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連載長編小説『別嬪の幻術』9-1

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 長沢徹平は九月末頃まで京都の実家に帰省していたらしい。ただ、夏季休暇が明け、後期が始まってからは一度も欠席していない。つまり佐保と風見を殺害することは不可能ということだ。ただし、洞院才華の失踪に絡んでいる可能性は残されたまま。それが野々宮からの報告だった。自堕落な日曜日を過ごした僕とは違い、若き刑事は勤勉に職務を遂行し、早くも僕の依頼を片付けてくれた。今度は僕が調べに出なければならない。
 特別律儀な性格ではないのだが、今回の事件は特別だ。僕自身が解決したいという願望が強い。野々宮への礼、などではなく、僕は僕のために地味な調査を行っている。
 だがやはり、目立った情報を得られないでいると、胸がずしんと重くなったように感じる。太陽を雲が隠し、まるで磁場が狂ったように、重力が増したように思うほどだ。放っておけば、僕の上半身は重力に引かれて地面にめり込んでいるかもしれない。
 午前中から薬学部と医学部で聞き込みを行っていた。特に風見が言い残した「佐保から聞かされていること」について周辺を探ったが、それを知る者はいなかった。なぜ松尾大社なのか、佐保と松尾大社に何か関係があるのか、それに洞院才華がどう関わっているのか、いずれも空振りだらけだ。今日だけで何度三振したかわからない。
 授業が終わると、僕は佐保と風見が所属していたフットサルサークルで話を聞いた。二人が出会った場所だ。医学部と薬学部の共通科目はないことはないが、やはり出会いの場になるのはゼミやサークルが多い。その御多分に漏れず、僕と千代も、そして風見と佐保も、そこで出会っていた。
 部員によると、今年に入ってから二人がサークルに顔を出す頻度は減っていたらしい。しかしそれは珍しいことではなく、上級生になれば自ずとそうなっていくそうだ。サークルに入っていない僕にはいまいちぴんと来ないが、強制的に参加しなくてはならない高校までの部活動とは違うということだろう。来るも自由、来ないも自由、それはまさしく大学生活そのもので、授業に対する心持ちと似通っているかもしれない。いや、授業には出なくてはならないのだが……。
 部室に入ってすぐに得た情報はそれくらいで、大した成果は上げられなかった。僕はすぐにでも辞去しようとしたが、佐保と親しかった四回生が来るとのことだったので、何か知っているのではないかと期待して待つことにした。その四回生は三十分ほどで現れた。むろん、彼女は佐保が殺害された事件について知っていた。風見のことも……。その件で調べていると話した上で、佐保が風見に言い残したことについて何か聞かされていないかと訊ねた。彼女はかぶりを振った。しかし佐保が殺害された時から、気に掛かっていることがあるのだと言った。
「実は前に佐保から相談を受けたことがあって……」
 部室を出ると彼女は言った。それが風見に言い残した佐保の言葉かはわからない。だが人目を避けるということは、込み入った話なのだろう。僕は学内のカフェでカフェオレを奢り、近くに人がいないテラスに腰を落ち着けた。
「その、現場が松尾大社やったでしょ。それで、もしかしたらって思ってて」
 僕も殺害場所に意味があるのではと考えていると言うと、彼女も自信を持ったのか、淀みなく話し始めた。
「松尾大社って、有名なのはお酒の神様やと思うんやけど、まさにそれが引っ掛かってて。前に佐保からお酒で失敗したことを泣きながら相談されたことがあって、今年の前期が終わった辺りやったかな……七月末か八月の頭、ゼミの飲み会があったらしくて、その時酔い潰れちゃったみたい。それで同じゼミの男の子と、ね?」
 わかるでしょ、と言いたげだ。わかる。何が言いたいかはわかる。佐保は僕のタイプではないが、背が高く、スタイルも良い。モテるのはよくわかる。同じゼミの中に言い寄ってくる男がいても不思議ではない。酔い潰れてしまったのなら、そういう間違いを犯すこともなくはない。ただ重要なのはその間違いを確かに犯してしまったのかということだ。酔い潰れて、あるいは酔い潰されて、持ち帰られたという確証が残っているのか。
 それについて、彼女は確証があったからあたしに相談して来たのだと説明した。「朝目が覚めたらホテルで二人、お互い裸で……コンドームには精子が残ってたっていうから、それはもう、ね?」
 記憶が飛ぶほど酔っ払っていたのか。しかし物的証拠がある以上、佐保も言い訳はできない。それだけに、風見を裏切ってしまったという気持ちが強いのだろう。風見は学内を歩いていると多少美人であれば目で追う癖があったが、それでも浮気は絶対にしなかった。佐保も浮気を働いたことはそれまでなかったはずだ。松尾大社に許しを乞いに向かった……懺悔のための参拝だったのか?
「相手の名前は?」
「フナツキアツシって言ったかな」
 聞き覚えではなく、見覚えのある名前だと思った。たぶん一年か二年の時に何かの授業で同じだったのだろう。僕の記憶が正しければ、船槻敦という名前が出席を取る用紙に書かれていたのを見たことがある。学籍番号までは覚えていないが、医学部医学科と書かれていたのははっきりと覚えている。間違いないだろう。
「このこと、風見は知ってたんでしょうか」
「知ってた。佐保に相談されて、正直に謝ったほうがいいってあたしも言ったから。たぶんそうしたんやと思う。でも蒼介は、それで何度か、その船槻って子と喧嘩したみたい。佐保のことを責めてるようではなかったけど、やっぱりショックやったと思う」
 そうなると、また少し話が変わってくる。彼女が感じた引っ掛かりとはおそらく風見が持つ佐保への怒りだろう。浮気されたことへの怒り。表に出ていないだけで、心の底では燻り続けていた憎悪の火。つまり彼女は、佐保が殺されて、真っ先に風見を疑ったのではないか。酒神を司る松尾大社で事件が起きたから。
 それを彼女は素直に認めた。悪びれることではない。それはむしろ自然な考えだろう。風見なら、間違いを悔い改めるためだと理由をつけて佐保を連れ出すことは簡単だっただろう。松尾大社に連れ出し、そしてそこで殺害……。風見なら毒物の知識もあった。やはり許せない、そう考えてもおかしくない。だがすぐに、今度はその風見が殺された。
 彼女が風見の死を知ったのは今朝だったという。大学に来て初めて知ったそうだ。当然彼女の中で、二人を殺したのは船槻敦ではないかという疑念が深まった。これを連続殺人と仮定すれば、船槻敦は佐保に好意を持っていたが恋人にはなれないでいた。そして佐保の恋人である風見を憎んでいた。加えて酒を発端とするトラブルを抱えていた。仮にこれが連続殺人でないと仮定した場合、佐保を殺したのが風見で、その風見を殺したのが船槻敦ということも考えられる。浮気を許せなかった風見、佐保を殺した風見に復讐した船槻敦――いずれも辻褄は合っている。
 だが一つ、大きな問題があった。それが洞院才華の失踪だ。洞院才華の失踪が事件と無関係であれば、二人を殺した、あるいは風見を殺したのは船槻敦でほぼ決まりだろう。ところが佐保は殺害される前に洞院才華のことをやけに気に掛けていた。そして松尾大社に向かったのだ。船槻敦なら洞院才華を知っているだろう。同じ医学部だ。事件の中で関係があるかどうかはまだわからない。もしかすると、船槻敦が洞院才華に操られている可能性も考えられる。その場合、船槻敦が駒場敬一を殺害したかどうかも調べなければならない。とにかく目の前に立ちはだかるのは洞院才華だった。
「夏休みに大学に来たりしました?」僕は一日も来ていない。そういう学生のほうが多いだろう。だが四回生となれば、事情は変わってくる。
 彼女は頷いた。就職活動で成績証明書を発行しなくてはならず、何度か大学に足を運んだそうだ。僕は彼女に、夏季休暇中に洞院才華と佐保が会っているのを見なかったかと訊いた。もし風見が佐保から伝えられていた何かが、洞院才華から佐保に言伝られていたのなら、それは失踪前――夏季休暇中だった可能性が高い。
 しかし彼女は首を捻った。カフェオレを口に運び、「洞院才華ちゃんねえ」と呟いた。やはり彼女も洞院才華のことを知っていた。僕のことは知らなかったくせに!
「佐保と会ってるとこは見てないけど、洞院才華ちゃんなら一回見た」
「いつですか」
「九月の中頃やったと思う」
 その時はまだ、失踪していなかったということだ。洞院才華は九月中旬から下旬の間に姿を消したということになる。
「一人でしたか?」
 彼女は首を左右に振った。「男の子と一緒やった。髪の長い、こう、肩に掛かりそうなくらい? 座ってたから背はわからんけど、たぶん大きいと思う。足が長かったから」
 今堀史人だ。間違いない。彼は交際の噂を否定していたが、夏季休暇中に学内で会うとは、どんな用事だったのか。恋人でもない、恋心を抱く相手でもない人から呼び出されて、わざわざ足を運ぶだろうか。やはり今堀は、何かを知っているのではないか。さらに言えば交際の噂は事実なのではないか。船槻敦と洞院才華の関係性も知っているかもしれない。
 今堀と洞院才華が会っていたことは、他の部員からも証言が取れた。

9-2へと続く……

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