見出し画像

連載長編小説『滅びの唄』第五章 支柱 4

 目が覚めると、殺風景な天井に殺人的に鋭い陽光が差していた。杉本は背中で感じる硬い感触を怪訝に思いながら、体を起こした。夏の風が吹き込む窓からは竹藪が見える。竹から伸びた枝葉が、暑苦しそうに揺れた。
 翠風荘の祖母の部屋だった。祖母はいない。それを知って初めて、杉本は状況を理解しようとした。記憶を辿ると、救急搬送された祖母の元に駆けつけるため急遽東京から戻り、そしてその後しばらくして市立病院を出て翠風荘に向かった。
 記憶はそこでぷつりと途絶えた。いつにも増して鼻がすうーっと通る。杉本は寝ぼけまなこを擦って、腕時計を見た。針は午前十一時を指していた。
 慌てて起き上がろうとすると、「おはよう」と女性の声がした。視界の端に千鶴の姿が映った。
 すぐに千鶴の声だと判断できなかったのは、寝起きでまだ聴覚がうまく活動していなかったせいだ。千鶴は夜中に来ていた黄緑のポロシャツから、花柄のワンピースに着替えていた。
「引継ぎは?」
「そんなの、もうとっくに終わった。それより、よく寝てたね」
「一睡もしてなかったからな」
 通常業務の後珠里の元に赴き、その後午後九時を回って和泉真梨と会っていたのだ。そして夜中に急遽S市に戻った。昨日のスケジュールで一睡もせずに動き続けるというのは不可能だった。つくづく今日が休日でよかったと杉本は思った。
「タクシーからここまで凌也を運ぶの、すごい大変だったんだから」
「千鶴が運んだのか?」
「まさか」
 千鶴は自分の太腿を叩いて破顔した。その屈託のない笑みを見て、千鶴もようやく一息つけているのだなと思った。
「肩は貸したけど、ここまでは凌也が自分で歩いたんだよ」
「まったく覚えてない」
「だろうね、殆ど寝てたもん」
 杉本は苦笑し、改めて腕時計を見た。祖母からもらった腕時計を見て、自分がなぜ翠風荘に来たのかを思い出したのだった。
「荷物……ばあちゃんの荷物、持って行かないと」
「そうだね」
「まだ何もやってない?」
「当たり前じゃない。私親族じゃないし、しかも翠風荘の介護士で、勝手に清子さんのものに触れるわけにはいかないでしょ。まだ寝ぼけてんの?」
「そんなに言わなくてもいいだろ」
 杉本はベッドから飛び降り、クローゼットを開けた。千鶴が手配したボストンバッグに祖母の衣服を詰め、今度は冷蔵庫を開けた。しかし飲み物などはすべて中途半端に残っていて、わざわざ持って行くほどのものはなかった。
 棚に置かれた写真立てを見て、杉本はそれをすべて丁寧にボストンバッグに入れた。写真立ては全部で四つだった。一つは祖父と旅先で撮った写真が入っている、もう一つは祖母の娘、つまり杉本の母の花嫁姿が収められた写真、そして三つ目が孫の初出勤の日に撮影したスーツ姿の写真だ。さらにもう一つ、これには祖父が写っているが、他の二人は杉本の知らない人達だった。これもウエディングドレスの花嫁姿だが、母の結婚式のものではなかった。
 それから杉本は抽斗を上から順に開けていき、その中から一つだけを手に取ってボストンバッグに収めた。杉本がまだ幼い頃に祖母にプレゼントした、チョコレート菓子の入っていた宝箱だ。祖母はこれを大切に保管してくれていた。目が覚めた時にこれがあれば、喜んでくれるのではないか。
 杉本は、ボストンバッグのファスナーを締めた。
「よし、病院に行こう」
 二人は翠風荘を出て、国道沿いに少し進み、市立病院に向かう市バスに乗り込んだ。土曜のお昼時ではあったものの、バスの中は空いていて、座席に着くことができた。ボストンバッグを膝に載せ、窓際に詰め、杉本の横には千鶴が座った。
 まるでタイヤがパンクしたのかと思うほど緩やかな速度でバスが走るから、窓の外を流れる景色を見ているとまた眠気に襲われた。杉本は一つ大きな欠伸をした。
「まだ眠いの?」
 座席の前の手摺を掴んでいた千鶴が言った。彼女は杉本の顔を覗き込んできた。
「俺が翠風荘で寝てる間、千鶴ずっと横にいたのか?」
 幼馴染とはいえ、ずっと寝顔を見られていたかもしれないと思うと、恥ずかしかった。大人になって、熟睡中の顔を盗み見られることほど恥ずかしいことはない。
「早番の人に引き継いでからは大体。でも途中におばさんと連絡取ったりしてたから、その間は部屋の外にいた。疲れてるみたいだし、起こしちゃ悪いと思って」
「母さん、病院いるのかな」
 一度帰った母が午前中にまた祖母を見舞うことを忘れていた。
「おばさん、もう帰ったみたい」
 千鶴の一言にほっとする自分がいた。
 時刻は午前十一時半になろうとしている。午前中に母が拘っているわけではないだろうけど、文字通りの午前中はあと三十分しか残されていない。
「そっか、もう帰ったのか」
「凌也が寝てる間にお見舞いして、凌也が寝てる間に帰っちゃったの」
 市立病院前の停留場で下車した杉本は、ボストンバッグを肩に提げ、千鶴と入院病棟に向かった。夜中とは違って人の往来が激しい。祖母の入院する病棟に向かう途中、重症患者が運び込まれるか手術室に移されるかしていたが、その周囲に早口早足で仕事をする看護師の姿を見て、杉本は何だか死を急かされているような気がした。もちろん目の前の命を必死に救おうとしているため、すべての所作の速度が速まるのだろうけど、杉本は、患者と散歩しながらゆっくりとした口調で話す看護師を見て、こちらは死が急かされていないような気がしたのだった。
 祖母の病室に入った時、ちょうど看護師が巡回検診に来ていた。祖母はまだ目を覚まさないようだが、その祖母に向かって看護師はゆっくりとした口調で語りかけていた。杉本は、何だかほっとした。
 病室を出て行く看護師と軽い挨拶を交わし、杉本はベッドの脇にある棚に写真立てを並べた。宝箱を置いた後、衣服を整理した。
 少し落ち着いた頃、千鶴が昼食を買いに出ると言った。市立病院の目の前に、大きなパン屋があるとのことだった。杉本は一緒に行こうかと言ったが、千鶴が拒んだ。祖母の側にいてあげてほしいとのことだった。
 杉本は、丸椅子に腰掛けた。
 千鶴がパンを買いに出て間もなく、祖母の主治医が検診に来た。祖母を観察し、黙ったまま頷く。そして杉本に名乗った。医師は、廣澤といった。
「お孫さんですね。上島さんの娘さん、凌也さんのお母様からお名前は伺いました。急なことで、戸惑うところがあるかもしれませんが最善を尽くしますので」
「はい、よろしくお願いします」
「お母様にはお伝えしましたが、凌也さんにも話しておきましょう。お母様が言っておられました。自分よりも息子のほうが心配しているだろう、と。もちろんご心配なのはよくわかります。ですが今は、ご安心ください。命に別状はありません。朝の内にⅯRI検査などいくつかの精密検査を行いましたが、病気は見つかりませんでした。血液検査の結果も特に問題は見られません。ただ七十八歳と高齢ですので、内臓機能などは低下しています。今回意識を失われたのは、そういった部分が原因なのではないかと思われます」
「そうですか。それはよかったです。病気がないというだけでも、ほっとしました」
「とりあえず、お目覚めになりましたら、しばらく経過観察をしながら適宜検査を行いまして、問題がなければ一二週間で退院できるでしょう」
「わかりました」
「では、私はこれで失礼します」
 廣澤医師がドアを開けると、そこには紙袋を提げた千鶴がいた。千鶴はぎょっとしたような表情になって会釈すると、するりと病室に入って来た。
 千鶴はひどく顔を曇らせていた。
「先生? どんな話?」
「朝の内に色々検査したんだって。でも何も異常は見つからなかったから安心してくださいって」
 千鶴は紙袋をテーブルに置くと、項垂れるように息を吐いた。杉本は千鶴に椅子を譲り、病室の外から丸椅子をもう一脚運び入れた。
「よかった、病気はなかったんだね。よかったー」
 千鶴は手際よく杉本と自分のパンを分けていき、気の利いたことに飲み物まで買ってきてくれていた。二人は、昼食を摂った。
 それから一時間ほど経った時、杉本の握る祖母の手がぴくりと反応した。息を呑んで見守ると、再びぴくりと手が動いた。今度はさっきよりもはっきりとした動きだった。
「ばあちゃん」と呼び掛けると薄く目を開けた。その時には窓辺にいた千鶴もベッドに近寄っていて、「清子さん、清子さん」と繰り返し呼び掛けていた。酸素マスクの中で、祖母は微かに笑った。
 千鶴は素早くナースコールを押した。
「ばあちゃん、俺、凌也、わかる?」
 祖母は小さく頷いた。それから千鶴のほうに頭を回し、またにこりと微笑んだ。千鶴は泣いていた。
 まもなく看護師が部屋に着て、杉本は祖母が目覚めたことを伝えた。すると廣澤医師も飛んで来て、問診を始めた。
「よかったね、凌也」
「うん、よかった……」
 二人は病室の入り口まで離れて問診の様子を眺めていた。杉本は安心のあまり涙腺が緩むのを自覚したが、千鶴があまりにも泣きじゃくるので、泣くに泣けなかった。千鶴を労いながら、澄まして祖母を見守った。
 廣澤医師の問診が始まった頃はベッドに横になっていた祖母も、今では体を起こしていた。目覚めてから三十分ほどが経過し、問診も終わったことで心も体も少し楽になったのかもしれない。
 祖母はトイレに立った。千鶴がそれに付き添った。
 その間に杉本は看護師を経由してベッドのシーツを取り換えてもらった。祖母は眠っている間に、かなりの汗をかいていた。皺一つない真っ白なシーツを杉本はさらりと撫でた。これで祖母も気持ちよく横になれるだろう。
 ガララ、と物騒な物音を立ててドアが開いた。開けたのはむろん、祖母ではなく千鶴だ。まったく、個室でなければ他の患者から苦情が来ていただろう。振り返ると、千鶴は顔をしかめて口を突き出していた。これは不満がある時の彼女の癖だった。
 どうしたのだろう、と杉本は小首を傾げた。
「清子さん、さっきから弱気なことばっかり言うの」
 祖母にベッドまで付き添うと、千鶴は言った。
「弱気なことって?」
「もう長くないとか、今までありがとうとか、じいちゃんがそろそろ迎えに来る頃だとか。そんなことないでですよって言っても、もうすぐ死ぬのはよくわかってるって言うの。凌也も何とか元気づけてあげて」
「千鶴ちゃん、あなたはまだ若いし病気もしたことがないだろうからわからないかもしれないけど、死期が近づくと感覚的にわかるものなのよ。これは当たるもの。じいちゃんも何度か大きな病気をしたけど、今度は死ぬって言ったのは最後の一度だけ。それまでは病気になっても死を悟らなかった。どう説明すればいいのかわからないけど、とにかく今、その死期を悟ったのよ」
 千鶴は眉をひそめてこちらを向いた。
「倒れるなんて今までなかったから、さすがのばあちゃんも心が弱ってるんだよ。きっと大丈夫。すぐに退院して、長生きできるよ」
 凌也はそう言った。しかし祖母の言う通り、死期は刻一刻と近づいているのかもしれなかった。これまで生死に拘わる大きな病気もなく、そしてそれは今回も同様で、しかしながら意識を失って倒れてしまったというのは、明らかに体の衰えなのだろう。病気がないからといって、人が死なないとは限らないのだ。
「もう十分長生きしたねえ」祖母は笑った。「何年……もう十年になるのねえ、久しぶりにじいちゃんに会いたくなってきた」
「そんなこと言わないでさ、もうちょっと俺と話したり、散歩に出たりしようよ」
「そうですよ清子さん。凌也といるの、楽しいですよね?」
「それもいいねえ。どっちとも選べないわ」
「長生きしましょ。きっとたくさん良いことがありますよ」
「もう十分長生きしたよ。最近は体も重いし、こうなったらもう命に未練はなくなるものよ。きっと何十年も後になって、千鶴ちゃんも同じように感じるでしょう。長生きだけが人生じゃないからさ」
 杉本は声を出して笑った。その瞬間に、千鶴が不貞腐れてこっちを睨んだ。
「何で笑ってんの?」
「いや、ばあちゃんらしいと思ったから」
 杉本は祖母に顔を近づけ、棚のほうを指差した。そこには翠風荘から持って来た写真立てが並んでいる。
「今朝、翠風荘から持って来た。あれがあるだけで、静かな病室も全然違うだろうし」
 祖母はにこりと微笑んだ。
「そうね、ありがとう」
 杉本は、母の花嫁姿ではない、誰ともわからぬ花嫁と、そして花嫁を挟む祖父と見知らぬ男の映った写真を手に取った。
「これ、じいちゃん以外の二人はまったく知らない人だけど、いつもばあちゃん飾ってたから持って来た」
「これはねえ、じいちゃんが大事にしてた写真なの。同級生の娘さんが結婚した時の写真で、十五年くらい前のものかな」
「このウエディングドレスの女性は友達の娘さんだったんだ。じゃあ、母さんと同世代くらいか」杉本は写真を眺めた。祖父と同じように花嫁の横に立つ男は、燕尾服の上からでもそれとわかる逞しい筋肉を持っていた。顔もゴツゴツと大きく、笑っているが怖い印象だった。「何か、この人厳ついね」
「仕方ないわ。その人ツダタツロウっていうんだけどね、ツダさんは裏社会に関係した人だったみたい。ばあちゃんは会ったことないけど、じいちゃんは昔一緒にヤンチャした悪友だって言ってたわ」
「悪友、ですか?」
「ええ、悪友。最近の子は大人しいから、歳を取っても昔の悪友なんてのはないかもしれないわね。凌也、そんな怖い顔しなくていいの。ツダさんは裏社会に通じている人だけど、じいちゃんは堅気で一生を終えたんだから。何も心配することないわよ」
 杉本は、青い顔で頷いた。
 べつに祖父が裏社会の人間と関わりを持っていたことに顔色を変えたのではない。祖父のかつての悪友というツダタツロウその人の名前に反応しているのだ。杉本の頭の中で、ツダタツロウは瞬間的に津田辰郎に変換されていた。
 津田辰郎――それは森岡珠里の才能を見出し、日本中を巡った天使のコンサートの主宰者であった人物の名前だ。
 津田辰郎は裏社会に通じていただと? そんな男がどうして珠里の背後に存在していたのだ。バブル崩壊の煽りを受けた森岡鉄平の不動産業――多額の借金――まさか森岡鉄平は裏社会から金を借りていたというのか? そして珠里は、その返済のために裏社会の獰猛な男に操られ、利用されていただけだというのか?
 杉本は頭を抱えた。祖母を見る目が、瞳の奥の瞳孔が、開いていくのがよくわかった。千鶴が何か話しかけてきたが、その声はうまく聞き取れなかった。
「持って来たのは写真だけかい?」
 祖母の声に、杉本は我に返った。
「宝箱はないの? ばあちゃん、あれが一番大切なんだよ」
「それなら抽斗に――」千鶴は俊敏な動きで抽斗を開けると、祖母に宝箱を渡した。「ちゃんと凌也が用意してました」
 祖母は宝箱を受け取ると、小さな南京錠を開けて蓋を開いた。杉本の前で祖母が宝箱を開けるのは祖父のライターを御守り代わりにくれた時以来だ。
 祖母は中から指輪を取り出した。
「結婚指輪よ。結婚してすぐにはお金がなくてね、ばあちゃんべつに指輪なんていいって言ってたのに、じいちゃんコツコツお金を貯めてこれを買ってきて、でもばあちゃんの指にはちょっと大きくてね、指から落っこちちゃうの」
「優しいけど、ちょっと腹立ちません? そんなに指太くないのにって」
「ちょっとは思ったけど、そんな時は喜びが勝るものなの。じいちゃんは買い直すって言ったんだけど、ばあちゃんこれがいいって指輪を離さなかったの。でも指に嵌められないものだから、ずっとダイニングテーブルの真ん中に置いてたんだけど、それから何十年も経って、凌也がこの宝箱をくれたから、この中にずっと大切に保管してた。ばあちゃんの、宝物」
「だから俺に御守りとして渡したのは指輪じゃなくてライターだったの?」
 杉本はズボンのポケットからライターを取り出して、祖母に見せた。
「いいや。この指輪はばあちゃんのものだけど、そのライターは今もじいちゃんのもの。だからじいちゃんに凌也を守ってもらうにはじいちゃんのものじゃないとだめでしょう?」
 杉本は首肯した。
「なるほど。これはじいちゃんの遺品だもんね」
「この指輪も、ばあちゃんが死んだら凌也に譲ろうと思ってる」
「清子さんまたそんなこと言って……」
 杉本は指輪の穴をじっと見つめた。祖母の指からは抜け落ちてしまうサイズだが、男の杉本の指にはやや小さいサイズのようだった。祖父の指にはこの指輪はぴったり嵌ったのだろうか。
「あったら邪魔?」
「いや、きっとばあちゃんが守ってくれる」杉本は指輪を手に取って指に通してみた。指輪は第二関節で止まった。「肌身離さず身に着けるよ」
「嵌らないじゃないの」
「ネックレスにするよ」
 和やかな笑い声で病室が包まれた時、杉本のスマートフォンが震えた。取り出して確認すると、沙希からメールが届いていた。
 千鶴の目を気にした杉本は病室の外でメールを確認した。沙希は、森岡真弓と親しかった牧田というママ友が水曜日なら都合が良いらしいことを書いていた。
 杉本は無給休暇を願い出るために、上司に電話を掛けた。

5へと続く……

いいなと思ったら応援しよう!