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連載長編小説『十字架の天使』4-3
磯山夏妃が亡くなってから、磯山義行は両親と暮らしていた。実家に帰ったわけではなく、磯山夏妃と暮らしていた一軒家に両親が越してきたのだ。低収入が理由で妻から家庭内暴力を受けていた人物が住んでいるとは思えない立派な家だった。
突然の訪問だったが、薙沢と味田はリビングに上げてもらえた。磯山義行に促されてダイニングテーブルを挟んで座った。
「御仏壇は?」リビングのどこを見ても磯山夏妃の仏壇が見当たらない。
「ありません」
年齢は三十二歳とのことだが、ほっそりとした佇まいと覇気のない声でもっと歳がいっているように見える。頬もこけていて、何か病気を抱えているのではないかと思うほどだ。
彼に殺しは無理だ、と薙沢は一目見て思った。
「どうしてですか? 奥様でいらっしゃったんですよね」味田が訊いた。
「初めは置いていたんです。でも両親が越してきて、特に母が夏妃の仏壇を置いているのを嫌がりまして」
「DⅤを受けられていたことが原因ですか?」
磯山義行は目を泳がせた後、頷いた。磯山夏妃が殺害されてからすでに二ヶ月が経つが、未だトラウマが消えていないのかもしれない。
「はい。僕は殴られるのも仕方のないことだと思っていたんですけど、母はどうも許せないようで」
収入が少なく家事もできない自分が妻に暴力を振るわれることは仕方がないと考えていたことは捜査会議でも聞いていた。
「お父様はどうなんです?」
「父は何も言いません。元々口数が少ない人ですし、夏妃より収入が低い僕を夫として情けなく思っていたのかもしれません」
玄関が開く音がして、磯山義行が苦笑した。
「母が帰って来ました。買い物に出掛けてたんです」
そう言った通り、磯山慶子がエコバッグを両手に提げてリビングに入って来た。二人の刑事を見て刹那動揺を見せた磯山慶子だが、バッヂ付きの手帳を見ると鋭い目つきになった。
「何を調べるっていうの」食材を冷蔵庫にしまいながら磯山慶子は言った。「あなた達もあの女が何をしてたか知ってるでしょ? 殺されて当然だと思わない? 褒められたことと言えばそれなりの遺産を残して死んだことくらいね。おかげでこの家を手離さずに済んだわ」
「もちろん、磯山夏妃さんがしたことは赦されることではありません。どんな理由があれ、暴力はいけません。ですが殺人も同じです。決して見逃すわけにはいかないんです。どうかご理解ください」
「殺されて当然じゃない。捜査なんてする必要ないわ。こんなの天罰でしょう。あの女は悪いことをした、それで罰が当たった、それだけなの。話すことなんてない。帰ってちょうだい」
薙沢は愛想笑いを浮かべた。
「他にも同様の事件が三件も起こっています。我々には事件を解決する義務があります」
「そんなことあたしらには関係ないことじゃない? 他の三つの事件で殺された人達のことは知らないし、関わりがないもの。あたしはね、あの女が死んでくれて清々してるの。犯人にはお礼を言うわ」
薙沢は磯山慶子を無視して磯山義行に訊いた。
「嫁姑の関係は夏妃さんが御存命の時からこのような感じだったんですか」
「はい。母からは離婚を勧められてました。夏妃も、どうしてこんな人と結婚したんだろうって母に向かって言ったりしていて」
薙沢は味田を見た。頬が歪むのが自分でもわかった。嫁姑問題は相当確執が深い。
「夏妃さんとは大学時代の同級生ということでしたが、暴力を振るうようになったのはいつ頃からでしょうか」
「結婚して二年が経った頃でしょうか。今から三年くらい前ですかね――」
「まだいるのかい」磯山慶子が怒鳴り声を上げた。
「もう少しだけ、どうか捜査にご協力ください」
「もういいって言ってるの。早く帰って。そうじゃないと、警察に苦情入れるからね」
薙沢は溜息を何とか堪えた。厄介な姑だ。磯山夏妃殺害事件の捜査が難航するのもよくわかる。動機は十分だが彼女にはアリバイがある。それに彼女が犯人だとすれば、ここまで磯山夏妃を非難しないだろう。これが芝居だとすれば大したものだ。
磯山義行が申し訳なさそうにこちらを見た。
「母もこう言ってますので、今日はこの辺で……」
このままでは寺戸に迷惑が掛かると判断した。薙沢は徐に立ち上がった。それを見た味田も同じように席を立った。
「今日はこれで失礼します」
一礼すると、薙沢は味田と磯山邸を辞去した。
「相当恨んでますね」車に乗り込むと味田が言った。
「ああ」薙沢は大きく舌を鳴らした。「ああいうのが一番困る。結局一番聞きたかった鳴海聖子との繋がりが聞けなかった」
「外に連れ出すべきでしたね」
薙沢は答えなかった。元々磯山親子三人から話を聞くつもりだった。だから自宅での聴取を選択したのだが、母親があれほど厄介だとは思わなかった。もし初めからそれをわかっていたら一人ずつ別の場所で話を聞いていた。
窓の外に流れる景色を見ていると無性に腹が立って来る。薙沢は外の空気が吸いたくなった。
「味田、ここから手分けしよう」
これから西野楓と伊東卓士に話を聞く予定だった。
「俺が西野楓のところに行く。おまえは伊東を当たれ」
「わかりました」
味田が車を停めると薙沢は道路に下りた。何かあれば連絡するよう言い残し、薙沢は歩道を歩いた。冬の乾いた空気を吸いながら十分ほど歩くと、西野楓の職場に到着した。
西野楓は太陽光発電を主製品とした電力会社で働いていた。彼女は販売部に所属しており、不動産会社で働く伊東卓士とは太陽光パネルの備え付け物件を販売する企画で知り合い、その後交際に発展していた。だが今は磯山夏妃に借りていた金が原因ですでに別れている。
現在聞かされているのはそれだけだ。
薙沢が応接室に通されてすぐに制服姿の西野楓が現れた。年齢は二十八歳とのことだが、やや肉付きのいい丸顔のせいかずっと幼く見える。目尻の垂れた狸顔には愛嬌があり、一目見て癒し系だとわかる。全身を見ても適度な肉付きで、可もなく不可もなく、といった印象だ。
「突然申し訳ありません。こういう者でして」
薙沢はバッヂ付きの手帳を提示した。刑事が話を聞きに来るのが初めてではないからだろう、西野楓は落ち着いた様子で顎を引いた。
鳴海聖子の事件を担当していることを話した上で、薙沢は訊いた。
「我々の調べている鳴海聖子さんのことをご存知でしょうか」
西野楓は当然鳴海聖子が殺害された事件を知っていた。だが彼女は首を横に振った。
「その方のことは知りません」
「たとえば西野さんではなく、磯山夏妃さんと鳴海聖子さんが知り合いだったということを聞いたことはありませんか」
「はい。そういう話は聞いたことがないです」
おっとりとした口調で、申し訳なさそうに彼女は言った。西野楓が持つ柔らかい雰囲気は休日なら適度に気が抜けて心が休まるのかもしれない。
「そうですか。では磯山夏妃さんと西野さんについてお聞きしますが、借金はおいくらくらいあったんでしょう」
自分の話になると西野楓は視線を落とした。刑事に疑われているという意識があるのだろう。話題が変わってから膝の上で手を擦り合わせている。
「三百万円ほど……」
「大金ですね。どうしてそんな額を磯山さんにお借りしたんです?」
「投資に失敗しました」
「それは誰かに勧められて行ったものですか」
「いいえ、あたしが自分で行ったものです。元々資産運用に興味があったので、投資関連の書籍を二冊読んで、思い切って百万円投資しました」
出口の見えない不景気から資産運用に興味を持つ若者は多い。薙沢も投資について勉強したことがあるが、まだ十分に理解できていないため株を買い付けたことはない。十分に理解しておかないと大損害を出すことになるからだ。
西野楓はまさにそれだった。投資関連の書籍はわかりやすいものが多く出版されている。そのため一冊読んだだけでわかった気になってしまうがそれが落とし穴になることもある。
「それがいくらになったんです?」
「半年で二百万円ほどに……」
「それで磯山さんに借金をしたんですね」
「はい。二百万円お借りしました。返済はゆっくりでいいと仰っていたんですが、一年も経つと夏妃さんが返済を催促するようになってきて」
「それは少額ずつという意味ではなかったんですか」
「はい。できれば早く全額返してほしいと。それに利子もつけていると」
それで利子も含めて今や借金が三百万円になったというわけか。
「法外な利子だとは思いませんでしたか」
「はい。突然百万円が上乗せされたわけではなかったので」
金融に詳しい知人や弁護士に相談すれば借金が減ったかもしれない。しかしそんなことを言っても後の祭りだ。
「なぜ磯山さんに借りたんです?」
「よく夏妃さんのお店で洋服を買っていました。フィッティングなんかも親切にしてくれて、ある日買い物に行った時に株で失敗したことを相談したんです。そしたら今度お金を貸してあげると言われて、あたしはすぐにまとまったお金が欲しかったので、そのまま夏妃さんに泣きつきました」
常連客に親切で金を貸すことなどあるだろうか、と薙沢は思った。
「磯山さんと西野さんは、その頃すでに親しくなっていたんですか」
「元々あたしが夏妃さんのファンだったんですけど、それを話してる内に親しくなって、新しい洋服であたしに合うと思う物が入ればすぐに連絡をくれたりしました」
「食事に行ったりは?」
西野楓は人差し指を立てた。相変わらず目線は落としたままだ。
「一度だけ、お茶をしたことがあります」
「そうですか。では西野さんは磯山さんを信頼していたわけですね。信頼に足る関係を築けていたと」
人懐っこそうな顔立ちだ。学生時代も周囲と打ち解けるのは早かったのだろう。そうして培われた感覚なら、磯山夏妃とすでに打ち解けたと感じていても不思議ではない。
西野楓は頷いた。
「借金を催促されたことはもちろん、借金を恋人に暴露された時は裏切られたという気持ちが強かったんじゃないですか」
西野楓はやや躊躇して首を縦に振った。
「彼は常々借金のある女性とは付き合えないと言っていました。それもあってあたしは彼に借金を黙っていたんです。夏妃さんからあたしの借金を聞いた時、彼は一度肩代わりしようとしてくれました。でも三百万という額を聞いて、肩代わりできる額じゃないと」
「そして別れを切り出されたんですね」
西野楓は項垂れるようにがっくりと首を折った。
「磯山夏妃さんを恨んでますか」
「……はい。でもあたしは殺してません。ちゃんと借金は返済するつもりでした。別れ際彼に家賃の安い物件を紹介してもらって、生活費もなるべく切り詰めて、少しずつ返済していこうと思ってたんです」
「結果的には借金はなくなったわけです。伊東さんと復縁することは考えておられますか」
西野楓は首を横に振った。
「考えていません。そろそろ三十歳で、結婚についても考え始めたんです。もし彼があたしとの結婚を本気で考えていたのなら、借金を肩代わりしてくれたと思うんです。だから、もう彼とは元の関係には戻れません」
薙沢は最後にもう一度鳴海聖子と面識がないかを訊ねた。西野楓ははっきりと面識はないと言った。
念のため十一月二十九日のアリバイを確認したが、西野楓にアリバイはなかった。だがアリバイがないことは特に問題ではなかった。
西野楓の職場を辞去した薙沢は味田と合流した。
味田が伊東卓士に聞いた話は概ね薙沢が西野楓と聞いたものと同じだった。だが一つ違っている点があった。
「磯山夏妃が死んだ今、できることなら寄りを戻したい、か」
味田が報告したことを薙沢は繰り返した。
「伊東は真剣に交際していたんです。結婚を意識したこともあるとか。数十万円程度の借金なら肩代わりしようと思っていたみたいですし、彼女の借金を知らなければその後も交際していて、もしかしたら結婚という話になったかもしれないと」
「西野楓は殺してないと言ったが、動機は相当に強いものがある。何しろ多額の借金があって恋人と別れさせられてるんだ。一方で伊東も真剣交際していた恋人と別れさせられて、その原因を作ったのが磯山夏妃となれば殺意を抱いてもおかしくない」
「ただ二人ともアリバイがありますしね」
問題はそこだった。鳴海聖子殺害事件の詳細が徐々に明らかになっていく中で、他の三件と同様に容疑者全員にアリバイがあると聞き、交換殺人を疑った。そのため西野楓に十一月二十九日のアリバイを訊いたのだが、一件目と四件目の間には二ヶ月という時間がある。交換殺人を行う相方が計画を断念する可能性も十分考えられる。仮に西野楓が鳴海聖子を殺害し、鳴海聖子に恨みを抱く誰かが磯山夏妃を殺害したとすれば、先に事件を起こすほうが大きなリスクを背負うことになる。
同一犯による連続殺人事件に見せかけるために十字架の天使を生み出すという猟奇的な方法を思いついたのだとしたら、それは説明がつく。だがただの交換殺人では他の二件の説明がつかない。
署に戻る車の中で薙沢は重い溜息を吐いた。
5へと続く……