連載長編小説『怪女と血の肖像』第一部 怪女 11-1
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キャンプ場に着いたのは午後六時半前だ。空はまだ明るく、白い月がスケルトンのように上空に浮かんでいる。空の青さのせいだろうか、地球のように見えたりもする。まだ上空には一番星も光らない時刻だが、こうして月を見上げているだけで、見事な天体が観測できるのだろうと天羽は思った。あいにく空は曇っていて、今日はそれほどはっきりと星は見えそうにないが。
ナビでは一時間五分という案内が出ていたのだが、実際には一時間二十分ほど掛かった。阿波野の運転の問題、というわけではなく、山道を登るために何度も急なカーブがあり、その度に減速を繰り返すので、ナビの弾き出した所要時間よりも時間が掛かってしまったのだ。堂島翼が丹生脩太とグランピングを楽しむ予定だったキャンプ場は、所在地としては一応東京ということだ。山の中腹に駐車場があり、そこから少し上るとグランピング施設があり、客の用途に合わせてテントやバンガローも設置されている。展望台もあり、そこから渓谷を一望できる。天羽も展望台に立ってみたが、同じ東京とは思えないほど自然豊かな土地で、立っているだけで心が洗われる気がした。
医師として忙しい堂島翼がリフレッシュ場所に選ぶはずだ。もし丹生脩太がここに来れば、きっと画家魂をくすぐられただろう。天羽は両手でそれぞれピストルの形を作り、それを使って顔の前で長方形の額縁を作った。これだけで名画になる。そんな風景だった。
キャンプ場に向かう車内で、天羽は「丹生脩太」とインターネットで検索をしてみた。複製防止のためのサンプル品だが、何点か丹生脩太名義の絵画を見ることができた。堂島妙子は彼の絵について、幼い頃は弟の肖像画を描いていたと話したが、丹生脩太の作品はどれも風景画だった。地方の風景を描いたものも少なくなかったが、中には天羽もよく知っている都内の風景が描かれたものもあった。ただ、細かな色彩やタッチの効果などはネット上の画像ではわからない。美しい絵ということだけが伝わって来た。そんな丹生脩太だからこそ、もしここに来ていれば、きっと絵に残しただろうと思うのだ。
まもなく阿波野が管理人を連れて戻って来た。天羽は渓谷に望む絶景を賞賛し、唸ってみせた。半分が本音、半分が御世辞だった。管理人はにっこりと人懐っこい笑みを浮かべ、「そうでしょう。あたしも長年ここで暮らしていますが、飽きません。来てくださった皆さん、満足して帰られます」と仙人じみたゆったりとした口調で言った。
「ここで暮らしているんですか?」
驚いて天羽は訊いた。こんな土地で暮らせたら、きっと体内にも好循環が生まれて、まるで自然と一体化したような、不思議だが清々しい毎日を送れるのではと少し羨ましくなる。仕事人間の天羽にはまったく似合わない生活だが。
「ええ。事務所のほうで寝泊まりしています。夜中でもお客様に対応できるようにしないといけませんから、夜勤のスタッフも事務所の詰所に常駐しています。一通り、生活動線は整っていて、ちょっとしたアパートのようなものです」
基本的にはキャンプにやって来る客はグランピング施設を利用するとのことだが、体調不良を訴えた場合や大怪我を負った時など、例外的に客が事務所の入るアパートを使用することがあると管理人は言った。その頻度を訊いたが、意外に多いそうで、その理由は学生が校外学習に訪れることが多いからだと言う。一度に百名以上の団体がやって来る時は大抵二、三人の体調不良者が出るとのことだった。
言われてみれば、キャンプ場の外れに煉瓦造りの炊事場があった。天羽も学生時代、クラスメイトと班を作り、みんなで一生懸命料理を作った記憶がある。あの時のメニューはカレーライスだっただろうか。天羽の班では女子が積極的に包丁を手に取ったため、天羽達男子は顔を赤くしながら必死に火を起こしていた。その時も、確かに何名か体調不良者が出ていた。
施設内の巡回や食材の準備、炊事場の掃除など、基本的な業務内容を確認した後、天羽は昨日の午後から今日の午後までの二十四時間で勤務していた職員を訊ねた。昨日今日と出勤しているのは管理人だけらしい。仙人はほぼ年中無休のようだ。
「昨日この男性はここにやって来ましたか」天羽は丹生脩太の顔写真を取り出し、訊いた。
いいや、と管理人は首を左右に振った。
「昨日、堂島翼さんがこちらに来られたと伺っておりますが」
「はい、堂島さんね。確かに堂島さんなら昨日当施設をご利用になって、今朝方帰られました」
「その堂島さんが昨日ここでどのような行動を取っていたか、覚えている範囲で構わないのでなるべく詳細に話していただきたいのです」
管理人は初めて不信感を露にした。なぜそんなことを訊くのか、と目で訴えて来たので、天羽は丹生脩太の顔写真を再び提示した。
「この男性は、昨日堂島さんとここに来る予定だった人物です。そして昨日発生した殺人事件の容疑者でもあります。そして今、彼は行方をくらましています。この男性と堂島さんは中学校からの友人で、今も繋がりがある。そういうわけで、昨日の堂島さんの行動を確認したいというわけです。我々も、堂島さんが犯人と考えているわけではありません」
そういうことでしたら、あなた方が考えているように堂島さんは犯人ではありませんよ、と管理人は確信めいて言った。
「私は昨日、そのご友人が来ないと困っておられる堂島さんを何度もお見掛けしました。そのことで少し話したりもしました。確かに彼はご友人を待っておられました。確かお昼過ぎには当施設に到着されてチェックインを済まされました。その後二時頃からまだ連れが来ないと施設内をうろうろされていて、三時頃には私と少し話した後散歩に出掛けられました。それからしばらくして、次に堂島さんを見たのは五時半頃だったでしょうか。その時、まだ連れが来ないとご友人を心配されている様子でした。その時堂島さんはまた散歩に出ていたと話されました。次にお姿を見たのは今朝方で、ちょうど散歩に出るところでした。結局ご友人は来なかったと話しておられました。午前十一時頃にチェックアウトされて、私達はお見送りしたという次第です」
堂島翼が話したこととずれはない。今日院長室に堂島翼が現れた時間から逆算しても、管理人は嘘を言っていないだろう。それにチェックイン、チェックアウトの記録が残っているはずなので、その気になればいくらでも調べられる。
ただ、一つ気になる点があった。
「もう一度伺いますが、午後三時頃から午後五時半頃まで堂島さんの姿を見ていないんですね」
その時刻は樽本京介の死亡推定時刻と重なっている。車で一時間と少しという道のりだから、その間吉祥寺に戻って樽本京介を殺害し、キャンプ場に帰って来ることは可能だ。
しかし管理人はそっと目を閉じ、大きく首を横に振った。
「お姿は見ていませんが、堂島さんは確かにこの施設内におられました。彼が犯人というのはあり得ない話です」
「それはなぜ?」
「その間車が駐車場に停まったままだったからです。先程言ったように、私達は巡回を欠かしません。昨日は私ともう一人の職員で駐車場のほうまで巡回を行っておりましたが、昨日の午後四時十五分に駐車場を確認したところ、堂島さんの車は間違いなく駐車されていました。施設内には監視カメラは一切ございませんが、防犯上の理由から駐車場だけはカメラをつけさせていただいております。昨日の映像を確認されますか?」
念のため、天羽は映像を確認することにした。管理人はおそらく嘘は言っていない。堂島翼を庇っているというよりは、施設の利用客に殺人犯が混ざっていたと考えたくないのだろう。その心理はわからなくもない。
管理人は堂島翼の車だと言ってBⅯWを指差した。これについては署に戻ってから確認する必要がある。天羽はその車体を確認しながら、他のアングルのカメラ映像にも目を向けた。そこに丹生脩太のレンタカーは映っていなかった。
堂島翼のアリバイは成立しているということだ。これで一人容疑者は減った。いや、そもそも堂島翼と樽本京介に明確な繋がりはない。彼を容疑者と呼ぶのは少し失礼か。
天羽は管理人に礼を述べ、キャンプ場から歩いて駐車場に戻った。助手席に乗り込み、シートベルトを締めると、ふうと一つ息を吐いた。すでに午後七時を回り、ようやく月も光り輝いて来た。その月をフロントガラス越しに見上げた天羽だが、月はすぐ分厚い雲に覆われた。阿波野が車を発進させてすぐに大粒の雨が降って来たのだ。
「雨が降る前に聞き込みが終わってよかったですね」と阿波野は言った。たぶん、雨が降れば駐車場まで傘を取りに行かされるからだろう。
天羽はそうだな、とだけ返事をして、事故には気をつけろと言った。登って来た山道を今度は下らなくてはならない。カーブの多い山道は事故の名所だ。キャンプ場に続くこの山道もその御多分に漏れず、といったところだ。しっかりと看板も立っている。
阿波野は言われた通り、たらたらとへっぴり腰な運転になって車を走らせた。のろのろと山道を下っていると、対向車線の車のヘッドライトがその場で動かないのに天羽は気づいた。
事故だろうか。
部下に安全運転を心掛けるよう言った矢先、目に飛び込んだ光景にそんなことを考えた。対向車がこの山道でも特に事故が多い場所に停車していたこともある。だが対向車は阿波野の運転する車とすれ違うより早く動き始めた。どうやら事故ではないらしい。ワイパーがフロントガラスから水飛沫を上げ、暗い運転席と助手席の人影がちらりと見えた。男がハンドルを握っていて、助手席には女性が座っていた。
痴話喧嘩でもしたのだろう。向かう方角からして、二人はこれからキャンプ場に向かうのだろう。あいにくの天気ということもあって、女性のほうが機嫌を損ねてしまったのかもしれない。再び車を走らせたということは、話は落ち着いたのだろう。
よかったよかったと呑気に恋人達の車両を見送った天羽だが、その瞬間黒い雲の中を稲妻が駆け抜けた。数秒して大型トレーラー同士が衝突事故を起こしたような大きな雷鳴が轟いた。阿波野はびくっと肩を震わせ、ハンドルを握る手には不自然な力が入っていた。阿波野はまるで心霊を怖がるように夜の山道を窺っていた。同じように天羽も窓の外を眺めたが、雨粒に揺れる道沿いの木々は確かにおどろおどろしい。遠雷が絶えず響いて来る天候も相俟って、化け物に出くわしても不思議ではないような不気味な夜だった。
11-2へと続く……