連載長編小説『破滅の橋』最終章 夜明けの灯火3
3
昼休みを終えて店に戻ると、背広姿の見知らぬ男が尚美と話をしているところだった。いらっしゃいませ、と峯本は挨拶したが、背広姿の男が一般人ではないことを敏感に察していた。
背広姿の男は峯本が店に戻ってすぐ、にこりともせずに立ち去った。
「今のお客様は?」
「お客様じゃないの。あの人は、刑事さんよ」
尚美はぎこちない笑みを浮かべていったが、声は明らかに強張っていた。以前も、尚美の元に刑事が来たことがあったが、その時は別の刑事だった。
「何かあった?」
何らかの事件の時に警察が容疑者の知人に話を聞くことはよくあることだが、尚美は今日で三度目だった。もちろん、事件性の強い事故、あるいは殺人事件といったものに関わっている人物と交流があるのであれば、何度か警察が聴取に来ていてもおかしくはない。
まさか、尚美が容疑者――いや、重要参考人として疑われているのだろうか。
少しして、尚美は答えた。
「前の仕事の知り合いが亡くなったみたいで、その人のことで、ちょっと」
「警察が動いてるってことは殺人事件ってこと?」
「詳しくは知らないんだけど、そういうことだと思う」
それ以降、尚美はその件に関しては一言も話さないまま、十八時になった。今日、尚美の勤務は午後六時までだった。人と会う約束をしているらしい。峯本は、午後九時まで一人で店番を務めた。
一人とはいえ、陽が暮れてしまえばそう忙しくはない。貸し出していた浴衣の返却や、小物類がいくつか売れる程度だから一人で事足りた。
しかし一人だから、尚美の元に来る刑事について、余計に深く考え込んでしまう。尚美が殺人事件の容疑者となっているのではないか。その事件はいつ起こったのか。その日、尚美は自分と一緒にいなかっただろうか。アリバイが認められれば彼女を護ることができる。
尚美と親交の深い友人が疑われているのではないか。それで刑事が頻繁に彼女の元に……。あるいは彼女も共犯と思われているのか。
そこまで考えてはっとした。
まさか、前科のある俺を疑っているのではないか? 峯本の心の中に、暗雲が立ち込めた。
翌朝、彼の不安は的中した。
井崎という刑事が店にやって来て、尚美ではなく峯本に用があるのだといった。商店街はまだ閑散としているが、店先から見える竹林の小径へと続く路地にはすでに人だまりができていた。ちょうど、人力車が営業を開始したところだった。
「峯本浩平さんですね」
上から見下ろすようなどすの利いた声だった。彼は、はあ、とだけ答えた。
「少しお話を伺えますか」
「何についてですか?」
井崎刑事は背広の内ポケットから一枚、顔写真を取り出した。それを峯本に向けた。
「この男性をご存知ですか?」
峯本は首を横に振った。「いいえ」
「この男性が殺害された事件はご存知ですか?」
「いいえ。知りません。ところで、場所を変えませんか? ここではお客様の邪魔になりますから」
井崎は峯本の提案を了承した。
店を出た二人は渡月橋を渡り、嵐山公園と道路を挟んだところに石で組まれた川べりへと向かった。ベンチに腰掛けると、勢いよく上流から下ってくる保津川の淡水が眺められた。遠くに、屋形船が見える。
刑事が缶コーヒーを買ってくれた。隣に腰掛けるのを見て、峯本はいった。
「名刺をもらってもいいですか。本当に刑事さんなんですよね?」
自分の過去を知る者が、警察関係者を名乗って冷やかしに来ることがあるかもしれない、とかつての峯本は考えていた。これまでにそういう輩は一人もいなかったが、やはり心のどこかで身構えてしまう部分があった。佐藤慶太を殺害したことを責められれば、何もいい返せない。
刑事は、名刺を取り出した。そこには井崎真平とあった。京都府警捜査一課の刑事らしい。見たところ同世代だが、この年齢で捜査一課に配属されているとは大したものだ。
峯本が缶コーヒーを一口飲むと、刑事はある殺人事件の概要を話し出した。
被害者は木村哲士。二十九歳、独身。中小企業で営業マンとして働いていた男で、背後から近づいてきた何者かによって刺殺された。犯行時刻は午後五時から午後六時の間であり、被害者は帰宅途中に殺害されたと推察されている。また、所持品が物色された形跡はなく、金銭も奪われていなかったため、通勤経路をよく知る顔見知りの犯行である可能性が高いと思われた――とのことだった。
「午後五時から六時の間なら、彼女は店で勤務していました」刑事が述べた事件当日は尚美が店で働き始めてから間もない頃だったが、彼女は午後九時まで勤務しており、アリバイはあった。「アリバイがあるから話にもならないけど、彼女は人を殺すような人ではありませんよ」
「同感です。だから我々警察は小山尚美さんと関係のあるあなたに目をつけた。その理由は、もうおわかりですね?」
峯本は歯痒い思いを噛み殺し、頷いた。
「俺が過去に人を殺したからですか」
その通りです、と井崎は頷いた。「もちろん、あなた以外にも殺人を犯して逮捕され、服役を終えて娑婆に出ている元殺人犯はごろごろいます。ですが、その後殺人事件の関係者と繋がりを持って名前が浮上するというのは、そう多くはありません」
「それだけが理由ですか?」
「違います」きっぱりと井崎はいった。「事件が発生したのはあなたが小山尚美さんを引き抜いた直後だった。小山さんは働いていた広告会社を辞め、あなたの店に移る条件として木村さん殺害を提示したのではありませんか?」
俺が委託殺人を請け負ったと考えているのか。しかし殺人は、たとえ祐里に頼まれてもやらない。それに、尚美は木村哲士との間に何かトラブルを抱えていたのか?
「動機は? 小山さんが木村という人物を殺そうと考える動機はあるんですか?」
「それはまだ判明しておりません」
若くして捜査一課で活躍しているのだからさぞ優秀な男だろうと思っていたのに、峯本は呆れて、そばに落ちている小石を川に投げ入れた。ぽちゃん、と小石は沈み、水面には美しい波紋が広がった。
「動機もない、アリバイも成立している。これでは話になりませんよ」
「ですからあなたを疑っているのです。小山さんにアリバイがあっても、あなたにアリバイがあるとは限らない。動機なんて、ほとんどが逮捕後の自白で判明するものです。小山さんが内に秘めた動機は、後からでもわかることです」
その日なら、峯本は尚美と一緒に午後九時まで勤務していた。ここまで一方的に犯人扱いされて憤慨してしまいそうだったが、彼は冷静を保ち、店に戻ろうといった。井崎刑事は峯本の缶コーヒーのごみを回収するといった。自分の指紋がついたアルミ缶だ。が、何も躊躇うことはない。自分は一切関係ないのだから。
峯本は空になった缶コーヒーを堂々と渡し、店に戻った。
事件のあった日の防犯カメラの映像と出退勤記録を提出した。
「二人とも、アリバイはあります。これがその証拠です。まだ疑うというなら、持ち帰って鑑識にでも、科捜研にでも回して調べてください」
今度は峯本が見下ろす番だった。初対面だというのに、自分を悪者と決めつけて掛かる井崎からは、何か因縁めいたものを感じていた。それが何かはわからないが、せめて一太刀浴びせたいという気持ちがあった。
刑事の目からは鋭い光が失せ、観念したように首を折ると店を出て行った。
井崎刑事との因縁が判明したのは帰宅した後だった。刑事の訪問とそこでの扱いを祐里に話すと、彼女は自分の顔に泥が塗られたように憤慨し、警察に知り合いがいるからそいつに抗議するといい出したのだ。
名刺を差し出すと、彼女はますます怒り、峯本が制止しようとした時にはすでに電話を掛けていた。
「ちょっと」と怒鳴りつけるようにいった。「浩平君が、あんたにありもせんことで疑われたらしいやん。どんな恨みがあって浩平君にそんな恨み吹っ掛けんねん。最低やな。見損なった。正義の欠片もない。そんなんやったら警察官なんて辞めてまえ」
鬼の形相のまま、祐里は電話を耳に当てていた。こんなふうに怒り狂う祐里を見たのは初めてだ。関西弁には慣れたつもりだったが、本気で怒りをまくし立てる祐里に戦慄が走った。
「私のため? それならもう放っといて。真平には関係ないやろ」
真平、と祐里がいうのを聞いてはっとした。今日訪ねてきた刑事は井崎真平だった。まさか、彼自信が祐里の知り合いだったとは。
祐里は電話を切ると、井崎に代わって謝罪した。「みっともない私の幼馴染のせいで迷惑かけて、本当ごめん」
井崎刑事は峯本の過去を知っていた。それは警察官なのだから当然といえば当然だった。が、今日の井崎は、自分が理不尽な捜査を行うことを理解した上で峯本の元に来たはずだ。それは、電話中に祐里が思わず繰り返したように、「祐里のため」なのだろう。祐里は今、井崎のことを幼馴染といった。きっと、井崎は祐里のことを愛しているのだ。だからこそ、殺人犯との交際を許せなかったのだろう。井崎の気持ちは、峯本にも理解できた。
彼は、そんな複雑な気持ちを抱えながら、祐里を抱きしめていた。
4へと続く……