連載長編小説『別嬪の幻術』21
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野々宮から連絡があった。僕の仮説は、一つ裏付けが取れた。あとはもう一方の報告を待つばかりだ。それで証拠は揃うだろう。だがすでに、真犯人は明らかになった。野々宮も、東京からの連絡を待って、犯人逮捕に動くという。
僕は二限が終わると、千代を連れて古都大生行きつけのカフェに入った。ハムカツサンドを注文し、それを食べながら野々宮の報告を待った。「話がある」と言って連れ出したのに僕が何も話さないので居心地が悪いのか、千代はマスターが淹れてくれたカフェオレに口をつけようとしない。膝に手を置いたまま、虫の悪そうな顔を伏し目がちに下げていた。いつもなら千代のほうから会話を切り出して来るような状況だが、彼女は口を噤んだままだ。もしかすると、真綾から僕が千代のことを疑っていると聞いているのかもしれない。何も話さないのは、下手に口を滑らせないためかもしれない。今となっては徒労に終わるのが目に見えてしまったが……。
野々宮から電話があったのは、正午を過ぎて三十分ほどが経った時だった。テーブルの上で、僕のスマートフォンが点灯した。バイブ音に、千代が身を震わせる。表示された名前を見たのかもしれない。そんな千代を横目で窺いながら、僕は電話に出た。「どうだった?」
「おまえの思った通りだ。写真を送っとく」野々宮はほっとしたような口調で言った。すでに逮捕状の発行手続きが行われているのだろう。
「そうか。御苦労さま」
そう言って、僕は電話を切った。野々宮がメールに添付した画像ファイルを確認して、千代を見た。
「千代、ここに洞院才華を呼んでくれるか」
「洞院……なんであたしが?」
「もういいよ。千代の家で彼女を匿っているのはわかっている。千代と彼女の関係性についても把握してる。二人は幼稚園の頃からの幼馴染なんだろう。どうして黙ってた?」
千代は上唇を噛むように、鼻の下を伸ばした。「それは……」と声を震わせて呟いたが、二の句が継げない。まさか僕に、嘘を見抜かれる日が来るとは想定していなかったのだろう。千代は答えない。
「まあいい。この話は後にしよう。とにかく洞院才華をここに呼んでくれ。彼女にも聞いてもらわなきゃならない話だ」
「話って何?」
「事件のことだよ。犯人がわかったから」
千代を見据えて僕は言った。千代ははっと目を見開いた。戸惑うように「えっ」と声を漏らし、頬を強張らせた。千代は初めてカフェオレに口をつけた。洞院才華にはこの場にいてもらわなくてはならない。そう言い聞かせ、千代に洞院才華を呼び出させた。何なら僕が千代の実家に電話を掛けてもよかったが、千代は遂に折れた。
洞院才華が到着するまでの間、千代はなぜ二人の関係を知っているのかと訊いて来た。この後の質問にすべて正直に答えるのであれば、最後に教えてやると僕は答えた。千代はごくりと唾を飲み込んで、瞳孔を震わせた。
洞院才華がカフェに到着すると「犯人がわかったって、ほんまどすか。築山はん……」と開口一番彼女は言った。お昼時で腹が空いているらしく、洞院才華は念願のハムカツサンドを注文した。千代の隣に腰掛けたせいか、彼女の顔色が悪いことには気づかないようだ。走って来たのか、薔薇色の頬は深みがかっている。息を整えようともせず、茶色の瞳は食い入るように僕を見つめていた。
僕はコーヒーをブラックのまま喉に流し込んだ。唇を舐めると千代を見た。「千代、白状するか?」
千代は一つ大きく息を吐き、僕を上目遣いに睨んだ。困ったような顔をしながらも、口元には微笑を浮かべている。だがそれもぎこちない。
「そうか。わかった。じゃあ僕の口から話そう。洞院さん、東京で起きた駒場敬一殺害事件、京都で起きた佐保殺害事件、風見殺害事件、この三つの事件は一人の人間の手によって引き起こされている。そしてその犯人は、中町真綾だ」
「中町……?」
洞院才華がその名前に覚えがないのも無理はなかった。僕は洞院才華に頷き掛け、千代を見た。千代の親友だと言うと、洞院才華は眉間に皺を寄せた。狼狽を隠せない千代の横顔を見て、ようやく彼女の顔色が悪いことに気づいたらしい。
「なんで真綾なん……」テーブルに両肘をつき、涙に濡れる顔を両手で覆うと、千代は声を絞り出した。その理由を、彼女はすでに知っているはずだ。
僕は洞院才華を見た。
「順を追って説明しよう」店員がハムカツサンドを洞院才華の前に運んで来た。僕は一度口を噤み、ブラックを啜った。一つ咳払いをして、続けた。「まず君の失踪事件だ。これはすでに突き止めたように、東京でデモを繰り返していた駒場敬一を天皇帰還説に関わる誰かが殺してしまい、今後の計画について話し合っていたところ、殺人の証拠となる音声を君が録音して、丹羽裕人達に突き付けた。その証拠を警察に突き出すと言うと、君は別館に軟禁された。問題なのはそこからだ。君は証拠品をすべて複製しておいた。それは丹羽達によって揉み消されないようにするためだ。でも彼らは君を放っておくはずはない。だから自分の身に何かしらの危害が加えられることを見越して、今堀君に頼んで自分から連想できる、しかしそれほど目立たない神社を隠し場所に選んだ。それが月読神社だった。そして親しくしていた佐保にだけ、その在処を教えていた。君が口を割らない以上、丹羽達は自力で証拠を見つけ出すしかない。まさか幹部の娘を拷問に掛けることはできないからね。そのために何十人もの人間が京都中を探し回っただろう。そんな中、一味のうちの一人が月読神社にたどり着いたんだ。僕が発見した時、封筒は開封されていた。ところが中身を持ち去られた形跡はなく、証拠能力を維持したままその場に戻された。この不可解な行動も、僕は今証明することができる。だがそれは少し後回しにしよう。結論から言えば、犯人は――真綾ちゃんは、証拠を見つけたくなかった。でも誰よりも早く見つける必要があった。だから月読神社にたどり着き、中身を確認して、その後同じ場所に戻しておいたんだ。そして月読神社に近づく人間を見張り、証拠を持ち出そうとする者を抹殺した。それが佐保と風見の事件だったわけだ」
「でも支持者の中に中町真綾いう名前はなかったえ」
僕は頷いた。
「真綾ちゃんは支持者じゃない。君の調べに漏れがあったわけじゃない。でも天皇帰還説の幹部は真綾ちゃんのことを把握していた。なぜか。それは真綾ちゃんに殺人の指示を出したのが幹部の人間だったからだ。その幹部というのは乗金久雄だ」
「乗金はん?」
「そうだ。乗金久雄が真綾ちゃんに殺人を指示した。そして真綾ちゃんは東京に赴き、駒場敬一を殺害した」
「ちょっと待って――」
アリバイがあると千代は言いたいのだろう。僕はそんな千代を手で制した。千代は息を呑み、何か言いたげなまま引き下がった。
「二人の関係性もすでにわかっている。真綾ちゃんが乗金の指示を受けて殺人事件を起こすきっかけとなったのは春先に起きた乗金宝商での窃盗未遂事件だった。この窃盗未遂事件の犯人は真綾ちゃんの弟、中町晴人だったんだ。君の話によると、犯人は学生だという話だった。その学生という曖昧なところから、僕はさらに絞り込むことにした。もう半年も前のことだから、目撃者の記憶も薄れているかもしれないが、衣服なら、視覚的に記憶している可能性は高いと考えた。そう、制服だよ。制服か制服じゃないかというだけで大学生か中高生かを区別することはできる。野々宮からの報告では、窃盗未遂事件の犯人は制服姿だった。つまり中高生。学生と一括りにされるような体格なら、高校生である可能性が極めて高い。中町晴人は高校二年だ。次に問題になるのが、なぜ乗金が警察に届けなかったのか。乗金は、若者の将来を奪わないためだと言ったそうだね? でもそれは真っ赤な嘘だ。建前だよ……。乗金には警察に届けられない理由があった。中町晴人はなぜ窃盗未遂事件を起こしたのか。それは乗金宝商にあるものが置かれていることを知ったからだ。それは大きな砂金を塊にしたネックレスだった。そのネックレスは晴人の母、中町綾子が生前夫から贈られた手作りのアクセサリーだったからだ。正真正銘一点物の、中町家の形見であり、宝。その宝が綾子の死後病院側の不手際で紛失していた。でもこれは病院側の不手際ではなかった。病院内で窃盗事件が起きていたんだ。綾子はガシーヌの被験者だった。癌自体は完治したけど、その後副作用による心不全で他界した。ガシーヌの副作用については君もよく知ってるだろう? そして同じ被験者として、当時乗金は古都大病院に入院していた。彼は副作用の影響を受けたが、死は免れた。今もペースメーカーをつけて生活している。もうわかっただろう? 中町晴人がなぜ乗金宝商に盗みに入ったのか、そして乗金がなぜ警察に届けなかったのか」
洞院才華はハムカツサンドに手をつけず、神妙な面持ちで首を縦に動かした。冷めてしまうともったいないので、僕は食べながら聞くことを推奨した。しかし洞院才華は一口齧っただけで、すぐにパンを皿に置いた。
「弟が窃盗未遂事件を起こし、当然姉である真綾ちゃんには連絡が入った。たぶん乗金が直接連絡したんだろう。晴人の保護者は真綾ちゃんだから、迎えに来てもらう必要があった。乗金はそこで警察には届けない旨を話し、真綾もそれを受け入れた。だが当然、乗金に正義がないことは真綾ちゃんもわかっていた。晴人は中町家の宝を取り戻すために警察に突き出されてもいいと言ったかもしれない。乗金を道連れにできるなら、窃盗犯になることくらい何でもないことだと。だが晴人は真綾ちゃんのすべてだ。弟が捕まればこれまでの自分の苦労は水泡に帰す。弟を大学に入れ、立派な大人に育てる。それこそ自分の使命だと思い、自分よりも弟を優先してきた真綾ちゃんにとって、弟が逮捕されないのであれば、それに越したことはなかった」
千代は唇を舐めながら、下を向いている。僕はコーヒーで喉を潤した。長々と話し続けることに慣れないせいか、痰が絡む。咳払いの後、僕は続けた。
「それから少しして乗金から真綾ちゃんに連絡があった。東京で起きているデモ、その中に皇室批判をする小隊がある。そのリーダーである駒場敬一を見せしめに殺せ、という具合に。たぶん真綾ちゃんは断ったと思う。でも乗金は弟の窃盗未遂事件を警察に届けると脅したんだろう。真綾ちゃんにとって弟がすべてだということがわかっていたんだ。真綾ちゃんにしてみれば、弟が犯罪者になるくらいなら、自分が殺人に手を染めるほうが余程いいと考えた。殺人に手を染めたくはない。でもやるしかない。そんな葛藤が、真綾ちゃんにシャガを選ばせたんだろう。シャガには「抵抗」という花言葉がある。それから東京に行く機会を窺っていた。僕の帰省に合わせて東京観光に行く千代のことを知り、真綾ちゃんはそれを利用することにした。弟のために一円でも多く貯金して、旅行とは無縁だった真綾ちゃんが突然東京旅行について来た理由はそれだったんだろう?」
僕は千代に問いかけたが、彼女は洟を啜るだけだった。
「その後例の会合が行われ、君が軟禁された。証拠を見つけた真綾ちゃんだが、その証拠の中身を見て、これを組織に渡すわけにはいかないと思った。組織の手に渡ればテロ計画の証拠が消される。しかし警察の手に渡れば天皇帰還説の関係者が駒場を殺したことが明らかとなり、乗金の証言で自分が逮捕されてしまうかもしれない。だから真綾ちゃんは証拠を持ち去らず、しかし月読神社に証拠を回収しに来る人間を殺害し続けた。乗金への抵抗の意味を込めて」
でも、と呻くような声を千代は発した。「でも真綾にはアリバイがある。東京の事件のアリバイ、証明してんのはあたしと栄一やん。真綾はあの日あの時間明治神宮にあたしといた。永田町で殺人なんかできるわけない」
「その通りだ。でも僕は、千代のインスタを見てある違和感を抱いた。それは千代に比べて真綾ちゃんが汗だくだということだった」
「九月二日やん。三十度超えてた。汗くらいかくやろ」
「もちろん。でも真綾ちゃんの汗の量は尋常じゃなかった。相当激しい運動の後だったんじゃないか」
千代は押し黙った。僕は構わず続けた。
「アリバイについて、確かに僕は証言者の一人だ。あの日あの時間、僕は千代とテレビ電話をしていた。そこに真綾ちゃんは間違いなく映っていた。でも真綾ちゃんは途中から映り込んできたんだ」
「あたしが電話してんの知って、ひょっこり顔を入れただけやん」
「それまで真綾ちゃんはどこにいたんだろう?」
「すぐ横や。電話してんねんから、横にいるやろ」
「本当はその場にはいなかったんじゃないか」
「どういうこと?」
「真綾ちゃんは駒場を殺して明治神宮に向かっているところだった。頃合いを見計らい、千代は僕とテレビ電話を始め、真綾ちゃんはいかにも隣にいて、電話に顔を出したと思わせていたかもしれない」
「何の証拠があってそんなこと……。永田町から明治神宮まで移動しようとしたら三十分掛かるんやで。あの日栄一と電話してたんは――」千代は素早くスマートフォンを操作した。画面をこちらに突き付けた。「十六時十五分。事件の起きた十五分後やで。どうやって十五分埋めるんさ」
「三十分の移動時間は電車移動なら、だろ」
「でも京都から新幹線で東京行って、他に移動手段なんかないやん」
「中道を使えば明治神宮まで三十分も掛からずに行ける。真綾ちゃんは大量の汗をかいていた。それは千代の撮影した写真が証明してくれる。つまり車移動ではない。都内のレンタカーの利用記録を調べてもらったが、真綾ちゃんの名前はなかった。もちろん、千代の名前も」
「当たり前や。まさか永田町から明治神宮まで走って来たとかあほ抜かすんちゃうやろな」
「現地で調達できるのは車だけじゃない。僕は野々宮に頼んで、都内のレンタサイクルの利用履歴もすべて調べてもらった。記録が残っていたよ。中町真綾、九月二日の利用履歴が」今度は僕が千代にスマートフォンの画面を向けた。そこには野々宮から送られた画像ファイルが表示されている。「自転車なら、永田町から明治神宮まで約二十分、飛ばせば十五分で到着する。自転車を飛ばして来たのなら、あの大量の汗も腑に落ちる。それに何より、自転車は車と違ってその場に乗り捨てることができる。真綾ちゃんは自転車を全速力で漕ぎ、明治神宮に着くのと同時に自転車を乗り捨て、そのまま僕と千代のテレビ電話に割って入った。すっかり騙されたよ。あの時千代は明治神宮の鳥居をバックにして、他の角度にカメラを向けようとはしなかった。それは角度によっては真綾ちゃんが乗り捨てた自転車が映り込む可能性があったからだろう。これで真綾ちゃんのアリバイは崩れた。京都の事件についても、真綾ちゃんにアリバイはないようだ。洞院さんが軟禁されてからというもの、祇園には出ていないみたいだからな。つまり午後八時頃のアリバイが真綾ちゃんにはない。それはなぜか、月読神社を見張る必要があったからだ。そして僕が証拠を発見回収し、それを知った真綾ちゃんは、今日からまた祇園に出る予定でいた。千代――真綾ちゃんのアリバイ工作に加担したこと、認めるかい?」
「……今は何も言いたくない」
「それはどういう意味だ?」
「あたしが共犯者になるんやったら、それも仕方ないと思う。でも今は真綾を信じる。真綾はあたしを裏切るようなことはしいひんって思うから。だってあたし……真綾のこと止めようとしたんやもん。あたしがアリバイ工作に加担したって気づいた時には遅かったんやもん。あたし、何も知らんと真綾のアリバイの証人になってて……」
千代は嗚咽を止められず、しばらく過呼吸状態が続いた。マスターが来て紙袋をくれたが、それを使うことはなかった。洞院才華が千代の背中を擦っている。そんな中、野々宮から着信があった。
出ると、真綾が大人しく同行に応じたとのことだった。これから指紋の照合や家宅捜索などが行われるようだ。真綾はすでに自供しているとのことで、それを千代に伝えると、彼女は泣き崩れた。声を上げて泣いた。子供みたいに。店の迷惑になるのでカフェを出ようとしたが、マスターが落ち着くまでいて構わないと言うので、僕達はそれに甘えることにした。一人二人と、客が店を出ていく。それを尻目に、マスターは千代に水を用意した。洞院才華がそれを飲ませ、十分以上の時間が掛かってようやく落ち着いた。千代は化粧がそれほど濃くない。だが薄い化粧でもそれが剥がれてしまったことが、目を見れば一目瞭然だった。涙袋がヨーロッパによくある国旗のように三色の縦縞模様になっていた。
落ち着きを取り戻した千代に、僕は人差し指を立てた。
「一つだけわからないことがある。どうして千代は、洞院さんとの関係を僕に隠していたのか。この際すべて話してもらいたい」
千代は目元を拭い、一瞬僕を見たが、またすぐに目を逸らした。その様子を見て、洞院才華が「ほなうちが……」と自分の胸を押さえた。千代はまた一筋の涙を頬に流した。
「千代には協力してもろてたんどす」
「協力?」
洞院才華は頷いた。「うちの研究を」
「研究っていうのは夢催眠?」
洞院才華は頷いた。「築山はんはうちの研究の研究対象どす。千代に協力してもろて、築山はんの様子を報告してもろてました」
言葉が出ないとはまさにこのことだった。僕は今、目の前の京美人が何を言っているのかまったく理解できなかった。僕が研究対象……何を言っているのか。寝言だろうか。千代が不可解な行動を見せていた覚えはなかった。……そこまで考えて、はっとした。
まさか……。
千代は僕のアパートに泊まると、決まって僕より後に寝て、僕が起きると彼女も起きていた。そして泊まりに来る時は、必ずイヤホンを持参していた。AIスピーカーを見たことはないが、僕が寝てから取り出していたのかもしれない……。
「いつから……。いつから僕は研究サンプルに?」
「入学した、ちょっと後」千代が答えた。
まさか、僕は洞院才華の研究サンプルとして操られ、千代の恋人になったというのか。確かに僕は千代に熱烈に惹かれて交際を始めたわけじゃない。ただ何となく、彼女といると心が和んだ。だから恋人になったのだ。操られていた……だと?
「ちゃうのん」洞院才華が否定した。「ほんまはもっと前から……。初めて築山はんとおうた日。高校生の夏の……」
古都大学のオープンキャンパスに来た日だ。その日僕は洞院家の旅館に一泊している。僕の部屋に料理を運び込む役目を彼女が担っていた。
「あの日築山はんはうちに惚れてしもうたんどす。築山はんは優秀な人やさかい、古都大に受からはるやろうことはわかってた。せやから、前々から興味のあった夢催眠の実験をしてみようおもたんどす。あの夜うちは、築山はんがうちを嫌うよう暗示をかけたんどす。結果は、築山はんも知る通り……。黙ってたこと、堪忍しておくれやす」
千代も頭を下げた。
僕はあの夜のことをよく覚えている。洞院才華を一目見て、確かに美しい人だと思った。恋愛感情とは別にして、素敵な人だと思ったし、好意的だった。だが一晩経ち、チェックアウトした後、彼女に勧められたように鴨川を歩き、騙されたと思ったのだ。それで京都人の意地の悪さを思い知り、その代表が洞院才華だと思って来た。同じ大学に入り、僕を差し置いて天才の名を欲しいままにする彼女を憎く思って来た。だがそれも、すべて彼女に操られてのことだったというのか……。
認めない。認めたくない。だがしかし、ぐうの音も出なかった。僕は震える指先でコーヒーカップを持ち上げた。コーヒーはすっかり冷えていた。少し酸味が強くなっただろうか。舌がぴりっと痺れた。
22へと続く……