連載長編小説『破滅の橋』第七章 軌道修正と固めたい地盤3
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毎日必死に働いているからか、時が過ぎるのは早かった。働き始めた頃は雪がちらちらと舞っていたのに、今では桜の蕾が膨らみ始めている。あと一週間もすれば桜は開花し、二三週間で見頃を迎えそうだ。満開の桜と渡月橋が織りなす壮大だがどこか儚げな景色を求めて訪れる観光客が、まもなく殺到する。そうなれば、店のほうもますます忙しくなる。
帯を畳みながら、河村さん、と峯本はいった。緊張のせいで、声は小さくなった。「どうして俺を許してくれたんだ?」
美智子が自分のことを嫌い、恨んでいることは知っていた。観光客の増加に伴って仕事が忙しくなると、余計に訊けなくなると思ったのだ。
美智子は立ち上がり、峯本の横に並んだ。簪を手に取ると、「べつに許してないけど」といった。
「でも、俺がここで働くことを許してくれただろ。どうして?」
それは、と考えこむような顔になって、美智子は簪を元に戻した。代わりに、色鮮やかな真田紐が結わえ付けられた下駄を手に持った。「一応、同級生だし。大変な思いしてるみたいだし。それに、あたしは社長じゃないから、意見はいえても決定権はない。社長が雇うっていうなら、べつに反対することはないしね」
「だけど、俺のこと、めちゃくちゃ嫌ってただろ? なのにどうして先生の誘いを受けたんだ?」
美智子は真田紐を指で撫でながら、虚空を見た。昔のことを思い出しているようだった。
「それは、人を殺したんだからこの世で一番汚らわしい生き物に見えたよ」
美智子は明るい口調でいうと、冗談めかすように笑った。しかし峯本は、笑うことはできなかった。
「どんな理由があっても殺人を肯定することなんてできない。むしろ、殺人に賛成してる人がいたら、どうかと思うじゃない? だから、あたしは峯本君のことをきつくいった。でも、本音は別――」
えっ、と思わず声が漏れた。驚いた拍子に、彼は美智子の横顔を見つめていた。
「じゃあ、俺のこと……」
「もちろん殺人を犯した峯本君を許せない気持ちはあった。ただ……心のどこかでは、涼子の仇を取ってくれた峯本君に感謝してる自分がいたの。そんなこと、口が裂けてもいえないでしょ? だってあたしは、佐藤じゃなくて峯本側の人間なんだから。そんなこといったら、めちゃくちゃ叩かれて心病んじゃう」
美智子に対して常に身構え、どこか接しにくいところがあった峯本だが、美智子の本心を知った瞬間、胸の中が明るくなった。それはまるで、濃霧が晴れ、眩い陽光が差し込む時のようだった。これは、真面目に働いた自分へのご褒美なのだと彼は思った。いつか瀬川がいった、因果応報のひとつだと。
彼は右手を差し出した。「これからも、よろしく」
美智子は口元に微笑を浮かべた。峯本のほうに向くと、手を握るのではなく、手首を握ってそっと彼の腕を下ろさせた。
「店も軌道に乗ったし、峯本君も仕事を覚えてくれたから、あたしはもうここを辞める。元々、社長ともそういう約束だったから。最後に、こうして仲直りができてよかった」
そういうと美智子は手を差し出した。その手と握手を交わすのが、名残惜しかった。しかし彼は、気がつけば美智子の手を握っていた。
後日、美智子の退職の件を瀬川に確認した。瀬川は当然、驚くようなことはなく、その通りだと答えた。
「そもそも開業したら、初めのうちだけ手伝ってもらうということで頼んでたんだ。それに――」瀬川は峯本の顔をちらりと見た。
「何ですか?」
「河村の本当の目的は、峯本と和解することだった。それを達成した今、河村は思い残すことなく辞められるんだ」
美智子とのことは、特に瀬川には報告していなかったが、美智子から聞いたのだろう。瀬川は、二人が和解したことを知っていた。
「そうですか……」
「できれば、俺だって河村に残ってもらいたかったが、河村には河村の事情がある」
「結婚、ですか?」
瀬川は、ほう、といった。「本人から聞いたのか?」
「いいえ。河村さんからは何も。でも、左手の薬指に指輪を嵌めてましたから」
美智子の手元に気がついたのは、働き始めて少し経った時だった。それまでは、仕事を覚えるのに必死で美智子の手元になど意識がいかなかった。周りが見えていなかったのだ。ようやく指輪に気づいた時、思い切って訊いてみようかと思ったがやめた。殺人犯に祝福されて、果たして嬉しく思うだろうかと考えたのだ。もし美智子の本心を知っていたら、間違いなく声を掛けていた。
そもそも、初めて店に来た時から、不思議に思っていたのだ。美智子はなぜ家電量販店ではなく、瀬川の経営する着物屋で働いているのか、と。美智子とは、昔一度だけ仕事で会ったことがあった。あの時は昔話に多少花を咲かせた記憶がある。
「河村の代わりをアルバイトで雇おうと思ってる。俺と峯本の二人だけでは店を回せないからな」
「求人を出すんですか?」
瀬川は頷いた。「そのつもりだ」
その時、峯本の中でひとつの記憶が蘇った。就職が決まった後のことだ。再会して以来、何かと心配してくれていた尚美に就職が決まったことを報告した。尚美の連絡先は、再会した時に教えられた。
尚美と再会したのは、アルバイトの面接帰りのことだった。その場で不採用をいい渡され、やや傷心気味で信号を待っていたところ、女性に声を掛けられた。それが尚美だった。彼女のことはよく覚えていた。
彼女は、峯本が殺害した佐藤慶太の幼馴染で、峯本とは直接的な関わりはなかった。何度か面会に来たけれど、峯本の記憶に強く残ったのはそのせいではなかった。尚美は、幼馴染の仇である峯本を前にして、穏やかに、しかし少しの緊張を滲ませながらも、明るい笑顔で話しかけてきた。どんなことを話したのかは、覚えていない。出所する時、面会に来た人たちの顔が思い浮かんだ。尚美の顔もあった。もう、二度と会うことはないだろうと思った。
だから、再会した時は驚いた。連絡先を渡され、手伝えることがあれば何でもいって、といわれていたのだ。が、峯本のほうから初めて連絡をしたのは就職が決まった後だった。電話を掛ける義理はないのだが、意図せぬところで心配を掛けていることもあって、ひとつ朗報を耳に入れてやろうと思ったのだ。
「はい、小山です」電話が繋がると、彼女は愛想のいい声でいった。
名乗ると、尚美は驚いたようで、声を裏返して、嘘……、といった。
「就職が決まったよ」
よかった、と尚美は呟いた。喜びを噛みしめたような声だった。「どこの会社?」
「着物屋。嵐山で店をやってる。まだ開業して一年くらいの店だよ」
「素敵」と尚美は笑った。ややあって、「あたしも、そこで一緒に働きたいな」と彼女はいった。「手伝えることがあれば遠慮なくいって」
当時は、尚美が佐藤慶太と親しかった人だから、店員として働くのは難しいだろうと思っていた。瀬川は寛容に振舞うだろうが、果たして美智子が受け入れるだろうか。それもあって、気持ちだけいただいた。
しかし美智子が辞めるとなれば話は別だった。峯本は、瀬川に尚美のことを話した。「一人、知り合いで手伝っても良いといってくれている人がいる」と。
佐藤慶太の幼馴染だったことを包み隠さず伝えると、瀬川は顔をしかめた。が、峯本と尚美の関係性を語れば、瀬川は柔らかい笑みを浮かべて首を振った。
「それじゃあ、河村が辞めた後、その人に来てもらえばいい。知り合いのほうが、峯本もやりやすいだろうし」
峯本は、瀬川に礼をいった。
その夜、峯本は早速尚美と会う約束をした。尚美の職場は八条通りにあった。峯本は少し早く仕事を切り上げ、京都駅に向かった。
食事を兼ねることは連絡を取った時に決めていて、店は尚美から指定された。京都駅を出て八条通りを挟んだ場所に立つショッピングモール内の飲食店だ。店内に入ると、すでに尚美が腰掛けて待っていた。店は、バイキング方式を取っていた。握手を交わし、まずは空腹を満たした。
「改めまして、就職おめでとう」
顔を合わせてすぐにいった祝辞を、尚美はもう一度いった。彼女と会うのは、アルバイトの面接の帰り以来だから、就職してから顔を合わせるのは初めてだった。それだけに、彼女の笑顔は心底嬉しそうに見えた。
礼を述べると、早速本題に入った。あまり遅くなると、祐里が心配してしまう。
「今、店は社長と俺、それからパートが一人という状況なんだけど、じつはそのパートが今度辞めることになって」
コーヒーを啜りながら、うんうん、と尚美は相槌を打った。
「そこで、小山さんに来てもらえないかなと思ったんだよね。前に、一緒に働きたいっていってくれたから。もちろん正社員として」
尚美は、うーん、と思案顔になってグラスを傾けた。中の氷が、からん、と音を立てた。
「わかった。でも、今月末までは今の会社で働くことになるから、すぐには無理よ」
「来てくれるんだね?」
峯本の言葉に尚美は頷いた。結果ありきではあったものの、峯本はようやくひと息吐けた。
ショッピングモールを出て、尚美の車に乗った。彼女の自宅がある円町まで同乗し、そこから電車に乗って嵯峨嵐山まで帰った。
4へと続く……