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連載長編小説『別嬪の幻術』3

        3

 今朝も、千代はブレスレットを嬉しそうに嵌めていた。欠伸を九回するだけの講義を終え、千代とは別れた。次の時間から、僕は立て続けに講義を聞き、千代は実験を行うからだ。
 講義室に着席して、周囲を見回す。おかしい。一限の時もそうだったが、風見の姿がない。風見は大真面目な学生ではないので時々授業をサボることがあるが、それはごくたまにだ。それに彼の場合、サボるのは学期の中盤と決まっていた。まだ後期が始まって二週目だ。サボるには、早過ぎる。もう一度講義室を見回したが、やはり風見の姿はなかった。
 寝坊か、と口の中で呟きながら電話を掛けた。親切心で起こしてやろう、というよりは、寝坊を知った時の風見のリアクションにそそられて電話を掛けた。呼び出し音が鳴る間、口元が曲がるのを自覚した。
 電話は繋がらなかった。やはり寝ているのか。よほど深い眠りなのか、よほどいい夢を見ているのか、昨夜遅くまで佐保の相手をしていたのか……寝坊は寝坊だ。
 僕はもう一度電話を掛けた。今度は親切心だった。やはり人間、含みがあるのはいけないのか、今度はすぐに応答があった。
「もしもし……」くぐもった声は寝起きのそれと似ているが、声がかすれていない。喉は開いているようだ。しかし覇気がない。ただ、体調が悪いというわけでもないだろう。佐保と喧嘩でもしたのだろうか。
「学校は? サボりか」僕は小さな笑い声を交え、冗談を言った。ちょうど准教授が講義室に入って来た。
「それどころとちゃう」風見は言った。電話の向こうから、街の喧騒に似た物音が聞こえる。それが何かははっきりとわからない。風見が街中にいるのは確かだが。
「どういうこと?」声のトーンを落とし、僕は訊いた。まさか事故でも起こしたのだろうか、と思ったからだ。街中でそれどころじゃない状況で、すぐに思い浮かんだのは交通事故だった。風見は中京区からバイクで通学している。
「それどころちゃうねん!」
 突然怒鳴られ、思わず耳からスマートフォンを離した。スピーカーにしていたら、講義室が凍りついただろう。鼓膜がじりじりと痛む。
 風見が声を荒らげるのは珍しい。彼はどちらかといえば体育会系で、筋肉質だが、普段は温厚で、冗談を饒舌に載せている。佐保とも殆ど喧嘩をしない。僕も、こんな風見を見るのは初めてで、さすがに戸惑った。
「どうした……何があった?」声を一段と落とし、僕は訊いた。十分にも一時間にも感じられるほど長い三十秒ほどの間、風見は沈黙した。電話口から漏れ聞こえてきたのは、風見が洟を啜る音だけだった。
 沈黙の後、風見は佐保が殺されたと言った。嗚咽混じりで聞き取りにくかったせいもあるが、僕は風見の言葉をすぐに飲み込めなかった。何だって、と訊くと、風見はまた声を荒らげた。「佐保が殺されたんや! 今朝亡くなってんのが発見された」
 僕は慌てて机の上のノートや筆箱を片付け始めた。スマートフォンを耳と肩で挟み、「今どこ?」と訊いた。席を立つのと同時に、チャイムが鳴った。
「松尾大社や」
 京都市内の地図は、この二年半で概ね頭に入っている。松尾大社は、京都市の最西端だ。古都大からだと、自転車で四、五十分は掛かる。電車のほうが早いだろうか。タクシーを使うか……考えている暇はなかった。
「今から向かう」
 そう言って電話を切ると、僕は自転車に跨っていた。細い太腿でペダルを漕ぎ、丸太町通を一直線に西へ走った。京都御苑を通り過ぎる時には、すでに服の中では大量の汗をかいていた。一気に花園まで来た。そこで一度立ち止り、僕は地図アプリで道順を確認した。嵐山を観光したことはあるが、松尾大社には行っていなかった。嵐山から少し下ったところにあることは知っているが、細かな道順がわからない。そのため、古都大を出てから一時間を要し、ようやく松尾大社に到着した。花園から四条通まで下り、あとはひたすら西進した。桂川に近づくと四条通は角度のある上り坂となり、体力のない僕にはきつかった。しかし松尾橋に差し掛かり、松尾大社の大鳥居の笠木が見えた時は、不思議と力が湧いて来た。
 大鳥居で自転車を降り、手で押しながら中へと進んだ。殺された……ということは、警察が来ているはずだ。鳥居をくぐるとすぐに駐車場があったが、そこにパトカーは見当たらなかった。石畳の表参道には屋台が出ていて、殺人事件が起きたような雰囲気ではない。ただ、松尾大社の入り口にある交番は少し慌ただしい様子だった。結局、僕はそのまま進み、赤鳥居までやって来た。ここから松尾大社の本殿へと入っていける。だが松尾大社が変わっているのは、大鳥居から赤鳥居まで来ると、左右に普通の路地が続いているということだ。僕は赤鳥居の前で周囲を窺った。赤鳥居前の駐車場には、パトカーが数台停まっていたからだ。制服警官が何やら話をして、左手の路地に向かった。僕は警官の後を追った。
 路地には家屋が立ち並び、上桂まで一本道が続いているようだった。道幅は狭く、街灯も少ない。夜は軒先の明かりくらいしか頼るものがないのではないか。赤鳥居から二分ほど歩いたところに、また駐車場があった。こちらも松尾大社の駐車場で、その一角に土俵があるのが特徴的だった。こちらの駐車場に、警察車両は大量に停まっていた。
 制服警官、背広姿の刑事、鑑識課員、駐車場の警備員、神社の関係者らしき人、観光客か野次馬か区別のつかない人々……その中に、風見の姿があった。肩を落とし、背広姿の刑事と何やら話をしている。風見の目が、ふと僕を捉えた。たぶん、僕の顔は引き攣っていただろう。風見と目が合った瞬間、どんな顔をすればいいのかわからなかった。微笑み掛けるのも、気安く手を上げて挨拶を交わすのも違うだろう。かといって目を逸らすのも薄情だ。僕はただ、息を呑むことしかできないでいた。
 風見がこちらに歩き出すのが見えたので、僕は野次馬を掻き分けるように、駐車場へと入っていった。一度警備員に立ち入るなと言われたが、警備員に風見が声を掛けると、刑事の許可もあり、僕は駐車場内に入れてもらうことができた。つかつかとやって来た細身の若者を、刑事は「誰や」という目で見ていた。
「どういうこと?」僕は風見に訊いた。
 風見は頬をぴくりと動かし、首を捻った。
「わからん。佐保が誰かに殺された……わかってんのは、それだけや」
「佐保は?」
「もう運ばれていった。解剖とか、しなあかんし」風見は駐車場の真ん中辺りまで歩くと、立ち止った。「ここで倒れてたんや。なかなか……残酷な姿でな」
 風見は、佐保の遺体を見たのだろう。せり上がって来た胃液を飲み込んだのか、喉仏が大きく上下に動いた。
「死因は?」
「まだはっきりとはわかってない。でも、毒物やろうってカシワバラ刑事は言うてた」
 毒殺……毒物など、意図していなければ持ち合わせていない。犯人は、佐保を殺すつもりが初めからあったということか。
 風見の会話の流れから、「どうも、カシワバラです」と三十代半ばと思われる刑事が割り込んできた。シミの目立つこめかみを隠すことなく、髪は短くスポーツ刈りだ。僕なら前髪でシミを隠すのだが。おまけに背も低い。百七十センチないくらいだろう。
 男は名刺を差し出した。そこには京都府警捜査一課警部補という肩書きが印刷されていた。柏原と書くようだ。柏原刑事は、僕の情報を求めた。僕は学生証を提示した。そこには古都大学薬学部薬学科築山栄一という個人情報と共に僕の不自然な真顔の証明写真が貼りつけられている。柏原刑事は風見のほうを見て、なるほど、と首を動かした。風見が僕を駐車場内に招き入れたことに納得したのだろう。
「奈良原佐保さんとのご関係は?」
「同じ大学の学生です」僕は答えた。そうとしか答えようがない。学部が違うがどうやって知り合ったのか、風見から恋人として紹介された。どれくらいの頻度で顔を合わせていたか、殆ど毎日、少なくとも二、三日に一度。一緒に出掛けることはあるか、まあ時々。風見とはどういった間柄か、同じゼミで、学内では大体いつも一緒にいる。何かトラブルを抱えていなかったか、佐保のトラブルについては知らないし、僕自身佐保とトラブルはなかった。
 一通り佐保との関係についての質問が終わると、柏原刑事はアリバイについて訊いた。
「昨夜午後八時頃から今朝未明にかけて、何をしておられましたか」
 対象の時間がずいぶん長いですね、と僕が言うと、まだ犯行時刻も割り出せていませんので、と刑事は言った。さっきから手帳を開き、ボールペンでそこに情報を書き込んでいるが、時々そのボールペンで首の後ろを掻く。どうやらそれが柏原刑事の癖らしい。
 昨夜は北白川でラーメンを食べた。その後は一乗寺のアパートに帰り、午前一時には眠っていた。目が覚めたのは午前七時半頃で、支度を済ませ大学に向かった。刑事に言わせれば、アリバイはない。
「毒殺だと伺いましたが」手帳をしまいかけた柏原刑事を見て、僕は言った。
「ええ。彼氏さんの前であまり言いたくないことではありますけど、まあ、酷い状態でした」
「発見された時、佐保はどんな状態だったんですか」
 柏原刑事はちらりと風見を見た。風見は目を伏せた。自分の口からは言いたくないから、代弁してくれと意思を示したのだろう。
 柏原刑事は言った。
「ちょうどこの辺りに仰向けで倒れていて、被害者の顔、衣服、それから周辺には血の混じった吐瀉物が広がっていました。体は反り返るようになっていて、首筋は伸びきっていました。それから……」刑事は言い淀んだ。吐瀉物の臭いに鼻をしかめ、指で鼻孔を掻く。「下痢で下着とズボンが汚れていました」
 嘔吐……下痢……。首筋が伸びきっていたということは、最後は呼吸器をやられたのかもしれない。苦しみもがき、酸素を求めて体を仰け反らせたのかもしれない。神経毒……トリカブトやキンポウゲ、ドクゼリやドクニンジンでも似たような症状が出ることはある。何が使われたのか、今の段階で特定することは難しい。
 いつのまにか、僕は顎に手を添えていた。ちらりと風見を見て、確かに、口に出すのは憚られる死に様だな、と思わざるを得なかった。
「防犯カメラはないんですか?」
「ありません。唯一の頼みの綱が駐車場に停まっていた一台の車ですが、奈良原さんが殺害された場所はドライブレコーダーの死角になっていましたから」
「目撃者も――」
「いません」
 そもそも夜中に松尾大社の敷地に入ることは可能なのかと僕は訊いた。事件の起きた駐車場も、午後五時閉鎖と書かれている。閉門後も、乗り越えられないような塀ではないのだが、駐車場内で殺害を企んでいたのだ。まさか佐保を担いで塀を登るわけにもいかないだろう。刑事の答えは、可能、だった。松尾大社に参拝することはできないが、赤鳥居から路地へと入っていくことはできる。考えてみれば、そのはずだった。路地には民家が並んでいるのだ。松尾大社の営業終了と共に誰も入れなくなれば、そこに住む人々が帰れなくなる。
「犯人の目的は?」
「風見さんに確認していただいたところ、特に盗まれたものもないようです。考えられるものとしては怨恨などで、少なくとも強盗や猥褻目的ではありません。着衣の乱れもなかったので」
「そもそも、佐保はどうして松尾大社に?」
 佐保は実家暮らしで、南区に住んでいる。ふらふらと立ち寄れるような距離ではない。これも、まだわかっていないらしかった。現場には佐保の両親も来ているが、両親からも有益な情報は得られていないようだ。風見もすでに話をしたそうだが、佐保が松尾大社に向かった理由など、両親は聞かされていなかったらしい。
 そもそも、一度も帰宅せずに松尾大社に向かった可能性が高いそうだ。昨夜佐保は午後七時頃まで風見と一緒にいた。二人は同じサークルに所属していて、二人の出会いもそこだった。その後風見は夕食に誘ったらしいが、佐保は用事があると言ってそこで別れた。その後まっすぐ松尾大社に向かったとすれば、午後八時から午後九時の間には到着していたはずだ。防犯カメラもなく、目撃者もいないため、警察は昨夜から今朝未明までのアリバイを僕に訊いたが、犯行時刻は昨夜九時前後と見ていいのではないか。
 第一発見者は駐車場の警備員だった。午前七時に出勤し、日課の掃き掃除をするため一度駐車場の門を開けた。そこで人が倒れているのを見つけ、佐保の死が確認された。すぐに通報し、松尾大社入り口の交番に勤める巡査が駆けつけている。その後松尾警察署に連絡が行き、それから捜査一課に情報が届いた。捜査が始まったのは午前九時頃だという。
 まだ何もわからない。それは仕方がないことだ。これから司法解剖が行われ、刑事による聞き込みによって、全貌が明らかにされていくのだろう。ただ一つ、僕の中で妙に思う点があった。それは洞院才華だ。夏季休暇明け、佐保は洞院才華の欠席をやけに気にしていた。あれからも、洞院才華は一度も大学に来ていない。
「才華は一度も休んだことがない」と佐保は言った。だが彼女はもう一週間大学に姿を見せていない。そしてその洞院才華を憂いていた佐保は殺された……。
 考え過ぎだろうか……。明日になれば洞院才華は大学に来るかもしれない。まだ何もわからない。だから柏原刑事には何も言わなかった。

4へと続く……

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