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連載長編小説『滅びの唄』第一章 灰の劇場 3

 吹き抜ける風が鼻の頭をかすめた。風のくすぐったい感触を確認するように杉本は親指で鼻を弾いた。午前中は屋内でずっと雑務をこなしていたためか、外の空気が気持ち良い。微粒子を吐き出しているように思わせる空調の稼働音が聞こえないのに爽やかな春風が吹くとは、不思議な心地がした。
 今日は気圧線が離れているため穏やかな風が吹くと気象予報士は言っていた。空は青く澄み、厚い雲が太陽を隠しては覗かせる。たしかに穏やかで、昼下がりに上質な仮眠を取りたくなる春の陽気だった。杉本は日陰から出た。
 S市役所前駅のほうに出ると、待ち合わせていた枝野祥太郎の姿があった。脱いだジャケットを腕に載せ、木陰で涼んでいる。シャツの長袖はまくられて、ハンカチを額に当てていた。
「待った?」杉本は木陰に入ると枝野に声を掛けた。彼の額からは汗が噴き出していた。
「いや、さっきの電車で着いたところだ。しかし暑いな。まだ四月だっていうのに」
「最近温暖化がひどいからな。春なんて日本から消えたんじゃないかと思うくらいだ。風はまだ涼しいけど」
 枝野はシャツの襟元を掴み、ばたばたと服の中に風を送った。
「本当だよ、風がなかったらたまったもんじゃない」
 それじゃあ行こう、と言って二人は歩き出した。昨夕、「明日昼時に市役所の近くにいるんだが、飯でもどうだ?」と枝野から突然連絡があったのだ。枝野とは中学校で知り合い、高校、そして大学まで同じだった。大学卒業後、杉本は地方公務員に、枝野は金融機関に就職した。社会人となってからはお互いに時間を割けないながらも時々顔を合わせていたが、最近は枝野の仕事が忙しく、また杉本は祖母の面会のために時間を割けないでいた。最後に枝野と会ったのは三ヶ月ほど前だった。
 市役所から十分も掛からない場所にあるラーメン屋に二人は入った。先月オープンしたばかりの店なのだが、枝野はすでに御用達のようだった。その証拠に、入店と同時に「枝野さん毎度!」と恰幅の良い男が言った。大将と思われた。
 二人はカウンターに並んで座った。昼時とあって、カウンター席は七割ほど埋まっていた。しかし通路を挟んだ座敷は一つしか使われていない。枝野曰く、塩ラーメンが絶品だということなので杉本はそれを注文した。枝野も同じものを注文していた。
「外回りなんて珍しくないか?」杉本は訊いた。働き始めて以来、こうして枝野と昼食を摂ったことはなかった。
「貸した金の返済を何回か催促したんだが、向こうさんが渋るんだよ。でももう期限だし、電話じゃ埒が明かないってことで直接出向いたんだ」
「取り立てか」
「そんな言い方やめろよ。印象悪いだろ。でも借りた金を返すのは当然のことだし、返済を催促するのは当然の権利だ」
「俺にはできない仕事だな」
 本気でそう思った。返済の催促はできても、もう少しだけ待ってくれと今にも泣き出しそうな顔で懇願されたら情に流されてしまうだろう。たとえそれが仕事だったとしても、自分なら任務の遂行を断念すると杉本は確信した。枝野が非情な男というわけではないが、金融の世界では冷酷にならなければならない時があるのだろう。
「やってみれば意外といけるもんさ」枝野はラーメン鉢を受け取って杉本の前に置いた。「凌也はどう?」
「ぼちぼちだよ」
 杉本は箸を二組掴み、一組を枝野に渡した。まずスープを一口飲むと、塩気のあっさりした味がした。口当たりがよく、滑るように喉を通っていく。太麺は噛み応えがあって、スープとのバランスがちょうどよかった。
「ぼちぼちって?」
「プロジェクトにも参加するし」
「へえ、順調そうだな」
 杉本は麺を啜りながら首を傾げた。順調では決してない。
「彼女は?」
「いないよ」
「気になる人とかは?」
「いないね。第一出会いがない」
「同僚にいい女はいないのかよ」
「職場恋愛なんて考えたこともなかったな。割り切ってるんだよ、きっと」
「つまんねえの。彼女くらい作れよな」
 枝野には大学生の頃から交際している恋人がいる。会っていないので当然だが、最近恋人との話を聞かない。枝野は明るくて、学級委員長に立候補するような責任感と行動力のある男のため、異性からの人気も高かった。だから彼には常に恋人がいた印象だ。杉本はあまり恋愛に熱心なタイプではなかったため、友人と恋愛談義に花を咲かせるような学生生活は送って来なかった。それでも枝野が恋人と破局する度にその情報は耳に入って来た。すべて枝野のほうから別れを切り出したのだった。
「今は間に合ってるよ。別にいなくたって困らない」
「でも楽しいだろ、女がいるだけで」
「枝野みたいに恋人に惚れ込むことができたら楽しいだろうね」
 これまで何度か恋人ができ、その内の何人かとは関係を持ったけど、心底この人を愛した、といえるものは一度もない。そういえば枝野は、今度は運命を感じる、とずいぶん意気込んでいたけど、その言葉を聞いた時に、運命なんて本当に感じるのか、と杉本は思ったものだ。
「……やめろよ」
 枝野は豪快に麺を啜った。カウンターテーブルに飛び散ったスープの点滴が、黄色く光って赤が萎んだ。それが何だか不気味で、杉本は静かに麺を啜った。
 すっかりスープまで飲み干した杉本は、おしぼりでテーブルを拭いた。
「それとこれなんだけど」と枝野は財布から何やら取り出した。
 それは映画の前売り券くらいの大きさをしていた。何かのチケットかと思ったが、印刷された表面に座席番号や値段の表記がなく、どうやら広告であることがわかった。
「これは?」
「上司からもらったんだ。クラシックのコンサートなんだけど、主催者が妙なんだって。宗教団体というか何というか、この高瀧っていう人が教祖らしいんだけど」
 杉本はこれまでクラシック音楽に触れたことはなかった。興味を持つどころか、身近に感じたことすらない。それに宗教団体が主催するコンサートなど、胡散臭くて近づきたくもない。
 が、杉本は広告に書かれた開催地に目を奪われた。広告には確かに、あの灰の劇場でコンサートを催すことが記されているのだ。すでに再起不能のあの劇場で、今も時々コンサートが催されていることは知っていた。しかし灰の劇場でコンサートを開く物好きなアーティストのことなんて考えたこともなかった。活動資金の乏しい学生バンドなどがライブを行っていると聞いたことはあったけど、今回のコンサートは株式会社清樹が主催するとある。広告に使われている写真を見ても、どこか立派なコンサートホールで楽器を演奏しているところだ。そんな人物がなぜS市に赴き、灰の劇場でコンサートを開くのか。
 宗教団体とか教祖とか、如何にも怪しい臭いの漂うものだが、これを機会に今度のプロジェクトの対象となる劇場に足を運んでみてもいいのかもしれないと思った。
 枝野は広告をずらした。彼は二枚持っていたのだ。
「これがチケットらしい。でもこのコンサート、チケット代は無料みたいだぜ。いらないなら他を当たるけど」
「一枚もらうよ」杉本は広告を抜き取った。「さっきプロジェクトに参加してるって話しただろ?」
「ああ……」
「あれ、この劇場に関係した仕事なんだ」
「へえ、じゃあちょうどいいな」
「うん、ちょっと行ってみる」
 二人はそれぞれ別に精算し、枝野の帰社時間に合わせて店を出た。
「また、近々」ホームに入る前に枝野は言った。
「うん、劇場で」
「悪いな、俺に合わせてもらって。もう少しゆっくり話せたらよかったんだけど」
「気にしないでくれ。俺もこの後会議なんだ」
「プロジェクトの?」
「うん」
「そうか。それじゃ、今日はこの辺で」
 頷き合うと、杉本は体の向きを変えた。笑みを浮かべて友人と別れたはずなのに、職場に向いた時にはもう表情は曇っていた。市役所が地面に落とす影に、翳った杉本の顔が重なった。

4へと続く……

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