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連載長編小説『怪女と血の肖像』第一部 怪女 6

        6

 長い夜だった。きっともう朝日が昇っている。昇っていてくれなくては、僕はどうにかなってしまいそうだった。手足を縛られたまま、見るからに非力な女性に凌辱される。女の愛撫に弄ばれ、焦らされ、あまりの屈辱に苦悶の表情を浮かべると、追い打ちを掛けるように嘲笑が飛ぶ。女は山道で出会った時とはまるで違った、はっきりとした甲高い声で喘ぎながら、僕が彼女のためだけの肉塊とでも認識しているように、一人で快楽を味わい尽くし、一人満足げに汗を流していた。その最中、彼女の目には生気が宿っているようだった。自由の奪われた獲物を前にして、奴隷に対して王であるかのように彼女は優越感に浸っていたに違いない。
 絶えず続いた拷問がようやく終わった。女のほうが飽きてしまったというふうではなく、僕の精力が尽きてしまったのだ。とっくに僕は放心状態で、臍から下の感覚が失われていた。もう何日も自分の顔を鏡に映していないが、たぶん最後に見た病的な顔と比べれば、今の僕は一層痩せこけているに違いない。このままだと数日のうちに女に肉を喰らい尽くされ、骨だけになってしまうと何度思っただろう。三十年余り生きて来て、女を怖いと思ったのは初めてだった。その女は、行為が終わった今もまだ目に生気を宿している。運動量は圧倒的に向こうのほうが多かったのに、息を切らしているのは僕のほうで、女は規則正しい呼吸を繰り返している。これからは視姦で嫐ってやるとでも言うように……。
 もはや逃げたいとも思わなかった。十字架に磔られたまま、僕には為す術がない。時々脱出ものの映画やドラマがやっているが、その物語の主人公は極限状態にありながら脱出の手段を見出す可能性が残されている。それはつまり、手足の自由だ。手足が動けば、ほんの僅かな突破口が見つかりさえすれば、それを糸口に、あとは糸を伝って行けばやがて出口に出られる。救出を待たずして自力で生還できる。そんな映画を見て、僕はいつも主人公の胆力に感心していた。絶望的な状況に身を置かれて、よく心が折れないものだ、と。あるいは実際にそうした状況に身を置けば、自分も同じようにがむしゃらになれるのだろうかと考えたこともあった。しかし出した結論は、たぶん無理、だった。初めこそ脱出を試みるだろうが、やがて脱出が困難であることを悟り、僕はそこで死を待つだろう……。
 だがその時考えていたよりもずっと早く、僕は生きることを投げ出した。元々生への執着が弱いこともある。でもそれは最も重大な事情ではなかった。絶望的な状況の今、何が最も絶望的かというと、手足がまったく拘束されているということだった。後ろ手に両手を拘束されているだけなら足が使える。鉄格子の端まで移動し、麻縄を擦りつけ、摩擦で縄を切ることもできただろう。あるいは刃物に似た何かがあればそこまで移動して縄を切断できたかもしれない。足だけが縛られていたなら、むろん手で束縛を解き脱出を試みる。脱出ものの主人公とは、大抵は後ろ手に手首を拘束されるだけだ。あるいは完全な密室に束縛なく自由な身を投げ入れられるだけ……。
 笑えてきた。喉につかえるような、乾いた笑い声が鼓膜に届く。もう何時間も水分を取っていない。唯一僕の体内に入り込んできた液体といえば、僕の女王様を気取っている女の唾液だけだった。それ以外に水分は取っていない。食事も、睡眠薬の混ぜられていたスープを口にしたのが最後だ。久しぶりに激しい運動をしたせいもあって、内臓が歯車みたいにそれぞれ関係し合って体内で捻じれ、僕のやわな体に波状攻撃を仕掛けて来る。そのあまりの痛みに、自分の体内で出血が起こり、空洞になっている場所に血が溜まっているのではないかと思うほどだった。反射的に呻いてしまうほどの痛みが繰り返し訪れたが、僕は身をよじることもできずにいた。
 その度思い出さされる。自分の状況を。僕は脱出ものの主人公じゃない。彼らのように手足が自由なら、それは最後まで諦めないこともできるだろう。頭を使えば脱出できるのなら、そんなに楽なことはない。体力を使うのは、ちょっと僕には辛いが、できないこともない。おそらく人間は、いや生物というのは、一パーセントでも生存の可能性が残っていれば、その一パーセントのために火事場の馬鹿力というものを発揮するのだろう。たぶん火事場の馬鹿力というのは、いつでも発揮できる。でもそれが馬鹿力ではなく火事場の馬鹿力と呼ばれる所以は、人間が普段楽なほう楽なほうへと自らを導いてしまうからだ。死を前にしなくても、困難な道を選べば馬鹿力というのは発揮できるはずだ。希望はない。だが死んでいない。腹を括れば、これまでの自分を殺したかのように、それまで想像もしなかった自分に生まれ変わることがある。そして突然開花した自分の能力に驚愕するのだ。かつての文豪や画家、音楽家が歴史に残る名作を生み出すことができたのはその馬鹿力のせいだろう。彼らの逸話は聞けば聞くほど狂気じみている。無一文、不自由、体調不良、時に自らの手で自分を追い込み、あるいは時代の波に翻弄されながら、死とは別の場所で馬鹿力を発揮して来た。
 その馬鹿力を発揮する力が自分に備わっていることを僕は知っていた。僕はすでに、その馬鹿力を発揮したことがあるからだ。しかし以前馬鹿力を発揮した時は手足が自由だった。今よりずっと健康的だった。そして血の臭いのする女のような敵がいなかった。僕の置かれた立場は、脱出ものの主人公のように生易しいものじゃなかった。
 できることは、諦めることだけだ。こうなってはイエス・キリストだって死んだのだ。僕は神でもなければ救世主でもない。超能力は使えないし奇跡も起こせない。ちょっとした人間に過ぎない。遅かれ早かれ人は死ぬのだ。その死が今訪れたというだけだ。むしろ喜ぶべきだろうか。目の前にいる女は狂人だが、曲がりなりにも美女だ。そして華奢な体つきは僕の好みでもある。首元から股に掛けてつけられた無数の傷跡は何度見ても物々しく怪物じみている。だがその傷が彼女を怪物たらしめたのか、彼女の怪物的な一面がその傷を生み出したのかを考えていると、僕は目の前の怪女が狂気的なまでに美しく思えるのだった。そんな女に息の根を止められるのだと思うと、人生に未練は残らないはずだった。
 一人ひっそりと死んでいく。それはずっと前から決めていたことだ。一人、というのは考えていた通りにはならなさそうだが家族や友人にはその死を知られず、僕は一人死んで行ける。もしかすると、これは僕の人生の報いなのかもしれない。僕が傷つけて来た彼女達を代表して、今目の前にこの女が立っているのだ。彼女は処刑人なのだ。だからこんな磔台まで用意して、僕を捕らえたのだ。きっとそうなのだろう。
 女は一度鉄格子の外に出て、別の部屋に移った。すぐに姿を現すと、手には包丁が握られていた。包丁は鋭く研がれていて、それほど強烈ではない部屋の照明を鏡のように照り返している。
 あれで刺されるのか……。僕は大の字のまま動けない体を心の中で目一杯広げてみせた。さあ殺せ。刺せ! 躊躇うことはない。これで僕は死ぬ。未練などない。すっきり成仏してやる。だから一思いに、心臓を貫いてくれ!
女はやけにゆっくりと格子戸を開けた。いや、僕にはゆっくりに見えただけかもしれない。女のほうが今になって殺人に身を竦ませるとは思わない。小屋には杉の香りと共に乾いた血の臭いが染み込んでいる。そこに、昨日から垂れ流しになっている僕のアンモニア臭が立ち込めて、それから少しばかりの生野菜の臭い、そして土っぽい女の体臭が蔓延している。女は間違いなく、これまで何人もの人間を殺しているのだ。僕一人を葬ることなど造作もないことだろう。
 女は最後にそっと接吻した。僕の目を見、首を見、胸を見、腕を見、腹を見た。同じように女は自分の体を見回した。そして自分の右脇の辺りを指先で触れ、その瞬間悪魔が憑依したかのように、声もなく大口を開けて笑った。
 突如として、僕は恐怖に襲われた。それだけでなく、彼女に対しての欲望が抑え切れなくなった。女は僕の右脇に指先で軽く触れると、包丁を振り被った。その目は照準である僕の右脇に見入っていた。女は振り被ったまま、舌なめずりをして体重を一気に前に移した。
「待て!」
 僕は叫んでいた。しかし女の動きは止まらない。
「僕は画家だ!」女の眉がぴくりと動いた。「君の肉体を絵にしたい」
 女はそのまま包丁を振り落とした。脇の下に鋭い痛みが走った。だが振り下ろされた包丁は僕の肉体を貫かず、刃先をかすめただけで床に突き立っていた。じんわりと、脇の下から血が流れ出るのがわかる。だが僕は生きていた。
「画家……?」
 女は一晩中そうしていたように僕の上に跨り、まるでキスを迫るみたいに前屈みになって、床に突き立った包丁の柄を両手で握りしめている。僕の耳元で囁かれた彼女の声は我に返ったように冷静で、しかし呆然としたものだった。その中には、どこか希望的な響きも混じっていた。
「人の絵を描くの?」
「そうだ。肖像画を描く」
 女は床からぐっと包丁を取り上げた。いつしか目から生気は失せていた。あの深淵の見えない大きな瞳が僕を見下ろしている。目の前の怪物は、やはり血に飢えているのだ。人を殺す時だけ生気が宿るらしい。
「この体を描きたいの?」
「そうだ。これほど珍しいものはない。だから画家として、僕の絵画として、最後の作品にするのに相応しい。殺すのは、絵を描いた後にしてほしい。君もその体を絵に残したいと思うだろう?」
 女は脇腹の、一際大きな傷を撫でて笑った。それは交渉成立を示すものだと思った。が、女は包丁を再び振り上げた。
「ここに絵を描く道具なんかないわ。残念ね。絵は描けない」
 今度は僕が笑みを浮かべる番だった。芸術家として、男として、僕の凄みを少しでも感じさせられただろうか。僕が笑うと女はややたじろいだので、成功したのだろう。
「画材道具なら、気持ちばかりだけどショルダーバッグの中にある」僕は鉄格子の外に投げ捨てられたショルダーバッグを指差そうとしたが、手首が思うように曲がらなかった。「さあ、バッグを取ってもらおうか。それからこの縄も。手が動かせないんじゃ絵は描けない」
 肖像画は描くつもりだった。だがあくまで、形成を逆転してからだ。手足の縄をほどかせ、今度は女を縛り上げる。その後で絵を描き、仕事が終われば僕は悠々と山を下りる。それで脱出成功だ。
 しかし女は安易に縄をほどいたりはしなかった。立ち上がり、鉄格子のドアを開けた。

7へと続く……

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