連載長編小説『美しき復讐の女神』20
20
学期末のレポート課題が提示されると、いよいよこの時が来たかという思いになる。気が引き締まるとは言わないが、最低限単位取得に必要な点数を得られるかどうかが三浜の懸念する点だった。特に三浜の場合は欠席が多く、そのため期末試験で平常点をカバーしなければならなかった。三浜は危機感を感じていた。ただ、その危機感が嫌ではなかった。なぜなら三浜は単位を取得できなくても構わないと思っていたし、退学まで本気で考えていたからだ。にも拘わらず、まさかこの時期になって危機感を抱くような精神変化が訪れるなど夢にも思わなかった。半年前、新学期が始まった頃の三浜なら、試験すらすっぽかしていただろう。それを思うと、今の自分の姿が不思議に思えて来るのだった。まるで魔法に掛けられたような、そんな感じがした。心境の変化を自覚したのは元日、明奈と初詣に行った日だった。その呼び水となったのはやはりクリスマスにもらったマフラーだった。今でも明奈を恋愛対象として見ることはできない。だが凛と違って、愚直で健気なその姿に心を動かされたのだ。明奈のような友人がいるなら、大学に残る意味はあるのかもしれない、と。
「レポートで何を扱うか、もう決めた?」
ノートを鞄に片付けながら明奈は言った。明奈は三浜と違ってきちんとノートを取っている。だが三浜は講義に耳を傾けているだけだ。三浜は筆箱を掴んだ明奈の手に視線をやりながら答えた。
「確定ではないけど、何となく考えてる。柊さんは?」
「あたしはジェイン・オースティンにしようかなって思ってる」
「女子は扱う人多そうだな」
「人気だと思う」明奈は苦笑した。「三浜君は、考えてるって言ったけど、何にするの?」
「ディケンズかな」
三浜は言った。ディケンズの作品は授業で二つ取り上げられたのだが、他の作家よりも強く印象に残っていた。まあ、三浜が連続して出席した授業で扱われていただけという話だが。
「『デイヴィット・コパーフィールド』?」
「いや、『大いなる遺産』。俺に『デイヴィッド・コパーフィールド』は扱えない。あんな苦労はしてこなかったから。親の残した生命保険で放蕩生活に浸ってるわけだから。ひょっとしたら、両親が残してくれた大いなる遺産の使い方を俺は間違えたのかもしれない。見つめ直すいい機会だろ」
明奈の支度が済んだので、二人は立ち上がった。今日はこの後、瀧本と乃愛と合流し、別の講義に出席するのだ。
「次のロシア文学講義もレポート試験だっけ?」
「そうだったんじゃないかな」
試験の概要などまだ一度も確認していないが、三浜はそう答えた。ロシア文学講義も、もう欠席が許されない状況だった。それに一時期まとまって欠席したこともあり、講義で取り上げられた一部の作品についての知識は皆無だった。
「あー、レポートじゃないみたい」
三浜が曖昧に答えている間に明奈が調べたらしい。明奈はスマートフォンに視線を落としていた。
「俺テストだったら打つ手なしだ。勉強のしようがない」
「テストだけど……論述式みたい。自筆ノートは持ち込めるって」
「俺ノート取ってないからな」
「でも、一つの作品を取り上げて論ぜよ、みたいな感じなんじゃない?」
それならまだ望みはあるな、と三浜は思った。
「三浜君はもしそうなら何を扱う?」
「『クロイツェル・ソナタ』」三浜は言った。「長過ぎないし、ちょうどいいかなって。柊さんは?」
「あたしは、『アンナ・カレーニナ』にしようかなって思ってる」
ぞくり、と三浜の背中に寒気が走った。思わず見開いた目に、凛とのやり取りがまざまざと思い出された。クリスマスの六本木、赤坂のスケートリンクが目の前に蘇った。だが目の前に立っているのは凛ではなく明奈だった。三浜は凛と明奈を見比べた時、どうしても凛がキチイには見えなかった。キチイは明奈で、アンナが凛だった。そして自分は……ヴロンスキーかリョーヴィンか、今ならどちらにでもなれるのだと選択を迫られているような気がした。三浜はふと我に返って、驚いたような表情を作ってみせた。
「今度はみんなが避けそうな作品を扱うんだな。『アンナ・カレーニナ』なんて論文書いてたら卒論になってしまう。期末試験じゃ収まり切らないだろ」
「でも卒業論文はあたし達日本文学しか書けないし、ロシア文学講義もこれで終わりだし『アンナ・カレーニナ』に挑戦しようかと思って」
「どうして『アンナ・カレーニナ』? トルストイでも『戦争と平和』とか他にもドストエフスキーとかあるのに」
「ドストエフスキーは授業でやらなかったし。何よりあたし、自分はアンナみたいにはなれないって思ったから、憧れたのかも。人見知りのあたしとは真逆なアンナに、どうしてあんなふうに生きられるんだろうって、それを知りたいと思ったんだと思う」
「そっか……」
三浜は俯きがちに歩いた。自分と真逆の人物に憧れを抱くのはわかる。だが明奈がアンナの考え方を知る必要はないと思った。明奈は自分に対する三浜の態度から、女としての色気が足りないと本能的に感じ取ったのかもしれない。だが三浜は明奈に色気など求めていない。明奈は今のまま、健気で純真なままでいてほしかった。三浜はそんな自分の考えが傲慢であることを承知しながらも、内心では肩を落とすしかなかった。
「そういえばね」階段を下りながら明奈が言った。「この前街を歩いてたら、三浜さんの彼女さんですかって女性に声を掛けられたの」
「え?」
三浜は困惑して訊き返したが、明奈は嬉しそうに肩を竦めていた。
「三浜君、知り合いにあたしのこと彼女だって紹介してくれてたの?」
明奈は照れた様子で、冗談を言っているような雰囲気はまるでなかった。だがぎこちなく浮かべる微笑には喜びが含まれているように見えた。三浜は知人女性を何人か思い浮かべたが、それらは皆高校の同級生で、明奈と知り合ってからは一度も会っていない者ばかりだった。それに、三浜は両親の事故死以来、保険会社の担当者や有事の時だけ親戚面する煩わしい大人意外とは、誰とも会わない生活を続けていた。三浜は怪訝に思った。いったい明奈に声を掛けたのは誰だろう。そして、誰がそんな情報を伝えたのだろう。
「そうじゃないけど……」と答えるのが精一杯だった。
三浜は明奈と教室に向かいながら、得体の知れない胸騒ぎを覚えた。三浜と明奈が交際していると話す誰かが、何かを企んでいるような気がしたのだ。また、明奈に声を掛けた人物が疑問形で問いかけた点も気になった。確証があれば、「三浜さんの彼女ですよね」と話し掛けるはずだからだ。もしかすると、学内で二人が一緒にいるところを見た誰かが、たとえば同じゼミの学生が、三浜と明奈の関係を知ろうとして声を掛けたのかもしれない。その動機として、明奈のように誰かが三浜に好意を持っているのか、あるいは誰かが明奈に好意を持っているのか、そういったことが考えられた。それだけで済めばいいが、と三浜は胸騒ぎの中で思った。ところが教室に入ると、胸騒ぎは簡単に解消された。三浜と明奈が並んで教室に入って来たのを見て、ひやかすように笑みを浮かべる瀧本と乃愛がいた。二人を見た瞬間、三浜は二人の仕業だと思った。明奈を喜ばせようと画策して、声を掛ける役は誰かにやってもらったのだろう。
「明奈に声掛けさせたの、おまえらだろ」
席に着くと、三浜は冗談交じりに言った。勝手なことを吹聴されてあまりいい気分ではなかったが、腹を立てるほどのことではないと思った。何か危害を加えられたわけではない。あまり食って掛かると、明奈に対して嫌悪感を抱いているように見え、彼女を傷つけてしまう。三浜はいつも通りの口調を心掛けた。
「何の話だよ」
瀧本が苦笑いする横で、乃愛はぽかんと口を開けていた。冬休みの間に濃く染め直されたピンクのインナーカラーのせいで乃愛が奇抜に見えた。三浜は瀧本だけを見ることにした。三浜は厚化粧や派手な髪色が好きではない。
「おまえらじゃないの?」
「だから何の話だよ」
明奈が、三浜の恋人かと街中で訊かれたことを話した。瀧本と乃愛は仲良く顔を見合わせ、仰天したと言わんばかりに目と口を大きく広げた。瀧本は唖然とし、乃愛は唸った。
「遂に二人もそう見られるまでになったか」乃愛は筋肉質のがっちりした腕を組んで、言った。
「最近すっかり仲良くなったもんな」瀧本は老眼の人がするみたいに顎を引き、目を細めて三浜と明奈を見た。「うん、お似合いだからな。カップルと思うのも無理ない」
明奈はそれを聞いて無言のまま口元を弛緩させた。三浜は瀧本と乃愛の様子を窺ったが、芝居を打っているようには見えなかった。感慨深げに明奈を包む二人の眼差しは、本当に驚き、本当に喜ばしく思っているように見えた。三浜は、妙な胸騒ぎを覚えた。
21へと続く……
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