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連載長編小説『別嬪の幻術』11-1

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 むくんだ顔で登校してくるかと思ったが、意外にも千代はしゃきしゃきとしていた。しかし元気一杯というわけでもなく、どちらかといえば疲れているように見える。夏季休暇が明けて二週間が経とうとしている。二週間前までのぐうたらな生活が恋しくなってくる時期だ。僕も少し……いや、相当疲労が溜まっている。佐保が殺されてから一週間が経とうとしている。これまでに、こんなに神経を擦り減らした一週間は未だかつてなかった。大学に入って最初の期末試験ではあまりのレポートの多さに重い溜息ばかり吐いていたが、この一週間と比べれば取るに足らないものだった。目の下に、真綾のような隈ができていないだろうか、と僕は思った。
 千代が腰を落ち着けるのを見て、昨日真綾と遭遇したことを明かした。僕達がばったり出くわした話を真綾もしていたらしく、千代は「聞いた、聞いた」と微笑を浮かべ、首を縦に振った。場所についても真綾に聞かされているようで、旅館で何を調べていたのか、成果はあったかと問われた。成果は皆無だ。しかし珍しい人物と顔を合わせた。それを言うと千代は興味を示した。丹羽との遭遇を話してやると、千代は興味を持った。彼女曰く、見た目がいいから他の政治家より誠実に見えるとのことだ。人は見た目が九割というが、千代はころりと騙されている。
 僕の話が落ち着くと、昨夜の食事の話になった。鞍馬口のほうにあるイタリアンに二人で行き、看板商品である特製バジルソースのパスタを平らげ、その後はマルゲリータを肴にちびちびとワインを舐めていたらしい。それほどアルコールを入れたわけではないため、二日酔いもなくぴんぴんしているとのことだ。午後九時前には解散したという。気を遣ったのか、今度一緒に行くかと彼女は訊いた。ありがたいお誘いだが、僕はイタリアンでパスタを食べるより北白川でラーメンを食べるほうがよっぽどいい。礼だけ言った。
 そういえば、と会話を繋げたのは僕のほうだ。「真綾ちゃんのお母さんってガシーヌの被験者だったよな」
「そうやけど、それがどうかしたん?」
 いや、と僕は言葉を濁した。早瀬議員がガシーヌの開発を急いでいるのなら、洞院才華の力を借りようとしているという説明はつく。それについて佐保が何か聞かされていたということも。しかし佐保と風見が殺害される理由までは繋がらない。やはりこのセンで考えられるとすれば駒場敬一が掴んだ早瀬と京都新薬の間で行われた贈収賄くらいだが、仮にその証拠となるものを佐保が握ったとしても、すでに時効となっており、早瀬が処罰されることはない。殺害するほどの動機にはなり得ないのではないか。新たな贈収賄が行われたのなら話は別だが。
 たとえばその金の一部が洞院才華の手に渡っているとすれば――霧のように姿を消し、警察がその尻尾を見ることすらできていない彼女がガシーヌの開発に関わっていて、完成を急いでいるとすれば、再び臨床試験を行い、今度こそ厚労省からの認可を得ようとしているならば、六年前と同じことが繰り返されても不思議ではない。洞院才華からそれらしいことを知らされた佐保が真実を暴いてしまい、殺害された。ただし洞院才華は手を汚さず、誰かを操って佐保を抹殺した……その場合、殺害場所はどこでもよかったのではないか。佐保の場合、船槻敦と酒のトラブルを抱えていたから、それを連想させるために松尾大社に呼び出した。たとえば「あたしが大学に来なくなったら松尾に来てほしい。そこにあたしはいる」というふうに。
 すべて空想だ。だが今日まで一週間事件を調べて来て思うのは、駒場敬一の事件と佐保、風見の事件を結びつけて考えるのは無理があるという点だ。野々宮からはすでに二都市を結ぶ可能性を持つ長沢について、京都の事件で犯行に及ぶのは不可能だと報告があった。残るは早瀬くらいだが、望みは薄い。仮に早瀬が事件に関わっていても自らの手は汚さないだろう。僕は力なくかぶりを振った。それを見て、千代が僕の肩を揺すった。
「ガシーヌが何? いや、って澄ましてるけど、何もないのに訊くこととちゃうで」
 僕は何とか取り繕うように、真綾の境遇を口にした。両親を早くに亡くして、弟を養って来た彼女を尊敬すると言った。自分のためではなく、誰かのために水商売までできる人が全国にどれだけいるだろう。派手なメイク、露出の多いドレス、小汚い、加齢臭漂う禿頭の親父との密着……どれも皆、それで金を稼ぎ、自分のお洒落や旅行のために使う。その楽しみがあるからこそ、自分を偽ってワインを煽るのだ。だが真綾は違う。そこで稼いだ金は、すべて弟の晴人のために貯金される。自分へのご褒美は数少ない。
「それを思うとさ、もしあの薬の副作用が改善された状態で臨床試験に掛けられてたら、真綾ちゃんのお母さんも助かって、ホステスなんかやらなくても暮らしていけてたんだろうなって」
「最近そっちは行ってへんみたいやけど」
「辞めたのか?」
「ううん、辞めたわけじゃないけど、出る日減らすって。晴人がアルバイト始めるんやって」
「バイト? 年が明けたら受験生だろう? そんな余裕……」
「塾で、もう高校卒業レベルまでやってるんやて。やからちょっと余裕あるみたい。真綾は勉強に集中してほしいらしいんやけど……」
 受験に油断は禁物だ。模試でA判定が出ていても本番では落第する世界なのだ。合格が約束された世界ではない。ただし、僕や洞院才華は別だが。僕も高校時代は塾に通っていたし、それなりに受験勉強もした。普通の受験生だった。ただ一つ違っていたのは、落ちるはずはないと考えていたことだ。だから時々、気が乗らない日は勉強をしなかった。それでも第一志望に合格している。油断は大敵だが、油断すれば必ず負けるというわけでもない。アルバイトは気分転換程度にできるのなら、それはそれでいいのかもしれない。
 弟ながら、自分のために夜な夜な働きに行く姉に申し訳なさを感じていたのかもしれない。高校生なら自立することもできる。これで真綾も救われるだろう。やりたくもない仕事をやるのは心に毒だ。少しすれば、目の下の隈も化粧で隠さずに済むようになるかもしれない。
 まもなく教授がやって来て、授業が始まった。講義に出て風見を探さないのが当たり前になりつつあることに、僕はふと気がついた。

11-2へと続く……

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