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連載長編小説『十字架の天使』1

    十字架の天使

        1

 粛々とした店内にピアノの音が響いている。録音された音がオーディオ機器から流されているのではなく、ホールの隅に置かれたグランドピアノが実際に音を鳴らしている。
 ドビュッシーの「喜びの島」だった。
 その明るく軽快な旋律を聴き、こんなに穏やかな時間があるのか、と薙沢清一郎は思った。
 まもなく午後十時になろうとしている。高級フレンチとして名の知れた店内である。薙沢はすでにコース料理を食べ終え、さっきからロックフォールに蜂蜜を掛けた肴に赤ワインを舐めていた。
 ブルーチーズを食べる時はいつも何もつけずに青黴独特の臭い風味を味わうのだが、今日は違った。ようやくデートの時間を取れた葉月に蜂蜜を勧められ、ブルーチーズに掛けてみた。やや抵抗はあったものの、チーズの塩気と蜂蜜の甘さが絶妙にマッチして、うまい。
 これは癖になる味だ、と思いながら薙沢は頷いていた。
「喜びの島」の演奏に合わせて店内は照明が落とされ、その後再点灯した。
入店した際、今日プロポーズが行われることはウェイトレスから聞かされていた。そのため薙沢は粋な演出にも百八本の薔薇にも指輪の入ったグレーの箱にも驚かなかった。しかし滅多に遭遇しない光景にいつのまにか見入ってしまっていた。
「素敵」
 婚約が成立するのを見た葉月が呟いた。胸の前でささやかな拍手を送っていた。
「プロポーズの時はああいう凝った演出がいいのか」
 葉月は小さく頷いた。「プロポーズなんて一生に一度だから、いつまでも心に残るものにしてほしい」
「俺は葉月ちゃんを幸せにしたいと思ってるよ」酔いに任せて薙沢は言った。「この後、どうする?」
 葉月は、魂胆はわかってるぞと言いたげな笑みを浮かべながら、ワインを一口飲んだ。
 葉月とは二ヶ月ほど前の合コンで知り合った。人懐っこく包容力のある彼女にその日の内に惚れた。その日から二人は頻繁に連絡を取り合っていたが、今日までデートの日を設けられなかった。それは昨日まで薙沢が特別捜査本部にいて事件解決に尽力していたからだ。最後は薙沢が得た証拠で事件を解決したのだった。
 だから今日は奮発した。ネットで検索して見つけたこの店を予約し、葉月を連れた。ケチな男はすぐに切られる。三十路に差し掛かればなおさらだ。
 薙沢は本気だった。
 葉月が口を開こうとした時、尻ポケットに入れていたスマートフォンが震え出した。それに気づいた葉月は「電話、鳴ってるよ」と言った。
 スマートフォンを取り出した薙沢は内心舌を鳴らした。先輩刑事である福岡の名前が画面に表示されていたからだ。
 薙沢は着信を無視した。
「出なくていいの?」葉月は怪訝そうに言った。「仕事の電話じゃないの?」
「ああ、大丈夫。何も心配いらない」
 まもなく振動は収まった。
「それで――」この後どうする、ともう一度訊こうとした時、また着信があった。またしても福岡からの着信だった。
「気にしないで出て。何か大切なお話かもしれない」
 刹那逡巡した後、「申し訳ない」と薙沢は席を立った。
 店の外に出ると薙沢は電話に出た。
「てめえ、何で一回で出ねえんだよ」
 いきなり口汚く罵られ、思わずスマートフォンを耳から離した。福岡は口が悪いだけでなく人相も悪い。捜査一課の刑事よりもマル暴の刑事のほうが人相的にはしっくり来る。
「まさかもう寝てたわけじゃないよな。どうせ新しい彼女とデートでもしてたんだろ」
 薙沢は答えなかった。肯定しても否定しても話が長引くだけだ。
「それで、用件は何ですか」溜息を吐きたいのを我慢して薙沢は訊いた。せっかくの休日に福岡の声を聞きたくはなかった。
 福岡は舌を鳴らすと、言った。
「出勤命令だ。今から言う住所に至急来い」
 福岡はその住所を言うと、一方的に電話を切った。ネットで検索すると浅草駅から徒歩十分ほどの場所にあるパレスマンションだった。
 薙沢は鬱々とした気分で店内に戻った。さっき婚約を交わしたカップルの席には小さなホールケーキが運ばれていた。幸せそうな笑顔で花嫁が苺を頬張っている。
 台無しだ、と腹の底で嘆きながら薙沢は腰を下ろした。
 戻って来た薙沢の表情を見て緊急事態を察したらしく、葉月は「事件?」と訊いた。
 薙沢は曖昧に頷き、すぐに立ち去ろうとはしなかった。ようやく訪れた癒しの一日だったというのに。そんな思いが胸を駆け巡っていた。
 やがて薙沢は葉月に頭を下げた。
「ごめん、俺行かないと」
 葉月は唇を突き出して、ロックフォールを弄っていた。不服なのはよく伝わって来た。しかし葉月は頷いた。
「うん、行って。お仕事だもん、仕方ないよ」
「本当に申し訳ない。この埋め合わせはちゃんとするから」
 当然の如く言った薙沢だったが、それに対する葉月の表情は晴れやかではなかった。
「ううん、埋め合わせなんていい」
「また連絡するから」
「それもいい。もう連絡してこないで」
「え? どうして?」
「やっぱりあたし、警察官とは付き合えない。仕事が忙しいのはわかるけど、これだけ会えなくて、会えても突然呼び出される人とは付き合えない。ごめんなさい。だから、もう連絡しないで。今日は楽しかった」
 三十分後、一度自宅に戻り仕事用のスーツに着替えた薙沢は浅草にいた。マンションの周辺にはすでに黄色い規制線が張られ、その外側には大勢の野次馬がいた。パトカーも数台停まっており、物々しい気配が漂っている。
 薙沢の腕章を見た警備員は規制線を上げた。部屋ごとのポストがついた階段の入り口に遠目でもわかるごつごつとした体格の福岡が立っていた。こちらに気づいた福岡は手を上げた。嵌められた白手袋を見て、薙沢はポケットから白手袋を取り出し嵌めた。
 いつもなら現場に到着した際に嵌めているのだが、さすがに酔いが回っている。頭も少し重かった。
「遅せえんだよ。てめえやっぱ彼女とデートだったろ。家にいりゃこんなに時間は掛からないはずだからな」
「彼女じゃありませんよ。彼女にできればと思っていた人と食事をしていたんです。邪魔が入らなければ今頃二人は結ばれていたかもしれません」
「それだけ手応えがあるならいいじゃねえか。埋め合わせっつってまた会う口実にできる」
「振られたんですよ」苛々して薙沢はつい食い気味になった。「警察官とは付き合えないそうです。急な呼び出しがとどめになったんですよ」
 福岡はバツの悪そうな顔を見せることもなく階段のほうを顎でしゃくった。
「まあ、それも刑事であるおまえの宿命だ」それだけ言うと福岡は黒革の手帳を取り出した。「通報があったのは二十一時十七分、通報を受けて現場に向かった地域課巡査が女性の変死体を確認。被害者はナルミセイコさん二十五歳。死因は胸部を刺されたことによる失血死と考えられる。第一発見者は同棲中の恋人で婚約者でもあったコマツリョウタ二十八歳。帰宅したところナルミさんが亡くなっているのを発見し通報した」
 薙沢は福岡の手帳を覗き込んだ。そこには鳴海聖子、小松諒太という名前が書き込まれており、二重丸で印がつけられていた。
 今の時刻は午後十時四十分を過ぎたところだから、今から一時間半前に通報があったことになる。しかし未だ現場保存は完了していないようだった。
「小松諒太さんが帰宅した時、部屋に鍵は掛かっていたんですか」
「いや、開いていた。というのも、どちらかが先に帰宅している場合はいつも鍵を開けて帰りを待っていたらしい。まあ、特に変わったことでもない」
「じゃあ小松さんを犯人と決めつけることはできませんね。誰でも部屋には侵入できたわけだ。防犯カメラは?」
「管理人のいるロビーにカメラはあるが、それぞれの階に上がるポストの入り口にカメラはない」
 薙沢は頭が痛くなった。防犯カメラがない以上目撃証言を集めることになる。足を使った捜査が苦手なわけではないが、アルコールの入った今の状態では途方もないことのように思えた。
「でもどうしていきなり俺達に声が掛かるんです? 表在庁は何をしてたんですか」
「向こうは昼過ぎに起きた事件に出払ってる。だから俺達に声が掛かった、それだけのことだ」
「でも今日は現場保存して、初動捜査は所轄刑事に任せればいいじゃないですか。俺達が出るのは捜査本部が立ってからでいい」
「それがそうも言ってらんねえんだ。遺体を見ればおまえもわかるよ。心して見ろよ」
 これまで何度も遺体を見て来たが、何度見ても気分の良いものではない。それが変死体となればなおさらだ。一つ深呼吸すると薙沢は「小松」と表札に書かれた部屋に入った。
 まず驚いたのが部屋に争った形跡がないことだった。鳴海聖子は胸部を刺されて殺されている。争った形跡がないということは気心の知れた人物に不意を突かれたか、振り向き様に胸を刺されたかのどちらかだ。
 いずれにせよ、今の段階で容疑者は絞り込めるのではないか。
 そんな安易なことを考えた薙沢だが、遺体を見て天を仰いだ。
 鳴海聖子は綺麗な女性だった。すでに目は閉じているが切れ長の見事な目尻は健在で、長い睫毛はまだ瑞々しい。鼻がすらっと通っており、頬は雪のように白い。華奢な体型も薙沢の好みだが、胸は意外にも豊満だ。その胸に、異質なものが突き立てられていた。
 十字架だ。
 手には犯行に使われたと思しきナイフが握られているが、薙沢の視線は胸に突き立った十字架に釘付けになった。
「これって……」
 思わず呟いた薙沢に福岡が小さく笑った。
「ああそうだ。あの事件だ。これで四件目だ。まったく、とんでもないヤマ引いちまったな」
 あの事件とは、現在都内を震撼させている連続猟奇殺人事件のことだ。事件の担当ではない薙沢もあの事件についての概要は聞き及んでいた。
 第一の事件は今から約二ヶ月前、十月二日に発生した。同日午後十時四分に通報があり、地域課の巡査が現場に向かったところ胸を刃物で刺された磯山夏妃の死体が確認された。現場は東中野の人通りの少ない路地だった。磯山夏妃はインフルエンサーのスタイリストを務めており、ファッション業界では名の知れたカリスマで、アパレルブランドに勤めている人物だった。事件が報道されるとSNSなどで瞬く間に情報が拡散された。
 だが事件が話題になったのは被害者がカリスマだったためではない。犯人の殺害方法が極めて残忍だったからだ。
 それは刃物で胸部を刺して殺害し、その後その傷口に十字架を突き立てるというものだった。
 翌朝には所轄警察署に特別捜査本部が設置され、早急な犯人逮捕を目指したが、それは叶わなかった。
 猟奇犯による第二の事件が発生したのだ。
 第二の事件は約三週間後の十月二十五日に発生した。被害者は私立東都学園高校に通う永島小春で、制服姿であったことから下校途中に殺害されたと考えられている。現場は麻布十番だった。永島小春も胸を刃物で刺されて死亡していた。そして胸には十字架が突き立てられていた。
 これを受けた報道各局は翌朝刊の一面に連続猟奇殺人事件の文字を躍らせた。第一の事件との共通点は十字架が突き立てられていること、被害者が女性であることだけだとしながらも、連続殺人と半ば断定的な記事を掲載したのだ。
 それだけでなく、犯人は女性を残忍な殺害方法で殺すことに取り憑かれた猟奇犯、あるいは女性を殺害することに快楽を覚える快楽殺人者ではないかと憶測の記事を書き、そしてある新聞社の見出しには「十字架の天使」という大袈裟な文字が並べられた。犯人は女性を殺して十字架を突き立てることで自分の理想の女性を生み出しているのではないか、とのことだった。
 むろん警察は慎重だった。その殺害方法が大々的に報じられたこともあり、模倣犯の可能性が拭い切れなかったからだ。すでに報道されている派手な殺害方法と被害者が女性というだけでは連続殺人と決めつけることはできない。そのため永島小春殺害事件には第一の事件とは別の係が捜査に当たっていた。
 だが永島小春の交友関係を調べていく中で、警察は連続殺人の可能性が極めて高いと判断することとなった。その理由は永島小春に近しい人物のアリバイだった。
 一言で言えば、永島小春を恨む者は大勢いるがそのすべての人物にアリバイがあった、ということだ。永島小春はいわゆるいじめっ子で、学校のカーストの頂点に立っていた。父親が国税局の幹部ということもあり同級生は頭が上がらなかったらしい。永島小春の恋人の父親も大企業で幹部役員を務めており、彼女が好き放題な態度を取っていても文句が言えない、言わば絶対王政を敷いていたのである。その中で苛烈ないじめを男子生徒に対して行っていた。聞いた話によると、その男子生徒がいじめの標的となった原因は、それまでいじめられていた女子生徒を庇ったことにあるという。永島小春はとっかえひっかえいじめの対象を替えていて、それもクラスメイトに大きな恐怖心を植えつけており、誰も刃向かうことができないでいた。
 殺害動機を持つ者は多い。だがいずれの人物にもアリバイがあり、犯行は不可能とされた。
 これは第一の事件、磯山夏妃殺害事件でも同じ現象が起こっていた。
 磯山夏妃は夫である磯山義行に家庭内暴力を振るっていた。カリスマである妻に対して磯山義行は制作会社のさらに下請け企業に勤めていた。収入の格差が大きいにも関わらず家事もできない、そんな夫に対して溜まっていたフラストレーションが爆発し、暴力を振るうまでに発展したという。これにより夫婦仲は冷え切り、嫁姑問題も深刻になっていた。
 さらに磯山夏妃は西野楓という女性に金を貸しており、利子付きの返済を早急に行うよう度々迫っていたらしい。それだけでなく、彼女は西野楓の恋人である伊東卓士に多額の借金があることを吹き込み、二人を破局させた経緯を持つ。
 このように磯山夏妃を恨む者は多い。だが捜査をしてわかったことは、いずれの人物にもアリバイが存在し、磯山夏妃を殺害することは不可能だということだった。
 この類似点を以って警察上層部は連続殺人事件である可能性が極めて高いと判断した。それぞれ捜査に当たっていた二つの係は合同捜査という形で連携を取っていたが、犯人の尻尾を掴めないまま次の事件が起きた。
 第三の事件は十一月十四日。被害者は専業主婦の片岡真穂で、夕飯の買い出しに行く途中だった。現場は日本橋小網町の狭い路地で、連続殺人事件で唯一昼間に発生した事件だ。通報があったのは午後三時六分のことだった。片岡真穂の胸部にも血に濡れた十字架が突き立っていた。
 片岡真穂は一人息子の優に日常的に手を上げていた。虐待だ。外資系企業に勤め現在海外に単身赴任中だった夫の片岡修治は妻の息子への虐待を知らなかったらしい。だが片岡修治の弟で、優の叔父にあたる片岡幸治が頻繁に家に訪れており、片岡真穂の虐待を窘めていたらしい。片岡幸治はフリーターで、兄が海外転勤するまでは殆ど居候状態だったようだが、片岡修治の単身赴任が決まってからは兄嫁と間違いがあってはいけないと自ら家を出たという。片岡真穂亡き後は優の面倒を引き受けており、その仲は良好だという。
 片岡真穂も人の恨みを買っていた可能性が極めて高い。しかし周囲の人々はいずれもアリバイがあった。
 連続殺人事件と断定して合同捜査を行っていた捜査本部だが、第三の事件発生を受けて合同捜査は解消された。
 理由は被害者に繋がりが見つからないこと、三人とも男性を虐げており、それを知った無関係の誰かが彼女達を殺す大義名分を背負って犯行に及んだ可能性が考えられたからだ。
 そんな中今回の事件が起こった。
 犯人はいつまで犯行を続けるつもりだろうか。
 改めて部屋を見回した。
 シャネルにルイヴィトン、エルメスにイブサンローランとブランド品がやけに多い印象だった。そういえば鳴海聖子が着ていたシャツはラルフローレンの最高級品だった。しかしこれらは持ち出されることなく部屋に留まっている。やはり争った形跡はない。すべての事件で被害者は胸を前方から刺されて死亡している。特に鳴海聖子は屋内で殺害されている。同一犯による犯行ならば、やはり顔見知りの犯行である可能性が高い。
 だが他の三つの事件で繋がりは見つかっていない。
 薙沢は溜息を吐いた。
「何だ、さすがのおまえもお手上げか」福岡が嘲るように笑った。まるで難関中学校の赤本片手に優秀なクラスメイトに挑む小学生のような笑みだ。
「今までの事件からして、おそらく犯人は鳴海聖子さんとは面識のない人物です。特定するのは難しい。目撃情報は?」
 福岡は手帳を開くまでもなく答えた。「ない。在宅中の入居者には一通り話を聞いたが、不審者を見たという者はいないし、鳴海さんが誰かと部屋に上がるところを見たという情報もない。階段への入り口にカメラがないから誰かが忍び込んだ可能性は考えられるが、見ての通り争った形跡はない」
「顔見知りの犯行……ですか」
「ああ……」
 薙沢の視線は部屋の隅に立っている男に向いていた。自分の家だというのにまるで寛げていない。鳴海聖子の婚約者で遺体を発見し通報した小松諒太だ。今は薙沢の後輩である味田巡査が話を聞いている。
「もう遺体は確認できたな?」
 福岡に問われ、薙沢は頷いた。すると福岡が何やら合図を出し、それを受けた捜査員が遺体の手から刃物を抜き取り、丁寧に遺体を運び出していった。その際、薙沢は鳴海聖子の手首に目がついた。
 細い手首に幾筋もの傷がついていたからだ。
「おまえ待ちだったんだよ」
 薙沢は悪びれもせず部屋の中を見回した。
「係長は?」
「外にいる。もうとっくに現場は確認して、捜査員に指示を飛ばしてたぜ。係長も軽く飲んでたみたいだがな」
 からかうように笑った福岡のヤニで黄ばんだ歯には目も当てられない。
「それで、鳴海聖子さんは暴力的な女性だったんですか」
「さあな。今のところそういう話は聞いてない。本格的な聞き込みは明日からだ。だが、これまでの三件に連続した四つ目の事件なら、まあそういう性格だったんだろう。住民の印象は良かったがな」
「住民は鳴海さんを何と?」
「笑顔が素敵な女性だったらしい。トラブルを起こすこともなく、顔を合わせば笑顔で挨拶してくれたそうだ。別に大したことじゃねえのに、美人は得だな。それだけで好印象で」
 岩のようにごつごつした厳つい福岡の顔を見て噴き出しそうになった。顔を合わす度福岡に笑顔で挨拶されればむしろ不気味だ。おそらく福岡は御近所にはそういう顔を見せているのだろうが、あまり評判はよくないのかもしれない。相手が女性ならなおさらだろう。
「今日は適当に切り上げて、明日からに備えろ」福岡は薙沢の肩を叩いた。「長い捜査になるかもしれん」
 俺が担当するからにはそうはしませんよ、と言いかけてやめた。
 そんなこと言えたらどれだけいいだろうか。実績もある。口にすれば多くの者が心強く思ってくれるだろう。だが十字架の天使を前にして、その言葉を口にするだけの自信はなかった。
 部屋から出て行く福岡を尻目に、薙沢は味田に話し掛けた。
「小松諒太さんの様子は?」
 本当なら小松諒太に直接話を聞きたいが、婚約者が殺害された直後だけに繰り返し話をさせるのは酷だと判断した。婚約者が犯人でなければ、の話だが。
「まだ信じられないといった様子で、訥々と話されている印象でした」
「感触はどうだった。犯人である可能性は?」
「今はまだ何とも……現場が自宅ですし、今回の事件だけで言えば一番怪しい立場なのは小松さんかもしれません。突発的な事件なら小松さんを疑います。でも今回は特殊ですから」
「ああ。何もトラブルを抱えていない二人なら、小松さんが帰宅して遺体の第一発見者となったのはごく普通のことだ。ただ、トラブルはあったんだろうな」
「どうしてそう思われます?」
「手首だよ。気づかなかったのか? 頻度はわからないが頻繁に自傷行為に及んでいる。自傷行為の動機として婚約者とのトラブルは十分考えられる。それが殺人に発展したともな」
 味田はいつのまにか手帳を広げていた。
「小松さんの話によると二人の間でトラブルはなかったようです。喧嘩をすることも殆どなかったとか」
「それは本人がそう言っているだけかもしれない」
「ええ。ただ自傷行為についてはやめるように再三注意していたそうです。鳴海さんはヒステリックな方だったそうで、ストレスが溜まると自分の体を傷つけていたんだそうです」
「金のトラブルは?」
「金?」
 味田は薙沢が何を言おうとしているのかわからないようだった。
「ずいぶんブランド品を買い込んでる。このシャネルの香水は十万を超えるしエルメスのバッグは三十万は下らないだろう。そんな金が彼女にあったのかな」
「薙沢さん、詳しいですね」
「当たり前だろ。おまえもブランド品くらい熟知してねえと痛い目見るぞ。合コンで女性が一番喜ぶのが何かわかるか」
「いや……」
「持ち物を褒められることだよ。見た目を褒められるのはお世辞を言われている気がするがブランド品は別だ。ブランド品で統一してくるやつは特にな。おしゃれで身に着けてるんじゃない、褒められるために身に着けてるんだ」
「なるほど」
 神妙な顔つきで味田はペンを走らせた。薙沢は後輩の額を軽く弾いた。
「そんなことメモしなくていいんだよ。それで、鳴海さんの職業は?」
「鳴海さんは化粧品メーカーで受付事務として働いていたそうです」
「ならなおさらだ。事務員でこんなにブランド物を買い込める余裕はないだろう」やはり何らかのトラブルを抱えていたはずだ、と薙沢は思った。「小松さんの職業は?」
「東亜商事で営業を担当しているそうです」
「商社の営業マンか。それなりの給料もらってるんだろうな。だがやはりここまでのブランドを買えるだけの金はないと見る。二人の給料を足してもだ」
「借金があったんですかね?」
「金のトラブルを抱えていた可能性は十分考えられる。だがそれが殺しの動機とは考えにくい」
「そうですね」味田は同意した。「殺せば金は返って来ませんから」
「ところでこれだけブランド品があるが、紛失したものはなかったのか」
「おそらくないと思われます」
「おそらく?」曖昧な答えが気に掛かった。
「ブランド品に限定した質問はしませんでした。薙沢さんみたいに目敏くないので、あまり気にしていなかったんです」
 薙沢は舌を鳴らした。
「じゃあどうしてないと思われるんだ?」
「ブランド品ではなく、家の中から紛失したものがないかを訊いたからです」
「小松さんは何と?」
「日記がなくなっているとのことでした」
「日記?」
「はい。鳴海さんは毎日日記をつける習慣があったそうです。日記をつけるところを小松さんも見ていて、だからその日記が消えていることに気が付いたそうです」
 では今回の事件は強盗殺人というわけだ。鳴海聖子殺害事件は現時点で他の三件とは異なる点が多い。屋内で犯行が行われたこともそうだが強盗殺人であること、そして凶器が現場に残されていたことだ。
 もしかすると、この事件は十字架の天使を生み出す連続殺人事件を解決する鍵になるかもしれない。
「そうか」とだけ呟くと、薙沢はリビングの他に二つある部屋を確認した。一つは寝室でもう一つは殆ど鳴海聖子しか使わないというクローゼットルームだった。
 そこにはさらに多くのブランド品が収められていた。
 バッグに衣服にブーツ、その量に薙沢はぎょっとした。ざっと総額を見積もろうとしたがうまく頭が回らなかった。すっかり切り替え、酔いは醒めたと思っていたが、やはり高級ワインは薙沢の思考を鈍らせていた。

 翌朝所轄の浅草警察署に鳴海聖子殺害事件の特別捜査本部が設置された。捜査を行うのは寺戸率いる薙沢達の係と所轄署の刑事達だ。薙沢はいつもと同じく味田とペアを組むことになった。
 その味田は今、昨日薙沢にも話して聞かせた小松諒太への聴取内容を全員に聞こえるよう読み上げている。最後に犯行時刻の小松諒太のアリバイを話すと味田は着席した。小松諒太は昨夜、残業の後インターネットカフェを利用し、その後帰宅している。
「この後ネットカフェに行くぞ」
「やはり小松さんが怪しいと?」
 薙沢は頷いた。
「ああ、あの二人には何かある」
 次に福岡が立ち上がって昨夜行ったパレスマンションの住民への聞き込みの報告を行っているが、それも薙沢が聞いたものと同じだった。
 続いてこちらを向いている寺戸係長が立ち上がった。
「この事件は皆も知っての通り連続猟奇殺人犯による残忍な事件だ。これ以上凶悪犯を野放しにするわけにはいかない。これまで三つの捜査班が逮捕できずにいるこの犯人を必ず俺達が確保する。警察官人生で、これほど栄えある成果を上げることは今後ないと思え!」
 わざわざ激励に足を運んだ羽田捜査一課長の隣でも寺戸係長は臆せず声を張り上げた。上司の檄に薙沢も気合が入ったが、後方で所轄刑事達が肩を震わせているのを見て、さすがだな、と思った。寺戸の太い声は威厳を感じさせ、取調では淡々と話すだけで犯人に自供させるだけの脅しになるが、その声が仲間に向けられた時はこれ以上ない鼓舞になる。頼れる上司がついているという安心感もあった。
 寺戸の言うように犯人を逮捕した時はこれからの警察官人生を含めても最も栄えある勲章を手に入れられるのかもしれない。だがそれは、取り逃がした時のダメージが大きいという危険性を同時に孕んでいる。
 所轄刑事達はそれを忘れて奮い立っていた。
「諸君」羽田一課長が立ち上がった。「これは警視庁の威信をかけた戦いである」現実を突き付ける一言に数名の捜査員が固唾を飲んだ。「必ずや凶悪犯を逮捕しろ」
 一塊の返事が会議室に木霊した。
 薙沢と味田は立ち上がったが、すぐに寺戸に呼び止められた。会議室前方に行くと寺戸はA4サイズの用紙を机に置いた。
「鳴海聖子さんのスマートフォンに登録されていた電話番号だ。我々は聞き込みを行う。このリストを元に聴取に当たってほしい」
「わかりました。この後小松さんのアリバイを確認してから当たります」
「そうしてくれ」
「ところで、凶器は犯行に使われたもので間違いありませんか」
「ああ。間違いない。十字架が突き立っていたために傷口は抉れていて、ナイフとは形状が合わなかったが一部を除いて傷口とは殆ど合致している。あとは刃先に付着した血痕の解析待ちだ」
 もし鳴海聖子以外の血痕が確認され、三人の被害者のものと一致すれば連続殺人で使用された凶器と確定できる。それができれば大きな前進だ。
「指紋は?」
「現時点で見つかっているのは鳴海聖子さんのものだけだ」
「入手経路については?」
 寺戸は口を歪めながら頭を振った。
「大量生産されている果物ナイフだ。どこのスーパーでも売っている。ナイフの入手経路から犯人を特定するのは難しい。一応この三ヶ月の間にネットでナイフを購入した者については調べるが、あまり期待せんでくれ。何かわかればすぐ報告する。おまえ達はなるべく多くの情報を集めて来てくれ。もし他の事件との関連性が見つかればすぐ報告するように」
「了解しました」
 薙沢は机から用紙を取り上げると三つ折りにしてスーツの内ポケットに入れた。

2へと続く……

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