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連載長編小説『滅びの唄』第一章 灰の劇場 5

 慌てて帰り支度をして市役所を出たのだが、空の明るさに思わずほっとした。杉本の頭上天高い雲はまだまだ昼間のように太陽を透かして見えた。しかし遠くの空は茜色に染まり始めていた。これから杉本が向かう方角も黄昏始めているところだ。夕焼けの羽衣に撫でられる山頂付近の緑には、そこに神が降り立つのではないかと思わせる神聖さを感じさせられる。
 空はまだ明るいが、時間に余裕はなかった。一昨日枝野にチケットを渡された時は午後七時の開演であれば一度帰宅してからか、あるいは翠風荘に立ち寄ってから劇場に向かっても大丈夫だと計算していた。しかし今はすでに午後六時前だ。定時で切り上げる予定が、狂ってしまった。今日の午後四時を過ぎた頃から高橋が班のメンバーを集めて小会議を行ったのだ。会議自体は午後五時過ぎに終了していたのだが、杉本はありがたいことに高橋に付きっきりで上司をサポートする役目に指名されてしまった。
 そのせいで会議が終わってからもしばらく高橋に拘束されていたのだった。髙橋は杉本達プロジェクトチームのリーダーだから、建設会社の責任者らとも頻繁に現場を視察し、打ち合わせを重ね、着工までの予定を整備するのだろう。髙橋に付きっきりということは、いずれにも同行しなくてはならない。
 向こう一年は息が詰まる。ならば今の内に吐けるだけの息を吐き出しておこうと、杉本は深呼吸し、S市役所前駅のホームに入った電車に乗った。
 十分も電車に揺られると空は茜色に紫がやや混ざり、それらが混濁としたせいで太陽の表面のように点々と黒い色を見せ始めた。それから二分ほどで青暗くなった空には鳥一羽の姿もなく、静寂な夜を思い起こさせた。そしてそれは、光届かぬ夜の帳へと誘っているようでもあった。
 劇場の最寄り駅で下車した杉本は闇に姿を潜めてしまった山々の輪郭を見上げながら劇場の方角へと足を進めた。S市の最北端に位置するこの山は、麓に立つ劇場の背景に留まらず、むしろ劇場を自然の一部に同化させてしまうであろう魅力を放っていた。また劇場も、自然を芸術の一端に取り込もうとその姿に磨きをかけただろう。
 しかし今は、もう劇場はその姿を留めていないのだった。山の麓で、まるで崖崩れに呑まれてしまったかのように無惨に砕けた、今や灰の燃え滓としか思えない劇場がそこにはあった。風が吹けば足元の灰屑が吹き上がるであろう劇場の敷地一帯には、元の姿を留めた柱が数本倒れており、それらに囲まれた中央付近のスペースが舞台となるようだ。舞台よりも奥の敷地を見てみると、煤けた梁やぽっきり折れた柱などが積み重なってキャンプに持参するテントぐらいの大きさになっていた。屈めば大人一人くらいは入るだろうか。子供ならかくれんぼで身を隠すのに最適なスペースだろう。杉本は子供が塵穴に身を潜めるところを想像して、キャンプ用のテントよりも冬に作られるかまくらのほうが例えるのに適しているかもしれないと思った。
 ぐるりと敷地を巡ると人が密集している場所があり、そこが客席への入り口なのだと杉本は理解した。入場は無料とのことだが、枝野にもらったチケットがなければ客席には進めないらしく、簡易的に建てられた入場ゲートにはチケットを確認する者が二人立っていた。
 杉本はチケットを提示し、ゲートをくぐった。連絡を取り合い、杉本は枝野と合流した。
「お疲れさん」
「上司に付き合わされてて、長引いた」
 枝野にはすでに事情を説明していた。本来なら枝野の職場の最寄り駅で合流する予定だったのだが、杉本の思いがけぬ残業のため先に劇場に向かってもらったのだ。
「まさかこんなに客がいるなんて」
 杉本は思ったことをそのまま口にした。劇場が健在であった時は一二〇〇人を収容できる客席があったそうだが、荒廃した今の劇場にいったいどれだけのキャパシティがあるのか、一見しただけではわからない。しかし目測で二百名ほどの来場者がいると思われた。
「俺も驚いたよ。結構顔見知りが多いらしいから、凌也が来るまで俺は居心地が悪くてたまらなかったぜ」
「それは悪かったよ」杉本は枝野と一緒に苦笑した。「クラシック音楽もまだまだ人気なんだな」
 枝野は呆れたように、いや、馬鹿にするように首を傾げた。
「俺も詳しくはないけど、クラシックのコンサートだってもっと人数入るぜ。演奏者にもよるだろうけどな」
「そうなのか。でもここの劇場で、まあ入場料が無料っていうのはあるかもしれないけど、これだけ人が集まるっていうのはすごいんじゃないか? それに普通、クラシックは野外ではやらないんじゃないか?」
「すごいもんか。よく見てみろ」
 枝野は人が集まっているほうに顎をしゃくった。さっき彼が言ったように、親しげに話す集団が何組もある。
「みんな信者だよ」
「信者?」訊き返してすぐに、杉本は腑に落ちた。「ああ、そういうこと。だからみんな知り合いなのか」
 枝野は悔しそうに頷いた。「そう。俺達は部外者ってわけだ」
 腕時計で時刻を確認すると午後六時四十五分をやや過ぎた頃だった。すでに夜の帳は下り、しかし荒廃しているせいで劇場の外灯に電気が通っていないため、文字盤を読み取るのに苦労した。開演十五分前である。
「客席は、ここでいいのかな?」
「そうみたいだな。敷物とか折り畳みの椅子を持って来てる人もいるみたいだから客席はないんだろう。俺達は立ち見だな」
「まあ、仕方ないな」
 納得する他なく、杉本は微笑した。側にあった途中で折れている柱に身を預けられるか、杉本は手で叩いて点検した。
 その時だった。
 声が聴こえた。
 唄だ。
 甲高い、ちょっと出してみろと言われても出せない、裏声よりも高い声、それでいて美しく、耳に馴染む。気がつくと、全身に鳥肌が立っていた。歌声の持つ力か、それとも恐怖に神経が逆撫でされたのか、わからない。
「なあ枝野、今声しなかった?」
「声? いいや」
「本当に? ちょっと耳を澄ましてくれ」
「歌声がするってやつ、あれは都市伝説だろ?」
「いいから集中してくれ。絶対聴こえたから」
 枝野は疑っていた。しかしからかうように眉を曲げながらも、耳をそばだてた。杉本も耳を澄ました。
 周囲で話し込む来場者――株式会社清樹の信者達の声、靴が地面に擦れる音、涼しげな虫の合唱、道路を走り抜けるエンジン音、そして――女性の歌声はなかった。
 さっき杉本が耳にしたのは何だったのか。この劇場に由来する伝説を脳が無意識の内に強く考え込んでいただけの空耳なのか。しかしそうは思えなかった。
「何も聴こえないじゃないか」
「今は、たしかに……。でもさっきは聴こえたんだ」
「凌也、そういうのは中学までにしとけよ」
 本当だと言い返そうとしたが、喉元で声を切った。やはり空耳かもしれない。どんな歌だったのか、それを問われてもわからない。ただ声はした。だが証拠はない。どれだけ熱心に伝説の正当性を主張したって、それを証明することはできないのだ。
 杉本は柱に身を預け、夜空を仰いだ。柱に後頭部を打ち、鈍い音がした。痛みは感じなかった。一番星がくっきりと見え、この街にも星がきれいに見える場所があったのか、と杉本は思った。しかしこの星空の明るさも、ショッピングモールが建設されれば見られなくなる。星の光は霞むのだ。
「疲れてるんじゃないか?」枝野は心配そうな声で言った。「苦手な上司と歩調を合わせないといけないんだろ? きっとそれでストレスたまってるんだよ」
「心配ないよ」
 確かに心労は日々蓄積されている。しかし女性の声はした。それは確実だ。それなのに、枝野に証明できないのがもどかしかった。
「凌也にはあれがお勧めだな。えっと、フィンランディアコスモ天然水」
「フィンランディア?」杉本は思わず吹き出した。「何、それ」
「俺が考えたんじゃないぜ? 売ってるんだよ、そういう水が」
 枝野は親指を立てて、彼の背後を指していた。
「売ってる?」
「そうだよ。グッズとかCDと一緒にな」
 物販か、と杉本は思った。
「見に行こうか」
「俺はさっき見たからもういいよ。ここ、見やすそうだし、動くと取られるかもしれないだろ?」
「じゃあ留守番しててくれ。俺、ちょっと見て来るよ」
「ああ、了解」
 株式会社清樹の信者達を掻き分け、杉本は物販台に向かった。物販台には枝野が言ったようにCDをはじめパンフレットやチケットホルダーなどが販売されていた。しかし他には目を疑うものばかりで、まずは衣服だ。見るからに使い古された中古品やどこの国のものかもわからない民族衣装が並べられており、物によって値札が付いているが民族衣装に関しては高価なのか安価なのかがわからない。
 他には流木が安いもので四千円、高いものでは七千円で販売されており、そのすぐそばにはツルツルとした石が置かれていた。オブジェなのかと思ったが、石にも値札が付いていた。見ると二千円もした。杉本は開いた口が塞がらなかった。石はこの二千円のものが最も高価らしく、一番安いものでも千五百円はした。
 そして水だ。枝野が諳んじた通り、フィンランディアコスモ天然水とある。これにも信じられない値段がついていた。五〇〇ミリリットルのペットボトル一本が千二百円もした。六本入りのボックス買いも可能らしく、こちらは七千円ということだった。
 まるで思考がショートしてしまったかのように杉本は突っ立っていた。
「何かお求めでしょうか?」物販を切り盛りしているらしい女性が言った。黒のニットの上に淡い黄色のエプロンをしている。
「いや、ちょっと見てるだけです」
「初めてですか?」
「ええ、まあ」
「初めての方にはですね、こちらのフィンランディアコスモ天然水がお勧めです。ボックス買いだと少しお得なんですが、まずは一本いかがでしょう?」
 あまりに真面目な目をしているせいで、腹の底から笑いが込み上げてくる。杉本は口を噤み、笑いを懸命に堪えた。
「飲み物は間に合ってます」
「こちらの流木なんかはどうです? こちらバリ島の砂浜で入手したものになります。高瀧先生が仰るには荒波に揉まれて立派な木芯を持っているとのことです」
「へえ、バリ島。行ったことないな」
「失礼ですがお客様、お一人でお暮しでしょうか」
「はい」
「男性の一人暮らしですと、お部屋の装飾にまで手が回らず、殺風景になっていませんか?」
「まあ、気にしたことはないです」
「でしたらこの流木を置くだけでお部屋の雰囲気は変わります。お一つどうです?」
「今散らかってるんで、置くところがないかな……。コンサートの間、ちょっと考えてみます」
「はい、お待ちしております」
 杉本は度肝を抜かれた。水一本が千二百円、バリ島で拾ったという流木を強引に売りつけようとする販売員、こんなものぼったくり以上に詐欺ではないか。
 枝野の元に戻る途中、杉本はある光景に思わず足を止めた。そしてその光景に目を疑った。何と信者達は皆フィンランディアコスモ天然水を手に持っているのだ。中には足元にボックス買いした段ボールを置いている者もいる。パンフレットを持っているのは当然で、この夕闇の中でも物販台で販売されている古着を身に纏っている信者が数名いることが確認できた。
 株式会社清樹とは、いったい何なのだ。
「売ってただろう? フィンランディアコスモ天然水」
「うん、あった。たまげたよ」
「一本買ってみるか? 六百円ずつだ」
「せっかく来たからあの水を飲むのも悪くないけど、やっぱり騙されるみたいで嫌だな。それなら自販機で水を十本買う」
「つまんねえの。――おっ、そろそろだぜ」
 舞台に置かれた照明が灯った。まるでそれが合図だったように信者らが拍手を始めた。それに釣られて枝野が、そして友人が手を叩くのを見て、杉本は恐る恐る柏手を打った。
 夜の影となった灰の劇場の片隅から男が一人登場した。出で立ちはまるで女性用の社交ドレスだった。袖が長く垂れ、腕を下げていると地面についてしまいそうで、裾はというと地面に引きずられていた。照明が眩しくはっきりとは見えないが、首元にはチョーカーを嵌めている。杉本は初め教祖高瀧の衣装が黄色に見えたのだが、それは白の衣装が照明に染め上げられただけなのだった。
「ヴァイオリニストなのか?」
「みたいだな。ピアノやパイプオルガンも弾くみたいだけど、ここは焼け野原も同然だからオルガンはないし、ピアノを搬入するスペースもちょっとな。その点ヴァイオリンなら手で持ち運べるから、ここではヴァイオリンだけなんだろう」
 事前に調べて来るとは、と杉本は感心したのだが、その直後枝野の手にパンフレットが握られているのを見て幻滅した。枝野はパンフレットをスラックスの尻ポケットに隠し持っていたのだ。おそらく杉本が来る前に物販台で購入したのだろう。
「パイプオルガンなんてどんな音が出るのか、聴いてみたいな」
「今度東京でやるコンサートはパイプオルガンがあるらしいぞ」
「清樹のコンサート? もっと正統派のオルガニストの演奏が聴きたいよ」
 信者達に温かく迎えられた高瀧は両脇を上げるような仕草からヴァイオリンを構えた。その動きが妙に衣装と調和して、長く垂れた袖が大鳥の翼を彷彿とさせた。
 弦に弓が当たったのがわかる。杉本の位置からは手元の細やかな動きは見えないけど、高瀧のヴァイオリンが甲高く、そして微かに震える音を鳴らした。
 その旋律はしばらくの間止まなかった。しかし集まった聴衆を酔わせている。杉本は聴き馴染みのない音楽のせいか、気持ちは昂らなかった。
 横を見ると、枝野がステージに熱い視線を送っていた。

第二章へと続く……

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