連載長編小説『十字架の天使』3-2
正午を過ぎ、昼食を済ませた吉高は左向探偵事務所に向かった。名刺にある通り新宿のオフィス街の一角に事務所はあったが、周囲の高層ビルとは違い三階建ての建物の二階の一部をテナントとして借りている小さな事務所だった。
同じフロアには他の会社が軒を並べていた。
開閉式のドアを手で引き、狭い通路を進んだ。二メートルほど歩くと視界が開けた。探偵事務所という響きから書類の束が積み重なっている光景を想像していたのだが、意外にも整頓されていて、綺麗だった。今日吉高に事務所に来るよう伝えていたから慌てて片付けたのかもしれない。
部屋は狭いが探偵として活動する環境は整っていて、一番手前に応接用と思われるソファがあり、それに挟まれるようにしてガラステーブルが置かれている。部屋の奥、窓辺にはデスクが二つ並んでいて、一方のデスクはまるで新品のように何も置かれていない。対してもう一方のデスクにはいくつか書類が広げられており、パソコンが開かれている。パソコンを操作しているのは左向ではなく女性だった。
パートで雇っているのだろうか。左向が従業員を抱えているとは意外だった。
パソコンを操作する女性は吉高の来訪に気付いているはずだが、こちらには目もくれない。こちらから話し掛けようとした時、水の流れる音と共に左向が姿を見せた。
彼は吉高を見ると愛想笑いも見せず、くるりと向きを変えた。資料が収納されている書架からいくつか持ち出すと、ソファに座った。左向は吉高にもソファを勧めた。
「ミオ、コーヒーよろしく」左向は女性に言うと、こちらを見た。「インスタントだけど、構わないだろう?」
左向の指示を受けた女性は意外にも素早い動きを見せ、すぐにインスタントコーヒーを二杯用意した。
「ありがとう」と彼女を労うと、左向は女性を紹介した。「バンドウミオ君だ。僕の助手を務めてもらってる。彼女は機械が得意でね、僕はそういうものには疎いから、何かと助かってる」
吉高の視線の先に二人の名前が並ぶ表があった。左向哲人、坂東澪と縦に並べられており、それぞれ横には在勤、外出中と書かれた欄がある。今は二人とも在勤の欄に名札が貼られているが、見たところ坂東澪の名札は固定されているようだ。調査のために外出するのは左向だけらしい。
「来てくれると信じていたよ」左向は言った。
「綺麗にされてるんですね」
とりあえず褒めた。吉高の来訪に備えて片付けたのなら、それを褒められるのは気持ちがいいはずだ。
「皮肉を言ってるのかい?」
思わぬ返答に吉高は言葉を失った。
「僕達が暇だと言いたいんだろう。そりゃ書類で溢れて、抱えてる事件が山積みのような探偵のほうが僕としてもありがたい。でも現実はこんなものさ。きな臭い浮気調査ばかりじゃ書類の山もできないさ」
「そういうつもりで言ったんじゃありません。整頓されてるなと思っただけですから」
「そうか、それならいい」
左向は澪の入れたコーヒーをうまそうに飲んだ。
「あの、左向さんは殺人事件の調査をしたことはあるんですか」
「ない」左向はきっぱりと言った。「探偵になってからはね」
「探偵になってから?」
「ああ。僕は元々刑事だったんだよ。それはもう優秀な刑事だった。警察学校は首席で卒業、それから所轄に配属されて数々の事件を解決、その実力が認められて同期では誰よりも早く赤バッヂを手にした。だが僕は警察をやめた」
「どうしてですか」
「こんな性格なんでね、集団組織は性に合わない。所轄にいた頃はスタンドプレーも許されていたが一課ではそうもいかない。僕には僕のやり方があるんだ。今更所轄に戻されるのも僕のプライドが許さない。だからきっぱりと辞めてやった。清々してるよ、まったく」
「でも事件の調査は……」
「ない。今回が初めてだ」
「解決できる見込みは?」
「ない」左向はまたしてもはっきり言い切った。「あらゆる科学捜査を用いて犯人を究明する警察組織が二ヶ月以上掛かって容疑者すら割り出せていない事件だ。私立探偵がそれにとって代われるような事件ではない。まあ僕は誰かに頼まれて調査をするわけじゃないし、事件を解決しなくてはならない義務もない。ただ個人的に興味があってね」
「興味があるのに、どうして今まで調査をしなかったんですか? 事件はずっと前から起きてたのに……」
「だから、ついこの間まで浮気調査を抱えてたんだよ。正式に依頼された仕事を放置したまま興味が向く事件を調べることなんてできないだろう? これでも信用が物を言う商売でね」
吉高は左向がテーブルに置いた資料に視線をやった。資料のタイトルには「連続猟奇殺人事件の調査資料」と書かれていた。
「ところで君は、この事件のことをどこまで知ってる?」
「報道されてる程度には」
昨日勤務を終えて帰宅した吉高は久しぶりにテレビをつけた。聖子が殺されてまもないため、昨夜の段階ではまだ事件がクローズアップされていた。インターネットで事件を報じた記事を検索し、目につくものを何本も読んだ。
殺害された女性達はいずれも男性に暴力的で、恨みを買っていた可能性は十分考えられるという。では聖子もそうだったのかというと、それはわからない。聖子に関する記事は多くなかったからだ。しかし吉高の記憶の聖子は暴力を振るうような女性では決してない。
今もそうだと思う。
「なら話が早い。事件の概要についてはそれほど触れなくてもよさそうだ」
そう言うと左向は資料を手に話し始めた。
「まず磯山夏妃が殺害された事件、この事件で動機が存在するのは五人だ。夫の磯山義行、その父道雄、母慶子、それから磯山夏妃に借金があった西野楓、その元恋人である伊東卓士。磯山家の被害者への動機は一目瞭然、DⅤだ。これに対して西野楓は借金苦に困っていたし、当時交際していた伊東卓士とはその借金が原因で別れている。殺意を抱いても不思議じゃない。ただし」
左向が何を言おうとするか、吉高にはわかった。
「全員にアリバイがある」
それが磯山夏妃殺害事件の捜査を難航させている原因だった。第二の事件が起こるまでは。
「次に永島小春が殺害された事件だが、この事件で動機があるのは主に二人だ。厳密に言えばもっと多いだろうが、殺意を抱くほどの動機になり得るのは二人と考えている」
「いじめ、ですね」
「そうだ。永島小春がこれまでいじめの対象にした人数は把握していない。かなりの数がいるだろうし、その分恨まれていても不思議じゃない。だがいじめという嵐が過ぎ去った生徒は恨みを抱いても反逆しようとは思わないだろう。ようやく恐怖から解放されたのに、波風を立てようとは思わない。その点、中垣瑛人は現在進行形でいじめを受けていたし、彼がいじめの対象になるきっかけとなった、元々いじめられていた迫田美奈には永島小春に対するそうとうな鬱憤が溜まっていたと推測される。だから現時点ではこの二人に絞っている。だが二人ともアリバイがある」
「アリバイ……」思わず吉高は呟く。昔見た刑事ドラマではやけにかっこいい響きに聞こえたが、今はただ厄介なだけの言葉である。
「三件目は片岡真穂。動機があるのは一人と言っていい。被害者の義理の弟、片岡幸治だ。夫は海外出張中で虐待のことは知らなかったようだし、いくら何でも海外にいて事件は起こせない。虐待を知っていたのも片岡幸治だけで、よく被害者には注意していたらしい。だが彼にもアリバイがある。そして今回の事件が起きたわけだ」
吉高は胸の辺りに痒みを感じながら訊いた。
「聖子も誰かの恨みを買っていたんでしょうか」
「まだ調査を始めたばかりではっきりしたことは言えない。でもトラブルの種が多かったことは確かだ」
「それはやはり、暴力的な女性だったということですか」
そんなわけがないと信じながら吉高は返事を待った。その願いが通じたのか、左向はそれを否定した。しかし次に繰り出された言葉に吉高は首を傾げた。
「彼女の場合、むしろ逆だった」
「逆?」小松諒太の顔が咄嗟に思い出された。「暴力を受けていたということですか」
「それも違う」左向はかぶりを振った。彼は澪のほうに一瞥をやり、声を落として続けた。「鳴海聖子は男に体を売っていた。買われていたと言うべきかもしれないが」
「体を……売っていた?」
「ああ、売春だよ。今はパパ活と呼ばれているものだな。言い方が変わっただけで、中身は同じだ。パパ活は売春だ。オブラートに包めていない表現だよ、まったく」
嘘だ、と吉高は思った。
「そんなはずがありません」
「何が?」
「聖子が体を売っていたなんて」
「何を言う? 昨日あの後僕は数人に話を聞いたんだ。彼女の同僚にだがね。その中の一人も実際に鳴海聖子を金で買ったことがあると話していた。白井尚希という男だよ。鳴海聖子の売春はなかなか有名だったらしい。きちんと証言されてるんだから」
「信じられません」
「言い方が違う。君の場合、信じられないんじゃなくて信じたくない、だ。でもこれは事実。五年も会っていなかった親しい女性の変貌に戸惑うのはわかる。でも君は彼女の死の真相を少しでも知りたいと思ったからここに来たんだろう? だったらこういう事実も受け止めなければならない。他人の謎を暴くということは、その人の十字架を背負うことなんだ」
「十字架?」
敬虔なクリスチャンだった聖子に掛けた言葉なのだろう。そんな十字架、できることなら背負いたくはない。自分には背負いきれないと吉高は思った。
「その覚悟がないのなら帰ってくれていい。別に僕は君と一緒に調査をするわけじゃない。昨日も言ったが、今日ここに君を呼んだのは二つ頼みがあるからだ。それさえ果たしてくれれば君はもうこの事件と関わることはない。無理に十字架を背負う必要はないさ」
「頼みっていうのは?」
左向は人差し指を立てた。一つ目、という意味だろう。
「鳴海聖子の葬儀は明日あたりに行われるだろう。そこに参列してかつての同級生や身近な人と人脈を作って来てほしい。僕に紹介してほしいんだ。知り合いでも警察でもない僕が葬儀に参列するのはおかしな話だからね。動機ある者すべてにアリバイがある以上、他の突破口を見つけなければならない。売春以外で鳴海聖子に殺意を抱いていた人がいないかを調べたい」
「でもこの連続殺人は無動機殺人とも言われています」だったら動機など調べても意味がないのではないか、とは言わなかった。そんなことは左向も承知しているだろう。
「本当に無動機殺人かどうかは犯人を逮捕してからでないとわからない。もしかしたら無動機殺人が真実かもしれないが、それでもやはり人を殺す以上動機は存在すると思うがね。しかも犯人は死体に十字架を突き立てるような非常にシンボリックな行為を行っている。これに意味がないと言えるだろうか」
「猟奇犯なら言えると思います」
「まあそれはそうだろう。とにかくこれに関しては調査を進める上で検討する必要がある。鳴海聖子の葬儀には顔を出すつもりだったんだろう? そのついでと思ってこの依頼を受けてほしい」
「それは、構いませんけど」
左向は人差し指と中指を立てた。
「もう一つの頼みはネットカフェの小松諒太の利用履歴を持ち出してほしい」
「小松さんにはアリバイがあります。聖子を殺すことは不可能ですよ」
「それは百も承知だ。でも気にならないか、どうして愛する婚約者がいるのに仕事帰りにネットカフェを利用していたのか」
そう言われれば、不自然な行動のように思える。だが恋人がいてもネットカフェを利用する人は多くいるはずだ。特別不自然な行動とは言えないのではないか。
「それは、できません。顧客情報ですから、誰がいつ利用されたかはプライバシーにも関わることなので」
「何もデータを持ち出してほしいとは言ってない。僕が聞いてるのは君の記憶についてだと思ってくれていい。確かな情報じゃなく、君の記憶にある小松諒太の利用履歴でいいんだ。データを持ち出す必要はないし、わざわざメモを取る必要もない。目で見て覚えている情報だけをくれればそれでいい。君に迷惑はかけない」
「本当ですか」
「さっきも言っただろう。僕は信用で商売してるんだ。守秘義務というものもあってね。だから信用してくれていい。これでも元警察官だ」
少し迷ったが、吉高は左向の依頼を承諾した。元々彼が顧客データを悪用するとは考えていない。問題は自分自身の罪悪感の問題だった。
だがそれも、聖子のためと思えば割り切れる。
「その二点、よろしく頼むよ」
左向はそう言うと、立ち上がった。吉高は冷めたコーヒーを喉に一気に流し込んだ。左向に促されて帰路に就いたが、事務所を出る時も澪はこちらに一瞥もくれなかった。
3-3へと続く……