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連載長編小説『滅びの唄』第三章 教団清樹 1

第三章      教団清樹

「誰? ……あなた、名前は?」
 彼女はふらふらとおぼつかない足取りで最初杉本が彼女の姿を認めた場所に戻った。そして腰を下ろして質問を投げてきたのだった。
「杉本……」
 敬語を使うべきかどうか、決めかねている内に杉本の声は空気中に消えた。最初にいた場所に移動する彼女を追い、しかし未だ拭えぬ恐怖もあって、杉本は距離を保ちつつ彼女に近づいた。
 彼女の表情を窺い見ることができる距離で、杉本は膝を地面についた。上から見下ろされるよりも、自分と同じ目線の高さで会話したほうが彼女も安心するはずだと思った。
「スギモト……下の名前は?」
「……凌也。杉本凌也」
「リョウヤ君か。同い歳くらいかな?」
 杉本は改めて彼女を見た。一言で彼女を言い表すなら「不潔」だ。白の長袖シャツはやはりよれていて、もう何日も取り換えず、洗濯していないことが一目でわかった。グレーのスウェットは広い範囲に砂埃を被っていて、パーカーの汚れも目立つ。髪は短いが、まるで砂でシャンプーしたみたいにかさついていて、後頭部の辺りなんかは寝癖が固まって奇妙な盛り上がり方をしていた。
 ただ、そんな身なりに似つかず、肌には艶がある。砂を被った不潔な彼女の見た目からは意外なほど、白く美しい。
「俺は、今年で二十五になる」
「やっぱり私と同じ歳だ。……ハハハ、私も今年で二十五歳」
「ところで君の名前は?」
「ジュリ」
 彼女は名乗ると、しばらく杉本のほうをまっすぐ見つめた。その時初めて、彼女がくっきりと綺麗な二重瞼であることに気づいた。瞳はアーモンド型をしていて、丸々と大きい。そこには生来の愛嬌が含まれている気が杉本にはした。
「あれ? 昔は名前を言うとみんな驚いたんだけどな」
「苗字は?」
「森岡」
「じゃあ君は、ソプラノ歌手だった森岡珠里?」
「知ってるんだ。それより、だった、って、ハハハ。今もだよ?」
 森岡珠里の返答に杉本は絶句した。文字通り、驚きのあまり言葉を失ったのだ。そして何より、戸惑った。今目の前にいる彼女は、二十年前の火災で亡くなった森岡珠里その人なのだ。見たところそれを証明する物は持ち合わせていないようだが、杉本にはわかる。人間離れした、高い歌声。静寂に凪ぐ空気を一瞬にして張りつめるその音圧、圧迫感、迫力。どれを取って見ても、森岡珠里以外には考えられないのだった。
 ただ、焔に呑まれて亡くなった歌姫がなぜここにいるのか。体は透けているところがなく、地に足がついている。肌の白さはちょっと幽霊に見えなくもないけれど、人間として特異なほどの白さじゃない。
「ちょっと、何してるの?」
 杉本は森岡珠里の手を握っていた。白い手は恐ろしく冷たい。しかし空過などせず、確かに物質的にそこに存在する。森岡珠里の高い声と、彼女の冷たい手の温度で杉本は我に返った。
「冷たい手だね」
杉本は彼女の手を握ったまま言った。
 森岡珠里が口元を緩めたのが、僅かな月明りでわかった。彼女は座ったままぐるりと頭を動かした。
「ハハハ……当たり前でしょ。ずっとここにいるんだから」
「ずっとって、家には帰らないの?」
「家? そんなのないよ」
「じゃあ一晩中ここに?」
「ハハハ……。一晩じゃ済まないよ? もうずっとここにいるから。どうしたの、突然手に汗なんかかいて。今日は涼しいのに」
 杉本は森岡珠里の手を握るのをやめた。じんわりと広がった汗が、闇の中で枯れた。まるで夜風に薬品でも混ぜられていたように。しかしその薬品も、額から流れた汗には効果がなかったらしい。頬を伝い、顎から滴った汗は砂上に滲んだ。
 杉本は一瞬迷って、訊いた。
「ずっとっていうのは、あの火事のあった時から?」
「ああ……火事。ハハハ……。火事。燃えてた。この辺も、みんな」
「その火事のあった日から、今日までずっとここにいるの?」
「ううん、ハハハ……。違うよ、十年くらい? ここに来て、十年くらい。私、二十五だから、十年。ここに来たのは、火事から十年経った年。そのくらい。でもあまり覚えてない、ハハハ……」
 十年前といえば杉本が中学三年の時だ。この劇場で歌声の噂が囁かれ始めた時期と一致する。伝説の歌声の正体は森岡珠里だったのだ。それも霊的なものではない。人間の、生身の人間の歌声。やはり劇場を取り巻く噂はただの噂ではなかった。
 自分の主張が証明されて杉本は舞い上がった。
「生活はどうしてるの。ここじゃ水も電気もないし、雨風は凌げないだろう」
「私にはヒーローがいるの。いつも私を助けてくれて、親切にしてくれる。あの日から、ずっと」
「あの日っていうのは?」
「さっきまで話してたじゃない。ハハハ……」
「火事のあった日?」
 森岡珠里は小さく頷いた。それと同時にぶるぶると体を震わせた。辛い記憶を思い出したせいかもしれない。
「ごめんね」と杉本は謝ったが、彼女の震えはあまりに長い間収まらなかった。杉本はジャケットを脱ぎ、彼女の肩に掛けてあげた。
 シャツ一枚になると、随分と寒かった。夜も深まり始め、気温がぐっと下がっていたのだ。辛い記憶を思い出させたわけでないことを知り、杉本は安堵した。明日の朝は冷え込むかもしれないなどと考える余裕すらあった。
「どうして謝るの?」
「いや、何でもないよ。気にしないで」
 暖を取れるものが何かないかを考えていると、祖母にもらったライターを思い出した。ライターはジャケットのポケットに入れていた。杉本は森岡珠里に羽織らせたジャケットのポケットからライターを取り出した。
「それは?」
「寒いから、火があれば少しは温まるかなって」
「ああ、そういうこと……」
 杉本はライターの蓋を開け、慣れない手つきで火を点けた。ぼわっと、赤い炎が燃え上がり、森岡珠里の頬をピンク色に染めた。彼女は火を見つめ、しばらくして杉本の顔を見た。
「やめて……」
「どうして、温かいだろう?」
「やめて、やめて! いいからやめて!」
 杉本は慌てて蓋を閉めた。森岡珠里はひどく震えている。炎に焦げた視界のせいで彼女の顔はまったく見えない。しかしそれでも、彼女ががたがたと体を震わせていることはわかった。
 寒さではない、と杉本は思った。怯えているのだ。炎に、火に、あの日自らの目の前で猛威を振るった、死人を出した焔に。
 何かが喉に詰まったかのように彼女の呼吸が荒くなっていく。ぼんやりと浮かぶシルエットが前屈みに蹲った。それと同時に地面と足を擦らせる弱々しい音が聞こえた。
 杉本はわけがわからなくなってその場を離れた。気がつくと自宅アパートの玄関にいた。鍵を開けて部屋に入り、ふと立ち止まる。彼女はあの後どうしただろうか。悶える女性を置き去りに、逃げ帰りながら図々しいと思いつつ、杉本は森岡珠里を心配した。
 冷蔵庫を開けると、新品の牛乳パックが目についた。それを手に取り、エコバッグに詰める。台所の端にある食パンも手に取った。ライターをテーブルに置くと、杉本は再び劇場に向かった。
 すでに午後十一時になろうとしていた。がらがらに空いている電車に揺られながらふと冷静になると、いったい自分は何をやっているのだろうと思った。逃げ出したのに劇場に戻ろうとしているからではない。わざわざ差し入れを準備しているからでもない。ただ単に、こんな時間に行く必要もない場所に向かっていることに恐ろしくなった。そして同時に馬鹿らしくもあった。
 明日も仕事だ。いつもなら半分寝かかって、うつらうつらとしているというのに。
 ただ――夕方の祖母の話に影響されてか、杉本は彼女の元に戻ることを使命のように感じたのだった。
 劇場の敷地内を進むと、森岡珠里はもういなかった。さっきまで二人が座っていた場所を確認したが、杉本のジャケットすら置かれていない。牛乳パックと食パンを並べたが、歌声どころか物音すらしない。瓦礫に囲まれて木々のざわめきを聞くのは身に応える。背中に悪寒が走った。
「珠里ちゃん、珠里ちゃん、さっきは悪かった。お詫びにパンと牛乳を持って来たから、食べておくれ」
 周囲を見回しながら杉本は叫んだ。市道から見える自分の姿を想像すると戦慄したが、幸い歩行者はいなかった。
 ややあって、森岡珠里はかまくらの中から姿を見せた。やはりここが彼女の生活スペースなのだ。瓦礫が積み重なり、雨風を凌げるかは甚だ疑問であるが、人目は避けられそうだ。外に出てくる彼女を見ながら、杉本はかまくらではなく祠のほうが相応しいと感じた。それは杉本が、彼女の歌声の神聖さを知っているからだろう。
「どうして?」
 彼女は言った。月明りに伸びる影が重なって彼女の顔は見えないが、杉本は置き去りに逃げ帰ったことを責められている気がして、ただ謝ることしかできなかった。
「違う。パンと、牛乳……。どうしてわざわざ?」
「君に、悪いことしたと思って……」
 森岡珠里はくるりと向きを変えた。表情は窺えないが、反転したことだけはわかった。祠に戻り、そしてまたすぐに彼女は出てきた。月明りに照らされた顔は、笑っていた。
「これ、さっきはありがとう」
 森岡珠里が差し出したのは杉本のジャケットだった。杉本は一度帰宅したのに、上着も着ずに再び外出したのだった。しかし彼女に咎められている気がしてか、寒さはなく、むしろ服の内側は火照っていた。
「これぐらい、何でもないよ」
「パン、一緒にどう?」
 翠風荘から劇場に直接来たこともあって、杉本はまだ夕食を摂っていなかった。あまり食欲はないが、パン一つくらいなら食べられそうだった。
「さっきのこと、赦してくれるの?」
「リョウヤが初めてだよ。私を見て逃げなかったの」
「でもさっき……」
「あれは逃げたんじゃない。取り乱した私が悪かったの、ハハハ……」
 彼女の過去を鑑みず、目の前で火を灯したのは軽率だった。どう考えても自分が悪い。謝ろうとした杉本に、森岡珠里はパンを差し出した。それで杉本は、「ごめんなさい」でなく、「ありがとう」を口にしていた。
「私もありがとう。わざわざパンと牛乳なんてもらっちゃって」
「生活はどうしてるの? 食事もそうだし、風呂とかトイレとか、収入も」
 森岡珠里は牛乳を一口飲んだ。
「生活は全部ヒーローが賄ってくれてる」
「ヒーローって、さっき言ってた?」
「そう。二ヶ月に一回来てくれて、食料とか簡易トイレを調達してくれる。うーん、でもお風呂はないから時々飲料水で全身を流してる、ハハハ……」
「食料とか全部を負担するなら住まいも提供するか、自分の家に住まわせたらいいのに……」
「それはできない。私がここを、出られないから……」
「出られない?」
「うん。パパとママが、ここにいるから。ハハハ……」
 杉本は何も訊かなかった。森岡珠里もそうだが、彼女の両親である森岡鉄平と森岡真弓もまた、焔に呑まれて亡くなったとされている。森岡珠里は生存しているが、彼女の口振りから、両親は共に亡くなっているのだろう。
「ご両親が……」
 何と声を掛ければいいのかわからず、杉本はただ呟くことしかできなかった。森岡珠里の両親が亡くなっていることは、彼女自身よく理解しているはずだ。パパとママがいると口にしながら、彼女のアーモンド型の瞳は浮世離れしたものを見ているようだった。杉本達他人には見えない亡くなった両親の姿が彼女には見えているのかもしれない。
「だから、ハハハ……、ここを出られないの」
「それはたとえば、俺が君を抱き抱えて劇場を離れようとしても無理なことなのかな」
「君って……、さっきは名前で呼んでくれたじゃない。珠里って呼んでよ。同世代の人からはもうずっと名前なんか呼ばれてないから、ちょっと憧れてるんだ。それも男の子から下の名前で呼ばれるって、何だか嬉しいから」
「名前に関してはわかった」珠里と呼ぶだけで満足してもらえるなら簡単な話だ。「それで、俺の質問の答えは?」
「無理じゃないかな。やったことないけど、わかる。私は死ぬまでここを離れることはできないんだよ。それが運命なの」
 杉本は腕捲りをして、珠里の手を握った。生涯灰の劇場を離れられない運命など、杉本の背負った使命で覆してやろうと思った。珠里は冬の寒空に凍える小枝のように細い。華奢で、その上身長も低い。彼女の頭は杉本の胸元に届いていない。抱き抱えるのは造作もないことだ。
 手を取って立たせた珠里は軽かった。
 が――。
 珠里の腰に手を回し、抱き上げようと踏ん張った瞬間、彼女は鉛のように重くなった。杉本は一瞬で生気を失い、顔面は蒼白とした。ほんの一瞬の出来事で、息が荒くなった。噴き出す汗が止まらない。地面についた膝が、がくがくと震えて体勢を保っていられなかった。
「パパが怒っちゃった。リョウヤ、謝んなよ。パパ、リョウヤのことキッと睨んでる。殺されちゃうよ?」
「殺される? 珠里のお父さんに?」
 杉本は呼吸を整えながら周囲を見回した。何もない。真っ暗な闇の中に瓦礫が転がっているだけだ。深呼吸をした弾みに、睫毛に載っていた汗が鼻の頭に落ちた。
「本当に! 早く謝んなよ、殺されちゃうよ!」
 杉本はわけもわからず地面に額をつけた。「ごめんなさい」
 謝ると、刹那頭を踏みつけられるような鈍痛が走り、しかしその後すぐに呼吸は正常に戻った。
 珠里は牛乳をくれた。
「よかった……、ハハハ……。パパ、落ち着いたみたい。リョウヤのこと、赦してくれた」
「どういうことなんだ……」
「だから言ったじゃない。私はそういう運命なんだって」
 運命などと一言で片づけられるものか? 今杉本の身に起こったことは超常現象以外の何物でもないだろう。まさか珠里の言うように、彼女の両親の亡霊がここに存在するとでもいうのか。
「このこと、珠里のヒーローは知ってるのか?」
 珠里は両手を夜空に向けた。「さあ、どうだろう? 十年前に初めてここに来た時、帰り際に私がどうしても劇場を離れられないって言ったら、すぐに信じてくれて」
「そんなオカルト――ああいや……そんな奇妙な話、珠里のヒーローはすぐに信じたのか?」
 そう言って、一人思い当たる人物がいた。珠里との会話を反芻して、やはり彼女は口にしていた。その名前を。
「信じてくれた。私のヒーローは私の話ちゃんと聞いてくれるから。だから私をここに留め置いて、定期的に援助に来てくれるんだよ。私を助けようとした人はリョウヤが初めてだから、まさかパパがあんなに怒るなんて考えられなかったから。ハハハ……、ちょっとびっくりした」
「珠里のヒーローって、……高瀧、さん?」
 彼女はまるで曲芸を見て驚き感嘆するように口をすぼめた。
「高瀧さんのこと知ってるんだ」
「この前偶然コンサートに行ってね」
「じゃあリョウヤ、清樹の会員さんなんだね」
 杉本ははっきりとかぶりを振った。株式会社清樹のコンサートには一度足を運んだだけで、胡散臭い宗教団体の会員などと火あぶりにされても見なされたくはない。
「でも高瀧さんのこと知ってるんでしょ? だったら会員でしょ? 高瀧さんは、会う人みんなを魅了しちゃうから、そんなのおかしいよ」
「俺は会員じゃない。向こうから入るよう頭を下げられても断るよ。珠里は会員なの?」
 珠里はううん、と首を横に振った。
「私は会員さんとはちょっと違う。でも高瀧さんを慕う気持ちは会員さんと同じ」珠里の瞳が、月明りの夜空の下で微かに翳った。「大火事を引き起こした、その、呪われた私の声を、浄化してくれたから。ハハハ……」
「呪われた声って……」
 杉本が聴いた珠里の歌声は美しかった。力強く芯を持った、そして何より清らかで、ふと耳にした者を虜にする、特別なものだ。その歌声は高瀧によって作られたというのだろうか。では彼女と高瀧が出会った時、彼女の歌声は荒んでいたのだろうか。かつて日本中の話題を一身に集めた歌姫のその声を、高瀧が浄化したというのか?
「高瀧さんが助けてくれなかったら、私きっと死んでた」珠里は自分の喉を指差した。「ここから腐って行って、怪物みたいな悲鳴を上げながら、やがては全身が溶ける。焔に呑まれるようにね」
「そんなわけないだろ。どうしてそんなことに――」
「なるんだよ。私、滅びの唄を歌っちゃったから……それで天罰が下って、劇場も燃えちゃった。パパもママも死んじゃった。呪いに苦しむはずの私を、高瀧さんは助けてくれたの」
「それは何……、超能力とか、そういう力を高瀧さんは持ってるってこと?」
「当たり前じゃない。高瀧さんは選ばれた人間なの。人間以外の動物とも心を通わせられて、木々とも対話するんだから。高瀧さんと清樹のことは知ってるのに、高瀧さんの力は知らないの? リョウヤ、おかしいね」
 思い切り馬鹿にしたかった。嘲りたかった。哀れみたかった。
 しかし珠里のあまりにまっすぐな瞳を見ていると、腹の底から悔しさと苦しみが痛々しくせり上がって来た。珠里でなかったら、心底軽蔑しただろう。高瀧の超能力はもちろん、その他の超常現象だってこの世には存在しない。そんなものを信じ込んでしまうのは心に隙があるからだ。でも珠里は違う。二十年前に亡くなったとされ、人目を避けて生きてきた。だから無垢なのだ。無垢で純潔なその瞳に、美しく白い顔に、軽蔑を向けることはできなかった。
 珠里の言うように、おかしくなってしまいそうだった。
「滅びの唄は、超能力じゃないの? だってその唄を歌ったから、火事が起きたと思ってるんだろ? もしそういうことにするんだったら、珠里だって超能力を使えるってことじゃないか?」
「それはわからない」
「どうして? 珠里自身のことだぞ」
「だってあの日以来、口ずさむことすらないんだから。ハハハ……。それにもう、歌わない。怖いから」
「呪いなんてないさ」
 珠里が滅びの唄をもう歌わないというのなら、歌わない理由が恐怖なら、呪いを否定しても構わないと思った。杉本は彼女の手を握った。
「あるんだよ。十年前にここに来るまで、私唄なんて歌わなかったもの。でも高瀧さんに呪いを解いてもらって、パパとママに謝りに来たら、少しは許された気がして、パパもママも私の歌声が大好きだって言ってくれるから、ちゃんと許してもらえるように唄を歌うようになったの。でもやっぱりあの唄だけは、思い出すのも苦しいの。どうして? それは呪いが掛かってるから、あの唄を歌えば、何もかも破滅してしまう」
「破滅なんかするもんか」杉本は逡巡してから、続けた。「明日からは俺がいる」
「また来てくれるの?」
 珠里の目が嬉しそうに光った。まるで月光を反射したかのようだった。分厚い雲が晴れて夜の濃淡がはっきりしていく時のように、杉本は彼女の目の輝きに安心した。
「もちろん。怖くて歌えなくたっていい。俺はただ、珠里の歌声が呪われてなんかないことを証明したいんだ」

2へと続く……

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