見出し画像

連載長編小説『滅びの唄』第四章 心酔 3

 時々雨粒が窓に当たる。梅雨も黎明期へと入り、最近は晴れ間が出ることも多かった。しかし今日は、朝からしとしとと雨が降り続いている。湿度は高いが、気温は二十度を下回っていて過ごしやすい。窓の外を眺めると、また傘を広げた歩行者が増えてきた。少し雨足が強くなったようだ。
 そろそろ帰宅しようかと杉本は考えていたが、もう少し様子を見ようと思った。
 祖母のほうに振り返ると、さっきまでと同じように天井を仰ぎ、すうー、すうー、と息をしていた。今日の祖母は、元気がなかった。
 千鶴によると最近祖母は屋外に出ようとしないらしい。今日は今朝から雨が降っているため中庭は閉鎖されているが、祖母は午前中に屋内をゆっくり散歩したらしい。これが晴れの日も同じで、屋外に出る機会はぐっと減っているとのことだ。すでにS市では何日も夏日を観測しており、杉本としても無理をさせたくはないので屋内での運動に反対するつもりはない。が、祖母には明らかに衰弱したところが見られた。最も顕著なものは、今日杉本が持参した羊羹だ。いつもなら杉本が差し入れたその瞬間に包みを解こうとする。しかし今日は、未だ手を付けようともせず、テーブルではなく棚の写真立てと並んで置かれているのだった。そんな羊羹に、杉本は虚しさを覚えた。
 水を入れ、祖母に飲むよう促した。起き上がり、口を潤した祖母は案外健康そうに笑った。ベッドに身を預けている時よりも背を立てている体勢のほうが楽なのか、座ったまま「ありがとう」と言った。祖母の様子を見て、杉本は、今日は話さないでおこうと考えていたことを話すことにした。
「少し前に、高瀧って人のコンサートに俺が行ったこと覚えてる?」
「覚えてるよ、珍しいこともあるもんだって、話してたじゃないの。珍しいことは忘れないものよ」
「調べてみるとあの高瀧って人、十年前から定期的にS市でコンサートを開いてたんだよ。十年前だったらまだじいちゃんが生きてた時だろう? じいちゃんは亡くなる直前まで劇場への散歩を欠かさなかったんだろう? もしかしたらじいちゃん、高瀧って音楽家のこと知ってたんじゃないかと思って……」
 祖母は水を食べるように口を動かしながら飲むと、少しして頷いた。
「じいちゃんは高瀧さんのこと、知ってた。えらく嫌ってたけどね」
「嫌ってた?」
「そうよ、しょっちゅう文句を言ってたわ」
「しょっちゅう? 高瀧が――あっ、高瀧さんが初めてS市でコンサートを開いてからじいちゃんが死ぬまで、そんなに時間はなかったんじゃない?」
 祖母は口元の皺を深くしながらかぶりを振った。
「ところで、突然高瀧なんて人のことを訊き出してどうしたの?」
「ああ、いや……。森岡珠里が生きてたって話はしただろ? それで、彼女についていろいろ調べていたら高瀧さんの名前が出てきて、どんな人なのかなあって。ほら、俺一回コンサートに行っただけだし」
「はあ、森岡珠里ちゃんね。本当に生きててよかったわ」
「それで、しょっちゅうっていうのはどういうこと?」
「あれは火事からそんなに時間が経ってなかった頃だと思うんだけど、じいちゃん、散歩から帰ったらえらく怒っててね。どうしたのって訊いたら、劇場でふざけた格好をした若者がコンサートをしてて腹が立ったって。じいちゃんは、森岡珠里ちゃんを喪ったあの劇場で変な格好で音楽を楽しむ若者に腹が立ったのね」
「その若者が高瀧さんってこと?」
 祖母は頷いた。
 火災からそんなに時間が経っていないということは、そのコンサートは少なくとも火災発生から一二年後のことだろうか。そこに高瀧がいた……。しかしそれでは高瀧の話と食い違う。高瀧が初めてS市の劇場でコンサートを催したのは珠里を凱旋させた十年前、その記録は資料室にも残っていた。
「それって本当に高瀧さん? 二十年近く前ってことは、確かに高瀧さんは二十代の若者だけど、あの劇場であったコンサートの記録はちゃんと残ってて、高瀧さんの名前が記されてるのは十年前からだよ」
「たしかじいちゃんが言ってたのは、学生達が集まってコンサートを開いてたみたいだって。遠くから見ただけでも出演者は何人かいて、その内の一人がふざけた格好をしてたって」
 なるほど、と杉本は思った。資料室に残るコンサートの記録には、コンサートの題名、演目、出演者人数、主宰者の名前が記されているだけだ。つまり当時の高瀧は主宰者ではなかったために、出演者の一人として雲隠れすることが可能だったというわけだ。しかしなぜそのようなことをする必要があったのだろう。
「それ以降は? コンサートはその一回切り?」
「いいや、何度かあったみたい。その内高瀧さんが主動になっていったんだって。じいちゃんはコンサートのことをちょっとだけ調べて、憤ってたわ」
 高瀧は若い頃は海外に拠点を置いていて、S市に来る余裕はなかったと話していた。それも嘘だったというわけか。それは記録として高瀧の滞在が残されていないから吐ける嘘だった。その嘘を、祖母の記憶が暴いたのだ。
 珠里との出会いをはぐらかした高瀧にはやはり懐疑的な点が多い。なぜS市でコンサートを開いていた過去を隠そうとするのか。
「憤ってたって、たとえば?」
「当時は高瀧さん、海外で活躍した音楽家だったみたいだけど、じいちゃんは認めてなくてねえ。その高瀧さんのホームページに書かれている木々との対話なんてのをばあちゃんに見せて、こんなものあり得るはずがないって乱暴に話したり、コンサートのチケットは一般販売がなくて会員限定で、鎖国的なのがいかにも怪しいって批判したりしたわ。そうそう、チケットに関してはね、S市でのコンサートだけは無料らしいの、劇場の形が残っていないからお客さんにお金を出してもらうのは気が引けたのかもしれないけど、じいちゃんは S市が見くびられてるなんて憤慨してねえ、でもチケットは無料なのに劇場に行けば高額の物販が販売されていて考えが矛盾してるって怒って、大変だったわ」
 杉本は苦笑するしかなかった。
「じいちゃんの気持ちはよくわかる。でも、ちょっと烈し過ぎるね」
「そういう時代を生きて来たからね。仕方ないわよ」祖母は楽しそうに笑った。「でもやっぱり一番嫌ってたのは服装ね。ばあちゃんは見たことがないからよくわからないけど、袖とか裾が長くて、占い師みたいでいかにも胡散臭いって」
「それはじいちゃんの言う通りだ。俺もまったく同じように思った」
 占い師とは的確だと思った。高瀧の衣裳が白ではなく黒だったら、杉本も一目見て占い師のようだと思ったかもしれない。ただ高瀧の袖と裾が長い衣裳は白く、そのせいで杉本は、占い師ではなく石油王のようだと感じていた。しかし今では、高瀧は占い師にしか見えなかった。
 千鶴が入って来た。快活に笑う祖母を見て、彼女は安堵を滲ませた顔を緩めていた。
「他にもねえ、あの劇場でコンサートを開くのは話題作りだろうって軽蔑してた。焼け跡の劇場でわざわざコンサートを開くなんて悪趣味な野郎だって」
「えー、誰の話してるんですか?」
 杉本と祖母の顔をちらちら見ながら千鶴は訊いた。
「高瀧さんよ。凌也がどんな人なのか気になるって言うから、じいちゃんの話していたことを聞かせてるの」
 千鶴の顔が曇った。「高瀧って、清樹の?」
「そうよ」
「旦那さんは清樹の教祖様が嫌いだったんですね、ちょっと聞こえちゃって。清子さんは旦那さんのお話を聞いて、どう思ってたんですか?」
「そうねえ、特に何とも思わなかった」祖母が笑うのと同時に千鶴は破顔した。「世の中にはいろんな人がいるからねえ、そういう、木々と対話できるって言う人がいても別にだめだとは思わないわ。でも、じいちゃんの気持ちは理解できるし、どちらかと言えば、じいちゃんの意見に賛同するかな」
「それでこの話はもう終わりですか?」
「どうして?」
「いやあ、凌也も懲りないなあと思って。この前叱ったんですよ、妙な宗教にのめり込むなって。その時は凌也、私の勘違いだなんて言ったんですけど、また清樹の話してるじゃないですか」
「俺はのめり込んでるわけじゃない。ちょっと調べ事があるだけだ。仕事で劇場を撤去するから、そこでコンサートを開く高瀧さんのことを調べてるんだ。何が悪い。間違っても信者になんかならない」
 千鶴は口をへの字に曲げ、惚けた顔をした。
「さっき火事があった劇場でコンサートを開くのがどうこうって聞こえたけど、それと清樹は何か関係あるの?」
 杉本は言葉に詰まった。千鶴には珠里の存在を伝えていない。珠里がいなければ高瀧と火災は決して結びつかないのだ。うまい言い訳が咄嗟に思いつかなかった。
「やっぱり関係あるんだ」杉本が答えないでいると千鶴が決めつけて言った。「私、ちょっと思い出したことがあるんだ」
「思い出したこと?」
「大学時代の友達の話。その子サキって名前なんだけど、そのサキと仲良くなってすぐに自己紹介するわけ。その時私がS市出身だって言うとね……サキは、昔同じ保育園だった女の子がS市で亡くなったことがあるって話して、その時亡くなった女の子は園児ながら歌手活動をしていたらしくて、それで劇場の火災に巻き込まれたって。もしかしてその火事って、今二人が話していた火事なのかな?」
 凌也は呂律が回らないまま首を傾げた。ぎこちないでは済まされない自分の狼狽を察すと嫌な汗が滲んだ。
「他にサキさんは何も言ってなかった?」
「他にも何か言ってたかもしれないけど、覚えてない。だから清樹の教祖と火事が関係あるなら、サキを紹介してあげようかなって思ったの、だって凌也懲りないから。教祖のことを調べ終わったら、きっちり清樹から離れるっていうなら早く調べ終わってほしいし……」
 杉本は思いもよらぬ千鶴の提案に胸が震えた。これが武者震いだ、と確信した。これまで高瀧のことばかりを追ってきた。和泉真梨にはコンタクトを図っているが、これまで珠里の過去を知る人物と接触するなど考えもしなかった。
 杉本は、千鶴に沙希と会って話ができるよう取り計らってもらうことにした。
「仕事が終わってからね」
 千鶴はそう約束すると、祖母を連れて屋内の散歩に出掛けた。祖母は少し元気を取り戻したようだった。

4へと続く……

いいなと思ったら応援しよう!