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連載長編小説『破滅の橋』第五章 空の下は冷笑2

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 太陽が雲に覆われると、気温が落ち着くようになってきた。出所してから半月ほどで、峯本は中途採用を募集している企業に履歴書を送った。結果は、ことごとくだめで、それもすべてが書類選考で落とされていたのだった。
 わかってはいたが、いざ現実を突き付けられるとさすがに応えた。保護師は精力的に協力してくれるが、落選続きの峯本は今まで以上に自信を無くし、塞ぎ込むようになった。また、就職活動がうまくいかないせいで、面接会場で罵倒される夢を見るようになった。
 一流企業の、豪勢で品格溢れる面談室。身長の何倍も高さのある扉を開けると、瞳の奥で鋭い選球眼を持った紳士が二人、座っている。丁寧に柔らかい口調で先導され、面接が始まるが、投げ掛けられる質問はどれも中身がない。そして経歴に触れた瞬間、面接官の顔色が豹変する。止むことのない罵倒は、峯本の精神を真っ向から抉り、半壊させてしまうほど熾烈だ。耐え切れなくなった峯本は椅子を蹴り上げ、面接官を睨む。すると男たちは「殺人犯の目だ」などといって怯えたふりをする。
 そこで、いつも目が覚める。営利企業が不利益を生むような面接をするなどあり得ないことはわかっているのに、起きるといつも汗をぐっしょりかいていた。
「やっぱり俺、無理なのかな」
 ある朝、峯本はいった。工藤は納豆をかき混ぜているところだ。
「無理って、何が」
「就職」
 工藤はごはんに納豆を載せながら「そんなことないよ」といった。「大学時代の就活だって連戦連敗だっただろ? 内定もらえる確率のほうが絶対に低いんだから」
「でもあの時とは状況が違う」
「それはそうだけど、今は我慢強く就活を続けるしかないだろ」
 それから工藤の言葉を信じて就職活動に励んだが、一向に成果は出ず、一ヶ月以上が経過した。当然のように未だ就職先は見つからず、アルバイト先すら見つけられない始末だ。峯本は、途方に暮れていた。
 峯本は一縷の希望だけを持って工場のドアを開けた。ドアを開けると金属を叩く音や電動ノコギリが回る音で耳が痛くなった。峯本の訪問に気づいた何人かの作業員からじろじろ見られる。
「あの、工場長はどこでしょうか」
「工場長? ああ、あんたが今日面接に来るって話の」
レンチを峯本に向けながら若い男はいった。峯本を舐めるように見回すと仏頂面になったが、工場長を呼んで来てくれた。少し時間が空いたのは工場長が何か用事でもしていたのだろう。
「あんたですか。どうもどうも」薄い頭を撫でながら工場長は軽く頭を下げた。それに合わせて峯本も頭を下げた。
「これ、履歴書です」
「ああ、はいはいどうも」
 峯本から履歴書を受け取るとさっと目を通しただけで返してきた。峯本は眉間に皺が寄るのを自覚した。思わず工場長を凝視してしまう。
「ウチはみんな問題抱えとるんですわ。あそこで機械動かしてる男は二回痴漢で捕まってる。あっちで木材切っとるやつは万引きの常習犯や」
 それを聞いただけで、いや聞く前から感じていたことだがこの工場は何か異様な臭いがした。しかしひどく安堵している自分がいた。ここなら雇ってもらえるのではないか。後ろめたい過去を持つのが自分だけではないのだ。周りの目を気にする必要もない。
 ようやく居場所を見つけた。
「でもなあ」と工場長は笑顔でいった。「ウチは悪いやつばっかりやけど、人を殺した者は一人もおらんのですわ」
「俺は雇えないってことですか」
 ついムキになっていった。工場全体から冷たい視線が注がれていることに気がついたのはその時だった。犯罪に手を染めた集団から向けられる冷めた視線は妙な静けさを含んでいた。峯本は押し黙った。
「力になってやりたいのは山々なんですけどなあ。こんな悪いやつらでも人ですねん。犯罪に大小はないってよういうけど、やっぱり盗みと殺しではまったく違いますやろ」
「はっきりいってもらえますか」
「わかりました。ウチであんたは雇えません」
 不愉快だった。前科者をこれだけ雇っているというのに峯本は雇えないなど、殺人と盗みは違うなど、不条理ではないか。
「どうしてですか」
 ここで仕事を見つけられないのであれば、それこそ本当に行き場を失う。就職はおろか、アルバイトを見つけることすら夢のまた夢になってしまう。
「やっぱり一緒に働いてる仲間が気分よくないんですわ」
「なぜですか? あんたらも犯罪者だろ。俺だって同じだ。なのにどうして俺だけは一緒に働けないんですか」
 作業中だった何名かが手を止めて峯本に近づいてきた。男二人と女一人だ。揃いも揃って不潔な格好だ。
「あんた、うるせえ。面接終わったんならとっとと帰れ」
「納得できる答えをもらえたら帰るさ。でもどう考えたって理不尽だ」
 ふん、とさっきの男とは違う男が鼻で笑った。
「何が理不尽なんだ? あんたは自分で罪を犯したんと違うん。やったらいい訳なんてできひんやないか」
「それはあんたたちだって同じことだ」
「お兄さん」と女がいった。炭のついた頬を妖しく緩めている。「あなた、血の臭いがする。それだけで吐き気がするんよ」
 女の言葉が峯本の胸に突き刺さった。血の臭い、吐き気。悔しさを噛み殺して顔を上げると、薄情な顔がいくつも峯本に向いていた。
「お兄さん以外は誰も血の臭いなんてせん。ナイフで人を刺し殺したんやろ? あたし、その事件知ってる」
 女はつんと顎を上げ、凄むように鼻息を出した。
「まあ、そういうことなんですわ。もう帰ってください」
 峯本は憤怒の形相を浮かべて工場長を睨んだ。しかし工場長は勇んで睨み返してくる。男たちも同じだ。誰を見ても、後ずさるような気配はない。峯本が手を上げても、大勢の不良たちに囲まれてぼろぼろにされるだけだった。
 峯本の視線があの女の元にいくと、女とばっちり目があった。口を結んだまま女は顎をしゃくった。峯本はふと力を抜き、踵を返した。
 自分の罪の重さを、痛感させられた。俺からは血の臭いがするのか。俺を見ると吐き気がするのか。そんなに醜いのか。そんな自分に、存在価値などあるのだろうか。
 この際死んだほうが楽だな。
 そう思った。居場所も、存在価値も、仕事も、金もない。何にもない。ただ心残りなのは、工藤に何の恩返しもできていないことだった。
 ふっと峯本は笑った。
 そんなことを思えるほどに、まだ人の心は生きているらしかった。峯本は薄目をして、道路の様子を窺った。一台の自動車が見える。弱く笑うと、峯本はその場に倒れ込んだ。
 ブレーキ音が間近で聞こえる。「何してんねん」と怒鳴り声がする。
 峯本はのっそりと立ち上がった。
「どうして轢いてくれなかったんですか」
「はあ? どうして俺が兄ちゃんを轢かなあかんのや」
 窓に肘を掛けた男性は血相を変えて叫んでいる。本当に怒っているんだ、と思う。この男性が運転手じゃなかったら、自分は今頃死んでいただろう。タイミングを見誤ってしまった。
 すみません、と謝ると、気いつけや、といって走り去って行った。
 どうやって死のう。峯本はぼんやりとそんなことを考えながら歩いていた。服毒自殺を思いつき、薬局に立ち寄ってみたものの毒薬は市販されているはずもなかった。たとえ毒薬が売られていても買う金を持ち合わせていない。そんな虚しいことに気づいて失笑した。
 駅のホームから飛び込もうかと思ったが、切符を買えないのだ。アパートに戻って首を吊ろうか。しかしそれでは工藤に迷惑が掛かる。
 川にでも身を投げるか。そんなことを思いついた。しかし欄干に上ったところを通行人の男性に止められた。
 死にたくても死ぬことができない。これほど残酷なことがあるだろうか。不意に佐藤慶太の知り合いでも現れて、あの時のように自分を殺してほしいものだ、と峯本は嘆いた。

3へと続く……

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