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連載長編小説『破滅の橋』第七章 軌道修正と固めたい地盤1

    第七章 軌道修正と固めたい地盤

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 年が明けて一週間が経った。初めて祐里と過ごす年末年始はじつに充実していた。大晦日は、日付が変わる前から初詣に出掛けた。夜中だから人は少ないだろうと思っていた峯本だが、八坂神社に着いた時にはすでに長蛇の列ができていた。八坂神社は毎年こうなのだと祐里が教えてくれた。
 元日の夕方には祐里が実家に新年の挨拶をしに外出したが、峯本は行かなかった。峯本の存在を、祐里は両親に明かしていなかったからだ。
 祐里は正月休みを終え、一昨日から仕事に出ていた。底なしに明るい笑顔で家を出る祐里に触発され、峯本は昨日、有償ボランティアのため外出した。そこでの夕方、驚くことに瀬川とばったり会ったのだった。そして今日、峯本は瀬川と会う約束をしている。場所は嵐山だった。
 広沢のアパートから十五分で、嵐山に来ることができた。商店街をまっすぐ、渡月橋を目指した。そこが瀬川との待ち合わせ場所なのだ。商店街を抜け、交差点に差し掛かると、雪化粧の嵐山が視界いっぱいに広がった。今朝の降雪はやや激しいものだったが、それが功を奏したのだ。思わずうっとりしてしまう。
「良いマフラーだな」
 背後から声を掛けられ、振り返った。そこには今日の嵐山と似た色の頭髪をした瀬川がいた。峯本は、マフラーの端を持ち上げた。
「でしょ」
 今峯本が身に着けている紺色のマフラーは、年末に祐里が編んでくれたものだった。登山をして以来外出機会が増え、ボランティアでも外で作業をすることが多いからと祐里が編んでくれたのだ。長袖シャツにフード付きのトレーナーを重ね、その上にジャンバーを着ているだけなので雪の降る日の寒さには耐えられないが、首元からは全身に浸透していく不思議な温かさがあった。
 瀬川に連れられたのは着物屋だった。嵐山の商店街に店を構えていて、見た目は他の店と比べても見劣りすることは決してない。それも、店頭でマネキンが来ている朱色の着物と広げられた色鮮やかな扇子のおかげだろう。店内はどちらかというと明るめで、着物はもちろん、下駄や帯、簪などが並べられている。昨日瀬川に、「連れて行きたいところがある」といわれた時は、まさか着物屋だなんて思いもしなかった。
「ここに何を?」
 夏に浴衣を着て祭りに参加するイメージはあるが、こんな真冬に浴衣はまったく不要だ。着物はたしかに分厚いけれど、毎日着物姿で生活するのは苦しすぎる。
「ここはな、俺の店だ」
 予想外なことを瀬川はいった。思わず峯本はきょとんとした。
「先生の?」
「そうだ。俺の店だ。去年の春に、おまえに会いに行っただろ? その時、京都の雰囲気を好んでな。店を出したいと思ったんだ。子どもはいないし、家内も二つ返事で了承してくれた」
 なるほど、と峯本は首を浅く頷いた。中に入るよう促され、峯本は店内に進んだ。いらっしゃいませ、と女性の声がして、声のほうを見た。店員と目が合った瞬間、息が止まりそうだった。が、向こうはそうでもないらしい。
「ここでパートとして働いてもらってるんだ」
「……久しぶり」ぶっきら棒に店員はいった。
 店員は美智子だった。最後に会ったのは、十年ほど前だ。つまり峯本が事件を起こす以前の頃。
「久しぶり」
 美智子は他人行儀に頭を下げた。瀬川に先導され、店の奥へと進む。美智子はレジに座り、峯本と瀬川はその正面に立った。
「ここで働かないか」
 瀬川の言葉に、峯本は思わず目を見開いた。ゆっくりと美智子を見ると、峯本のほうは見ていなかった。
「良いんですか?」瀬川に向き直ると、美智子の様子をちらちら窺いながら峯本は訊いた。
 瀬川は頷いた。
「でも、河村さんが……」
 事件の後、美智子が自分に対して非難の言葉を口にしていたことは峯本も知っていた。それだけに、瀬川が自分を雇うことに、美智子は反対のはずだ。
「あたしなら、いいわよ」
 なぜ、と思ったが、呆気に取られてしまい何もいえなかった。
「どうだ峯本。ここで働かないか?」
「もちろんです」即答した。「働かせてもらえるなら、働かせていただきます。何だってしますから」
 ありがたかった。あれほど恵まれなかった職を、ようやく手にすることができたのだ。正直、これ以上の嬉しさを感じたことがなかった。
「俺も歳だから、峯本が仕事に慣れれば社長になってもらうつもりだ。そのつもりで働くんだぞ」
「でも、そんな……」
 社長だなんてとても申し訳なくて、ふと美智子に視線がいった。
「あたしはパート、峯本君は社員。べつに気にしなくていいのよ、そんなこと。だって――いいや、何でもない」
 口を噤んでからも、美智子は峯本を見ていた。美智子の目から語られることに気がついた峯本は、再び瀬川に礼を述べた。初めから、瀬川は峯本のためにこの着物屋を開業したのだろう。だから美智子も、初めから峯本と働くことは承知していたのだ。
 店は午後九時まで営業しているのだが、峯本は五時に帰ることになった。本格的に働き始めるのは明日からで、今日は何となく仕事の雰囲気を覚えてくれればいいということだった。五時とはいえ、冬の陽は短くすでに沈んでいる。商店街や大通りを歩いている間は建物の光で明るいが、アパートに近づけば近づくほど街灯は減り、路地が増える。畑や林が多いため薄暗く、一人で歩くのはどこか不気味だった。
 丸太町通りから路地へ折れようとした時、通りに面したカフェから祐里が出てくるのが見えた。彼女の後からは女性が出てきた。どうやら友達と会っていたらしい。スーツの上からコートを着ているから、仕事帰りの途中に友人とばったり会ったのだろう。友人と別れて向きを変えると、祐里は峯本に気づいた。驚き半分、嬉しさ半分といった笑顔を浮かべて小走りで近寄る。
「浩平君、何でいるん?」
「ああ、じつは――」
 就職が決まったことをいうと、彼女は瞼を伏せ、しばらく息を止めた。それを一気に吐き出すのと同時に、大袈裟に拍手をした。どこの会社かなどは訊いてこなかった。
「おめでとう。やっぱ、見てる人は見てるんやなあ」
 雇ってくれたのが高校の恩師だなんていえなかった。何となく、それをいうと呆れられそうな気がした。
 祐里はにやりと笑い、「私からもビッグニュース」といった。「友達がおめでたです」
 へえ、と小さなリアクションを取ってしまったが、内心ではすごく驚いていた。と、同時に、母になる喜びを祐里に感じさせてやれないのが悔しかった。
 帰宅すると、祐里が夕食の準備をしている間に母に手紙を書いた。以前倒れた時、母は息子が見舞いに来たと知ると泣いて喜んだ。定期的に手紙のやり取りをし、母は少額だが仕送りまでしてくれていた。手紙では母親らしいことを書いていても、実際に会話を交わせば殺人犯に委縮して、まともに顔すら見られないだろうと思っていた。だが母は、殺人犯の息子を、温かいその胸で包んでくれた。そして耳元で、「大丈夫。浩平なら大丈夫」と囁いたのだ。就職活動が難航していることはすでに伝えてあった。相変わらず父は峯本のことを許してはいなかったが、母は自分が説得するから、どうしても就職がだめなら帰っておいでと手紙にしたためていたのだ。その母に、就職が決まったことをようやく伝えられる。そう思うと、ペンを走らせながら涙が溢れた。
 思いの丈を綴り終えた時には、もう夕飯は冷めていた。しかしうまかった。

 翌日から、峯本は忙しなく働いた。一生懸命仕事を覚え、接客、営業、着物の知識を少しずつ吸収していった。美智子とは他愛もない話ができるまで関係を修復していたが、再会してから二ヶ月が経とうとしている今でも、なぜ峯本のことを許してくれたのかは聞けていない。
 祐里との会話も、仕事を始めた影響で減っていた。アパートを出るのは祐里よりも後のことが多いが、帰りは峯本のほうが遅い。だから夕食を一緒に食べる機会も減り、帰宅したら疲れてそのまま寝てしまうことがほとんどだから、会話はお互いの出勤前である朝だけになっていた。
 だから、休みの日は一日中会話をした。不思議なことに、一日中同じ相手と話しているのに、話題は尽きないのだ。そんな中、峯本はいった。
「今年の年末、旅行とかどうかな」
 祐里は目を輝かせた。
 これまで、住まいも、食事も、金銭も、すべて祐里から擦り取っていた。いつか恩返しがしたいと思っていたが、明日の光がなかなか見つからなかったのだ。今ようやく、自分の力で、祐里に幸福を与えてやれる。

2へと続く……

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