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連載長編小説『破滅の橋』最終章 夜明けの灯火5-1

        5

 定時に仕事を切り上げて外に出ると、空の端にはもう月が輝いていた。秋も深まり昼夜の寒暖差が大きくなっていた。祐里は、コートの襟で頬に吹き付ける風を避けた。
 待ち合わせたカフェに祐里が入ると、すでに梨沙がテーブルに腰を落ち着けていた。祐里は、ホット・ココアを注文した。
「髪、だいぶ伸びたな」祐里がコートを丸めていると梨沙がいった。祐里は項に手を突っ込み、うんと笑った。
 冬になると髪を伸ばしたくなる。しかしショートカットの自分の容姿も祐里は嫌いではなかった。一度短くして以来、美容院に行く頻度が上がった。今祐里の髪は、首筋を覆うほどには伸びていた。
 梨沙とは再会して以来頻繁にお茶をするようになった。前回会った時はちょうど髪を切った直後だったのだ。それに――。
 今祐里が心を許せるのは梨沙だけだった。
「祐里、ちょっと痩せたんと違う?」
 祐里は温かいカップを口から遠ざけながら苦笑した。「そうかなあ。そんなことないと思うけど」
 梨沙は認めずに首を横に振った。
「顔もやつれてるし。仕事、大変なん?」
 ああ、と言葉に詰まって祐里は視線を落とした。「そんなことはないと思うんやけど」と答えた自分の声が耳に届いて驚いた。祐里は自分の声に暗澹とした気分になった。
「相談って、仕事のこと? 彼には話せないようなこと?」
 彼にはとてもいえないことだといい当てられ、祐里の笑みはぎこちないものになった。
 その、と祐里はいった。「彼のこと、浩平君のことなんやけど……」
「旦那呼ぼうか?」
 梨沙は峯本についての相談と聞くとすぐにそういった。しかし祐里はそれを断った。工藤の前で、今の彼の様子をうまく話せる気がしなかった。
「翔太君には、帰ってから梨沙が話して?」
 梨沙は祐里の願いを聞き入れた。
「それで、相談って?」動揺しているように動き続ける祐里の瞳に、梨沙は余程のことだと思ったらしく低い声で尋ねた。
 祐里はうん、と口元をほぐすと体を前後に揺らした。
「最近の浩平君、何か変で」
 そう口にすると、一気に祐里の中で不安が広がった。
 しかし梨沙は、祐里の不安をよそに、にやりと口元を曲げた。
「プロポーズ考えてるんちゃう? ほら、男はさ、告白とか、それこそプロポーズの前は緊張してどこか忙しなくなるやろ。居候君もそれと違う?」
 それならいいのだが、彼の最近の様子を、祐里はどうしても前向きに捉えられないのだ。
「翔太君も、プロポーズの前は様子が違った?」
「うん。そろそろプロポーズが来るな、とは感じてた。でも、結局正確なタイミングは掴めへんかったから素直に驚けたけど」
 梨沙は苦笑した。
 ふうん、と答えながら、祐里の中でひとつ気になっていることがあった。
「この前、浩平君のお母さんが亡くなったの。彼もひどく悲しんでたし、もしかしたらそれが関係してるのかなって」
 そうなんか、と梨沙は口惜しそうにいった。「彼、辛かったろうね」
 うん、と祐里は頷いた。葬儀から戻った峯本の様子を思い浮かべるだけで、祐里は心が痛んだ。母の前で涙を枯らしてきたのか、彼の目は充血していて口元に浮かぶ微笑もひどく力なくなっていた。
 祐里は、峯本が泣くのをこの前初めて見た。彼の涙は、純粋に母を想って流れた優しいものだった。
「お母さんが亡くなって以来、浩平君の雰囲気が明らかに変わった。すでに死を見つめているような、恐ろしくて不気味な、なのに衰弱し切った、そんな様子が続いてる」
「何それ……」
 梨沙は顔をしかめると身を引いた。
 彼はずっと、迷惑ばかり掛ける、祐里を苦しめる、などといって謝る。責任感が強いことは彼の言動を見ていてよくわかる。しかし彼が自分の心に貯め込んだ責任というものがとうとう溢れ始めているのではないか。母親という精神的支柱を失ったことで、彼の心の堤防が決壊してしまったのではないか。理由は教えてくれないが、しばらく店を休業しているらしい。それも、彼が変化する理由のひとつになったのではないか。
 このままだと、彼は祐里の元を離れていってしまうのではないか。彼女はそう懸念しているのだ。
「何より浩平君の目」祐里は恐ろしさのあまり身を震わせた。同時に頬も強張った。
「彼の目?」
 梨沙も身構えるように体勢を変えて訊く。祐里は頷いた。
「私たちが出会った時。その時にたった一度しか見たことのない、死を深々と捉えたような、そんな目をしてる」
 梨沙はまるで目の前に彼がいるかのように顔を歪めた。そしてついに、祐里の不安が梨沙に伝染した。
「それって、まずいやろ? 祐里がどうにかしてあげんと」
 うん、と祐里は答えたが、彼女の目もまた、弱い光を灯していた。
「やっぱり、祐里もおかしいで」
 梨沙は顔から表情をなくしていった。梨沙の顔が、みるみる青ざめていく。
「そんなことない。私は大丈夫」なるべく明るい調子を心掛けたのだが、やはり思ったような声は出ず、むしろ空回りして祐里の声は上ずった。
 本当に大丈夫なのだと祐里は重ねていったが、梨沙はそれに納得しなかった。ずっと首を横に振っている。
「あたし、ほんま心配やわ。祐里、このままやと死んじゃう。何かあったんとちゃうの?」
 死んじゃう、か。祐里は心の中で梨沙の言葉を繰り返した。何となくそんな気がしないでもなかった。
「浩平君のことで、ちょっと考え過ぎたんかな」
「そんなこととちゃうやろ。会社で何かあったんやろ? 話せば楽になるんやから。あたしが聞くから。ちゃんと聞くから」
 梨沙が叩いた彼女の肉付きの良い体が、何とも頼もしかった。祐里はしばらく葛藤した後、最近の会社で受けている扱いを話した。
 ただし、峯本の過去は伏せた。工藤も、梨沙にそこまでは話していないようだから。梨沙はなるほどね、と相槌を打った。
「たしかに彼が元々ホームレスっていうのは、あまりイメージ良くないかも。でもさ、そんなん他人には関係ないやん。祐里が彼を居候させてたって、会社の人たちには何にも影響しいひんから」
 しかし祐里は思うように笑えなかった。ぎこちない笑みは、祐里の頬を引きつらせると静かに消えていった。
 祐里は梨沙と別れると、秋の街を一人で歩き始めた。

5-2へと続く……

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