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【最終回】連載長編小説『別嬪の幻術』22

        22

 真綾の取り調べが終わったのは逮捕の翌日だった。真綾が全面的に罪を認め、自供したからだ。これから東京へと移送され、警視庁によって駒場敬一殺害事件の取り調べが行われる。その後真綾は殺人罪で起訴されるだろう。殺したのは三人……同情の声も少なくはないだろうが、死刑になる確率が高い。
 逮捕の後、野々宮は真綾の指紋を採取した。その指紋は茶封筒に残されていたもう一つの指紋と一致している。京都府警による家宅捜索では、真綾が晴人と住むアパートで育てられている十四株のシャガを押収した。また、犯行に使われたと思われるハンカチも発見されている。そのハンカチにはイリシンが染み込ませてあったという。これら証拠品についての検証も終了しており、ハンカチからは佐保と風見の血液が微量ながら検出された。吐瀉物についても一部付着が見られたという。これから駒場敬一の血液データとも照合が行われていく。間違いなく検出されるだろうというのが野々宮の見立てだ。
 殺人の動機については、僕の推理に間違いはなかった。母親の形見を見つけ、それを取り返そうと窃盗未遂事件を起こした晴人、弟を守るために組織の傀儡となるしかなかった真綾。佐保と風見に関しては独断で殺害したということだが、駒場敬一については乗金の指示だと供述している。乗金は殺人教唆の罪で逮捕されている。その他、佐保と風見の殺害現場だが、やはり捜査の目を月読神社に向けないため、それぞれ違う場所で殺害したという。その手口は共通していて、月読神社に向かうところで道案内を頼むというものだ。佐保を殺害した時は、駐車場に車が一台停まっていたのを利用して、車を出せなくなったから門を開けるのを手伝ってほしいと言い、駐車場に誘い込み、殺害。風見には、渡月橋への道順を教えてほしいと乞うたらしい。そして路地に誘い込み殺害。
 京都で起きた事件では、厄介なアリバイもない。真綾はやはり、月読神社の証拠を守るために祇園のキャバクラを無期限で休んでいた。東京で起きた事件のアリバイについても工作を認めている。しかし真綾は一つだけ譲らなかったことがあるという。それは「千代はアリバイを偽証していない」という点だった。駒場敬一の殺害、その後のレンタサイクルを利用したアリバイ工作については自分一人で行ったことで、千代に偽証を依頼してはいない。真綾は千代が自然に偽証してくれるよう操作したのだと言う。千代は何も知らなかった。自分に騙されていた。彼女はただ、事実を話しただけだと真綾は供述した。
 駒場敬一殺害事件でのみアリバイ工作を行ったのは、その日に限って東京にいたことを不審がられても問題ないように、ということらしい。逆に京都の事件でアリバイについて考えなかったのは、むしろそれが自然だと考えたからだそうだ。
「なぜこんな事件を起こしたのですか」と野々宮は最後に訊いたらしい。乗金の脅しをなぜ断らなかったのか、という意味だ。
「弟を守るためです」真綾はきっぱりと答えたという。「あたしが命を奪ってしまった三名の方には、本当に申し訳ないことをしたと思ってます。許されることではないとわかっています。死刑になっても、文句は言えません。ただあたしに後悔はありません。弟が……晴人がすべてやったから」
 真綾は胸を張っていたそうだ。目鼻立ちのくっきりとした可愛らしい目に涙を溜め、しかしそれをこぼすことはなかった。口を真一文字に結び、鼻を紅潮させ、顔全体を歪めても、やはり涙はこぼさなかった。強い女性だと野々宮は言った。
「俺が裁判長なら、彼女を助けてやりたいと思うくらいだ」
「捜査に私情は禁物なんじゃないのか」
「そうだ。だが中町真綾は殺人犯であっても悪党ではなかった。むしろ乗金久雄を死刑にしてやりたいくらいだ」
 でもそうはならない。法律とは、良くも悪くも法律なのだ。真綾が夢催眠で操られていれば、教唆犯にも同等の罪が科されたかもしれない。だがそんな事実はなく、真綾自身も否定した。そして乗金が指示したのは、駒場殺しだけだった。
「あの様子じゃ、中町真綾は警視庁で取り調べを受けた後、すぐに送検されるだろう。あとは弁護士が中町真綾を守り、検察が乗金を裁き切ってくれることを願うしかない」
 野々宮はいつかと同じように、京都駅の新幹線乗り場の改札をくぐろうとしたが、何かを思い出したように足を止め、引き返してきた。刑事は僕に、これから千代とどうするつもりかと訊ねて来た。千代がどれだけ真綾の犯行に加担していたのか、洞院才華とはどういう関係だったのか、野々宮にはすべて報告してある。僕は苦笑した。
「どうだろう。これから顔を見て決めるかな……。試合に勝って勝負に負けるとはまさにこのことだよ。何だか、いろんなものを失ってしまった気がするな」
「でも彼女を失うかどうかは、これからのおまえ次第だ。切り捨てれば何も残らない。望みを捨てなければ、また何かが始まるかもしれない」
 野々宮はいつまで経っても恋人などできないだろう。そんなことを思ったが、僕は何も言わなかった。軽く噴き出しただけだ。野々宮は柄にもない格言を残し、新幹線乗り場へと消えていった。

 地下鉄で今出川駅まで上り、道路に出た。今朝の予報では降水確率は極めて低いという予報だったが、微かに青空を覗かせながらしとしとと雨が降っていた。加茂大橋のほうに歩いていると、北山の空から灰色の大きな雲が押し寄せて来て、時雨れた。取り調べ中、決してこぼすことのなかった真綾の涙がようやく落ちたような、大粒の雨だった。僕は迷ったが、旅館で雨宿りすることにした。僕を認めた女将は渋面を浮かべたが、追い返すようなことはせず、廊下へと姿を消した。
 少しして、女将に連れられて洞院才華が姿を見せた。その傍に、千代もいた。どうして……と僕は思わず呟いた。なぜ洞院才華といるのかではなく、なぜ今ここにいるのかという意味だ。
「あらま、雨に濡れて。急に時雨れて来たさかい、築山はん傘持ったはらへんのやわ。貸したげまひょ」
 そう言うと洞院才華は一度姿を消し、ビニール傘を持って来た。洞院才華はもう一本傘を手に持っていた。千代に貸し出すのかと思ったが、彼女自身が下駄を履いた。千代も靴を履いた。どうやら洞院恭介の目を気にしているらしい。洞院才華は三人で旅館の外に移ろうと言った。
 三人は、雨で閑散とした鴨川沿いに移動した。千代は洞院才華の唐傘で相合傘をしている。僕と密着するのは、まだ気まずいらしい。僕もそうだった。千代の前で、どんな顔をしていいのかわからない。
 彼女は重大な嘘を吐いていた。だが犯罪者ではない。実際、逮捕は免れた。千代は駒場敬一の殺害が報じられた後、初めて真綾の行動を不審に感じたそうだ。真綾が今年の六月頃からシャガを育てているのを千代は知っていた。真綾の核心に迫ったところ、「もう千代は共犯者」だと言われ、真綾の東京での不審な行動について口を噤んだらしい。京都に戻って一ヶ月が過ぎ、同じくシャガを使った毒殺事件が発生した。千代はすぐに真綾の犯行だと悟り、何度も諫めていたらしい。僕が旅館の前で真綾と会った夜、あの夜も千代は真綾の蛮行を止めようとしていたのだと言う。それは真綾によって語られ、千代も間違いないと認めた。だから千代は、逮捕を免れた。千代の取り調べは柏原刑事が担当したが、真綾の言ったように、千代は事実を語っただけでありアリバイ工作に加担していたわけではないと判断された。
 重苦しい雰囲気に、水の音だけが反響していた。秋雨が傘を打つ音、鴨川が勢いを増し、下流に向かっていく音……その空気を切り裂くように声を発したのは、洞院才華だった。洞院才華は、千代がこれ以上研究には協力できないと申し出て来たことを打ち明けた。そのために千代は旅館を訪れていたのだそうだ。千代も、もう嘘は吐かないと誓った。
「せやから築山はん、千代のこと許したってくれやしまへんか。えろう反省もしてるんやさかい……堪忍したってえな」
 僕は迷っている。事件の真相を掴み、洞院才華が事件の加害者ではないとわかった時から、ずっと迷っている。千代は僕を裏切った。だが犯罪者ではない。それは警察の判断でもあった。彼女の両手は自由だ。
「真綾ちゃんは、千代を必死に守ったな……」僕は呟くように言った。「真綾ちゃんは取り調べの中で千代を警察に売ることもできたはずだ。あたしの共犯者でしたと。でもそうはしなかった。そんなことをしても誰の得にもならないと思ったからだろう。でもそれ以上に、真綾ちゃんが千代を守ったのは、僕と一緒にいる千代を見てたからじゃないかって、思ったりもするんだ」
 千代は涙ぐんでいる。真綾は意地でも涙をこぼさなかったが、千代は簡単に泣いた。でも僕は、彼女の涙が安いとは思わなかった。千代もこの二年、嘘を吐き通すことに苦しみを感じていただろう。少なくとも千代は、本気で僕を好きになって恋人になったのだから。
「嘘を吐かれていたのはショックだよ。それは今だってそうだ。特に僕が一番敵視してる、この憎くて憎くて堪らない洞院才華のことで嘘を吐かれていたというのが何より屈辱だった」
 だめだ――鎮まれ。だめだ……止められない。気がつくと、頬が熱かった。手の甲で撫でると、薄っすらと濡れた。雨に決まっている。僕は頭上を守る傘を見上げた。
「こんなにみっともない男がいるか? 僕は一人で踊らされてたのか? 僕はこれでも、千代を信用してたんだ。古都大の学生ではね。その千代に欺かれていたと思うと、気持ちを整理するには時間が掛かる。でも……たとえ僕が洞院才華の催眠下にあったとしても、この二年間は確かに千代と過ごした二年間だった。僕はなんとなく千代と付き合い始めたかもしれない。でも今はなんとなくなんかじゃないだろう? この二年、僕は千代と恋人だったんだ。それを否定するつもりはない。催眠下にあっても、僕は千代といると心が和んだ。催眠下であっても……。今となっては、踊る虚像を見ているようだがね。それでも僕は愛してる。千代……僕は君を愛してる。やり直そう。一から……今度は二人が、正真正銘愛し合って付き合おう。それが恋人だろ。僕のところに、戻って来てくれないか……」
 千代は足元に視線を落とすと、肩を震わせ泣いた。唐傘の下で立ち尽くしていたが、洞院才華に背中を擦られ、一歩踏み出した。僕の前まで来ると、千代はその顔を上げた。小さな口をきゅっと結び、鼻の下を伸ばすと口角を上げた。
 傘を捨て、千代を抱き寄せた。何か、今までとは少し違う感覚があった。それが何なのかはわからない。初めて、雨に打たれて気持ちが良いと思えたのだ。
「築山はんはようやらはったわ。この事件、解決できるとしたら築山はんしかおらんおもてたんどす。今度はうちが、頑張るさかい」
「頑張る?」
「事件は終わっても、やることは残ってるやろ? 天皇帰還説は、そら京都の人にしてみれば、願ってもないことかもしれん。でも今のやり方で実現しても意味なんかあらしまへん。計画は止めんとあかん。あの論文を書いた人間として、これは責任持ってやらんとねえ」
「そんなことができるのか? 相手はテロリストだぞ」
 洞院才華は形のいい唇を曲げ、茶色の瞳を柔らかく微笑ませた。うちならできますえ、と言い残し洞院才華はくるりと向きを変えた。彼女はぬかるんだ地面でも、慣れた足取りで歩いて行った。
 雨はしばらくやまなかった。北山の方角は、薄っすらと青空が覗いている。加茂大橋は依然雨に降られているが、遠くに虹が架かっているのが見える。あの虹が、これから下って来るかもしれない。僕と千代は、その虹が移動してくるのを待つように、じっとその場を動かなかった。

fin

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