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連載長編小説『破滅の橋』第五章 空の下は冷笑4

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 弱々しい朝陽が瞼を照らし、暗かった視界が黄色く灯った。日光に照らされて皮膚が透け、瞼の中の血管が見えた。目を閉じたまま、やけに森閑とした空間に耳を澄ました。物音どころか人の気配すらしない。
 最近、工藤は滅多に帰宅しなくなった。梨沙との結婚に向けて半同棲生活を始めたのだ。そのため峯本は、無料で住む場所を与えられているような状態になっていた。
 梨沙との半同棲が始まる前、工藤から「結婚に向けての準備があるからこっちに戻ってくる日はずいぶん減ると思う」と切り出された。自分が足手まといであることはよく理解していた。だから峯本はアパートを出て行くことを工藤に伝えた。しかし工藤はそれを了承せず、ここに留まるよう強い口調でいった。
 結局、工藤にいい包められてアパートに留まったのだけれど、正直胸が痛い。工藤と梨沙の入籍の準備は着々と進んでいる。もうお互いの両親にも挨拶を済ませている。あと少しは時間があると工藤はいうけれど、もしかしたらすでに婚姻届けも提出しているのではないだろうか。峯本がいるから、この部屋の契約をまだ続けているのではないだろうか。
 峯本は起き上がり、窓枠の結露に目をやった。あと数日で年越しだ。工藤が梨沙にプロポーズしたのは今年の春のことだと聞いた。それからもう半年以上が過ぎている。夏に峯本が転がり込んでからも、季節が二つ進んだ。
 自分さえいなければ、工藤はもっと自由になれる。望み通りの幸せを手に入れることができる。素敵な花嫁と、長い時間を共に過ごせる。
 多少の向かい風などどうにでもなると思っていた。だが甘かった。工藤の結婚というリミットがあり、それまでには行き場を見つけて居候をやめるつもりだった。それなのに今も行き場は決まらず、居候から抜け出せないでいる。
 そろそろ邪魔だろう。リビングに移動し、じっくりと見回しながらそう思った。相変わらず、ほとんど何もない部屋だ。峯本はカーテンを開けた。目一杯伸びをして、だらんと下ろした手が太腿に当たった。出て行こう、と彼は唇で呟いた。
 これ以上工藤に迷惑を掛けられない。工藤は本当に信頼できる、好い男だ。でも優しすぎる。親友は、ずっとここにいていいというだろう。いつまでも、峯本の居場所が見つかるまでここに住まわせようとするだろう。いったい何が、工藤をこれほど突き動かしているのかわからない。工藤は決意に満ちた目をしている。その目を見ると、また甘えてしまう。ああ、ここにいていいんだと思ってしまう。
 でもこのままでは、自分が新婚生活を台無しにしてしまう。もう、限界だった。新婚生活なんてものを味わえたら幸せだろうと思う。その幸せの弊害となっていることを自覚しながら平気でいられるほど、峯本は強い精神力を持っていない。もし峯本が工藤の立場なら、新婚生活を満喫しているその時に居候がいたならばきっと殴ってでも放り出す。
 その殴られる立場に自分はいて、今まさに放り出されるべき時なのだ。
 しかし当てがない。京都の知り合いなどたかが知れている。美智子が峯本をひどく軽蔑していることは工藤から聞いた。以前勤めていた職場の同僚などはきっと相手にもしてくれないだろう。取引先で親しくなった者も何人かいたが、今となっては救いの手を差し伸べてくれるはずもなかった。
 工藤以外に、殺人犯を快く迎えてくれるお人好しはいない。美智子が忌み嫌っているのだから、地元にも峯本を疎ましく思う人物が当然いるだろう。地元の面汚しとして、むしろ京都よりもひどく冷酷な視線を向けられるかもしれない。そもそも帰郷するのに必要な交通費など現金を持っていない。
 いったいどこに行くというのか。
 峯本は無様な姿に失笑した。がくっとソファに倒れるように座り、弱い笑い声を発し続けた。惨めだった。視線を虚空に彷徨わせ、笑い続けた。もはや涙も出ない。
 峯本は、茶碗に米を大盛りした。冷蔵庫から卵をひとつ抜き取り、溶いて米に掛けると貧相な卵かけご飯が完成した。それを掻き込むと、着替えを済ませた。
 玄関を出ると、空に笑われているようだった。肌を刺すような冷たく乾いた空気だというのに空は快晴で真夏のような眩しさだった。アパートを出てすぐに二階で物音がした。振り仰ぐと、スーツ姿の男とまだ学生だと思われる若い女が部屋の鍵を開けていた。男の手にはファイルがある。内見だろうか。何気なくそれを見ただけなのに、自分は生きる価値もない人間なのだとひどく思わされた。
 当てもなく峯本は歩き出した。体を左右に揺らしながら、顔を俯かせながら、笑われることに怯えながら。きっとどこかで野垂れ死にする運命なのだ。
 そう思った時、やけに峯本の気持ちが軽くなった。誰からも求められていない。疎まれている。足取りが軽くなった。
 そうだ――今、俺は死に場所を探してるんだ。
 大通りに出てくるのに三時間も掛かった。いったいどこを徘徊していたのか、自分でもわからない。しかし、すっかり体力が落ちている。服役中の労働のせいで体力だけには多少自信があったのだけれど、居候中にそれまで失ったらしかった。もう、体力も限界に近づいていた。こんな街の中心で人が野垂れ死んだら、大騒ぎになるだろう。ここで倒れたら、いったいどれだけの人が心配してくれるだろう。
 ふと大通りを見渡した。どうやら、烏丸通りに出たらしい。通りを歩く女性の集団は寒さを凌ぐために身をくっつけ合っている。ビルから外に出てきたサラリーマン風の男性はコートの襟を立ててマフラーに顔を埋めた。昼休憩の時間なのか、人がやけに多い。行列ができている店もある。看板を見るとパンケーキ屋だった。そこで峯本の目が釘付けになった。
 嘘だろう、と思いながら足を引きずり進んだ。彼女は行列に並びながら手元のスマートフォンを見てほくほく笑っている。艶やかな髪はセミロングで、その毛先は外側にカールしている。透き通るような白い顔はとても小さく、しかしくっきりとした二重瞼の澄んだ瞳は吸い込まれてしまいそうなほどに大きい。もう少し、もう少しだけ髪が短ければ涼子そのものじゃないか。
 雷に打たれたような衝撃に思わず目眩がした。しかし必死に踏ん張りを効かせ、ごくりと唾を飲み込んだ。夢でも見ているのだろう。そう思ったが、峯本はぐんぐん前進していく。
 涼子――気がつくと、彼は声を掛けていた。

第六章へと続く……

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