連載長編小説『怪女と血の肖像』第二部 血の肖像 29
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独房で眠るのにはいつしか慣れてしまったらしい。昨晩、女が部屋を出た後、僕はすぐ眠りに落ちた。気負いはなく、緊張もなく、危機感もなかった。不思議なほどに。女の肖像が完成に近づくにつれて僕の死が迫っているというのに、それは不思議といえば不思議な感覚だった。ただ病気の進行で体が衰弱しているだけかもしれないが。朝はいつも頭が重い。カマキリの卵のように脳にべったりとついた腫瘍が重力に揺られる振り子のように重い。もはや腫瘍がどこにあるのかが自分でもわかる。そのうち目玉を押し出すようにぽろりと体外に出てくるのではないか。どのみちあと一ヶ月は生きられない。もしかすると一週間も厳しいかもしれない。あるいは今日だって……目の前に出された料理を見て、僕はそう思った。
女は優しい。この世界で一番優しい人物かもしれない。今日明日にも始末する僕にきちんと食事を与えてくれる。自ら育て、収穫した野菜をたくさん使って。スープまでついているのだ。体の芯まで温まる、睡眠薬か毒が入っているかもしれないスープ……。立ち込める湯気が、時々紫色に見える。
食欲はなかった。その理由はやはり悪臭だった。臭い自体にはもう慣れた。ここで生活することに特に苦はないと言ってもいいかもしれない。だが体は、内臓は受け付けないらしい。悪臭に喉の奥がやられて何度か吐いている。僕は食事に手をつけなかった。食べないのは慣れっこだ。虚しいまでに痩せ細ったこの体がそれを示している。
「薬は入れてないわ」
僕が恐怖で食事を躊躇っていると思ったのか、女は言った。それとも女性特有の、いや、男女共通の、手料理を振舞って食べてもらえないことに苛立ちを覚えたのか。やはり人だ。女性だ。口を開けば人間、閉ざせば化け物。
「食欲がないんだ。どうにもこの臭いじゃな」
そう言って彼女が檻の中を掃除してくれるとは思わなかったが僕は言った。言わずにはいられなかったのだ。案の定女は取り合わず、料理に向けて顎をしゃくった。
「スープくらい飲めるでしょ」
箸を掴み、茶碗を持ち上げると、僕は乾杯するように彼女に茶碗を掲げ、一思いに胃袋に流し込んだ。ほんの僅かに塩が振られただけの、山菜汁。どちらかといえば山菜をしゃぶしゃぶにして食べているという感じだ。うまくはない。急に胃袋が熱くなり、胸の辺りがむかむかしてきた。スープに刺激されたのか、胃袋が活動を始め、けたたましい音を立てた。
「野菜なら食べられるでしょう。ヘルシーなんだから。辛くても食べられる。それが野菜。肉にはないもの」
山小屋にぶち込まれ、拉致監禁されて血と汚物の臭いに囲まれる中、肉など食えたものじゃない。一ポンドのステーキを想像するだけで気持ち悪くなった。
「いつから肉を食べてない?」
「ここに来てからは一度も」
殺戮を繰り返しているからだろうと僕は思った。大量の血に塗れたこの小屋で、肉を食すなんて血腥くてとてもできない。女がビーガンになったのは自然なことだったのだろう。
僕が食べないでいると、コバンザメのようにまとわりついている蠅と蚊が生野菜に穴を開ける。コバンザメのように垢や寄生虫を取ってくれるなら僕の体に引っ付いていても構わないが、害虫はやはり害虫でしかなく、僕を憂鬱にさせるだけでなく食事にまで害を為すとは呆れたものだ。羽虫どもを追い払うと、その隙に食事を掻き込んだ。うまくはない。僕が脱出を目論み木片を研磨していたせいか、女は警戒が強くなっていて、食事を下げる時も細心の注意を払った。南京錠を下ろしてようやく安心するようで、僕を監獄に封じてからは足取りも軽くなった。スキップするように処刑場を出て、またすぐに戻ってくると当たり前のように髑髏を手に取り、ポーズを決めた。僕はそんな彼女を見て、もったいないと思った。どんなに優秀なモデルでも、何日も同じポーズを取り続けるのは気疲れするし、体力的にも厳しい。何より、毎日まったく同じポーズとはいかないものだ。顔の角度が微妙に違ったり、ポーズを取る腕の高さが落ちていたり、場合によっては体型が変わることもある。だが彼女は、ポージングが決まってからというもの寸分の狂いもなくそこに立ち続けている。これは恐ろしい才能だった。こんなところに籠ってないで、絵のモデルをやればいいのに。
そうなったら、日本男児の滅亡はさらに加速することになるが。僕は鼻で笑った。
丸椅子に腰を落ち着けると、僕は指の関節をぽきぽきと鳴らした。女が爆弾でも見たような目でこちらを見た。続けて首をぐるんぐるんと回すとさっきより大きな音が鳴る。ゴキッ、と。男の首を捻じ切った音のほうがよほど衝撃的なのに、女は目の前で未知の殺人が行われているかのように目を丸くしていた。僕はそれが心地良かった。こんなことで彼女は驚くのか。そう思い女の指を見たが、確かに一度も関節を鳴らしたことはないだろうと思うくらい細い。僕の指は、もう少しでウエストに迫ろうとしていた。指が太いのか、痩せ過ぎか……。
関節を鳴らすのはいつもの癖だ。特に集中して描きたい時には必ず鳴らす。ルーティンと言えるかもしれない。パレットで固まる絵の具を水で溶かすと、女を横目にキャンバスに筆を落としていった。華奢な肉体につけられた無数の傷。その一つ一つを正確に描き取っていく。形、大きさ、深さ――。男を殺してつけた最新の傷は薄っすら瘡蓋になり始めていた。肌に刻まれた無数の傷とは違い、その瘡蓋だけが黒く赤く光っており、目立つ。僕にはそれが新鮮さの証に見えた。つけられたばかりの傷……最近まで血が流れていた痕……ぞくぞくする。
その中にあって、胸の下の古傷は一際目立っており、描いていると何度も目が引かれた。その傷は大きく、深い。その証拠に、海賊が顔に作る刀傷のようにぱっくりと盛り上がった肌が特徴的だった。これこそ芸術。これこそ美の象徴。僕の肖像――。
その傷をキャンバスに描き取る時、手が疼いた。
30へと続く……