連載長編小説『破滅の橋』最終章 夜明けの灯火2-1
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「彼とは別れたほうが良い」井崎真平は腰を落ち着けるとすぐにいった。
祐里は、井崎がこれから話す内容を察していた。春乃の計らいで井崎と再会したのは三ヶ月ほど前のことだった。彼は京都府警捜査一課に所属する刑事で、祐里の幼馴染だった。その時は井崎に急用が入ってそのまま散会した。その時発生したのは殺人事件らしく、今も捜査中らしい。
祐里は顔をしかめ、井崎を睨みつけた。
「またその話?」重々しい溜息を祐里は吐き出した。
まっすぐ祐里を見据える井崎の表情は真剣そのものだが、彼の隣に座る春乃は心ここにあらずといった様子で、当てもなく視線を彷徨わせている。
「そう。またその話」
以前、春乃に峯本を紹介した時、彼女はなぜか彼に好感を抱かなかった。彼が少し離れると、別れることを勧められた。その後も春乃は釈然とせず、友人で警察官の井崎に相談したというわけだ。再会して、祐里が峯本の写真を見せた時、井崎は「どこかで見たことがある」といっていた。そして彼も、あまり良い感じはしないといって別れを勧めた。
「私は浩平君と別れへん」祐里は挑むような目で井崎を見た。「そもそも何で私と浩平君を引き離そうとするん? 浩平君の何があかんの?」
井崎の眉がぴくりと動いた。春乃も、目を見開いてこっちを見ている。その姿は、何かを打ち明けるべきか否かを逡巡しているように見えた。
「みんな私たちの邪魔ばっかり……。何がそんなにあかんの? 好きな人と一緒にいることがそんなにだめなん?」
「みんな?」と春乃が訊き返した。
祐里はひとつ首を縦に振った。それと同時に、島本の顔が浮かび上がった。
「ずっと私のことを好きっていってくれてる会社の先輩がいるんやけど、その人も私と浩平君のことによく口を挟んでくるねん」
「どんなふうに?」顔をしかめながら春乃は訊いた。目尻に何本も皺が入っていた。
祐里はふふ、と鼻で声を出して笑った。
「伊藤ちゃんの彼氏、二股してるんちゃう? とか、からかうようにいってきたりするんよね。嘘吐いてるのは見え見えやのに。ほんま、しょうもないわ」
「その先輩に彼の写真を見せたことは?」
ううん、と祐里は首を振った。「ないよ」
「じゃあ何で祐里の彼氏の顔を知ってるんや?」
だから、と諭すように祐里はいった。「嘘やからに決まってるやん。浩平君の顔を知ってるわけがない。私だって訊いたもん。どうして私の彼氏だってわかったんですか、って」
「そしたら?」食い入るように井崎は訊いた。
祐里は一拍置いて、いった。
「何、そんなに必死になって。怖いねんけど」
井崎はごめんと謝り、座り直した。
「それで、先輩は何て?」
「私と浩平君が一緒にいるところを見たって」祐里は島本に嘲笑を飛ばした。
しかし井崎は、刑事の顔になっていた。本当に、取り調べを受けているような気分になった。
「もし本当に二股掛けてたら、どうする?」
「ちょっと、突然どうしたん」窘めるように春乃がいう。困惑しているらしく、井崎と祐里の顔を交互に見ている。
祐里は、井崎の目を見返した。井崎の腹の内を探ろうとしたが、さすが刑事だ。まるで何を考えているのかがわからなかった。
しばらく見合い、祐里は噴き出すように笑った。
「浩平君がそんなことするわけない」そういい放ち、祐里は真顔になった。「百歩譲ったとしても、彼がそんなことをするとは思えない」
そうか、と井崎は弱々しくいった。しかし、まだ引き下がるつもりはないらしく、再び口を開いた。
「祐里の先輩は何か証拠を持ってなかったのか。たとえば写真とか」
「証拠は何も持ってなかったよ。あるはずがない」
「じゃあ彼が一緒にいた女性の特徴とかは?」
「髪の短い女の人っていってたけど、そんなことはどうとでもいえる。それに先輩は、きっと私が髪を短くしたのが浩平君の影響やと思ってる。だから推測で髪の短い女の人だっていったんやろう」
井崎はしばらく黙り込んだ。春乃が何か話し出すかと思ったが、彼女は口を噤んだまま一切体を動かさなかった。
少しして、仮に、と井崎はいった。「もし彼が二股を掛けていたとしたら祐里は別れるか」
井崎は祐里の大きな瞳を覗き込むように見た。
祐里は、左右に首を振った。
井崎は溜息を吐くとジョッキを口元に運んだ。生ビールをひと口飲むと、春乃のほうを向いた。春乃は虚ろな目で井崎を見返した。
二人は何やら頷き合うと、目を閉じて祐里のほうに向き直った。
「彼について少し調べてみた」
えっ、と思わず声を漏らした。驚くのと同時に、今日の飲み会の趣旨を悟った。彼についての調査結果を初めに切り出さなかったのだ。あまり良い報告ではないのだろう。そう思うと、突然目の奥に気怠さが圧し掛かった。
「もちろん潔白であれば府警内でいくら調べたって何も出てこない。だが彼は出てきてしまった」井崎は鞄から何やら資料を取り出した。「彼は、峯本浩平は、過去に人を殺してる。犯罪者やった。だから俺たちは彼と祐里が交際を続けることに反対する」
目が泳ぐのを自覚しながら、祐里は差し出された資料と井崎を交互に見た。
資料を受け取ると、なぜか落ち着いた。彼と出会った時のことを思い出し、当時彼が纏っていた異様な雰囲気を知ることができたからだろうか。自分でも驚くほど冷静なまま、資料にある峯本の顔写真を見ていた。彼の頬に、人差し指をそっと沿わせた。
しかし俯いた目からぽとりと涙がひとつ落下した。祐里は素早く天を仰いで洟をすすった。正面を向くと、なぜか井崎が泣きそうになっていた。自分が彼の過去を暴いておきながら。その横で、春乃はあっけなく泣いていた。
「あー、こんなことやろうと思った」目を血走らせ、声を震わせ、掠れさせながら祐里はいった。
もはや誤魔化しなど利かないというのに、彼女は笑ってみせた。
「だから何やねん。殺人犯だって、悪魔だって、魔王だって、何だって浩平君は浩平君なんやから。私の決めた、最も信頼できる人やから。誰に何といわれようと、私は浩平君の本当の姿を見てきた。きっと何かどうしようもない理由があったから人を殺しちゃったんやわ。平気で人を殺すような人じゃない。それは私が一番知ってるし、大事なのは過去じゃない。今や」
祐里は問いかけるように井崎を見つめたが、彼は目を逸らして決して同調しなかった。
祐里の目から、またひとつ涙が流れた。それを見た時、不意に井崎の目からひと筋の涙が流れ落ちた。
2-2へと続く……