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連載長編小説『破滅の橋』第四章 出口の光と友5
5
シャンパンの底に溜まっている気泡がひとつ表面まで浮かび上がり、ぶつかって弾けた。天井のシャンデリアを映すグラスを手に取り、シャンパンを口に含む。
味は、しなかった。
今テーブルに置いたばかりのフォークをじっと見つめ、早まる鼓動と止まらない汗を抑制しようとした。しかしこればかりはどうしようもないのか、落ち着こうとすればするほど緊張は増した。
いっそのこと早く切り出してしまえば、これまで感じたことのないこの緊張から今すぐ解放される。頭ではわかっているのに、体が、声が、魂が躊躇している。どうすれば成功するのかなどわからない。そもそも必勝法など存在しない。必勝法のない、一世一代の大勝負。
工藤は心の中で嘆いた。必勝法があれば、どれだけ気楽なことか、と。
プロポーズすることを決めた時は、もっと余裕を持っていた。しかしいざ梨沙の目の前で指輪の入った箱を開けることを考えると、突然恐ろしくなった。当然、断られる可能性もあるのだ。
まさかこんなに足がすくむとは。笑う余裕もない工藤は腹の底で苦笑した。顔面は引きつっている。
出会った時は結婚などまるで考えていなかったのに、人生には本当に不思議な縁があるものだと思う。工藤は十二年前、京都の大学に進学したのだった。その時出会ったのが目の前の梨沙だ。
工藤は、入学前から入部することを決めていたサークルがあった。フットサルサークルだ。高校までサッカー部に所属していたことも大きな理由だが、工藤の通った大学のフットサルサークルは大学で一、二を争う規模だった。だからフットサルサークルなら、すぐに友達ができるだろうと見越していたのだ。
入学式から少し経ち、各部の体験期間が設けられた。工藤は早速、フットサルサークルの部室へ向かった。
部室棟に隣接しているグラウンドは人工芝なのに、部室棟はやけに老朽化していて壁には石炭でも塗られたように黒ずんでいる箇所がいくつもあった。昼間だからか廊下の電灯は消されていて、その中にいくつものドアがひっそりとたたずんでいるようで少し不気味な感じがした。
事前に渡されていた案内を見ながら廊下を進んだ。フットサルサークルは、他の体育会系サークルと同じ二階の、真ん中付近にあった。部室の前に立つと、中からは多くの人の気配を感じた。
よし、と頬を叩き一歩進み出た瞬間、部室のドアが勢いよく開いた。ドアは工藤の顔面に見事に当たり、額と鼻に残る鈍痛に耐えようとその場で蹲った。その時部室から飛び出してきたのが梨沙だった。謝罪から会話が始まると、標準語の工藤に対して出身地などを詮索してきた。
当時の梨沙は、やけに大人びて見えた。京都に来て間もない工藤には濃い化粧の梨沙が妖艶に映ったのだ。これまであまり感じたことのない不思議な感覚だった。
不思議なほど話の弾んだ二人はトントン拍子で打ち解け合い、やがて交際が始まった。そして今、プロポーズの時を迎えている。交際開始から十年。ずいぶん待たせてしまった。
緊張しているのは頭だけではなかった。胃もひどく緊張していた。だから食事中、「全然食べないね。お腹空いてないの?」と梨沙に訊かれた。緊張を悟られぬように無理をして食べたが、反って不自然だったかもしれない。そんな工藤の気も知らず、梨沙は食事を楽しんでいた。もちろん、それでいいのだ。
梨沙と落ち合った時もそうだ。
「何でそんな恰好?」
高級スーツを着た工藤を物珍しそうに見ながら梨沙は訊いてきた。もちろん、プロポーズをするからだ。結婚してくださいと大切な人にお願いするからだ。しかしそんなことは口が裂けてもいえない。「仕事帰りだからな」というに留めた。
今日に限ってやけに詮索してくるから、もしかしたら計画がばれているのではと思った。しかし結婚を切り出されるとわかっているのであれば、これほど食欲は出ないだろう。
きっと梨沙は気づいていない。心の中でそう繰り返した。
工藤はシャンパンを口に含み、からからの喉を潤した。梨沙、と名前を呼ぶとそれまでシャンデリアを眺めていた彼女の目が工藤に向いた。
「待たせてごめん」
そういって指輪の入った赤い箱をポケットから取り出した。梨沙は驚いて目を丸くしている。箱を開け、梨沙の前にそっと置いた。
「そういうこと?」梨沙は手で口元を覆い、のけ反っている。指輪と工藤を交互に何度も見ている。
「俺と――」噛みしめながらいった。「結婚してください」
「あたしなんかでいいの?」
梨沙は目を潤ませている。
工藤は頷いた。「もちろん。梨沙じゃないとだめなんだ。待たせて悪かった」梨沙以外の人と結婚するなんて考えられない。工藤は膝に手をつき、頭を下げた。床をじっと見つめながら、早く返事を聞かせてくれと思った。
頭を上げ、梨沙の様子を窺うと彼女は泣いていた。目から顎に至るまで、幾筋もの涙の痕が残っているのに、彼女は静かに、上品に、この場にふさわしく泣いていた。
ありがとう、すすり泣きの中で梨沙はそういった。
「ってことは……」工藤は窺うようにいった。
「もちろん、よろしくお願いします、です」梨沙は顔を赤くしたまま笑った。笑顔のまま、指先で涙を拭う。「幸せにしてください」
「幸せにする。約束する」工藤は晴れた笑みを浮かべ、立ち上がった。梨沙のそばで片膝をつくと、彼女の指にプラチナの指輪をはめた。もちろん、サイズはぴったりだ。
「ねえ翔太、乾杯しよう」
「そうだな」工藤は席に戻り、グラスを持ち上げた。「二人の幸せに、乾杯」
梨沙と見合い、笑い合いながらシャンパンを口に含んだ。とてつもなく美味く、甘かった。ひと口すすった梨沙は、だらしなく口元を曲げながら上目遣いでこっちを見ている。
「はあ、結婚式に向けてダイエットしないと」ぴんと背筋を伸ばし、腰回りを撫でながら梨沙はいった。そんな決意が、照れを隠しているように思えた。なぜなら彼女の顔がまだ赤かったから。
ようやく緊張から解放されると途端に食欲が湧いてきた。しかしそれ以上に、どっと疲れが押し寄せてきた。背もたれに身を預けた工藤は、安堵の息をひとつ吐き出した。
自分の部屋だというのに、どこか落ち着かない。耳元に当てたスマートフォンを握る手が止まることなく震えている。工藤は薄暗い部屋の中で、立ったままでいた。
あの夜から、ずっと有頂天のままだ。なのに吹き抜けていく風はすでに初夏の生暖かさを孕んでいる。じっとりとべたつく梅雨も、まもなく終わろうとしていた。
電話が繋がると、「はい」と快活な声がいった。声の主は瀬川教諭だ。
「ご無沙汰しています、工藤です」
「わかってるよ、画面に工藤の名前が出てるんだから」わっはっはっ、と大きな声で瀬川は笑う。工藤は思わずスマートフォンを耳から遠ざけた。
苦笑しながら、電話をスピーカーに切り替えた。
「じつは、ご報告があります」
「報告?」と瀬川は怪訝そうにいった。工藤から瀬川に、何かを報告したことなどこれまでおそらく一度もなかった。「何だ報告って」
私事ですが、といって工藤は口元を緩めた。「この度、結婚することになりました。なのでご報告を――」
工藤がいい切る前に瀬川が雄叫びのような歓声を上げた。体の底から熱いものが込み上げている様が容易に想像できた。
「おめでとう。本当におめでとう」電話の向こうから洟をすする音が聞こえる。「素晴らしいことだ。本当におめでとう」
「ありがとうございます。なんか……先生が結婚するみたいですね」と工藤は笑った。
「そりゃおまえ、教え子が結婚するんだ。嬉しいだろう。自分が情熱を注ぎこんだ子供たちが、素晴らしい人生のパートナーと出会い、結ばれる。これほどおめでたいことはない」
瀬川は自分の言葉に納得するようにうん、といった。一拍置くと、まるで親のように瀬川が訊いた。
「お相手は、どんな女性なんだ」
親に詮索されると腹が立ったり鬱陶しく感じるのに、瀬川に対しては驚くほど素直に答えが出てくる。
「大学のサークルで知り合った女性です。明るくて、活発で、笑顔が素敵な人なんです」結婚を知らせたら、相手がどんな人間か尋ねられると思い、梨沙を思い浮かべて考えたいわば決まり文句だ。もちろん本音だが、彼女の魅力ならまだまだある。
うんうん、と瀬川は耳が快楽を得ているかのように相槌を打っている。瀬川の顔には笑みが広がっているだろう、と工藤は思った。
「工藤にぴったりの女性だな」
瀬川は何気なくいったのだろう。しかし工藤はその言葉が嬉しかった。瀬川は、親と等しく、あるいはそれ以上に工藤のことを理解してくれているように思っている。「ぴったり」という言葉が、心地よい響きを持って工藤の耳に残った。
「俺もそう思います」
「良い人と、巡り会えたな」
「はい」
「結婚式で会えるのが、今から楽しみだ」
工藤も、結婚式でウエディングドレスを着た梨沙を見るのが楽しみだった。梨沙の体の二回りはありそうな純白のドレス。そのそばには、タキシード姿の自分が立っている。
梨沙と出会って、一人の女性を愛し続けることの幸せと、喜びと、尊さと、それから不安と難しさを知った。たぶん、人生において、この人だ、と思える人はただ一人なのだと思う。工藤にとってはそれが梨沙で、まさにそう直感することのできた相手だ。
それを峯本は、もっとずっと昔に感じていたのだろう。
工藤は「それから」と呟いた。
「どうした?」瀬川は陽気な声で訊く。
「峯本が出所したら、しばらく俺が面倒見ようと思ってます」
瀬川は、驚きなのか戸惑いなのか判別のつかない声を出した。
「これから籍を入れるんだろう? そんな大事な時期に、峯本のことまで手が回るのか?」
「あまり心配しないでください。お互いの親への挨拶とか入籍、それから住まいを決めたりと時間は結構あります。あいつなら、その間にきっと行き先を見つけられますよ」
「行き先が決まらなかったらどうするつもりだ」瀬川は真剣な声色になった。「見捨てるのか、おまえまで」
工藤はまさか、と首を横に振った。「見捨てるなんて……そんなことしませんよ。でも、もしそうなったら、またその時考えるしかないと思います」
電話の向こうで、重い沈黙が流れている。それを振り払おうとして、工藤は笑った。大袈裟に笑い声を上げた。
「大丈夫ですから。あんまり心配しないでください。俺が浩平を見捨てることは絶対にありません。俺たち、親友なんですよ」
知ってる、と瀬川はいった。「よく知ってる。おまえたち二人のことも、工藤のことも、峯本のことも、みんなよく知ってる」
「だから信じてもらえませんか?」
瀬川の鼻息が聞こえてくる。「わかった。でもひとつ、頼みがある」
「何ですか」
「峯本が出所したら、知らせてほしい。板で隔絶されたところなんかじゃなく、手を伸ばせばそこにあいつがいるところで話がしたい」瀬川はやけに長い息を吐き出した。「あいつも、俺の教え子だからな」
それから少しして通話を終了した。いくら教え子とはいえ、これだけ気に掛けてもらえるのは峯本が根は善人だからだ。
峯本と出会った頃の印象は、とにかく同性からも異性からもモテるやつ、といったものだった。同性からは友として、仲間として、はたまた異性からは恋愛相手として。ところが涼子と出会うまで、彼は恋人を作らなかった。峯本に好意を抱いた女子生徒は「峯本君、堅物だからなあ」と嘆いたほどだ。軽はずみな理由では決して恋人を作らない。峯本は堅物などではなく、ただただ誠実だった。
しかし学年が上がったその日、あの峯本が驚きの行動に出た。あれだけ女子を泣かせてきた峯本が、あろうことか出会ったその瞬間に告白をしたのだ。あまりに突然で、工藤は唖然としたまま一歩も動くことができなかった。ただ立ち尽くして、事の成り行きを見守った。
魔が差したのだろう。当時の工藤はそんなふうに考えていた。きっとすぐに熱も冷め、また普段の峯本に戻る。
ところがそうはならなかった。峯本はただ一途に涼子を愛し、それに呼応するように涼子も峯本を愛していた。波長が合うなんて話ではない。もっと深く、もっと濃密な、二人にしか共有できない神域。境界線などあるはずのない、二人だけの世界。
そういったものは目に見えないが確かに存在している。今だから、よくわかる。今だから理解できる。峯本の気持ちを。
彼は涼子の死を一人背負い込み過ぎた。そのしがらみに、知らぬうちに心を蝕まれたのだ。もっと峯本の苦しみを理解してやれていたら。そんな後悔が考えるより先に頭に浮かぶ。
いつか昔の峯本に戻ることはあるのだろうか。工藤は、輝いて見えるほどの笑みを浮かべた峯本の姿を思い出していた。
第五章へと続く……