連載長編小説『別嬪の幻術』13
13
着替えを済ませてアパートを出ると、少し体が軽かった。元々体重は軽いほうだが、重力が弱まったかのようにさらに身軽になった気分だ。東大路を大学まで下るだけなら一度のジャンプで到着できると思うほどに。ダイエットを試みる人は食事制限やウォーキングで痩せようとするが、結局のところランニングで汗を流すのが一番手っ取り早い。細身の僕でさえ、昨日鴨川を走っただけでかなり違うのだから。
薬学部棟に入ると、今日は千代のほうが早く来ていた。授業が始まるまでに昨日三ヶ月振りに鴨川ランに行き、筋肉痛になっていることを話した。そのまま九回欠伸をして、僕達は昼食を摂った。そこで僕はこれから松尾に向かうことを千代に告げた。事件を解く鍵が月読神社にあるであろうことを突き止めたと伝えた。
「確証あるん?」千代は不安そうに訊いた。「やめときいさ。月読神社に行こうとして、二人殺されてんねんで。危な過ぎる。しかも栄一、筋肉痛なんやろ? もし犯人が待ち伏せてたら逃げれへん……」
「大丈夫。自転車で行くから。小回りは利くし、俊敏性も走りの犯人より優れてるから。何かあったら逃げられる。それに佐保も風見も、夜に行って殺されてる。昼間は観光客も多いから、犯人も観衆のいる前で殺人なんてできないだろう」
千代は眉をしかめ、舌を湿らせるように水を一口飲んだ。「そうやけど……何かあったらどうすんの?」
僕は微笑み掛けた。こうして千代に優しく笑い掛けることは今まで少なかったかもしれない。千代は高島美佐ほど粘着質な性格はしていないし、僕も千代ではなく研究が第一だった。一緒に過ごす時間は多いが、他のカップルより距離はあったのかもしれない。決して仲が悪いわけではないけれど。
「万が一僕に何かあった時のために、千代に行き先を伝えておく。でも間違っても、千代は月読神社に近づくな。僕に何かあれば、警察に月読神社の話をするんだ。いいね?」
「じゃあ栄一が行かんでもよくない? 警察にその話をして、警察に行ってもらえばいい。ちゃう?」
ちゃう、と僕は答えた。この事件は僕が解決する事件なのだ。警察に任せてはおけない。もし僕が殺された後は、警察が解決しようが洞院才華が自白しようが、何だって構わない。だが僕が生きているうちは、僕の事件だ。
何がちゃうのん、と頬を歪めて問う千代を僕は見据えた。
「これは僕と洞院才華の勝負だから。洞院才華の犯罪を立証する。洞院才華じゃなく、僕こそ天才だと示してみせる。わかってくれるだろう、千代?」
千代は僕から視線を逸らし、鼻の横を掻いた。表情は納得していない。その顔の通り、千代は食い下がった。授業はどうするのか、と千代は訊いて来た。佐保の事件が起きてからというもの、僕は度々授業を欠席している。単位取得の芽が絶たれたわけではないが、これから冬に向かって行くことを考えると、今欠席し過ぎるのはもったいない。体調管理の難しい季節になりつつある。それでも僕は、事件解決を優先せざるを得ない。ようやくたどり着いたのだ。ここで投げ出すことなどできるはずがない。単位は最悪、来年取り直せばいい。
間違っても月読神社には近づくな、と千代にもう一度忠告し、僕は食堂を出た。駐輪場に着くと、鍵だけ差し込み、電話を掛けた。相手は野々宮だ。電話はすぐに繋がった。どうした、と間抜けな声で野々宮は応答した。僕からの電話は事件絡みだと決まっているのに。ちゃんと仕事をしているのだろうか。
「そういえば事件に使われた植物毒って何だったんだ? 府警の刑事からは聞かされてない」
殺害現場には意味があった。では殺害方法にも何か意味があるのではないか、と僕は昨夜から考えていた。殺人事件の中でも毒殺はかなり特殊だ。それこそ、佐保と風見の遺体は変死体と呼べるものだった。普通人を殺す時にまず思いつくのは刺殺だ。それから絞殺、扼殺……毒殺を思いついたとしても、薬品を使用するケースのほうが多いのではないか。有名どころでいえば青酸カリ、ニコチン……。植物毒を使うにしても、やはりトリカブトやドクゼリがメジャーだ。イリシンを使った毒殺など滅多にないだろう。植物……花には花言葉というものがある。犯人が――洞院才華が殺害場所と殺害方法に何かしらの意図を持っているのであれば、花言葉というのは事件解決のための鍵となるかもしれない。イリシンはアヤメ科の植物の持つ有毒成分だが、アヤメ科では分類が多過ぎて、絞り切れない。
野々宮はシャガだと言った。シャガは白い花を咲かせるアヤメ科の植物で、種子はなく、地下茎で増える。そのため自然にあちこちに繁殖することはない。つまり手に入れるのは難しい植物ということだ。事件関係者の自宅を捜索して、シャガを育てている者がいれば任意で事情聴取を行うべきだ。だが僕にそんな権限はない……。
それよりも、シャガにイリシンは含まれていただろうか。確かにシャガはアヤメ科の植物だが、イリシンが含まれている可能性があると考えられている程度で、はっきりとしたデータはなかったのではないか。むろん、イリシンが含まれている可能性は十分にあるし、それが殺人に使われたということなら、イリシンは含まれていたのだろう。
僕はインターネットでシャガについて検索した。花言葉は、清らかな愛、友達が多い、反抗、抵抗、私を認めて、といったものが書かれているサイトが多かった。いずれも、メッセージ性の強い花言葉だ。これだけではやはり絞り切ることはできない。
僕は自転車に跨った。丸太町通を西大路まで走り、四条通まで下った。西院からは、一直線で松尾大社だ。しかし今日は松尾大社が目的地ではない。大鳥居をくぐり、赤鳥居の前まで来て、僕は駐車場の大きなマップを見上げた。マップの端に、ひっそりと月読神社は描かれていた。今日も観光客は多い。松尾大社への参拝を終え、赤鳥居を出て来る観光客は、月読神社に向かう路地に行く者、嵐山に続く路地に足を向ける者、様々だ。僕は当然南を向き、たった今赤鳥居から出て来た浴衣姿の女性三人組を追い抜かし、佐保が殺された土俵のある駐車場を通り過ぎた。上り坂を目一杯登り切り、月読神社の目の前にある月読公園に自転車を停めた。
松尾大社と比べると、こぢんまりとした神社に映る。それも仕方がないだろう。月読神社だって大社と並び立つつもりはない。しかし朱色の鳥居は立派なもので、静寂に包まれる空気はまさに厳かで神聖さを感じさせる。周囲を見回したが、誰かが僕を見張っている様子はなかった。潜む物陰も見当たらない。やはり昼間は、犯人といえども手出しはできないのだろう。僕は鳥居をくぐり、石段を上がった。
神門をくぐって境内に入ると、それだけで神社を見渡せる。小さいが、森閑としていてそれが神聖さを思わせる。神門から少し左手、境内の中央には拝殿があり、和太鼓に布が掛けられている。その奥に檜皮葺の本殿が据えられている。本殿の左手には御船社、右手には聖徳太子社の末摂社が置かれている。願掛け石として有名な月延べ石は聖徳太子社に置かれている。聖徳太子社の前には社務所があり、そこで御守りや御朱印を授与してもらうことができる。僕は参拝もせず反時計回りに境内を散策した。見たところ、境内に身を隠す場所はない。強いて言えば、神社のすぐ背に西山が聳えていて、その山中に潜むことができる程度だ。
そもそも、佐保と風見は月読神社にたどり着くことはできたのだろうか。おそらくここまで来られなかったはずだ。それならば、犯人は神社には潜んでいない。僕は聖徳太子社を点検し、本殿を見上げながら御船社に移った。その御船社の置かれた石垣の前に、「解穢の水」と書かれた看板がある。そこには石造りの四角い甕が置かれていて、両端に柄杓が二本ある。解説によると、その名の通り穢れを落とす神聖な水らしく、解穢の水で手を清めると俗世の垢を落とすことができるらしい。飲用水ではないと注意書きが書かれているから、裏山から湧き出る自然水なのかもしれない。ところが今は甕に水など一滴もなく、解穢の水を目当てに来た観光客はまるで砂漠に放り出されたような気分になるに違いない。しかし僕にとっては、水のない甕はむしろオアシスに見えた。いつから水が抜かれているのかは知らないが、「解穢」と彫り込まれた石甕が枯渇しているのを見て、これだ、と直感した。
僕は周囲を点検した。洞院才華が何かを隠すとしたらここしかない。穢れを落とす……それはまさしく、自らの研究を悪用する自分への怒り、後悔、犯罪者としての垢を清めようとしたのだろう。魔女にも良心の呵責というものがあったのかもしれない。
ところが周囲に何かを隠すような場所はない。苔の生えた砂利、雑草が茂るばかりだ。埒が明かない……外れだと言うのだろうか……。僕は柄杓を甕に叩きつけたくなったが、何とか自重して、長い前髪の隙間から嘲笑の目を向けているような苔で湿った親指ほどの大きさの石を掴み、石甕に投げつけた。すると甕の中でがたっと音がした。もう一度覗くと、甕の床が斜めに傾いた。
そんなことが起こるはずはなかった……。石造りなのだ。ちょっとやそっとでは形など変わらない。だがよく見ると、甕には細工がされていて、本当の底はもう少し下にあるようだった。なぜか、石甕の首元に巧妙な石模様を塗り込んだ木の板がぴったりと嵌められていた。僕の投げた石の衝撃で、石模様に亀裂が入っている。恐る恐る、僕は木の板を取り上げた。その下にも水はなかった。しかし何もなかったわけではない。薄暗い石の中で、長方形の何かが僕には光って見えた。
ごくりと唾を飲み込んだ。いつの間にか、ひどく喉が渇いていた。まるで砂漠に放り出されたような気分だった。飲むなと注意書きがされていても、僕は今、解穢の水を飲み干したいくらい、枯渇していた。
見つけた……先走る気持ちを抑え込み、僕は後ろを振り返った。誰もいない。誰も見ていない。震える手で、それを掴んだ。
甕の底にあったのが封筒だとわかったのは、僕の手が太陽に晒された時だった。大判の茶封筒は、開封されていた! 蓋の部分に一部封筒がこびりついている。それに対応するように、封筒の裏側は少し破れている。明らかに糊付けされていた証拠だ。それなのに、開封されている……しかし中身は空ではなかった。
封筒の中にはクリアファイルに挟まれた書類とアイポッドが入っていた。クリアファイルから書類を取り出すと、A4サイズの書類が二枚入っていた。僕はその内容を見て、言葉を失った。
一枚目の上部で中央揃えされたタイトルは「天皇帰還説支持者一覧」というものだった。そこには天皇帰還説の提唱者である丹羽裕人をはじめ、早瀬誠衆議院議員、宮内庁職員の尾高柊一郎、宝石商乗金久雄、そして洞院恭介の名前が連なっていた。他にも丹羽裕人に続く京都市議、早瀬に続く国会議員ら、三十四名の名が列記されていた。洞院才華の名前はなかった。
どういうことだ……。僕はもう一枚の書類をめくった。そちらには「録音音声書き起こし」とタイトルがつけられ、わずか数行の会話文だけが書かれている。
「もうやるしかない」
「やるって本気か? これじゃテロも同然や。失敗したら、二度と陛下を京都に取り戻すことはでけへんくなる」
「それでもやるしかない。もう一人殺しちまったんだから」
「後戻りはできひんってわけか……」
何だこれは……。
僕は何かに急かされるように慌ててアイポッドの画面を叩いた。充電が切れているようで、電源ボタンを押しても起動しない。
佐保は月読神社にこれがあることを洞院才華から聞かされていたのか。洞院才華は押し進められるテロ計画の証拠を手に入れ、自らの身に危険が迫ることを予期していた。だから佐保に何かを伝えた。そして姿を消した……。その佐保もまた、その証拠を手に入れようと月読神社に向かったところを殺害された……。洞院才華はテロを防ごうとしたのだろうか。いや、そうとは限らない。テロ計画には丹羽裕人だけでなく洞院恭介も加担している。洞院才華はむしろ、テロリスト側なのではないか。たとえば佐保がテロの計画を知ってしまった。それを聞いた洞院才華が失踪という餌を撒き、佐保を殺害した……。
どっちなのか、僕にはわからない。とりあえず落ち着かなければ。僕は深呼吸をして、冷静になって書類を見直した。乗金久雄……千代に贈ったブレスレットを買った店の店主。丁寧に枠組みの組まれたリストにある乗金の名前にどこか既視感があった。それが何だったか、思い出せそうで思い出せない。僕は前髪を掻き上げ、奥歯を噛んだ。顔全体に妙な力が入って来て、焦りからか気がつくと足の爪先をばたばたと動かしていた。
何度もリストを見返した。上から下まで、何往復したかわからない。そんな中、ある名前が目に留まった。僕はその名前を目にした瞬間、吸い寄せられるように紙面を覗いていた。早瀬誠だ。その名前を改めて目にした時、乗金の名前をどこで見たのか思い出した。一年生の時か二年生の時だったかは覚えていない。しかし課題のレポートを作成している時にその名を目にしたことがあった。僕は千代のプレゼントを買いに行った時のことを反芻した。でっぷりとした巨躯……髭面……そして……間違いない。乗金久雄はガシーヌの被験者だった。彼は癌患者だったのだ。魔法の薬によって体内から癌は消滅したのだろう。しかし彼の体内には、癌細胞とは別のものが残されることになった。ペースメーカーだ。ガシーヌは心臓への負担が強い抗癌剤だ。被験者の中で生き残った者の多くはペースメーカーをつけることを余儀なくされた。乗金久雄はその一人だったのだ。
――俺も佐保にプレゼントどうしようって考えてる時に才華に教えてもろた。
千代のプレゼントのことで風見に相談した時に彼が言っていた。乗金宝商は、元々洞院才華が風見に教えた店だった。どうりで、北山の宝石店を知っているわけだ。洞院家と乗金は家族ぐるみの付き合いだったのか。
自転車でアパートまで飛ばし、アイポッドを充電して起動させた。ロックはされておらず、誰でも開くことができるようになっている。データをすべて点検したが、入っていたのは一つの音声ファイルだけだった。再生すると、衣擦れの後、書き起こされていた通り「もうやるしかない」という声がぼやけて聞こえて来た。録音したのが洞院才華なら、浴衣の袂か胸元にスマートフォンを忍ばせたのだろう。そして「失礼します」という洞院才華の声。襖が滑る音。男達は会話をやめない。やはり洞院才華はテロ計画の一味なのだ。ところどころ、洞院才華の声と重なったり、着物の深い位置にスマートフォンを忍ばせているせいで音声が聞き取りづらかったりした。文字に起こしたのは正解だろう。
ただどうして洞院才華が会話を録音し、文字に起こしてまで月読神社に隠したのか。考えられることは二つ。一つは彼女がテロに賛同はしておらず、止めようと考えている。もう一つは彼女が殺人を担当しているが、それは彼らに指示されてやっただけだという証拠を残そうとした。可能性として高いのは後者ではないか。彼女が部屋に入って来た時、男達は会話をやめなかった。それは洞院才華がテログループの一員であることを示している。少しでも彼女が反対していれば、こんな物騒な会話は聞かれたくないはずだからだ。その点すでに血に染まっているのであれば、男達が洞院才華を気にせず会話を進めたことにも納得だ。もし洞院才華が殺人に何らかの形で関与しているのなら、反抗という花言葉を持つシャガを選んだことも頷ける。
さらにこの音声データでわかったことがもう一つある。それはテログループの会合場所は洞院家の、川端通の旅館であるということだ。これは間違いなく洞院才華が録音したものだ。彼女は客室に料理を運ぶ。音声データの中では日本酒を運ぶために部屋に向かっている。僕が宿泊した時も、彼女が料理を運んで来た。洞院恭介の名前がリストにあるから、これは確定だ。
旅館で見た丹羽裕人……親戚の家に来たのだと彼は言ったが、本当はテロ計画について話し合うためだったのではないか。あの後早瀬らの出入りを押さえることはできなかったが、あの場には洞院恭介がいたのだから、会合はできる。
それに、もう一人殺しちまったんだから、という言葉。洞院才華が失踪前に録音したものだ。つまり佐保が殺害される前の会話ということになる。この一人というのは、駒場敬一のことに違いなかった。駒場敬一は皇室批判を行っていた。
佐保と風見を殺した犯人は学内にはいない。いるとすれば洞院才華しかあり得ない。船槻敦も高島美佐も、事件とは無関係だ。
床に寝そべると、さすがに頬が引き攣った。相手はテロリストだ。僕一人で太刀打ちできる相手じゃない。手探りでスマートフォンを見つけると、野々宮に重大な証拠の発見を報告した。ただし、まだ上司には報告しないよう頼んだ。天皇帰還説の支持者と下手に接触すると、取り返しのつかないことになるかもしれない――。
14へと続く……