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連載長編小説『破滅の橋』第七章 軌道修正と固めたい地盤4

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 満開の夜桜を眺めながら食べる天ぷら蕎麦は絶品だった。昼間の、穏やかで明るい桜並木は圧巻だが、渡月橋を照らす照明が伸びた先で、ぽつぽつとその姿を覗かせる夜桜は幻想的で、どこかうっとりする妖しさがあった。
 午後八時に店を出た祐里は、それから一時間を嵐山公園で過ごした。目的は、峯本の尾行だった。彼の仕事が終わるのは午後九時を回ってからだ。その時を友人の春乃と二人で待っていたのだが、ただ時間が過ぎるのをじっと待つのはあまりに味気なく、彼女たちは屋台でみたらし団子を買った。団子を食べながら、春乃のお腹にいる赤ん坊の話をして過ごした。
 対岸から見ても、商店街の光が細々となっていくのがわかった。午後九時になったのだ。祐里は、春乃と二人で渡月橋を渡った。各店の営業時間は知らないが、すでにほとんどの店はシャッターを下ろしている。彼の働く店も、すでにシャッターが下りていた。祐里は、竹林の小径へと続く路地に入り、店先をじっと見張った。
 まもなく、店から人影が出てきた。峯本かどうかを確認したが、どうやら女性従業員らしかった。闇の中を動くシルエットが、明らかに女性のものだった。それから十分ほど経ち、彼が出てきた。少し距離を取って、祐里は尾行を開始した。
 最近の峯本は、帰宅する時間が遅くなっていた。午後十時には帰宅できるはずが、十一時、あるいは日付が変わってから帰ることもあった。浮気を疑うわけでは決してないのだが、心のどこかで不安があったのだ。春乃と一緒なのは、彼女に相談したところ、祐里以上に目を鋭くし、興味を持ったからだった。
 が、彼の様子に変わりはなかった。帰路をまっすぐ進んでいる。もちろん一日で成果を得られるなどと考えてはいない。
 その時だった。
 彼は立ち止ったのだ。振り返ると、「ばればれ」といった。「俺の後をつけて、どうしたの?」
 祐里は苦笑した。
「最近、帰りが遅かったから、どこに行ってるんやろうって思って。ごめん」
 帰宅時間の遅さが目立ち、気になっていたのは事実だが、じつのところ、こうして恋人の尾行を一度やってみたかっただけなのだ。それに、前に春乃と会った時に彼のことを話したら、いつか紹介してほしいといわれていた。春乃は既婚者だから、ただ興味があるのだろう。昔から、春乃の一番の親友は祐里だった。それだけに、祐里の恋愛をかなり気に掛けている。
 外に出ることは躊躇わなくなった峯本だが、素知らぬ人と個別に顔を合わせるのはまだ難しいらしい。春乃に紹介したいといった時、彼は渋面を浮かべた。だから、こうして会わせてしまえばいいのだと祐里は思った。
「心配かけてごめん」彼は謝った。「帰りが遅くなってたのは、着物の本を読んだり、店に残って着付けの練習をしてたからなんだ」祐里から視線を外し、彼はいった。「その人は?」
「私の親友、江本春乃さん。前に話したことあるやろ?」
 彼は首の後ろを揉み、親指で鼻の頭を弾くと、ああ、と弱い声でいった。「峯本です。よろしくお願いします」
「江本です。祐里とは中学からの友達です」
 峯本の目が春乃をぎょろりと見た。緊張しているらしく、彼の春乃を見つめる目は険しく、そしてどこか身構えているようだった。
 歩き始めると、春乃が口を開いた。
「峯本さんは、祐里が行列に並んでたところに声を掛けたんですよね?」
「そうです。ついつい話しかけました」
 声色は普段と変わらないもので、祐里は安堵した。春乃も好感触だったのだろう。歩きながら、彼に祐里との馴れ初めをあれやこれやと訊いている。
 そんな中、春乃の質問に峯本は突然口ごもった。春乃は、「祐里と会う前は何をしてたんですか?」と質問したのだ。
 黙り込んだ彼に代わって、祐里が答えた。
「私と会うまでは彼の親友のところにいたんよ。それでその親友が結婚することになったから自分から出て行ったの」
「居候……してたってこと?」
 祐里は、峯本の表情を窺いつつ、首を縦に振った。「まあ……」
「その前は? ずっと友達と一緒に暮らしてたわけじゃないやろ?」
 春乃の言葉に、祐里は黙るしかなかった。峯本の過去は、祐里もあまり知らないからだ。彼の過去は少し気になるが、彼のほうから話題にしないのだから、無理に話題にする必要はないと思っている。祐里だって、彼に昔話をしたことはあまりなかった。
「その前は一人暮らしです」ぼそっと峯本がいった。「サラリーマンをやってました。でも、退職することになって、その時住んでいたアパートも解約して、行き場を失ったんです」
 初めて知った彼の過去に、祐里は驚いた。なぜ退職することになったのか、その理由が知りたいとは思わなかった。きっと、人間関係でうまくいかなかったのだろう。
 祐里は春乃を睨んだ。これ以上、彼の深いところまで踏み込まないでくれと、心の中で繰り返した。目が合うと、春乃は口を噤んだ。
 アパートの手前に公園がある。小さな公園で、普段から人が少ないから、休日に一家で来るにはちょうどいい場所だ。祐里と春乃は入り口付近のベンチに腰掛けた。峯本は、飲み物を買いに自販機へと向かった。
「絶対にやめたほうがいい」春乃はいった。「彼、何かおかしいわ。祐里、利用されてるだけと違うか? あの人、絶対訳ありやわ。ほんまにやめとき。別れるなら、今しかないで」
 祐里はむっとしていった。
「春乃は浩平君の何を知ってんの? 何も知らんやん。私、もう一年以上浩平君と一緒にいるんやで。もし私を裏切るつもりなら、もうとっくに裏切ってる。私は誰よりも浩平君を知ってる。彼は決して悪い人なんかじゃない。誠実な部分も、優しい部分も、だらしない部分も全部見てきた。少し前まで、就活で採用されへんかったら本気で落ち込んでた。なんでやと思う? 浩平君は……本気で生きようとしてたからや。いつも私に謝ってた。迷惑かけてごめんって。悪人がそんなことすると思う? 私は思わへん。浩平君は真剣に自分と向き合って、責任を持って私と付き合ってるねん。お願いやから、彼のことを悪くいうのはやめて」
 気がつくと、目に涙が溜まっていた。声は荒げなかったものの、これだけ必死に何かを訴えかけたのは初めてだった。
「祐里の気持ちはわかった」春乃はいった。「でもあたしはやっぱり彼と祐里が付き合い続けるのは反対や」
「浩平君のこと、何も知らんくせに」祐里は手の甲で涙を拭うと、挑むような目で春乃を見た。「春乃も、逆の立場なら私と同じようにいってると思うけど」
「それはどうやろ?」
「浩平君のことを紹介したかっただけやのに」頬を膨らませて祐里はいった。
「それは悪かったと思う。でもあたしは二人のこと反対や。そのうち、彼が祐里の足を引っ張るような気がして――」
 飲み物を買った峯本がベンチに戻ると、春乃は腰を上げた。二人はしばらく、その場に留まった。
 春乃に彼を紹介してから三ヶ月、彼女が懸念したようなことは一切起こらなかった。祐里がある刑事と再会するまでは――。

最終章へと続く……

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