連載長編小説『怪女と血の肖像』第一部 怪女 3
3
睫毛に風を受けて、琥珀色の瞼の中で視界が復活した。目をぱちくりさせたが、眩しくてまともに目が開けられなかった。僕の真上に照明が照っている。右目に力を入れ、左目を薄っすらと開けた。微かに睫毛が絡まる感覚があった。目ヤニがついているのだろう。たぶん、大きくて色の濃い目ヤニがついているはずだ。最近は特に、寝起きに目ヤニを洗い落とすのに苦労している。
そこまで考えて、僕は山小屋の中で意識を失ったことを思い出した。あの女のことも……。
はっとして起き上がろうとしたが、体を起こそうと力を込めた瞬間、手足に激痛が走った。捩じ上げられるような痛みだった。咄嗟に痛みのほうに目をやると、手足を縛られていた。どうやら杉の木で作られた板の上に寝かされているらしい。首を回し、何とかその板を視界に収めてみたが、見たところ、十字架のようで少し違う、でもやっぱり十字架の形をした板の上に縛られているようだ。というのも、両足にはそれぞれ別の足場が設けられ、そこに縛りつけられているのだ。つまるところ、僕は十字架の上で大の字に縛りつけられている。
何をする気なんだ……。僕は鉄格子に身を預けるようにしてこちらを見ている女を見て、そう思った。十字架に縛りつけられて大の字になるというのは、磔に処される形そのものだ。磔……あるいは磔刑と言うべきだろうか。彼女がどちらの呼び方を好むかは知らないが、わざわざ僕を山小屋に誘い込み、料理に睡眠薬を混ぜておき、眠り込んだところでこうして身柄を拘束しているのだ。殺す、以外の目的があるとは思えない。僕が何をしたというんだ。山道を彷徨う淑女を助けてやっただけじゃないか。これがその報いなのか?
もう一度、思い切り腕を持ち上げた。だが麻縄はがっちりと括りつけられていて、ほどける様子はない。当然、引き千切ることもできない。僕の腕は平均と比べてもかなり細いほうだが、その腕の細さに合わせて縄は固定されていて、するりと引き抜くこともできない。
くそっと雄叫びを上げながらもう一度力を込めたがびくともしない。それどころか僕が動けば動くほど麻縄は手首に食い込んできて、強烈な痛みを伴う。もうすでに縄の下には擦り傷ができて赤くなっているかもしれないし、身動きが取れないせいで本当に自分の手かと疑ってしまうほど遠くに感じる手は、すでに紫に変色しているようにも見える。
この手だけは守らなければならないというのに……。そう思い、僕は右手ではなく左手に力を込めるようにした。利き手じゃなければ、ここを抜け出せるのなら壊死しても構わない。このままでは、両腕とも壊死することになりそうだが……。もしそうなったら、足を使ってやる。足がだめなら口を使えばいい。やりようはいくらでもある。そのやりようも、ここに縛りつけられていてはないも同然だった。
それから何度も左腕に力を込めたが、麻縄は少しも動かず、脱出の糸口は見出せないまま体力だけを失った。息を切らして天を仰ぎ、太陽のように天井に光る照明を見ていると、大きな目ヤニがコロンと弾んで、眼球に触れた。僕は反射的に頭を激しく振った。縛られた腕が追い風を受ける帆のようにぴんと張って、僕の胴体が引き裂かれそうになった。その痛みと眼窩の気持ち悪さに嫌気が差した。
もういい。どうせ死ぬんだ。何をやっても無駄さ。彼女を車に乗せたのも僕、ここに連れたのも僕、ささやかなもてなしを受けることにしたのも僕だ。すべて僕が悪いんだ。自業自得だ。こうなることを僕が選んだ。ただそれだけのことだ。やりようがないのに頑張っていたって意味がないじゃないか。鉄格子にもたれかけている女に命乞いをしても、どうせ話は通じないのだろうし、そもそも僕を殺すつもりでここに招き入れているのだろうから、どれだけ懇願してみても聞く耳は持たないだろうし、僕のこれまでの苦労を語って聞かせても、どれだけ献身的な人生を送って来たのかを感動的に語っても、これから二十年来の友人との予定が入っているのだと言っても、この縄を解こうとはしないだろう。
そういえば――そこまで考えて、今は何時なのだろうと思った。山小屋にやって来た時は、午後三時頃だった。それから薬で眠らされて、今はいったい何時なのか。キャンプ場への目安の到着時刻はすでに超えているだろう。連れは、僕が来ないことを心配しているかもしれない。それとも、いつまで経っても現れない僕に怒りを爆発させているだろうか。
どれだけ怒ったって無駄だよ、と僕は口の中で呟いた。だってその怒りをぶつける相手は、得体のしれない女に殺されるのだから。
時間というのは意外と気にならないものなんだろうとどうでもいいことを僕は考えていた。特に僕はそうなのかもしれない。眠くなれば寝る、目が開いたら起きる、腹が減ったら飯を食う、気が向けば仕事をする……今日だって、本当はグランピングの約束があったのに、捕らえられて、目が覚めてからしばらくするまで今が何時かなんて気にもしなかった。でも気にし始めると、時間というのはひどく気になってしまう。山小屋に入った時は入り口近くに日差しの差し込む窓があったのだが、今いる部屋に窓はない。それどころか、いつしか僕の磔られた十字架の回りにはぐるりと鉄格子が降りていて、もし僕が自由に動き回れたとしても、ここからは出られないようになっている。ここを出るには、やはり彼女に頼んで鍵を開けてもらうしかない。その彼女も今は鉄格子の内側にいるわけだが、手足の拘束された僕は彼女に飛び掛かることもできない。
「今何時なんだ?」
返事など期待していなかったが、僕は訊いてみた。女は鉄格子から背中を浮かせ、今ようやく僕が意識を取り戻したことに気がついたかのように歩み寄って来た。服装は変わらずレース地の白いワンピースだが、顔にはやや化粧が施されていた。意識を失う前にぼんやりと見えた赤い口元、そして陶器のような白い頬に少しだけ紅が差され、可憐さが増している。改めて見ても美人だと僕は思った。だが深淵の見えない大きな瞳は不気味で、その美貌を台無しにしてしまうのに、その怪しい光はどこか魅力的でもある。
女は僕の顔を覗き込むと、目を細めて口元を綻ばせた。腰が抜けたのかと思うほど素早く屈みこむと、僕の上唇に噛みつくように接吻した。突然のことに戸惑いながらも、数年振りに感じる唇の感触に不覚にも決して小さくない悦びを感じてしまった。僕は口を微かに開いていた。そこに彼女の舌が入り込んできた。何度か舌を絡めると、彼女は僕の首っ玉に齧りついた。少しずつ、女の鼻息が荒くなっていくのがわかった。
その瞬間、僕は全身に電気が流れるのを感じて身を震わせた。見ると、女が僕の乳首をつねっていた。それで初めて、自分が全裸で縛りつけられていたことを知った。咄嗟に周囲を見回すと、鉄格子の外に僕の衣服とショルダーバッグが置かれていた。服は脱がされたままその場で裏返っていて、ショルダーバッグも無造作に投げ捨てられている。
自分が裸だとわかったせいか、突然肌寒さを感じた。女は気を利かせて、冷房を入れてくれているようだ。だが裸に冷房は寒い。数時間は眠っていただろう。それ以前にも、一時間ほど車を運転していた。最後にトイレに入ったのは、もう何時間も前のことだ。突然尿意を催し、それを正直に女に告げた。さすがにこればかりは、女も拘束を解いてくれるに違いない。そう思ったが、女は何食わぬ顔で僕の一物に目をやり、放尿を促すようにさらさらと撫でる。
せめて冷房を止めてほしい。そう言ったが、女は聞かなかった。膀胱はいつ炎症を起こしてもおかしくないくらいぱんぱんに膨れ上がっていた。尿意に気力だけで立ち向かっていた僕だが、ふいに女がぺろりと舌で舐め回し、それで決壊した。僕の股間から臍の上の辺りまでが尿で濡れた。生温い液体の感触と鼻を突くアンモニア臭に顔をしかめずにはいられなかったが、それ以上に膀胱が解放されたことが快感で、体が汚れていることなどはどうでもよく思えた。
さすがに尿の滴る肉体を舐め回すのは血と土の染み込んだ女にも抵抗があるらしく、彼女は僕の体を拭い、水を掛け、そしてまた拭うと、何事もなかったかのように僕の体を撫で回し始めた。
「何をする気なんだ?」
女の行動を見ていると、聞かずにはいられなかった。僕はこれから殺される。目の前の女からは血の臭いが漂っている。およそ人間とは思えない、感情のない瞳……それに加えて、アンモニア臭の残るがりがりの男の体を愛撫する姿……。恐怖とは少し違った気味悪さ、奇怪なまでに憑りつかれた狂気に戦慄を覚える。
僕の太腿を舐めていた女は動きを止め、ワンピースの裾で仰向けの男の胴をさらりと撫でるように、僕の目の前まで美しくも恐ろしいその顔を持って来た。僕の鼻先でふふっと微笑んだ彼女は、赤く塗られた唇で、また僕の口に吸い付いた。その口に残る尿の香りが僕の肺まで届いてきて、とても息などできなかった。止めていた息もすぐに限界を迎え、肺がきりっと痛む。僕はその痛みに耐えかねて、深く息を吸い込んだ。アンモニア臭が鼻の奥を突いて、今度は吐き気を催した。仕返しに女の口の中に吐瀉物を吐き出してやろうかと思ったが、野菜の消化は早いのか、胃液が食道を少し逆流しただけで、口元まではやって来なかった。それでも吸い付く女を振り払おうと、僕は激しく頭を振った。その勢いで、何とか女を振り払った。
女はひどく息切れする僕を見てにやりと笑った。これだけ好き放題やられて何もやり返せないのが忌々しかった。すぐには女が襲って来なかったので、僕は深呼吸を繰り返した。激しさを増す鼓動を鎮め、冷静さを取り戻すと、全身に痛みが走った。正確には両手首と背中だったのだが、それだけの範囲に痛みを感じたために、全身に痛みが走ったと錯覚したのだ。痛みの原因は、無意識のうちに体をよじらせていたことだった。それで背中が擦れてしまったのだ。手首も、抵抗する時に自然と力が入ってしまい、麻縄が余計に食い込んでいた。
「もう、やめてくれ……」
胸の鼓動は落ち着きを取り戻していたのだが、息はまだ上がっているようだった。もはや自分の体力すら把握できていない。僕は自分の声が呻くのを初めて聞いた。
「やめるわけないでしょ。あなたはあたしの餌食なんだから」
それだけ言うと、女はワンピースを脱いだ。その瞬間僕ははっとして、思わず息を呑んだ。
彼女は下着をつけていなかった。だが問題はそこではなく、彼女の肉体のほうだった。浮き出た鎖骨の周辺、二の腕、乳房、腹部、そして太腿に至るまで、全身に無数の傷跡がついていた。どれも数センチ以上の大きさがあり、まるで継ぎ接ぎだらけの動物の皮を身に纏っているような肉体だった。
瞬きも忘れていた僕は目を瞬かせて潤いを取り戻すと、鼻息荒く彼女の肉体に見入った。僕が怖気づき、絶句しているとでも思っているのか、彼女は勝ち誇ったような笑みを浮かべて悠々と近づいて来る。そして僕の肉体を足で挟み込むようにして座り込むと、自分の乳房を撫で、そのすぐ下にある傷跡を撫でた。その華奢な腰元が作り出す見事なまでの曲線に手を伸ばせないことが何よりも惜しかった。
「あなたは、どの傷がお気に入りかしら」
4へと続く……
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