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連載長編小説『破滅の橋』第三章 堕ちた偶像1 

第三章      堕ちた偶像

        1

 冷気が心地よいフロアを出て、むんむんと蒸されるような暑さの廊下を足早に歩いた。T字路を右に曲がり、訪問販売の列に並んだ。体内から蒸し出されていた不快な汗は、すっと影を潜めた。
 販売所では愛想のいい女性が二人、丁寧に接客している。その二人のほうへと枝分かれするのは自分の順番が来てからだ。だからまだ、列はひとつ。
 一人進んだ。
 それと同時に、小山尚美は腕時計に視線をやった。列に並び始めてからまもなく五分が経とうとしている。時計の針が進めば、当然休憩時間がその分過ぎたことになる。ほんの少しだけ損をした気になる。休憩時間も、人生の時間も。
「さすがに盛況やなあ」
 一緒に並んでいた同僚の未咲がいった。彼女とは同期入社で、職場も同じだからお互い迷惑を掛け合っている。ランチも、いつも一緒だ。
「まあ、週に二回の訪問販売だから。二日間は、奥さんをゆっくり寝かせてあげたいっていう旦那さんの配慮なのかも」
 尚美はいった。彼女の前にも後ろにも、大勢の男性社員が並んでいる。
「今時そんな良い旦那がいるわけないやろ。みんな愛想尽かされてるんやわ」
「そんな夢のないこといわないでよ」
 まだ独身の尚美にとって、結婚は大きな夢だ。昨年も一人、寿退社していったのだった。
 ごめんごめん、と未咲は苦笑しながら、「でもほんまやで」といった。
 ようやく尚美の順番となったのはそれから三分後だった。メロンパンとあんパンとカヌレ、それから紙パックのグレープジュースを買い、売り場を離れた。
 未咲は先に購入を終えていて、まだ続いている列から少し離れたところで尚美を待っていた。
 お待たせといいながら未咲のそばに立った。
「百合、まだあそこやわ」
 未咲の目線の先には後輩社員の百合がいた。百合も訪問販売の列に並んでいる。尚美は、未咲と百合といつも三人でランチをしている。百合は午前中に片付けてしまいたい仕事が少しだけ残っているのだといっていた。
 尚美は百合のところに引き返した。「先に未咲と行ってるね」
「尚美さん、わかりました。あたしのことは気にせんと先に食べといてください」
「うん、わかった」
 尚美はくるりと反転した。
 T字路の左、つまり訪問販売の先を直進するとまたT字路が出現する。ここを右に折れれば講堂となっていて、食事も可能だ。しかし尚美と未咲は左に曲がり、女性専用フロアに腰を落ち着けた。
 いただきます、と手を合わせ、紙パックにストローを差し込んだ。尚美はあんパンに手を伸ばし、はむ、とひと口頬張った。あんこの甘さが、疲労の溜まった舌を柔らかく包み込んだ。
「未咲はさ」と尚美はいった。未咲はいちごタルトを食べている。「まだ結婚の話はないの?」
 未咲には三年付き合っている恋人がいる。尚美はただ興味があって訊いた。
「うーん、出えへんな」
「早くプロポーズしてほしい?」
 どうやろう、と未咲は笑った。「最近どうでもよくなってきたかもしれん」
「どうして」
「うーん、結婚しても仕事を続けてると思うから、かな。仕事に不満はないし、むしろ働いていたい。それに、今の仕事を辞めた自分が想像できひん」
 未咲の言葉にひどく納得した。尚美も、今の仕事を辞めた自分を想像することができない。でも未咲のいう通り、結婚した後も働くことはできる。
「尚美は?」
 未咲がそう訊いたのとほとんど同じタイミングで、百合がやって来た。「何話してるんですかあ」と猫のような顔をしながら尋ねた。しかし百合の視線は百合の手元に向いている。
「尚美の恋バナ」
 未咲がいうと、百合はさっと目を輝かせながら顔を上げ、「尚美さん、彼氏ができたんですか」といった。おめでたい表情になって、「おめでとうございます」と拍手を始めた。
「できてない。百合、できてないから」
 百合は首を傾げた。
「できてないんですか? でも、未咲さんが……」
「恋バナっていったやろ。誰も尚美に彼氏ができたなんていってへん」
「なあんや」と百合は口を尖らせ、視線を落とすと紙袋から購入したばかりのパンを取り出してテーブルの上に並べた。
 それで、と未咲はいった。「尚美は? とっとと結婚したいわけ?」
 とっとと、だなんてぶっきらぼうな。とっとと結婚出来たら何も困らなくて幸せ全開なんだけど。
 尚美は首を捻った。
「結婚がしたい、っていうよりはさ、焦ってくるんだよね。あたしたちももう三十手前じゃん?」
 尚美が未咲と自分を交互に指差すと、未咲は知らん顔をした。
「お二人って、もう三十歳なんですか?」
 百合は眉間に皺を寄せて驚いた表情を浮かべている。彼女のいう、もう、という言葉の意味を尚美は推し量った。
 二人はまだ若く見えるのに、もう三十路を迎えようとしているのですか。あるいは、まだ結婚もしていないのにもう三十路を迎えようとしているのですか。前者であってほしいと願った。
「まだ、二十八や」
 未咲がどすの利いた声でいった。
 百合は固まったまま、少し遅れて頬を緩ませた。
「だったらまだまだ大丈夫ですよ尚美さん。三十まで二年もあります」
「二年しかないんだよ二年しか」
 未咲はいい。二年で十分だろう。すでに数年付き合っている恋人がいて、あとは彼次第だ。彼の気持ちが固まれば、覚悟さえしてくれれば結婚だ。しかし尚美には一秒たりとも付き合っている恋人がいない。これから交際に発展したとして、お互いを知り、認め合い……時間が掛かる。結婚は、早くとも三年、いや四年後だ。その時あたしは三十二歳。体型を維持している根拠もなければ自信もない。むくみもたくさん出ているかもしれない。やはり、ウエディングドレスは肌艶の良い二十代中盤に着ておきたかった。
 人生設計では、二十五歳で結婚しているはずだったのに。
 今目の前の百合が二十五歳だ。尚美も、三年前は百合のようだった。二十八歳の先輩を見ては、三十まではあと二年もあると考えていた。しかし尚美は変わってしまった。つくづくそう思った。
「この際高望みはしない。あたしを選んでくれるなら誰でもいい」それが本音だった。焦るが故の投げやりだ。だめだと思ってもそうなってしまう。学生の頃からそうだった。試験勉強をしていても、試験日が明日に迫るとどうにでもなれと自暴自棄になった。こういうところは何も変わっていない。
「そんなことないですよ。まだ三十まで二年あるんですから」
「ううん、百合もあと三年すれば今のあたしの気持ちがわかると思う」
 百合は小首を傾げて未咲を見た。「そういうものなんですかね」
「わからん」と未咲はいった。
「でも、尚美さんなら一人で生きていけそうな気がする」
 上目遣いで尚美を見ながら申し訳なさそうに百合がいった。慰めるつもりだったのだろうけど、特に何のフォローにもなっていない。でも、尚美もそんな気がした。一人で暮らしていくのであれば、現状維持で事足りる。会社さえ倒産しなければ何も問題はない。
「同感」と未咲が百合に一票入れた。「尚美には一人が似合ってる」
 それはそれで悲しかった。
「やっぱり」といって尚美は目を伏せた。「あの時に、恋の神様から見放されちゃったのかも」
「恋の神様って何ですか?」
 尚美は口を結んで、視線を落とした。
「恋の神様は恋の神様。空の上で見守ってくれてて、男と女を繋ぎとめてくれる」
「キューピットってことですか」
「そのさらに上の存在なんとちゃう? な、尚美」
 明確な定義などない。ただ恋の神様がいて、自分にはもう恋愛をする権利を与えてくれないのだと思っただけだ。尚美は笑って誤魔化した。
「ほんで、あの時って何?」
「たしかに気になります」
 好奇心を前面に押し出してくる百合を見て、逡巡した。恋の神様とはまるで違う、かけ離れた話だ。百合をじっと見つめて口を開くべきかを考えた。
 尚美が話すのを躊躇っていると、「あの時っていつですか」と百合が期待に満ちた目を向けていった。
 尚美は観念した。そもそも、誰かに話したくて、二人に聞いてもらいたくて、恋の神様などを作り上げたのかもしれない。
 滅多やたらに話すことじゃない。それはわかっている。だからこれまでだってほんの数人にしか明かしたことのない秘密だ。
「昔から、ずっと片思いしてた男がいるの」
 なるほど、と百合は相槌を打った。「すると幼馴染ですか」
「そう」尚美は頷いた。「その彼が、他界したの」
 気まずい空気に一変した。百合はどうにか取り繕おうと言葉を探しているようだが、見つけられないでいる。血の気の引いた顔を、申し訳なさそうにゆっくりと俯かせた。
 やっぱりいわなきゃよかった。そんな後悔が生まれた。
「彼は、病気で?」未咲が訊いた。
 ううん、と尚美は首を振った。「殺されたの。直接会ったこともない青年に」
 続きも話そうかと思ったが、やめた。これ以上続けると、尚美自身が壊れてしまいそうだ。彼は見知らぬ青年に殺された。そこまででいい。二人は知らないでいる権利がある。一方的に事の顛末を聞かされる義務はない。
「だからそれ以来まともな恋なんてできてない。恋の神様に見放されちゃったのかなーって」
 尚美は苦笑した。
「そんなことがあったなんてね」
「ごめんなさい」
「二人は何も悪くないよ。あたしが勝手に話し始めたんだから。それにもう、終わった話」
「でも、申し訳ないです」
「いいからいいから」
 尚美は百合の肩を撫でて顔を上げさせた。
「数年前までは、癒しを求めて年下の男と付き合ったりしたんだけどね」
 尚美が以前交際していた男性について、未咲は何人か把握しているからだろう、彼女は頷いた。
「癒し、ですか」と百合がいった。
「年下ってやっぱり可愛く見えるし、何でも許せる。でも、そんなのは最初だけだった。時間が経つと鬱陶しくなるだけ」
「昔愚痴ってたもんな」
 そうなんですか、と百合が未咲を見ていった。そうらしいわ、と未咲は答えた。
「何かあって、ちょっと怒るとすぐにしょんぼりされる。そういうのがね、見てると段々腹立って来るの」
 百合は微笑を浮かべた。少しずつ、空気が和んだ。やはりガールズトークには愚痴が欠かせない。盛り上げるための特効薬ではないかとさえ思う。
「それって、尚美さんの性格も災いしてるんじゃないですか」
「そんなことないでしょ」
未咲を見た。
 彼女はにっこり笑って頷いた。「あたしもそう思う」
 そんなことはないと思う。あれだけ面倒見てやっているのに、ちょっとやそっとでいじけてしまう男のせいだ。性格など関係ない。ただ、癒しを求めて散々甘えさせてしまったのは間違いだったのかもしれない。
 だから思い直したのだ。
「年下は懲り懲り」
「うん、そうしたほうがいい。やめとき」
「結婚するなら、ちょっと年上で、経済的にも人間的にも余裕のある人がいい」
 うーん、と二人は同時に唸った。
「もうちょっとこう、受け入れられる欠点を考えたほうが良いんとちゃうか」
「なんでよ」
「そんな漠然とした完璧な男は、この世界のどこを探してもおらん」
 そんなことはないと思った。きっとどこかに、そんな素晴らしい男性がいる。
「じゃあ、オフィスに戻ろうか」
 うん、といって紙パックを握り潰しながら立ち上がり、ごみ箱に放り込んだ。

2へと続く……

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