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連載長編小説『破滅の橋』第四章 出口の光と友3
3
呻き声のような声を出しながらひとつ伸びをした。強い陽射しを受けて目がちかちかする。体を起こそうとして、ひどく頭が重いことに気がついた。
ぼりぼりと頭を掻き、大きく欠伸する。スマートフォンの画面に表示された時刻はすでに午前十時を過ぎていた。工藤は乾いた口をロバが草をすり潰すように動かし、布団から立ち上がった。
廊下に出ると、やけに静かな気がした。三年前までは、まだ実家に妹が住んでいた。しかし妹ももう立派な社会人だ。今は仕事の関係で北陸に暮らしている。
おはよう、といいながらリビングに入ると、朝の情報番組がテレビに流れていた。かわいらしいキャラクターがこれからのラインナップを紹介している画面だった。テレビを見ていた父は、おう、とだけいった。
「よく寝たねー。お腹空いてる?」もう十時なのに、母はまだ忙しそうにばたばた動きっ放しだ。
「腹減った。何かある?」
「鮭とお味噌汁があるけど」
じゃあそれで、と我が家の定番朝食メニューをリクエストした。焼き鮭に濃厚な味噌汁、沢庵と白米。時々ハンバーグが出てくることもあった。
「何時頃帰るの?」納豆ご飯を掻き込んでいると母が訊いた。
「昼過ぎには」
「そう」
母は露骨に嫌な顔をした。もう少しのんびりしていけばいいのに、というのが母の本音なのだろう。大人になっても子供は子供ということだ。妹のことも、ひどく心配しているに違いない。
味噌汁を飲みながら微笑ましく思った。
「あんたももう三十なんだから、そろそろ健康には気をつけなさいよ」
工藤より三十歳も年上なのに、まるで息子のほうが老人のようにいう。工藤は微笑しながらわかってるよ、と答えた。
「母さんのほうこそ」
「もう、皮肉らないでよ」母はまるで少女のように頬を膨らませると、声をひそめていった。「お父さんがもう少し家のこと手伝ってくれたらいいんだけど」
はあ、と思わず息を吐いた。相変わらずだ。幼い頃から工藤は父が家事を手伝うところを見たことがない。父はそれが当たり前の時代を生きてきたのだから母も諦観しているのだろう。
父はまだじっとテレビと向き合っている。
食べ終えた食器を流し台に置き、蛇口を捻る。インスタント・コーヒーを持って父のそばに座ると、最近よく聞くようになったパワーハラスメントの特集が放送されていた。
「最近パワハラが本当に多い。こんなもの、俺たちの時代は普通だった」父は湯飲みを口に運びながらぼそぼそっといった。「まったく、大変な時代になったものだ。おまえも部下や後輩ができてきただろう。重々気をつけろ」
いわれなくてもわかっている、とはいわなかった。「うん」
会話が途切れると、テレビの音と、時々聞こえてくる鳥のさえずりだけが部屋の中に存在しているようだった。真上から照りつける太陽の光はアスファルトに反射して、ずいぶん柔らかくなった日光が部屋の中に注がれた。空気中に漂う風が、簾を緩やかに靡かせている。
祖父母の家のような落ち着いた匂いが心地よかった。
それでそれで、と愉快な声を上げながら母が腰を下ろした。「梨沙ちゃんとはいつ結婚するの」
父も息子の結婚は気に掛けているらしく、ほんの一瞬だけちらりと視線を寄越した。工藤は苦笑して頭を掻いた。
「お母さん、早く孫の顔が見たいな」
「孫の顔って……。まだ結婚もしてないのに」
「だから結婚しないのかって話をしてるのよ」
「女の人は出産のことも考えないとだめなんだから」と父も口を挟む。「そろそろ年齢的にも結婚を真剣に考えないといけないんじゃないか」
工藤は工藤なりに、結婚を考えていないわけではなかった。だから正直そっとしておいてほしい。ただ、子供を作ることはあまり考えていなかった。たしかに梨沙の出産の条件を考えれば、そろそろ結婚しなければならないのかもしれない。
こういうずぼらな性格が、父によく似ていると思う。まるで自分のことしか考えていない。梨沙のことを心のどこかで軽んじていたような気がして自分に腹が立った。
「結婚は、考えてる」工藤はいった。
「もうプロポーズしたの?」
いいや、と工藤は首を振った。「それはまだ」
「近々、プロポーズするのか」
「まだはっきりといつっていうのは決めてないけど……」
本音をいっているのに声が震えた。まだ結婚というものが漠然としていてその輪郭も見えていない。
「大人の女性の人生を、その責任を持つのが怖い気がするんだ」工藤の胸の中で大きく反り立つ壁があった。その壁を乗り越えなければ、結婚にはたどり着けない。
「そんなの考え過ぎよ」といって母は笑った。そばで父も失笑を漏らしている。母があまりに笑うので、ひょっとすると物凄く小さな悩みなんじゃないかと思いそうになる。
母はいつだってそうだ。大きな不安を消せはしないが、等身大のものに見えるように笑っていてくれる。
「気持ちはわかるけどな」父はいった。
「父さんは、結婚して家族ができてどうだった?」
「そりゃあいいもんだ」すっかり老け込んだ表情が、ぱあっと晴れていく。「幸せそのものだよ」
結婚したら、自分もそう思えるのだろうか。
工藤が相槌を打っていると、父は苦笑して続けた。
「反抗期に娘からめちゃくちゃ突き放されたのはさすがに応えたがな」
そのおかげで今ではずいぶん頭が薄くなっている。もちろん、娘の反抗によるストレスだけが原因ではないのだろうが。
「それも良い思い出でしょうに」母は笑っていった。
そうだ、とはいわずに父は頷いた。妙に貫禄のある頷きだった。「それでもじつの娘だ。そういう苦労も全部ひっくるめて家族だ」
「なるほどなあ」
父はくるりと体の向きを変え、すでに今朝読んだであろう新聞を手に取った。こちらには向かず、新聞の文字を見ながらいった。
「信頼できる人がいつも身近にいることほど素晴らしいことはないぞ」
母を見ると照れ臭そうに肩を上下させた。
昼食を摂ってから帰り支度を済ませた。玄関を開けると風鈴が音を出すのでカフェのドアベルを連想した。靴を履くと母から荷物を渡された。
「じゃあ、行ってきます」京都に戻る時は、なぜかいつも行ってきますという。京都が自分の暮らしている地域なのに。
「次に帰ってくる時はお嫁さん連れてきてね」母は冷やかすようにいう。
「体にはくれぐれも気をつけろ」父はやはり不愛想にいう。
うん、と頷き、工藤は家を出た。少し進んで振り返ると、まだ母がこっちを見ていた。大きく手を振っている。工藤は手を振り返した。ひとつ目の角を曲がったところで、風鈴の揺れる音が聞こえた気がした。
4へと続く……