連載長編小説『美しき復讐の女神』5-1
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「今日も部活か?」
終礼が終わり、隼人が席を立つと隣の席の下野が言った。
「ああ」
「精が出るな」
隼人はどんな顔をすればいいのかわからず、教室を見回した。教室ではすでに掃除当番の五、六人の内三人が箒を準備していた。一人は窓拭き雑巾を濡らしに行き、一人は黒板を神経質に消していた。掃除当番以外の生徒の姿は、もう半分近く消えていた。
隼人は下野に向き直った。「自習室、行かなくていいのか?」
体育祭が終わった九月下旬、いよいよ受験に向けて教室は緊張感を持ち始めたが、十月下旬に差し掛かった今、その緊張は一層膨れ上がっていた。受験生の顔は皆険しく、受験生の殆どは周囲のことなど気にせず、自分のことだけに集中していた。剣道の稽古と同じように、受験勉強にも追い込み期間があるのだろう。
下野も、これから大学受験に挑む受験生だ。これから受験を迎える生徒のほぼ全員が、終礼が終わるのと同時に自習室に向かう。隼人にはまるで理解できない話だが、受験生にはそれぞれ集中しやすい座席があるそうで、その争奪戦を繰り広げているのだ。
「べつにいいんだ」
隼人の心配はよそに、下野は気楽そうに言った。
「席はどこかしら空いてるし、空いてなくても、ここで勉強すればいいだけだからさ」下野は自分の机を人差し指で叩いた。
「教室で勉強してる人も結構いるみたいだな」
「まあ、ぼちぼちだよ。俺は教室の時もあるし自習室に行く時もある。でも自習室って、飲食禁止だから一々外に出なきゃなんねえの、面倒なんだよな。だから大体教室で勉強してる」
「そんなことまで考えてるのか。自習室で集中して、気分転換も兼ねて外で休憩すれば、飲食の問題もないんじゃないか」
「そうしてるやつもいる。でもそういうやつって、勉強できるやつなんだよなあ。メリハリをちゃんとしてるっていうか、べつに環境に縛られなくても自分で集中できるっていうか……。佐久間とか森とか、南野とか」
和葉の名前が挙げられ、隼人は、確かに和葉はいつも自習室のほうから窓に姿を見せている、と思った。佐久間も森も、和葉と同様に学年トップの成績を誇る優等生だ。これまで深く考えたことはなかったが、今隼人が下野に言ったようなことを、和葉は実践しているのだった。和葉は毎日のように、勉強の合間に武道場を眺めている。そして時々、隼人と休憩が被ると、わざわざ外に出て来ることがあった。
ふと下野に視線をやると、含みある笑いが彼の顔に浮かんでいた。隼人はその顔を見て、溜息を吐いた。とんだ茶番に付き合わされたものだ、と思った。
「南野とはどうなんだよ?」とまるですでに交際している相手について訊くみたいに下野は言った。「この前も勉強の休憩でトイレに行ったら、たまたま南野が廊下に立ってて、隼人のこと見てたぜ」
「どうって、何がどうなんだよ」
「おまえら仲良いんだろ? 昼休みなんか、しょっちゅう二人でどこかに行ってるじゃないか。それでいつもそこで別れるだろ?」
下野は廊下を指差して意地悪く笑っている。
隼人は弁明の必要のないこういった恋愛話が嫌いだった。何とも微妙な気持ちになるのがわかり切っているからだ。
「一緒にいるわけじゃない。たまたま鉢合わせただけだ」
「隼人にとってはたまたまでも、南野にとってはたまたまじゃないかもしれないぜ」
隼人は目を細めた。「どういうことだ?」
「南野は隼人に気があるんだよ。昼休みだって、隼人の行く場所に行ってるんじゃないか?」
「そんなわけないだろ。この忙しい時に、恋愛なんてしてる余裕あるかよ」
隼人は毎日昼休みになると図書室に行くが、いつも和葉のほうが先に図書室にいて、勉強に集中している。だから隼人は和葉の集中を削がないように、息を殺して読みたくもない文章を読んで時間を潰している。そして図書室を出るわけだが、図書室を出る時に時々和葉と鉢合わせてしまうことがあるのだ。そういう時は、下野が言ったように教室まで二人で帰るが、むろん隼人にも和葉にも作為的な点などまったくない。
毎日顔を合わせるわけではないので、和葉は隼人が毎日図書室にいるなんてことは知らないはずだ。それに和葉のほうがいつも先に図書室にいるのだから、隼人を尾行しているなんてこともない。下品な含み笑いだけが名探偵級で、下野の推理はまったくもって邪推であった。
「それが意外と恋愛してる余裕はあるんだよな。他クラスで、お互いこれから受験なのに散々デートで浮かれてるやつもいる」
「それは特殊な例じゃないのか?」
「まあ確かにデートばっかりしてる受験生は特殊かもしれないけど、付き合ってる連中ならたくさんいる。それに、受験生だからって恋しないわけはない。受験が終わったら、今まで閉じ込めてた気持ちが溢れ出すかもな」
「下野にもいるのか? そういう、受験が終わったら気持ちを伝えたい相手が」
「いれば勉強ももっと頑張れるんだけどな。この学校にはちょうどいい女子がいないんだよ。べつに外見で決めるわけじゃないけど、やっぱり彼女にするならかわいいほうがいいだろ? でもなかなかこの学校にはかわいい女子がいない」
「南野さんは美人じゃないか」
「そんなの誰でも知ってる。南野は可愛過ぎるんだよ。高嶺の花というか、あそこまでは求めてないんだ。……ってか、こんな話はどうでもいい。隼人は、南野のことどう思ってるんだよ? 隼人が南野のことを好きなら、両想いだぜ」
「南野さんが俺のことを好き? まさか。誰から聞いた」
「そんなの、見てりゃわかる。南野は隼人のことが好きだ。こんなチャンス二度とないかもしれないんだ。あんな美人、滅多にいないぜ?」
下野の言う通り、和葉のような美人が自分に好意を抱いてくれることなど、この先二度とないかもしれなかった。隼人は凛と違って平凡な容姿だ。隼人よりも整った顔立ちの男子生徒など山ほどいる。それに、和葉とは他の女子生徒よりも親しいが、お互い気心の知れた仲というわけでもない。それだけに、和葉が隼人に好意を寄せていることが不思議で仕方がなかった。
下野の言うことが正しいのは隼人もよく理解していた。しかし隼人は、誰もが羨むこの恵まれた機会を掴むことのできない自分に絶望に似たものを感じた。
「俺は……」口を開いた瞬間、隼人は目が泳ぐのを感じた。「南野さんを恋愛対象として見たことがないんだ。だから好き、とかそういう感情はない」
下野は信じられない様子で、顔半分を歪めて驚愕していた。
「それ、本気で言ってんのか?」
和葉のことが好きではない、と一言で片付けてしまうのは誤解を招く。隼人は、下級生の頃からの和葉の姿を思い出して、口を開いた。
「南野さんのことは好きだ。ただ、恋愛対象として見てないだけで……」下野の表情を窺うと、さらに困惑したように、まるで泣きそうな顔になっていた。隼人は続けた。「でも、マネージャーでもないのに、いろいろと陰で支えてくれて感謝しかないと思ってる。南野さんのおかげで剣道に集中できたし、強くなれた。何て言っていいのかわからない、何とも言い難い関係性なんだろうな」
隼人は、自分でも何を言っているのかわからず、苦し紛れに笑うことすらできなかった。和葉を美人と認めながら、恋愛対象として見ることができない自分に、疑問と絶望を抱くだけだった。
「わけがわかんねえよ。どんな過去問よりもわかんねえ」下野は髪をぐちゃぐちゃっと掻き回した。「何で南野に恋愛感情持たないかはわからないけど、感謝の気持ちがあるなら受験頑張れって、恩返しのつもりで何かプレゼントしてやれよ。南野絶対喜ぶし、その反応見たら隼人のこと好きだって一目瞭然だから」
隼人は掃き捨てられる塵芥を見つめて、自然な笑顔を作った。線一つないまっさらな黒板に落ち着きを取り戻した。
隼人は下野の肩を叩いた。
「そんなこと考えてないで、勉強しろ」
勉強について指摘されると、下野は机に突っ伏した。ううっ、と弱々しい声を出して、突っ伏した状態からさらに項垂れた。
「もう無理だ。受かりっこないよ、大学なんか」
「またそれかよ」
下野は定期試験の度に「今回やばい」と言いつつ平均点を取っている。下野はすぐに弱気なことを口にするが、きちんと対策を練っているのだ。追い込みを掛けなくてはならない受験勉強にも身が入っていないようだが、見えないところで相当努力しているはずだ。
下野が弱音を吐く時は何も心配いらない。隼人は項垂れる下野の背中を軽く叩いた。
「俺はもう部活に行くからな。勉強頑張れよ、頑張れよー」
ううっ、ううっ、と揺れる下野を放って、隼人は教室を出た。階段を下りる前に廊下の窓辺に立ち、武道場を眺めた。
菊島達が、袴に着替えてランニングの準備をしていた。
5-2へと続く……