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【最終回】連載長編小説『破滅の橋』最終章 夜明けの灯火7
7
解錠してドアを引くと、何かが突っかかった。おや、と思いながら祐里はもう一度ドアを引いた。しかしドアは開かない。
もしかして、施錠し忘れていただろうかと思い祐里は鍵をまた鍵穴に入れた。それを回すと、何なりとドアは開いた。
玄関で靴を脱ぎながら、祐里はもやっと違和感を覚えた。リビングに入って買い物袋をテーブルに置くと部屋中を見回した。寝室にも、トイレにも、どこにも彼の姿はなかった。ただひとつ、テーブルの上に手紙が置かれていた。
祐里は、俺の希望だった――。
祐里はそれを掴むと無我夢中で駆け出した。その文字を見ただけで、いったい彼が何を企んでいるのかを彼女は察した。
まだそう遠くには行っていないはずだと思った。祐里はアパートの周りを何周も走って峯本を探した。しかし姿はなかった。
梨沙に連絡して、工藤に応援を頼もうと考えたが、いや、と祐里は思った。それはだめだ。彼の失踪を知れば、工藤は必ず取り乱す。やはり彼を見つけ出せるのは自分しかいない。
彼の携帯番号に電話を掛けたが繋がらない。何度か掛け直したが、繋がらないので諦めた。祐里はとにかく足を止めずに彼の行きそうな場所を探した。
しかしどこへ行っても彼の姿はなかった。血眼になって捜索したが、しんしんと夜が更けてきた。街の明かりもまばらになってきた。
彼を失うのではないかと心のどこかで考えているはずなのに、今祐里はそれを考えられるだけの余裕はなかった。ただずっと、「大丈夫、もう一度会える」と彼女は強く信じていた。
ふと彼から告白された日のことを思い出した。あの日は二人が結ばれた日であり、峯本が誰かに赦された日でもあった。彼にとって、あの日は特別な日なのだ。あの日彼が用意したケーキには「今までありがとう」とあった。それはこの日を暗示してのことだったのではないか。
もし彼が自らの命を絶とうと考えるなら、きっとあの橋を選ぶに違いない。祐里は確信した。タクシーを拾い、行き先を告げた。窓から見える月が、急げといっている。大丈夫。まだ彼は生きている。絶対に会える。
祐里はくたくたの足で山を駆け上った。暗がりのせいで足元が見えない。月明りも、ひどく頼りないものだった。何度も躓き、何度も手をつき、すでに止まってしまいそうな足を励まし、祐里は走った。
六合目を捉えたところで、祐里は木の根に躓き、よろけて尻もちをついた。すぐに立ち上がろうとしたが、足が麻痺したようにいうことを聞かなかった。感覚も、もはやなかった。疲労とじわじわ広がりつつある霜焼けが、祐里の体を追い込んでいる。
祐里は森閑とした山道にぽつんと座ったまま、孤独な金切り声を発した。木の幹に背を預けると唐突に睡魔が祐里を襲った。視界がぼやけてもうだめだと思った時、視界の端で火の手が上がるのが見えた。
祐里は思わず飛び上がり、疲れを忘れて全力で走った。あそこにいるのは間違いない。浩平君、と祐里は名前を呟いた。
六合目を過ぎたところで祐里は順路を逸れた。崖に出ると、橋が両側から燃えていた。その中央に、彼が座っている。
バチバチと火が音を上げる中、彼は祐里に気づいて立ち上がった。祐里は息を呑んで駆け出した。
「来るな」
峯本が叫んだ。祐里はその声で一瞬足がすくんだ。しかしゆらゆら頭を振りながら、祐里は一歩ずつ橋に近づいていった。火の熱気が、祐里の体を包んでいく。熱さなどに、何の苦しみも感じなかった。
祐里、と峯本は呟いた。「俺に……俺におまえを殺させないでくれ」
「もう一度、浩平君に会いたいって思ってん」
「だったらもう帰れ。今ならまだ間に合う。ここで死ぬのは俺だけで十分だ」
違うよ、と祐里はいった。祐里を睨む彼の目が、炎で赤く燃えていた。祐里は峯本の手を取った。今なら彼を連れ戻せる。駆け戻ろうとした時、橋が揺れてカタカタと音を鳴らした。
燃えた橋板が、深い谷底に落ちた。
祐里はそれを見て思わず目を見開いた。振り返ると、峯本が罪悪感に押し殺されそうな、今にも泣き出しそうな顔で俯いていた。もう、崖に飛び移れるような距離ではなかった。飛べば待つのは死だ。
反対側の橋板も、落ちていた。火の手は、二人のいる中央に迫ってきている。
祐里は、彼の顔を見据えた。彼女の表情に怖気づいた様子は微塵もなかった。
「もう、引き返すことはできひんよ」祐里は、峯本の腰に手をやった。燃える橋の上で、彼女は笑った。「もう、橋を渡っちゃったんやから」
「祐里……」峯本は手で顔を覆った。「本当にすまない。俺と出会ったばっかりに」
ううん、と祐里は首を横に振った。「浩平君と出会ってからが、私の人生で一番楽しい、幸せな時間やった」
峯本はうん、と頷いた。
「俺も、祐里と出会ってから物凄く充実した人生だった。空っぽだった俺に、祐里は光と希望を与えてくれたんだ」
祐里はポケットから峯本が残した手紙を取り出した。それを見ると、彼は恥ずかしそうに笑った。
祐里は真剣な表情になり、また一歩峯本に近づいた。彼の手を握ると、祐里は上目遣いにいった。
「いつか、焼け死ぬのだけは嫌って話したよね」
彼は冷たい手で祐里の手を握り返した。
「そんなことを……いったかな?」
「いったわ。いつでも死ぬ覚悟はできてるけど、焼け死ぬのだけは絶対に嫌だって」祐里は微笑を浮かべた。
「でも俺はそれを選んだ」峯本はひどく澄んだ目を祐里に向けた。「これでいいんだ。俺は、大悪人だ。苦しんで死ぬべきなんだ」
祐里は首を振った。
「苦しみながら死ぬなんて、私がさせへん。焼け死ぬなんて、私がさせへん」
でも、と峯本は歯切れ悪くいった。
「私が一緒に飛び降りてあげる。私も焼け死ぬなんて嫌やから。浩平君と一緒なら、思い切って飛べる」
「他に道はないもんな」涙を堪えるように彼は目元を歪めた。しかし一切の淀みがない、清々しい声だった。
祐里は頷いた。橋板は、すぐそこまで剥がれ落ちていた。あと数分もすれば、二人は橋と共に火だるまだった。
峯本は祐里の肩に手をやると頷いた。祐里の心はすでに決まっていた。
二人は抱き合った。「祐里の好きな時に飛ぶんだ」耳元で彼がそう囁いた。わかった、と答えると祐里は思い切って身を投げた。峯本と抱き合ったまま、真っ逆さまに風を切った。
恐怖のせいで閉じていた瞼をゆっくり上げた。峯本は祐里のことをまっすぐ見つめていた。彼が微笑むのと同時にぐっと体が締め付けられるのがわかった。
ふと、体温が上昇した。
彼は何やら呟いた。風切り音に遮られ、彼のその声は聞き取れなかった。しかし彼の唇は確かにこういっていた。
愛している――。
嬉しさが込み上げてきた。しかし涙は出なかった。祐里もぎゅっと彼の体を抱いた。
凄い勢いで落下している。深い谷底は、すぐ目の前に迫っていた。今も燃え続けている橋の火が、夜明けの深淵を照らしていた。
それはまるで、この世と訣別する二人のことを歓迎している光のように思えたのだった。
fin