大きくなるにつれて、色彩が鮮やかになっていく。
 杉本は足を止めた。
 人の影が見えたのだ。首から上だけが、微かに動いた。その動きがなければ、人影だと気がつきはしなかっただろう。
 杉本はその人影が座っている場所を見てはっとした。枝野に株式会社清樹のコンサートに連れられた時、倒壊した柱の中に杉本が見つけた、子供なら入れそうなかまくら程度のスペースがあった場所だった。大人なら屈めば一人ぐらいは入れそうだと思った、あのスペース。
 ひらりと影が舞って、頭の輪郭が見えた。髪は短い。しかし得た情報はそれだけだった。杉本は釘付けになった。次の影の動きを見るために瞬き一つも憚られ、息をするのも惜しかった。
 影が立ち上がった。シルエットが浮かび上がる。どうやら彼女は杉本に気づいていて、こっちを向いているようだ。やがて髪がふわりと浮遊し、後ろ向きになったことがわかった。手招きするわけでもないのに、杉本は彼女に引き寄せられた。
 近付くと、瓦礫の後ろに隠れた彼女が顔を覗かせた。
「大丈夫」杉本は彼女に言った。「何もしない。君は誰?」
 歌声が止まないことに杉本はひどく驚いた。杉本の声が聞こえていないのか、それとも会話する気がないのか。
「こっちへ来て、姿を見せてくれないか」
 そう呼び掛けると、じりっと足元の燃え滓を踏む音がした。杉本の声は聞こえているようだ。しかし歌声が止まない。これまでとは比べようのない、鮮明で力強い高音。聴いている者の腹の底が震えるような、とても同じ人間とは思えない歌声。音楽に無知な杉本でも、その歌声の洗練されているのがわかった。
 瓦礫の向こうから影はこちらを覗いている。杉本の存在には確かに気づいているのだ。それなのに、何かに取り憑かれたかのように、病的な何かに呪われでもしたかのように、歌うのを止めない。
 瓦礫の向こうから片方の足が覗いて、杉本は一歩後ずさった。暗闇で見えるはずなどないのに、懸命に愛想笑いを浮かべる。しかし恐怖に頬が引き攣るのが自分でもよくわかった。
 彼女は上半身を半分ほど瓦礫から露にした。少しずつ後退する杉本に向かって、歌うことを止めずに詰め寄って来る。その迫力は大男に恫喝された時よりも凄まじく、胸に銃口を突き付けられるよりも緊張感があった。
 何をされるかわからない状況に思わず悲鳴を上げてしまいそうになりながら、杉本は彼女の放つ凄まじく重い雰囲気を受け止め続けた。
 やがて月明りに彼女の姿が照らし出された。
 女性はよれたシャツにグレーのパーカーを羽織り、グレーのスウェットを履いている。髪は短いが、短く切り揃えられたという様子ではなく、むしろ乱雑に切り落とされたという印象を受けた。尚歌い続ける彼女の顔はほぼずっと天を見上げていて、月明りが伸ばす瓦礫の陰に重なってうまく見えなかった。
 やがて彼女は前進を止め、それを見て杉本も後退を止めた。がっくりと首を俯かせた彼女は、突然脱力して膝から崩れ落ちた。かと思うと、空を見上げて、そして項垂れるようにまた地面を向いた。
 立ち上がると、体を左右に揺らしながらその場で足踏みを始めた。まるで、幽霊だった。

第三章へと続く……

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