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連載長編小説『破滅の橋』第三章 堕ちた偶像2

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 手元の調光照明を回すと紫色のライトに変わった。それを覗き込むように尚美はテーブルに突っ伏した。左手で持っているグラスの中の氷ががらりと音を立てた。
 うーん、と唸りながら溜息を漏らす。一週間分の疲労は、一度の溜息では吐き出しきれない。紫のライトを屈折し、反射させている氷を眺めながら、尚美はグラスを弄んだ。しばらく忘れていた、いや頭の片隅に追いやっていた記憶が蘇った。そんな一週間だった。
 このまま一人で、長らく生きていくんだろうなあ。
 頭の上から声が降ってきたのは、そんなことを心の中で呟いた時だった。
「尚美ちゃん、誰か良い人おらんの?」
 体を起こすと、ママが皿を洗っていた。尚美は、このスナック・バーに週に一度の頻度で通っている。ママは、三十路が近づいているにも関わらず恋人のいない尚美のことをひどく心配してくれている。
「いたら苦労しないんですけどね」仕事の疲れを含んだ重い吐息が漏れ出た。がらがらと氷を揺らしながらグラスを口に運ぶ。おいしい。
 酒は週に一度と決めている。もちろん急な誘いなどによる例外はあるが、基本的にここ以外で酒は飲まない。そういった自律がしたくて、バーに通い始めた。ママと初めて言葉を交わした時、妙な安心感を抱いた。それ以来、悩みなどを相談するようになった。
「二十七で彼氏がおらんなんて寂しい。何より潤いがなくなっていく」洗い終わった皿を拭いながらぽつぽつという。
「潤い?」
 尚美は訊いたがママは答えない。
「尚美ちゃんは、どういう人がいいのさ」
 そうですね、とテーブルに目線を落とし、グラスを両手で包むと、結婚相手としてね、とママが付け加えた。
 尚美は架空の結婚相手を想像して少し気が晴れた。だらしなく口元を緩ませていると、みっともない顔だ、とママに指摘された。「それで?」とママが返答を促した。
「やっぱり、かっこよくて、優しくて、経済力のある人かな」
 ママは呆れたように大きく息を吸い込み、額に手を当てた。
「何ですか?」
「かっこよくて、優しくて、お金がある男、そんなのはひと握りや。でもいることはいる。でも、そんな男と結婚できる女もひと握り」
 何がいいたいのだろう、と尚美は思った。理想の男は存在するが、尚美では手に入らないということだろうか。尚美はそのひと握りには入れないということだろうか。
「諦めろってことですか」
 いいや、といってママは微笑した。
「諦めろなんてことはいわんよ。理想は理想として持っていて構わへん。尚美ちゃんの理想を否定する気はないさかいなあ。でもね、本気で結婚したいんやったら妥協も必要ってこと。何かを得るためなら、何かを捨てんとやっぱりだめなんやわ」
「妥協……」
「すっかり大人になって、仕事もきっちりこなして、後輩も持って、せやのにどういうわけか恋愛に関しては中学生がそのまま大人になったような考え方なんよね」
 少し気に障った。しかしママのいう通りだった。周りからもよく似たようなことをいわれる。まともな恋愛など、高校以来できていない。だからそれも仕方がないことだ。そう割り切っている。社会に出ればたくさん出会いがあるなど、それこそ夢物語だ。
「尚美ちゃん」ママがいった。「やっぱり、理想じゃなくて現実を見たほうがええよ。本気で結婚したいんやったらね」
 焦ってはいる。でも本気で結婚したいのかといえばそうでもないような気もする。理想の男性が目の前にいる。だったら本気で結婚したい。理想とは程遠い男は大勢いる。ならば結婚などしなくてもいい。そんなものじゃないのか。
 尚美は苦笑した。出会いがないのだ。理想の男性と巡り合えるはずもなかった。理想の条件をひとつでもクリアしている男性すら見つからない。
 何かを得るためなら、何かを捨てんとやっぱりだめなんやわ、薄っすら記憶に残ったママの言葉が脳内で繰り返された。
 妥協とは、そういうことかと思った。
 尚美は、ご馳走を食べるなら体型を捨てる、美しい体型を手に入れるためならご馳走を捨てる。そんな自己完結のことばかりを考えていた。それを結婚相手にも当てはめればいいということだ。
 見た目はいいが、経済力に乏しい。見た目はいまいちだが、豊富な貯蓄がある。見た目はいいが、短気な性格。見た目は悪いが、優しい。経済力はあるが、短気。経済力はないが、優しい。
 目眩がしそうだった。どれを選択しても、やはり幸せになれるとは思えない。むしろ自分を苦しめてしまうような気もする。正直、何かを捨てるという選択はしたくない。
 妥協したくないなあ。
「それじゃあ結婚は難しいかもしれんね」
 どうやら心の声が漏れていたらしい。いつの間にか、かなり酔いが回っていたんだな、と尚美は自覚した。
「くそー、あいつが生きてたら」
「佐藤さんのことかい」
 尚美は頷いた。ママには過去の恋情について話したことがある。その恋の、悲惨な結末までをママは知っている。
「本当にあいつは……あたしの気持ちも知らないで。ひどいことして、捕まって、何年も牢屋に入れられて、やっと出たかと思えば殺されて。本当に……ばかっ」幼馴染への文句が口を衝いて出た。「慶太を殺した峯本って男もばか」
「佐藤さんは、理想の男やったんかい?」
 どうだろう。理想などではない。でも昔からスポーツ万能で、何をさせても簡単にこなして、優しくて、爽やかだった。尚美の理想の男性に当てはめるには、経済力が足りなかった。でももし、彼が生きていたら、たとえ貧乏でも一緒に生きていきたかった。
 矛盾している。そう思う。
 尚美は頷いていた。「矛盾してますよね」
「してへんよ。理想なんて形作れるものと違うんやから。結局恋愛なんて直感なんやわ。理想はせいぜい気休め。どんなに知能が発達しようと、どれだけ暮らしが豊かになろうと、生物は結局、本能でしか動けへんのや」
「本能……」
 たしかにそうなのかもしれない。「人を好きになるのに理由なんている?」などという女を見ては愚かしく感じてきた。そんな女は絶対に幸せになれない、と。でも考えてみれば、なぜ佐藤慶太という男を好きになったのか。なぜ長年彼の死を受け止められずに新たな恋を探すことができなかったのか。今わかった気がする。
 本能で彼に恋をしたんだ。思考がそこにたどり着いた時、尚美はやけに腑に落ちた。それと同時に哀愁に塗れそうになった。
 本能で、直感で人を選ぶ――だったら尚更、尚美は結婚などできないじゃないか。
「尚美ちゃんは、何で告白せんかったん?」
「彼にはずっと彼女がいたから」
 彼はモテた。年がら年中周りにはたくさんの女子がいて、幼馴染とはいえ尚美の入り込む隙さえなかった。だけど彼は決して浮気を働かなかった。ただ一人、恋人のことだけを見ていた。
 もしかすると、そういうところにも惹かれていたのかもしれない。
「それは仕方ないなあ」ママはいった。「いつか、そういう人とまた出会えるとええなあ。ほんまにそう思うてる」
 そう微笑みかけて、グラスを差し出した。一杯サービスしてくれるらしい。ありがたく、いただいた。
 尚美がグラスを口から離すのを見て、ママは続けた。
「愛したいのか、愛されたいのか。尽くしたいのか、尽くされたいのか。そういう単純な部分がはっきりするだけでも、恋の仕方は変わってくるんとちゃうかな」
 ママの言葉を尚美は口の中で復唱した。
 何度も繰り返していると、ふと冷静な気持ちになった。不思議と、少なくとも愛したいとは思わなかった。
 尚美が呆然としているとママがいった。
「まだ、犯人の顔を見てないんやろう?」
 突然話題が切り替わったせいで何の話かを理解するのに時間が掛かった。「うん」と答えながら、それほど大きく話題が変わったわけでもないなと思った。
「文句のひとつもいいたいやろうに。どうして会いに行かへんの?」
 尚美は紫のライトを見つめたが、数秒のうちにそれが霞んで見えた。
「気が進まないんです。当然、文句は山ほどあるし、聞きたいこともある。あたしの人生に、少なからずあの事件は影響してるから。でも……」尚美は口ごもった。でも、ともう一度いって続けた。「怖いんです。慶太を殺した犯人を見るのが」
「怖い?」
「うん、その時自分がどうなってしまうのか。冷静でいられるのか」
 たしかに、とママはいった。「尚美ちゃん、取り乱しちゃうかもしれん。酒癖もなあ、酔うと大変な時があるからさ」
「酒癖はそんなに悪くありませんよ」と苦笑しながらいった尚美だが、心当たりがないわけでもなかった。目が覚めると自宅のベッドなんてこともある。それに、恋人に対して日頃溜めていた鬱憤が酒のせいで爆発したこともあった。何人かはそれでふいにしている。
 怒りが沸点に達した時の尚美の豹変した様は恐ろしい、と未咲にいわれたことがある。
「でも、文句いわないと気が済まんやろ? 早いところ佐藤さんを殺した犯人と話して、訣別すべきやと思うよ」
 うーん、と尚美は渋った。峯本と会って話をすれば、彼と訣別することができるのだろうか。
 その根拠はない。尚美は頭を悩ませた。これまでだって何度も考えてきたことだ。そんなに簡単に答えが見つかるはずもない。
 しかし尚美の気持ち次第であることだけは理解できた。今日はもう帰ろう、そう思ってバッグに手を入れた。目の端に紫のライトが映った。それが闇を、薄くしてくれているような気がした。

3へと続く……

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