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連載長編小説『別嬪の幻術』5-1
5
二限を終えて千代と待ち合わせ、昼食も兼ねてカフェに入った。古都大生御用達のカフェで、ハムカツサンドが名物だった。店長こだわりのコーヒーも逸品だ。ブレンドするコーヒー豆は店長自ら厳選している。学生に優しいリーズナブルな価格設定なのも、長年古都大生に愛されている理由かもしれない。僕もよく、昼食を食べに来る。入学してからの二年半の間、昼食は学食とカフェでしか食べていないかもしれない。僕は今日もハムカツサンドを注文した。線の細い僕はこれだけで満腹だ。だが千代はサンドウィッチだけでは物足りないらしく、いつもパンやサラダと一緒に食べている。今日は焼きそばパンだった。
「ちゃんと食べや」と千代は僕の皿の上を見ながら言い、カレーパンを半分に裂こうとした。だが僕が制すと、彼女は不満げに口を突き出した。垂れた目尻とショートボブのせいで、注意されたようには感じない。むしろ駄々をこねる子供のようにも見えた。「昨日来おへんかったやろ。どうしたん。体調悪かった?」
事件のことを知ってか知らずか、千代は風見のことには触れなかった。彼は今日も欠席している。ショックは相当なもののはずだ。風見の心中を察することなど僕にはできない。
千代はハムカツサンドを頬張りながら、めっちゃ探したんやで、電話も掛けたのに、と不満をぶつぶつ口にしている。僕は大きく口を開け、ハムカツサンドを一口で半分頬張ってみせた。僕があまり食べないのを見て、食べへん人は体調悪そうに見える、と千代はよく言う。だから僕は、がぶりと食らった。
「体調は何も問題ないよ」
「じゃあ昨日なんで来おへんかったん?」
「緊急事態で……」と僕は呟いた。それで佐保の事件のことだと察してほしかった。だが千代は、首を傾げただけだ。ますます怪訝な顔になり、目を眇めた。事件のことを知らないな、と僕は悟った。だが食事中に血の臭いを充満させるのはよくない。すぐに事件のことは口にせず、僕は話を逸らした。昨日欠席した授業の内容をさらっと聞いた。どれも聞くほどではない、出席する時間が無駄に思える内容だった。しかし出席して欠伸を九回しなければ、単位は出ない。どうしてこうも非効率的なのか……。
千代がカレーパンを食べ終わるとカフェを出た。附属病院に戻る五分ほどの間で、僕は昨日佐保が何者かに殺害されたことを千代に伝えた。千代と佐保はそれほど親しい関係ではない。せいぜい、風見と一緒にいる時に佐保が居合わせる程度だ。その時は仲良く話しているが、二人で出掛けたりするような間柄ではない。友人というより知り合いだ。
それでもやはり、知り合いの死は誰にとっても衝撃的だ。千代も例外ではない。思った通り事件のことは知らなかったようで、千代は目を丸くした。知り合い程度の間柄だが、目に涙を浮かべさえした。心の整理がつかないらしく、急激に歩く速度が落ちた。五分で戻れる附属病院に、七分掛けて戻ることになった。
佐保が殺害された事件は古都新聞ではそれなりに大きく扱われていたし、ネットニュースでもちらほら記事を見掛けた。新聞を読むかニュースを見ていれば知っているはずだが、千代はニュースを見ない。
院内に戻る頃には少し落ち着いたのか、千代は昨日の僕のことを訊ねて来た。僕は現場となった松尾大社に行き、風見や刑事と話をしていたのだと言った。その後大学に戻り、医学部棟で聞き込みを行ったことも。
風見君は……と千代は心配した。ようやく今日も風見の姿がないことに気づいたらしい。二人とも三限は空いているが、四限の実験の準備をしなくてはならない。実験室で他の学生と実験の準備をしている時だった。しばらくは立ち直れないだろうと言うと、千代は伏し目がちになり、黙ったまま鼻の下を伸ばした。
二十分ほどで実験の準備は整った。自販機でミルクティーを二本買い、一本を千代に手渡した。彼女は律儀にも財布を取り出したが、このくらい奢るよと言った。まだ少し、動揺が見て取れる。甘いものを取り込んで、落ち着かせようと思った。
蓋を開け、ミルクティーを一口飲むと、今後もこの事件について調べることになると告げた。当然、千代を巻き込むつもりはない。これは僕と洞院才華の勝負だ。負けられない戦い……二度と得られないかもしれない挑戦権。
「なんで?」千代は眉をしかめ、不安げな顔でこちらを見た。「栄一は関係ないやん。犯人わかってへんのやろ? もし栄一が犯人を突き止めたら、口封じで殺されるかもしれん」
「犯人かはわからないけど、事件に関わっているだろう人物なら見当がついてる」
「昨日の聞き込みでわかったん? 古都大の学生なん? 誰?」
千代はじっとこちらを見つめている。手元のミルクティーのことはすっかり忘れてしまったようだ。僕は落ち着けと言うようにそっと彼女の手からペットボトルを抜き取り、蓋を回した。そのまま千代にペットボトルを渡した。千代は毒を怖がるみたいに、口をつけるのを躊躇った。僕が一口飲んで見せると、千代はそれに倣った。
「それで、誰なん?」
少し落ち着いた声になった。僕は自分のペットボトルを締めながら、憎いその名を口にした。
「ああ、洞院才華……」
それだけで、千代は僕が事件を調べようとしている理由を察してくれた。彼女は僕の洞院才華への想いを知っている。彼女の存在が、僕を秀才という立場に留めている。彼女がいなければ、僕は天才の名を欲しいままにしたはずなのだ。実際、成績は引けを取らない。それは誰もが認めるところだ。ただ一つ、僕と洞院才華の決定的な違いは、優秀論文を書いているか否か、という点だ。おまけに、彼女は僕とは違い飛び抜けた美貌の持ち主だ。人は見た目が九割とも言う。彼女の美貌が、天才の名にさらに磨きをかけているのは事実だろう。
その中にあって、千代は僕を洞院才華より上だと思ってくれている。だから彼女も、洞院才華を好いてはいない。学部も違い、面識はないのだが……。しかし国立古都大学に通っていながら洞院才華を知らない者はいない。ミスコンの覇者であり、一年生でその年の最優秀論文を書き上げた天才……当然、千代も彼女の論文は読んでいた。医学部の同僚によると誰からも好かれる、性格の良い娘だそうだが、千代のように、その名声だけを聞き及んでいる学生は彼女をどう思っているだろう。才色兼備――まさにそんな言葉が隙間なくぴったりと当てはまる洞院才華を妬み、憎しみを抱く者がいても不思議ではない。千代は僕を介して、間接的だが、洞院才華を憎んでいる。
千代は、洞院才華が大学に来ていないことを知っていた。最近見いひんもんな、と言い、「それが関係してんの?」と訊いて来た。僕は洞院才華が失踪していることを話した上で、タイミングが絶妙過ぎると説明した。千代は同調した。
「それに彼女なら、人を操ることも可能だ。夢催眠を使えば……」
「ほんまに。あの実験、確かに有意義と言えば有意義なんやと思う。あれで鬱病が克服できるんやったら、そらえらいことしてると思う。でも一部の学生は、洞院さんのこと幻術使いとか魔女とか、そんなふうに揶揄する人もいるみたいやし」
それはたぶん、洞院才華に嫉妬している学生だろう。あの美貌と頭脳、若女将として培った天性の愛想……同じ人間で、なぜこれほどの差ができてしまうのか。自らの知らないところで恨まれていても仕方がない。それでも一度彼女と接すれば、皆彼女はいい人だと掌を返すのだからたちが悪い。洞院才華と対峙して、掌の上で転がされなかったのは僕くらいだろう。千代だって、こうは言っているが、彼女と接すればころりと見方を変えるかもしれない。魔性とは少し違う。幻術……確かにそう言ったほうがしっくりくるかもしれない。
それからしばらく、沈黙の時間が続いた。僕は少し考え事を、千代はまだ心の整理をしていたからだ。会話がなくても苦にならないというのは、僕達の特徴かもしれない。僕がよく黙り込んで考え事をするから、千代が気を遣ってくれているだけかもしれないが。
その沈黙を破ったのは、廊下に響く靴音だった。最初僕は気にしていなかったが、大学内に響く革靴の音はどこか異質で、音のするほうに視線をやった。見ると昨日松尾大社にいた柏原刑事だった。目が合うと、刑事は軽く頭を下げた。今日はもう一人、背の高い刑事を連れていた。こちらはまだ若い。
僕が立ち上がったのに気づいたらしく、千代も立ち上がった。
「こちらの方は?」と柏原刑事が訊いた。
「僕の交際相手です」
「松崎千代です」
「そうでしたか」柏原刑事は親しみを込めてか微笑んだが、後ろで若い刑事が何やらメモを取っていた。
「それで、今日はどうしたんです?」
柏原刑事は下唇を親指で撫でると、表情を変えた。洞院才華さんについて伺いたくて、と刑事は言った。「捜索願が届けられていたものですから。奈良原佐保さんと同じ古都大学の学生ということで、お話を」
「ちょっと待ってください」と千代は言った。あなた方は何なんですか、と。刑事は、これは失礼と言いながら警察手帳を提示した。それを見て、千代はぎょっとしていた。「警察……」
「築山さんとは昨日松尾のほうでお会いして……。事件と関係あるかはわかりませんけど、一応確認のために」
刑事は洞院才華との面識、関係性、最後に見掛けた日などを訊いて来たが、僕はうまく答えられなかった。面識がないことはないが、関係性は薄い。彼女を最後に見掛けたのもいつかわからない。前期は附属病院内での授業しか受けていなかったこともあって、少なくとも一年は顔を見ていない。
千代も同様だ。彼女の場合、洞院才華と面識はない。
「なかなか優秀な学生さんだったそうで」
「ええ、この大学のスターですから」歯軋りを堪えながら、僕は言った。「ところでなんですけど、捜索願はいつ届けられたんですか」
「先週です。才華さんが三日経っても帰ってこないということで、ご両親から届けられました」
「それで警察は、捜索してるんですか」
柏原刑事は妙な間を置き、曖昧に頷いた。失踪人登録はされているが、四六時中捜索しているわけではない。殺人事件が起こるのは稀だが、他にも事故や窃盗などは多発しており、所轄刑事はそちらの対応に追われている。失踪人を捜索している暇はないということだろう。それに柏原刑事は捜査一課の刑事だ。失踪人の捜索は任務の対象ではない。
「鋭意捜索中です」申し訳程度に若手刑事が言った。
「佐保が殺されたから、捜索を始めたというわけですね」
「そう言われるとにべもありませんな。まあでも確かに、奈良原さんが殺害され、府警本部も慌ただしくなってます。特に失踪した洞院才華さんは奈良原さんと同じ医学部で、おまけにえらい別嬪らしいやないですか。事件のタイミングも妙やし、巻き込まれている可能性も考えなあきませんから。今捜査員が血眼になって探してます」
「警察は、彼女は事件に巻き込まれたと考えているんですか?」
これには答えてくれなかった。
「誘拐事件、ですか」
確かに、その可能性も考えられなくはない。主観と偏見で洞院才華を犯人に仕立て上げていたが、彼女ほどの美貌だ。一目惚れした男に誘拐、拉致監禁されているというケースも十分あり得る。
ただ、近い時期に同じ大学に通う二人に何かが起きただけで、連続的な事件と考えるのは早計だろう。
柏原刑事は一つ咳払いすると、洞院才華と親しかった人物について訊いて来たが、それこそ佐保くらいしかわからないと答えた。学部が違えば、接する機会も殆どない。ただ、医学部生なら皆彼女と親しかったのではないか、と僕は助言した。
刑事は最後に、千代のアリバイを訊いた。千代はあからさまに不快感を示したが、皆さんに伺っていることなので、と言われ、寺町通の実家にいたことを話した。母親が証明してくれると話したが、家族による証明は無効扱いになる。つまり千代にアリバイはないということだ。まさか千代が事件に関わっているとは思えないが。
それよりも、気になった点があった。柏原刑事は千代に「午後八時から午後十時の間、どこで何をしておられましたか」と訊いたのだ。昨日僕が取り調べられた時は未明までのアリバイを確認された。つまり司法解剖の結果、死亡推定時刻や犯行時刻が判明したということだ。
それについて訊くと、柏原刑事は否定しなかった。僕はさらに訊いた。「使われた毒物は何だったんですか?」
「植物毒です」
やはり植物か……トリカブトか、ドクニンジンか、僕は種類について訊いた。だが柏原刑事は明確には明かさなかった。どの植物が使用されたかは特定できていないのかもしれない。ただ、検出されたのはイリシンだったと教えてくれた。
イリシンは菖蒲などの根から採れる澱粉に含まれている。嘔吐、吐き気、下痢、腹痛、胃腸炎はイリシンによる毒物発作であり、佐保は確かにそれらの症状が表れていた。だが少量であれば、死に至ることはない。犯人はかなりの量のイリシンを使用したことになる。学内に菖蒲は生えていない。ただ薬学部棟には、実験用としてイリシンが保管されている。
薬学部生で佐保と関係のある者は多くない。それこそ、風見と佐保の間に何かあったのではないかと疑いたくなるほどだ。
刑事はご協力感謝します、と言うと辞去していった。
5-2へと続く……