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長編推理小説『怪女と血の肖像』

    怪女と血の肖像

     第一部 怪女

        1

 その女を見掛けた時、僕は最初幽霊だと思った。昆虫の背中のように鈍色に輝く太陽に照らされて、半透明にも見える白いレース地のワンピースを着ている。髪は黒く、風に揺られる若葉と共に靡かせながら、肩甲骨の辺りでそよいでいる。まだ少し距離があって、顔はよく見えない。ただ恐ろしく華奢な体つきであることは遠目にもわかった。夜なら、声を出して驚いていたかもしれない。さっきからその女性は道端の擦り減った白線の上に立ち尽くし、微動だにしない。まるで幽霊だ。ちょうど服装も、肩を出し、素足にスニーカーを履いただけで、いわゆる心霊じみたものだった。
 気がつくと僕は減速していた。なぜかはわからない。不気味だが目を逸らすことができない、しかし釘付けになるのとは少し違った、何だか奇妙な感じがして、好奇心なのか憐れみなのか、とにかく僕は陶器のように白い腕に見入った。その腕が、今初めて血が流れ出したかのように、ゆっくりと顔の高さまで上がる……依然顔は見えない。髪で隠れているわけではない。まだ少し距離があるからだ。だがその手が形作るものははっきりと見えた。拳を作った百合色の手は親指だけを立てている。ぶるっと身震いし、思わず冷房を弱にする。そういえば、彼女は夏らしい出で立ちだが、汗を拭う様子がない。少なくとも、僕がその姿を捉えてからは一度も見ていない。今度ははっきりと寒気を感じた。だがそんなこともあるだろう。もしかすると、木陰は涼しいのかもしれない。彼女は大きく揺れる影の下に街灯のように立っている。
 無視するか……。たぶん、そうすべきなのだろう。彼女はどこか気味が悪い。肩に掛かる髪も仰々しく、纏っている空気もどこか異様だ。少しずつ近づいてわかったことだが、彼女は恐ろしく細い。痩せていると言うべきだろうか。僕もかなり細い。身長は百七十センチあるが、体重は四十五キロに満たない。がりがりだ。たぶん、自分で自分の肋骨に罅を入れられるし、腕の骨を真っ二つに折ることもできる。そんな僕が見ても、彼女は細い。だが痩せ細っているのとは少し違う。それはやはり、姿形がはっきりしてくるのと同時に明らかになっていった。
 ようやく顔が見えた。腕と同じで、まるで季節を逆行しているかのような白。その顔に大きな瞳、形のいい鼻と口が埋め込まれている。美人だ、と一目見て思った。肩幅はなく、露出した肩は瘤ほどではないが骨張って見えた。ワンピースを着ているが、レース地なので服の下が太陽に透かされて微かに伺い見ることができる。服の下は下着のようだ。そして恐ろしく細い。小さくない胸から臍に掛けて鋭角にも見えるほどの曲線を描き、それに続くように腰、尻も小さい。ワンピースから覗く足首も細い。
 僕はブレーキを踏んでいた。いつしか、彼女の前に車を停めて、窓を開けていた。彼女は対向車線の向こう側の白線を踏んでいる。「どこまで?」声が掠れた。鼻歌でも歌っておけばよかったと思ったが、普段音楽は聴かない。歌える曲も少ない。
 声が掛かったことでヒッチハイクに成功したと受け取ったのか、彼女はふらつくように一歩踏み出すと、車の回りをぐるりと回り、助手席を開けた。こちらを見ず、物音も立てずに腰を落ち着けた。異臭が鼻を突き、思わず鼻の下を擦った。いったいどこで何をしていたのか。農作業か、牛舎にでもいたのだろうか。よく見ると、ワンピースの裾も薄汚れている。膝の上で雅やかに重ねられた手先を見ても、爪が黒い。
 何者だろう。こんなところに一人で……。
 浅い呼吸を繰り返す彼女に、僕はもう一度行き先を訊ねた。車が勝手に行き先に連れてくれると思っているのか、彼女は僕のことなど忘れていたかのように、突如警戒心を滲ませてこちらを見た。そこでようやく、無表情な口元を和らげることもなく、目礼を寄越した。不愛想な女だな、と腹の底で吐き捨てた。
「行き先は? 僕はこれから山を登ってキャンプ場に行くんだけど、君もそっちのほうに行くのかな?」
 彼女は生気のない虚ろな目でフロントガラスのほうを見ていた。その目をやや右に向け、天を仰いでいる。釣られてそっちを見ると、緑緑しい若葉が茂っているだけだ。青紅葉だろうか。
 ぼそぼそっと彼女は何かを言った。聞き取れなかったので僕は訊き返した。彼女はまた、ぼそぼそっと何かを呟いた。僕は冷房を止めた。エンジンも切った。それでもう一度行き先を訊くと、山の上に小さな小屋があったから、そこまで送ってほしいと何とか聞き取ることができた。
「車で入れるのかな?」
 彼女は小さく頷いた。極度の人見知りだろうか。ヒッチハイクをするくらいだから、アグレッシブなほうだと思ったのだが。アグレッシブな人見知りということか。まあ、そういう人もいる。でもさっきの彼女の動作……ゆっくりと腕を上げたのを思い出すと、あれは恐る恐るヒッチハイクを敢行したのであって、そうせざるを得ない事情があったのかもしれない。そういえば、彼女は身一つだ。金もないのだろう。山小屋に行って、その問題が解決するのだろうか。
 車で入れると彼女は言った。しかしそんな気配はまったくない。舗装された道などどこにも見当たらなかった。一本だけ車が作ったと思われる獣道が見つかり、僕はそこを指差した。彼女は頷いた。まじか、と呟きながらアクセルを踏んだ。山に入ってからUターンはできるのかと心配した。木の枝や砂利を踏み分けながら、何とかハンドルを切った。突然寒気がして、僕は運転をやめた。助手席に座る生気のない目が不思議そうにこっちを見た。やはり幽霊だろうか。僕は祟られていて、今から山奥の井戸にでも引きずり込まれるのではないか。
「寒いね……」思わず言ってしまった。
「暑かったから」とさっきよりは覇気のある、しかし細い声で彼女は言い、カーナビの下を指差した。冷房がマックスになっている。いつのまに……僕は冷房を中に戻した。
 ずいぶん奥のほうまで入って来た。獣道がずっとはっきりと続いているので道順に迷いはしなかったが、両側は木の根を張る山と崖、そんな変わらない景色と激しい揺れに運転していて気持ち悪くなる。そろそろ彼女を下ろして引き返したいと思い始めた頃、道が開けた。車を旋回させられるスペースがあったことにほっと一息吐いた。彼女が言った山小屋らしき建物もある。杉の丸太で建てられた、大自然に馴染んでいる小屋だった。
 時刻を確認した。午後三時を過ぎたところだ。まだ少し時間に余裕があった。遅くとも四時半には到着すると連れには言ってある。キャンプ場は車であと十分ほど行ったところにある。目と鼻の先だ。
 彼女を下ろし、僕も一度車を出た。杉の匂いを目一杯吸い込み、ゆっくりと息を吐いた。無意識に両手を上げ、そして下げていた。足元の雑草や小石を爪先で触っていると彼女がやって来て、お礼に軽食を用意したので食べて行ってほしいと言った。どうやら彼女は山小屋の住人らしい。確かにヒッチハイクした場所からだと歩いて戻るのは少し疲れる。でもなぜこんなところに一人で……。見たところ、年齢は僕と変わらない。三十歳前後だろう。化粧はしていないようだが、肌には張りがあって整った顔立ちだ。まだまだ女盛りといったところで、結婚も難しくないだろう。いや、すでに結婚しているのかもしれない。金持ちと結婚して、物好きが高じてこんな辺鄙なところで暮らしているのかもしれない。指輪はしていないが、金属アレルギーかもしれない。あるいはバツがついているか。大恋愛に破れて逃げるように山に籠ったか……。ここに住む理由などいくらでも見つかるだろう。その理由を詮索するのは、たぶんあまり良くない。
 これから支度をすると言って彼女は小屋を抜け出した。少し時間が掛かりそうなので、車の鍵を掛けるために外に出た。こんなところに車上荒らしがやって来るはずもないが。車内からショルダーバッグを取り出し、車に鍵を掛けると小屋に戻った。ショルダーバッグに車の鍵を戻していると、ちょうど支度が整ったようだった。
 これからキャンプ場でグランピングをするので、今軽食を取ると後で痛い目を見ると思ったが、彼女が作って出したのは家庭菜園で栽培している野菜だけを使ったサラダとスープだった。やはり農作業をしている手だったのだ。そして彼女はビーガンらしい。肉は食べない。野菜しか――それも自分で栽培した野菜しか食べない。自給自足で山に籠る……考えてみれば、それが人間のあるべき姿かもしれなかった。僕には到底できない生活だが、山に籠るというのは憧れないでもない。
 そこまで考えて、頭がぐらっと揺れた。一瞬意識が遠のいた。まるで首が独楽になったみたいに、頭が回っている。突然体が重くなり、空中で円弧を描く頭を止められない。触角が鈍っているようで、何かが足元を叩く感覚が微かにあったのだが、それが何かはわからない。ぼんやりと、スープの入っていた器が転がっているのが見える。何が起きているかすらわからなかった。ばたん、と音がして、手足にも力が入らなくなってしまった。ぼんやりとした視界に直接的な光が飛び込んできて、それで床に仰向けで倒れていると知った。
 目眩だろうか……。でも頭痛はないし息苦しさもない。体の不調ではないということか。でもおかしいではないか。突然、こんな……。手に何かが触れるのがわかった。すべすべしている。手探りに伸ばしていた手に何かを掴んだのだ。持ち上げてみると、それは髑髏だった。思わず息を呑んだ。が、髑髏を投げ捨てることはしなかった。本物だ……。間違いなく本物の髑髏だ……。人骨が笑っている。これは、僕か? 僕の髑髏か? 
 もう殆ど何も見えない。髑髏も、頭と顎の形がわかるだけだ。その視界に黒い何かが靡いた。彼女の髪だとすぐにわかった。僕を覗き込んでいる……。顔っぽい丸い形に、紅色の点がはっきり見える。口紅を塗ったのかもしれない。その紅が、奇妙に形を変えた。笑ったのだ……僕を見下ろして笑ったのだ……。何者なんだ、この女……。何をする気なんだ……。
 瞼が閉じるのが自分でもわかった。何も見えない。視界が完全に奪われたせいか、嗅覚が冴えた。聴覚は乏しくなっている。異臭がした。杉の香りとは違う。女を車に乗せた時に臭ったものと似ている。今ならその臭いが何なのかがはっきりわかった。血だ。この小屋には血の臭いが染みついている。
 そこまでわかったところで、意識が途切れた。

        2

 午後五時を回ったが、刑事課に差し込む日光はまだ昼間を思わせるほど眩しい。しかしくたびれたシャツに疲労を滲ませ、欠伸を繰り返す部下を見て、やはり夕方なんだなと天羽義尋は思った。
 天羽は黒い背広を脱いだ。夏場はそれが、彼の帰宅の合図だった。ちょうど背広を腕に掛けると、今年刑事課に配属された阿波野巡査がお疲れ様ですと挨拶を寄越した。若いだけあって、他の刑事ほどの疲れは見えない。どちらかといえば体力的な疲労より、精神的な疲労のほうが溜まっているのかもしれない。阿波野は最年少ということもあり、周囲に目を配ってこうして真っ先に挨拶をする。素晴らしい心掛けだが、それが彼のストレスになっていなければいいのだが。気弱そうな顔をしているから、天羽も気を遣ってしまう部分がある。
 阿波野に続いて古藤が挨拶を寄越した。彼も天羽の部下だった。長い手足をきっちり揃え、四十五度のお辞儀をしている。さすが警部補。阿波野巡査とはものが違っていた。そんなことを思いながら頷き掛けていると、事件発生の一報が入った。
 あちこちで溜息が吐き出される中、天羽はデスクに戻り、背広を着直した。所轄刑事らしい向上心のない一幕に怒号を飛ばしたくなったが、天羽はそれを飲み込んだ。手帳や腕章など、備品を揃えると阿波野を運転手につけ署を出た。
 通報によると、吉祥寺の家屋で刺殺体が発見された。通報があったのは午後五時過ぎ。吉祥寺交番の巡査が現場に向かったところ男性の死体を確認。武蔵野署に無線連絡を行った。
 現場は吉祥寺の住宅街に並ぶ、築五十年ほどと思われる一軒家だった。天羽が到着した時、すでに被害者の身元は判明していた。樽本京介、二十五歳男性。すでに身分証も見つかっている。
 樽本京介は腹這いに倒れていた。そのせいで、オレンジと金に染められた頭髪にどうしても目が行ってしまう。その鮮やかな金髪に物々しく飛び散った紅点を見て、天羽は視線を少しずらした。背中全体が血で染まっており、さらにはフローリングの床までその血は流れ、固まりつつある。楕円を形成する血溜まりのちょうど中心に、刃物で刺された傷跡が見つかった。
 相当深いな、と天羽は思った。もしかしたら、背中側から心臓にまで達しているかもしれない。だとすれば即死だっただろう。出血の量を考えても、その可能性は高い。
 鑑識の動きを目で追っていた天羽の元に古藤がやって来て、ジップロックの袋を顔の高さに上げた。その中には血に染まったナイフが入っていた。
「犯行に使われた凶器だと思われます」
 ジップロックを受け取り、天羽はナイフを取り出してみた。柄の部分が檜になっていて、その先に十センチに満たない刃がついている。見た目は鍔をつける前の日本刀を小さくしたような感じだ。刃渡りは短いが、骨に邪魔されなければ背中側からでも十分心臓に達する長さがあった。ただし、背骨を考えると、心臓を一突きというのはかなりの力が必要になる。
「鑑識に回せ。指紋が残っているかもしれない」
 返事をすると、古藤は天羽の前から立ち去った。凶器を残していくとは、間抜けな犯人だ。屋内で背中を刺されていることを考えても、顔見知りの犯行だろう。それほど手間取らないだろうと天羽は思った。
 天羽は阿波野に呼ばれて、第一発見者の浅倉瑠璃の元へ向かった。浅倉瑠璃は玄関の外にいて、両手で顔を覆っている。ひっひっと肩を震わせているから、まだ泣いているのだろう。肩を震わせる度にヘアアイロンで巻いた髪を後ろで束ねたポニーテールが揺れる。ブロンドに近い茶髪のせいもあって、天羽は魔法の箒みたいだなと思って見ていた。
「お話よろしいですか」と柔らかい声を心掛けたが、浅倉瑠璃が落ち着く様子はなかった。頷いてはいるものの、これではまともな話は聞けそうにない。もう少し時間が掛かりそうだ。そう思い、天羽は浅倉瑠璃を落ち着かせるよう阿波野に言い残し、再び屋内へと戻った。
 そこに古藤がやって来た。
「家の中を一通り調べましたが、一部屋だけ鍵が掛かっていて入れない部屋がありました。その部屋の鍵だけ見つかっていません」
「その部屋は?」
 こちらです、と古藤の案内を受け、天羽は問題の部屋の入り口に立った。リビングと繋がる部屋だ。確かに、ドアノブはびくともしなかった。改めてすべての鍵を試してみたが、開かなかった。その中には玄関の鍵もあった。
「浅倉瑠璃が家に来た時、玄関に鍵は掛かっていたのか?」
「通報を受けて駆け付けた巡査の話ですと、鍵は掛かっていなかったそうです」
 受け入れ難い現実は、じわじわとその姿を現す。浅倉瑠璃も、樽本京介の死体を見た直後は今より幾らかは冷静だったということか。
 古藤は他の部屋についても報告を行ったが、鍵の掛かった部屋以外に怪しい点は見当たらなかったという。現場となったリビングがあり、そこから通じる鍵の掛かった部屋、一階には風呂とトイレがあり、階段を上がると一台ずつベッドの置かれた寝室が二部屋、もう一つある部屋にはギターや詞の書かれたノートなど樽本京介が音楽をやっていたことを示す遺留品が発見された。
 ミュージシャンか。オレンジと金の頭髪にようやく合点がいった。ビジュアル系バンドならもっと派手なのだろうが、黒髪短髪の天羽にしてみれば樽本京介の頭髪は十分派手だった。ミュージシャンはよくわからない髪色を組み合わせることが多々ある。そこにカリスマ性を見出しているのだろう。樽本京介もそういう類の音楽家だったのかもしれない。
「どうしてベッドが二台あるんだ?」天羽は疑問に思ったことを古藤に投げてみた。
「さあ……」古藤は腕を組み、顎を触った。「どうしてでしょう。ゲストルームとかですかね」
 人の出入りが多い家だと面倒だ。その分容疑者は増え、調べることも多くなる。アリバイの裏付けや動機の有無など、地道な捜査の量が増えれば増えるほど余計な労力が必要になる。それが仕事なのだが……。
「一応、ベッドの毛髪や各部屋の備品も鑑識に調べさせておけ。何かの手掛かりになるかもしれない」
「了解しました」そう言うと、古藤は一礼して立ち去った。
 天羽は屋外に出た。天羽が出て来るのがわかったらしく、阿波野と目が合った。困ったように眉を八の字に曲げているが、それはいつものことだ。彼の傍にいる浅倉瑠璃はいつしか手をだらりと下げ、茫然自失としているものの、さっきと比べれば落ち着きを取り戻していた。決して高圧的ではない阿波野の功績かもしれない。
「お話よろしいですか」
 天羽が訊くと、浅倉瑠璃は小さな声ではいと答えた。露になった彼女の顔はふくよかで愛嬌があった。アーモンド型の目は大きく魅力的だが、今は赤く腫れていた。
 天羽は手帳を取り出した。
「浅倉瑠璃さんで間違いないですね」事務的な確認を行うと、彼女は首肯した。「ご職業は?」
 浅倉瑠璃は軽く目元を拭うと、「看護師をしています」と答えた。
「樽本京介さんとのご関係は?」
「彼とは、付き合ってました。恋人です」
 念のため、恋人であるという証拠を求めた。浅倉瑠璃はスマートフォンを取り出し、写真フォルダに残る恋人とのツーショット写真を何枚か提示した。四季折々、様々な場所に出掛けている写真だった。写真によっては、樽本京介の髪色が違っている。どうやら半年に一度、髪色を変えていたようだ。
「あなたが遺体の第一発見者とのことですが、今日ここには何を?」恋人の自宅なのだ。浅倉瑠璃が足を運ぶことは何も不自然なことじゃない。これも事務的な確認になる。
「今日はこの後デートの予定でした。食事をして、その後ナイトプールでも行こうかと話してたんです。でも待ち合わせ場所に彼が来ないし、電話も繋がらなかったから、変だと思って家まで来たんです」
「すると恋人は殺されていた」
 浅倉瑠璃はしゃっくりのような悲鳴を上げ、弱ったように唇を波打たせた。目にはまた涙が溜まっている。天羽は謝罪した。
「遺体を発見した時の状況を話してもらえますか」
 浅倉瑠璃は端正な顔を握り潰された紙のようにぐしゃぐしゃっとしかめた。血を流す死体を一般市民が目にする機会など一生に一度あるかないかだ。仕事上死体を何体も見て来た天羽でさえ殺人現場を見るのは気が引ける。浅倉瑠璃の表情は当然のものだ。
「五時過ぎに到着したと思います。インターホンを鳴らしたんですけど、応答がなくて。何度か試した後、玄関のドアをがんがんと叩きました。それでも返事がなくて、おかしいと思ってスマホを確認したんですけど、彼からは何の連絡も入ってなくて、それでドアを開けてみたら、鍵は開いてたんです。彼の靴も玄関にあって、寝てるのかなって。夜な夜な作詞に耽るなんてことも珍しくない人でしたから。良い詞が思いついた時は時間を忘れるような人だったので、それはそれであたしにとっても喜ばしいなんて思ってリビングに上がると……」
 浅倉瑠璃はそこで言葉を切った。それ以上は話したくなければ話さなくてもいい。腹這いに倒れ、背中から大量の血を流して倒れている恋人を見てしまったのだ。発見当時の状況を理路整然と話せるだけでも大したものだ。
「あなたは合鍵を持っていなかったんですか。インターホンを鳴らして、その後ドアを叩いて呼び掛けたとのことですが、恋人なら合鍵で自由に出入りできても不自然ではないと思うんですが」
「持ってたんですけど、二ヶ月ほど前に鍵を返してほしいって言われて……」
「それはなぜ?」
「わかりません。ただ、同じ時期に同居人ができたとは聞かされました。同居人ができたから、合鍵は返してくれって」
 居候……あるいはシェアハウス、ということだろうか。
「その同居人とは?」
「知りません。面識もないので……。聞かされているのは男性ということくらいです」
 その同居人との間に何らかのトラブルを抱えていた可能性はある。ただ、同居人が樽本京介を殺害したとして、なぜ玄関の鍵を掛けずに家を出たのか。気が動転していたというのだろうか。
 天羽は阿波野に大家を呼ぶよう命令した。阿波野は猫背気味の背中を少し伸ばすと、返事をして仕事に取り掛かった。
「同居人のことは大家に訊くとして、いくつかあなたにお伺いしたいことがあります。失礼ですが、今日の予定は? 五時過ぎにここに来たとのことですが、仕事は休みだったんでしょうか」
 休日なら、夕方からではなく昼間からデートに出掛けられたはずだ。
「昨日が夜勤で、今日は休みでした。なので朝方帰宅して、それから睡眠を取りました。起きたのは十五時くらいでした。それから軽食を摂って、支度をしてアパートを出ました」
「失礼ですが、お住まいはどちらで?」
「代々木です。勤めている病院も代々木にあります」
 そうですか、と何でもないふうに相槌を打ちながら、天羽は手帳にメモを書き込んだ。続いての質問に移る。
「樽本さんとはいつからお付き合いを?」
 年齢は樽本京介より浅倉瑠璃のほうが二つ上だ。話し方を見ていても出身は東京だろう。学生時代の先輩後輩かな、と天羽は考えていたが、浅倉瑠璃はまったく別の返答を寄越した。樽本京介とは勤務先の病院で出会ったらしい。二年ほど前まで樽本京介の祖父が入院しており、浅倉瑠璃はその病棟に勤めていた。祖父の見舞いに来ていた樽本京介と出会い、それからおよそ一年後に交際に発展したそうだ。
 つまりその後十ヶ月近く、彼女は合鍵を持っていて恋人の家を自由に出入りできた。しかし同居人ができて鍵は没収された。浮気を疑うこともあったかもしれない。彼女にはアリバイがない。
 だが彼女は、二人の仲は円満だったという。喧嘩をすることもあるが、それがむしろ相性の良さを物語っていたと話した。
「樽本さんは有名なミュージシャンだったんですか」
 浅倉瑠璃の眉がぴくりと動いた。天羽は思わず耳を掻いた。耳を掻くのは気を紛らわせたい時の天羽の癖だった。失礼なことを訊いたかもしれないと思ったのだ。
「音楽には疎くて」取り繕うように天羽は言った。
 しかし浅倉瑠璃はゆらゆらとかぶりを振った。口元には初めて微笑が浮かべられた。看護師らしいにこやかな、人に癒しを与えるような笑みだった。これが本来の彼女の表情なのだろう。
「まったく売れてませんでした。メジャーデビューすらできてない状況でしたから。よくてライブハウスに出させてもらえる、普段は路上ライブとか、公園に小さなステージを自分で立ててライブをしたり、そんなバンドでした」
「バンドだったんですか」
 てっきり樽本京介は一人で音楽を作り一人で歌う、いわゆるシンガーソングライターだと思っていた。部屋に残っていた楽譜を見れば、音楽をよく知る者ならバンドの曲だと見抜いたのだろうか。
 浅倉瑠璃は小さく頷いた。
「フブ、というバンドです。彼はヴォーカルでした」
 天下布武の布武だと浅倉瑠璃は付け足した。他に樋口、猪田、斉木というメンバーがいるという。彼らの連絡先を彼女は知っていたので、天羽はそれを控えた。
「樽本さんは普段はどう生計を立てていたんでしょうか。売れないバンドをしているということですが」
 樽本京介の自宅は築五十年ほどの老朽化が進んだ家屋ではあるものの、一軒家だ。吉祥寺の平均的な家賃を考えても、売れない音楽家が一軒家に住むのは経済的に厳しい部分がある。
 浅倉瑠璃は「普段はフリーターです。いくつかアルバイトを掛け持ちしてました」と答えた。
 それでも家賃と光熱費で一杯一杯ではないだろうかと天羽は思った。借金について訊いてみたが、浅倉瑠璃は知らないと答えた。樽本京介は金に困っているとは決して口にしなかったという。プライドの高い男だったのだろう。芸術家とは、概してそんなものだ。恋人には知らせず借金をしている可能性は十分考えられる。
 他の樽本京介の交友関係を訊いたが、今現在関わりがあるのはバンドの仲間と彼女自身、そして同居人くらいではないかと浅倉瑠璃は言った。樽本京介は交友関係が狭く、学生時代の同級生と飲みに行くなんてことを殆ど聞いたことがないという。例外なのは伊坂翔平という男だけだそうだ。伊坂翔平は樽本京介の親友で、彼女も何度か面識があるとのことだった。その中で樽本京介を殺害する動機のある者に心当たりはないかと訊ねたが、浅倉瑠璃は首を捻った。
「伊坂君とは仲が良かったですし、伊坂君も彼の音楽活動を応援してくれていて、よく食事の面倒なんかを見てくれているようでした。バンドのみんなとはぶつかることもあったみたいですけど、それはまあ、喧嘩というほどのものじゃないと思うので……」
 考えられるとすれば、やはり同居人だと浅倉瑠璃は言った。恋人の音楽活動について浅倉瑠璃自身はどう考えていたのかと訊いたが、もちろん応援していますという返答があった。
 彼女に訊きたいことは一通り聞き終わった。天羽は近くにいた警官に彼女を自宅まで送り届けるよう言った。まだ空は明るいが、日は傾いて来た。殺人犯は近くに潜んでいるかもしれない。万が一のことを考えたのだ。
 まもなく阿波野が大家を連れて戻って来た。大家は七十代前後の白髪混じりの男性だった。時刻は午後六時半を過ぎたところだが、まるで夜中に叩き起こされたかのように不機嫌で、腫れぼったい目を険しく細めている。自分の所有する物件で殺人事件が起きたことへの怒りかもしれない。
 天羽は阿波野に布武のメンバーに当たるよう指示し、自身は大家とリビングへと入った。すでに遺体は運び出されている。これから司法解剖が行われることになる。
 大家の口から洩れる小言を一通り聞き終え、同情するふりをした後、天羽は二ヶ月ほど前から入居した同居人について訊いた。大家は同居人と面識があるようだった。大家の話では、同居人が入居してからは樽本京介の分まで家賃を引き受け、そればかりでなく樽本京介が滞納していた分の家賃までその同居人が支払ったという。一人入居者が増えシェアハウスのような形になることは樽本京介から聞かされていたそうだが、大家でも、同居人の名前は知らないようだった。「そのうちね、聞こうとは思っとったんじゃ」というのが大家の言い訳だ。
 天羽は続いて樽本京介について浅倉瑠璃と似たような質問をしたが、彼の印象は浅倉瑠璃の語ったものと変わらなかった。最後に鍵の掛かった部屋について訊いたが、大家はこの部屋を知らないと言った。
「確かにここに部屋はあったけれども、鍵はつけとらんかった。新しく入った子がつけたんじゃないかね」
 二人目の入居者の見た目を訊いたが、大家は首を捻った。
「見た目は四、五十代かな。わしほどじゃないが白髪交じりで、長い髪をしとった」大家は三角形を作るように頭から肩にかけて手を動かした。「げっそり痩せとってね、猫背で、ちょっと不気味な人じゃったよ」
 樽本京介との接点も、同居の経緯も大家は聞かされていなかった。

        3

 睫毛に風を受けて、琥珀色の瞼の中で視界が復活した。目をぱちくりさせたが、眩しくてまともに目が開けられなかった。僕の真上に照明が照っている。右目に力を入れ、左目を薄っすらと開けた。微かに睫毛が絡まる感覚があった。目ヤニがついているのだろう。たぶん、大きくて色の濃い目ヤニがついているはずだ。最近は特に、寝起きに目ヤニを洗い落とすのに苦労している。
 そこまで考えて、僕は山小屋の中で意識を失ったことを思い出した。あの女のことも……。
 はっとして起き上がろうとしたが、体を起こそうと力を込めた瞬間、手足に激痛が走った。捩じ上げられるような痛みだった。咄嗟に痛みのほうに目をやると、手足を縛られていた。どうやら杉の木で作られた板の上に寝かされているらしい。首を回し、何とかその板を視界に収めてみたが、見たところ、十字架のようで少し違う、でもやっぱり十字架の形をした板の上に縛られているようだ。というのも、両足にはそれぞれ別の足場が設けられ、そこに縛りつけられているのだ。つまるところ、僕は十字架の上で大の字に縛りつけられている。
 何をする気なんだ……。僕は鉄格子に身を預けるようにしてこちらを見ている女を見て、そう思った。十字架に縛りつけられて大の字になるというのは、磔に処される形そのものだ。磔……あるいは磔刑と言うべきだろうか。彼女がどちらの呼び方を好むかは知らないが、わざわざ僕を山小屋に誘い込み、料理に睡眠薬を混ぜておき、眠り込んだところでこうして身柄を拘束しているのだ。殺す、以外の目的があるとは思えない。僕が何をしたというんだ。山道を彷徨う淑女を助けてやっただけじゃないか。これがその報いなのか?
 もう一度、思い切り腕を持ち上げた。だが麻縄はがっちりと括りつけられていて、ほどける様子はない。当然、引き千切ることもできない。僕の腕は平均と比べてもかなり細いほうだが、その腕の細さに合わせて縄は固定されていて、するりと引き抜くこともできない。
 くそっと雄叫びを上げながらもう一度力を込めたがびくともしない。それどころか僕が動けば動くほど麻縄は手首に食い込んできて、強烈な痛みを伴う。もうすでに縄の下には擦り傷ができて赤くなっているかもしれないし、身動きが取れないせいで本当に自分の手かと疑ってしまうほど遠くに感じる手は、すでに紫に変色しているようにも見える。
 この手だけは守らなければならないというのに……。そう思い、僕は右手ではなく左手に力を込めるようにした。利き手じゃなければ、ここを抜け出せるのなら壊死しても構わない。このままでは、両腕とも壊死することになりそうだが……。もしそうなったら、足を使ってやる。足がだめなら口を使えばいい。やりようはいくらでもある。そのやりようも、ここに縛りつけられていてはないも同然だった。
 それから何度も左腕に力を込めたが、麻縄は少しも動かず、脱出の糸口は見出せないまま体力だけを失った。息を切らして天を仰ぎ、太陽のように天井に光る照明を見ていると、大きな目ヤニがコロンと弾んで、眼球に触れた。僕は反射的に頭を激しく振った。縛られた腕が追い風を受ける帆のようにぴんと張って、僕の胴体が引き裂かれそうになった。その痛みと眼窩の気持ち悪さに嫌気が差した。
 もういい。どうせ死ぬんだ。何をやっても無駄さ。彼女を車に乗せたのも僕、ここに連れたのも僕、ささやかなもてなしを受けることにしたのも僕だ。すべて僕が悪いんだ。自業自得だ。こうなることを僕が選んだ。ただそれだけのことだ。やりようがないのに頑張っていたって意味がないじゃないか。鉄格子にもたれかけている女に命乞いをしても、どうせ話は通じないのだろうし、そもそも僕を殺すつもりでここに招き入れているのだろうから、どれだけ懇願してみても聞く耳は持たないだろうし、僕のこれまでの苦労を語って聞かせても、どれだけ献身的な人生を送って来たのかを感動的に語っても、これから二十年来の友人との予定が入っているのだと言っても、この縄を解こうとはしないだろう。
 そういえば――そこまで考えて、今は何時なのだろうと思った。山小屋にやって来た時は、午後三時頃だった。それから薬で眠らされて、今はいったい何時なのか。キャンプ場への目安の到着時刻はすでに超えているだろう。連れは、僕が来ないことを心配しているかもしれない。それとも、いつまで経っても現れない僕に怒りを爆発させているだろうか。
 どれだけ怒ったって無駄だよ、と僕は口の中で呟いた。だってその怒りをぶつける相手は、得体のしれない女に殺されるのだから。
 時間というのは意外と気にならないものなんだろうとどうでもいいことを僕は考えていた。特に僕はそうなのかもしれない。眠くなれば寝る、目が開いたら起きる、腹が減ったら飯を食う、気が向けば仕事をする……今日だって、本当はグランピングの約束があったのに、捕らえられて、目が覚めてからしばらくするまで今が何時かなんて気にもしなかった。でも気にし始めると、時間というのはひどく気になってしまう。山小屋に入った時は入り口近くに日差しの差し込む窓があったのだが、今いる部屋に窓はない。それどころか、いつしか僕の磔られた十字架の回りにはぐるりと鉄格子が降りていて、もし僕が自由に動き回れたとしても、ここからは出られないようになっている。ここを出るには、やはり彼女に頼んで鍵を開けてもらうしかない。その彼女も今は鉄格子の内側にいるわけだが、手足の拘束された僕は彼女に飛び掛かることもできない。
「今何時なんだ?」
 返事など期待していなかったが、僕は訊いてみた。女は鉄格子から背中を浮かせ、今ようやく僕が意識を取り戻したことに気がついたかのように歩み寄って来た。服装は変わらずレース地の白いワンピースだが、顔にはやや化粧が施されていた。意識を失う前にぼんやりと見えた赤い口元、そして陶器のような白い頬に少しだけ紅が差され、可憐さが増している。改めて見ても美人だと僕は思った。だが深淵の見えない大きな瞳は不気味で、その美貌を台無しにしてしまうのに、その怪しい光はどこか魅力的でもある。
 女は僕の顔を覗き込むと、目を細めて口元を綻ばせた。腰が抜けたのかと思うほど素早く屈みこむと、僕の上唇に噛みつくように接吻した。突然のことに戸惑いながらも、数年振りに感じる唇の感触に不覚にも決して小さくない悦びを感じてしまった。僕は口を微かに開いていた。そこに彼女の舌が入り込んできた。何度か舌を絡めると、彼女は僕の首っ玉に齧りついた。少しずつ、女の鼻息が荒くなっていくのがわかった。
 その瞬間、僕は全身に電気が流れるのを感じて身を震わせた。見ると、女が僕の乳首をつねっていた。それで初めて、自分が全裸で縛りつけられていたことを知った。咄嗟に周囲を見回すと、鉄格子の外に僕の衣服とショルダーバッグが置かれていた。服は脱がされたままその場で裏返っていて、ショルダーバッグも無造作に投げ捨てられている。
 自分が裸だとわかったせいか、突然肌寒さを感じた。女は気を利かせて、冷房を入れてくれているようだ。だが裸に冷房は寒い。数時間は眠っていただろう。それ以前にも、一時間ほど車を運転していた。最後にトイレに入ったのは、もう何時間も前のことだ。突然尿意を催し、それを正直に女に告げた。さすがにこればかりは、女も拘束を解いてくれるに違いない。そう思ったが、女は何食わぬ顔で僕の一物に目をやり、放尿を促すようにさらさらと撫でる。
 せめて冷房を止めてほしい。そう言ったが、女は聞かなかった。膀胱はいつ炎症を起こしてもおかしくないくらいぱんぱんに膨れ上がっていた。尿意に気力だけで立ち向かっていた僕だが、ふいに女がぺろりと舌で舐め回し、それで決壊した。僕の股間から臍の上の辺りまでが尿で濡れた。生温い液体の感触と鼻を突くアンモニア臭に顔をしかめずにはいられなかったが、それ以上に膀胱が解放されたことが快感で、体が汚れていることなどはどうでもよく思えた。
 さすがに尿の滴る肉体を舐め回すのは血と土の染み込んだ女にも抵抗があるらしく、彼女は僕の体を拭い、水を掛け、そしてまた拭うと、何事もなかったかのように僕の体を撫で回し始めた。
「何をする気なんだ?」
 女の行動を見ていると、聞かずにはいられなかった。僕はこれから殺される。目の前の女からは血の臭いが漂っている。およそ人間とは思えない、感情のない瞳……それに加えて、アンモニア臭の残るがりがりの男の体を愛撫する姿……。恐怖とは少し違った気味悪さ、奇怪なまでに憑りつかれた狂気に戦慄を覚える。
 僕の太腿を舐めていた女は動きを止め、ワンピースの裾で仰向けの男の胴をさらりと撫でるように、僕の目の前まで美しくも恐ろしいその顔を持って来た。僕の鼻先でふふっと微笑んだ彼女は、赤く塗られた唇で、また僕の口に吸い付いた。その口に残る尿の香りが僕の肺まで届いてきて、とても息などできなかった。止めていた息もすぐに限界を迎え、肺がきりっと痛む。僕はその痛みに耐えかねて、深く息を吸い込んだ。アンモニア臭が鼻の奥を突いて、今度は吐き気を催した。仕返しに女の口の中に吐瀉物を吐き出してやろうかと思ったが、野菜の消化は早いのか、胃液が食道を少し逆流しただけで、口元まではやって来なかった。それでも吸い付く女を振り払おうと、僕は激しく頭を振った。その勢いで、何とか女を振り払った。
 女はひどく息切れする僕を見てにやりと笑った。これだけ好き放題やられて何もやり返せないのが忌々しかった。すぐには女が襲って来なかったので、僕は深呼吸を繰り返した。激しさを増す鼓動を鎮め、冷静さを取り戻すと、全身に痛みが走った。正確には両手首と背中だったのだが、それだけの範囲に痛みを感じたために、全身に痛みが走ったと錯覚したのだ。痛みの原因は、無意識のうちに体をよじらせていたことだった。それで背中が擦れてしまったのだ。手首も、抵抗する時に自然と力が入ってしまい、麻縄が余計に食い込んでいた。
「もう、やめてくれ……」
 胸の鼓動は落ち着きを取り戻していたのだが、息はまだ上がっているようだった。もはや自分の体力すら把握できていない。僕は自分の声が呻くのを初めて聞いた。
「やめるわけないでしょ。あなたはあたしの餌食なんだから」
 それだけ言うと、女はワンピースを脱いだ。その瞬間僕ははっとして、思わず息を呑んだ。
 彼女は下着をつけていなかった。だが問題はそこではなく、彼女の肉体のほうだった。浮き出た鎖骨の周辺、二の腕、乳房、腹部、そして太腿に至るまで、全身に無数の傷跡がついていた。どれも数センチ以上の大きさがあり、まるで継ぎ接ぎだらけの動物の皮を身に纏っているような肉体だった。
 瞬きも忘れていた僕は目を瞬かせて潤いを取り戻すと、鼻息荒く彼女の肉体に見入った。僕が怖気づき、絶句しているとでも思っているのか、彼女は勝ち誇ったような笑みを浮かべて悠々と近づいて来る。そして僕の肉体を足で挟み込むようにして座り込むと、自分の乳房を撫で、そのすぐ下にある傷跡を撫でた。その華奢な腰元が作り出す見事なまでの曲線に手を伸ばせないことが何よりも惜しかった。
「あなたは、どの傷がお気に入りかしら」

        4

 問題の同居人の氏名が判明したのは午後九時を過ぎた頃だった。すでに現場保存が完了し、樽本京介の遺体は司法解剖へと回されている。一度武蔵野署に戻った天羽は派遣されて来た捜査一課と連携を取り、部下に捜査の指示を出していた。
 部下には浅倉瑠璃から得た被害者の交友関係を当たらせている。三人のバンド仲間には阿波野ら六名の捜査員に聞き込みを行わせている。天羽は古藤と共に伊坂翔平の元を訪ねた。その伊坂翔平が同居人について把握していたのだ。
 伊坂翔平は料理人だった。まだ修行中の身だが、銀座の有名イタリアンでその腕を磨いている。厨房での競争率も激しいらしく、天羽と古藤が訪ねてもすぐに話を聞くことができなかった。二人はミシュラン一つ星のイタリアンを堪能した後、厨房が落ち着いたところで伊坂翔平から話を聞くことができた。彼は事件のことを知らないと話した。樽本京介が殺害されたと聞かされた時は言葉を探すように視線を落とし、結局何も発しなかった。
「今日は何時からこちらに?」
「昼過ぎです。二時くらいだったかな。夜の仕込みがあるので」
 伊坂翔平の勤めるイタリア料理店はランチも提供しているが、昼と夜の交代制でシフトが組まれているらしい。それを説明した上で、今日自分は夜の厨房に立つ日だったのだと話した。
「出勤してから一度も外出されていませんか」古藤がさらに訊いた。
「いや、開店時刻の少し前に一度外出しました。銀座通りを少し歩くだけの散歩ですけど」
 開店時刻は午後五時だった。つまり午後四時過ぎから午後五時の間のアリバイを証明する者はいないということだ。しかし伊坂翔平は堂々としていた。開店前の散歩はルーティンなのだと言う。料理の匂いが嫌なわけではないが、一度空気を入れ替えるだけで気分が違うのだそうだ。彼のルーティンについては同僚なら皆知っているとのことだった。
 これについては後で確認を行う。古藤とアイコンタクトを取った。
 浅倉瑠璃にしたように、樽本京介の交友関係について訊いてみたが、答えは同じようなもので、やはり学生時代の友人と樽本京介の間に交友関係はなく、それは伊坂翔平も同じらしかった。大学卒業後就職した者が多く、顔を合わす機会がないからだそうだ。トラブルを抱えている友人もいないとのことだった。浅倉瑠璃との交際についても訊ねたが、伊坂翔平はうまくいってましたよと答えるだけだ。二人のことはあまり詳しくないのかもしれない。
「ところで、樽本さんには同居人がいたそうですね」と天羽は訊いた。伊坂翔平が頷いたので、天羽は続けた。「その同居人について何か知っていることがあれば教えてください」
「ニブシュウタという名前で、僕達より少し歳上だそうです」
 天羽は漢字表記を確認した。丹生脩太と書くらしい。古藤に頷き掛けると、部下は立ち上がった。一刻も早く捜査本部に報告するためだ。丹生脩太について調べさせる。
「少し歳上?」
 大家の話では、丹生脩太は四十代から五十代とのことだった。樽本京介は二十五歳。丹生脩太は三十前後ということか。三十と五十を見間違えることなどあるのだろうか。しかしその風貌について訊くと、大家の話した男の風貌と一致していた。伊坂翔平は、白髪交じりの長い髪でかなり痩せていると語った。年齢についてはさばを読んでいるのではないかと自分なりの推理を披露してみせた。
「伊坂さんは面識があるということですよね」
「ええ、時々京介に料理を振舞っていましたから。とはいえ、二回かな、会ったのは」
「話はしましたか?」
「少しだけですが」
「どんな話を?」
 伊坂翔平は腕を組み、斜め上を見た。彼は体の線は細いが腕は太い。毎日フライパンを握っているからだろう。特に前腕は血管が浮き上がるほど筋肉がついている。見た目も料理人らしくさっぱりとしていて、清潔感がある。爪の手入れも行き届いていた。話す声にも張りがあり、好青年という印象だ。髪もオレンジでも金色でもなく、黒一色だ。
「僕の話が多かったですかね」と伊坂翔平は呟いた。樽本京介に料理を振舞に行っていたこともあり、料理人としての彼の話や将来の夢などについて話したのだという。伊坂翔平は秋にはフィレンツェに修行に行く予定だそうだ。
 丹生脩太に何か訊いたりはしなかったかと天羽は言ったが、伊坂翔平は低く唸った。名前くらいですと料理人は答えた。
「職業なんかは?」
「聞きませんでした」
「なぜ?」
「普通の人とは少し違った空気を纏っているように思ったので。不気味というか……何というか。猫背だし撫で肩だし、首の骨をこきこき鳴らすんです。それであの風貌なんで、どことなく怖くて。目も吊り上がってましたから」
 それはたとえば、殺人犯のような雰囲気だったかとは聞かなかった。丹生脩太が過去に人を殺しているかどうかは調べればすぐにわかることだ。ただ伊坂翔平の口振りから察するに、丹生脩太のことを快く思っていなかったのは確実だ。
「年齢については、どこで知ったんです?」
 さっきの伊坂翔平の話の中に年齢を訊いたというものはなかった。だが彼は、大家が四、五十代と見極めた丹生脩太を自分達の少し歳上だと言った。
「京介から後で聞きました。年齢なんて怖くて聞けませんでしたし、少し歳上と聞いて、訊かなくてよかったと安堵しました」
 命拾いした、とでも言うようだった。丹生脩太の風貌をまだ拝んではいないが、その風貌を思い出し冷や汗をかく伊坂翔平を見ていると、何となくその風貌をイメージできるようだった。大家と伊坂翔平の証言が一致していることもその理由の一つだが。
「樽本さんと丹生脩太のことで話したということですが、どんな話を? 同居の経緯などは聞かされていますか」
「聞きました。京介が金に困ってるのは知ってたので誰かと同居するのは特に反対じゃありませんでした。でも丹生さんと同居っていうのは反対でしたから。言葉足らずで申し訳ないんですけど、何となく怖い人って一番怖いじゃないですか。だから……」
「それで、同居の理由は何と?」
 伊坂翔平は申し訳なさそうに首を竦めると、一つ咳払いをして話した。
「大した理由ではありません。元々京介はシェアハウスの仲間を探していたんです。それはやっぱり、お金の問題で」
「家賃を滞納していたそうですね」
「はい。その滞納分も含めて、丹生さんが支払ってくれると言ったそうなんです。条件はなしです。自分を住まわせてくれるなら滞納分を肩代わりして、一年先までの家賃を負担すると丹生さんは言ったんです。京介にしてみればこんなにうまい話はありませんから、了承したんです」
「それで二ヶ月前から同居を開始、というわけですね。同居に反対だというのは、直接樽本さんに話したんですか」
「話しました。でも京介は大丈夫だと言って聞かなかったんです」
 こんなことになったのは俺の忠告を聞かなかったからだと言うように、伊坂翔平は眉をぴくりと動かした。樽本京介が丹生脩太に殺害される場面を想像したのか、伊坂翔平は一層険しい表情になって、鼻の横を掻いた。
「二人の間に何かトラブルは?」
「さあ、どうでしょう。金の問題はあったかもしれません。もし丹生さんが金を引っ込めるようなことがあれば、京介は相当怒ったでしょうから。約束と違う、と。僕も丹生さんとはそれほど面識があるわけじゃないので、何で怒るのか、何を大切にしてるのかなんてことはわかりません。だから何とも……」
 職業については不明のままだが、丹生脩太がかなりの金持ちであることは伊坂翔平の話から明らかだ。彼の話は大家の話と一致している。
 三十前後で資産家……。伊坂翔平の言葉を借りれば、何となく怖い人……丹生脩太は汚い金を稼いでいるのかもしれない。他にもいくつか資産を持っていても不思議ではない。天羽は伊坂翔平に丹生脩太は毎日シェアハウスに帰っているのかと訊いた。現場を監視している警官によると、同居人はまだ帰宅していない。
 伊坂翔平ははっきりと首を左右に振った。
「帰って来ない日もあるって京介は言ってました」
 別にマンションを持っているのかもしれない。仮にそうだとして、何のためにシェアハウスに入居したのか。初めから樽本京介を殺害することが目的だったのだろうか。しかし殺意を抱くような間柄の人物を樽本京介は受け入れるだろうか。
 最後に天羽は、伊坂翔平の丹生脩太への印象を訊いた。「話してみて、どうでしたか」
「口数はそれほど多くなかったですけど、声は比較的明るくて、見た目の割には普通の人というか、話してる分には普通の人って印象でした。でもやっぱり、気味の悪さは拭い切れませんでした」
 そうですか、と相好を崩し、天羽は礼を言った。立ち上がり、古藤と合流すると武蔵野署に帰った。丹生脩太のことはすでに調べが始まっているとのことだった。

        5

「丹生脩太、三十一歳。個人事業主とのことですが、業務内容は不明。都内の中学校を卒業後、進学はせず、事業を起こしています。アルバイト歴はなし――」
 今朝発足した武蔵野署の特別捜査本部で捜査一課と合流し、これから本格的な捜査が始まる。そのための捜査会議だ。天羽の部下である武蔵野署の刑事が昨夜古藤に指示され調べ上げた丹生脩太の略歴を話している。同じ内容を、昨夜署に戻った天羽は一足早く聞かされていた。
 まず驚いたのがやはり年齢だった。丹生脩太の容貌は運転免許証の照会により今朝方確認した。その容貌は大家と伊坂翔平が語った通り、とても三十一歳には見えなかった。白髪交じりの長髪はかさかさしていて、細い眉に吊り上がった目元、げっそりとこけた頬は五十代に見間違えられても仕方がないものだった。六十代に見えなくもない。
 最終学歴が中卒なのは、どうやら家庭の事情が関係しているようだった。その点についても部下はざっと調べを済ませており、丹生脩太は早くに両親を亡くしていることがわかっている。今から二十五年前、丹生脩太が僅か六歳の時に父親が肺癌で死去。母親も、その七年後に死去している。闘病の最中、自殺したらしい。丹生脩太が十三歳の頃だ。
 丹生脩太には皓太という四歳下の弟がいる。中学卒業後働き始めたのはその弟を養うためだったようだ。その甲斐あって丹生皓太は大学まで進むことができ、今は地方公務員として働いている。
 前科歴についても調べさせたが、見つかっていない。交通違反すら一度もないようだった。丹生脩太名義の資産を調べさせたものの、今のところ見つかっていない。本住所も現場となった吉祥寺のシェアハウスで登録されている。
 略歴を見ても、今一つ人物像が掴めない。それが天羽の感触だった。職業不詳という点が大きな問題だった。本人に問い合わせることができれば大したことではないのだが、丹生脩太は今現在帰宅していない。
 逃亡している、ということだろう。つまり樽本京介を殺害したのは丹生脩太だということだ。それは鑑識の照合の結果、出された結論でもある。
 丹生脩太の略歴について天羽の部下が話し終えると鑑識課長が立ち上がり、鑑識結果を話し始めた。
「現場に残されていたナイフですが、付着していた血液は被害者のものと一致しました。凶器と確定して問題ありません。それから凶器に残されていた指紋ですが、検出されたのは一人のものだけで、その指紋は現場の至る所から採取されています。被害者の指紋とは一致しなかったので、同居人丹生脩太の指紋で間違いないでしょう」
 続いて監察医が立ち上がり、解剖結果を報告した。その報告によると死因は失血死で間違いないとのことだった。凶器であるナイフは刃渡り九センチのもので、背中から斜めに食い込むように筋肉を貫き、刃先が僅かだけ心臓に達していたそうだ。おそらく一突きだということだった。
「ただし丹生脩太の外見から考えると、一突きで心臓に刃が達するというのはあまり現実的ではない、というのが正直なところです」
 げっそりとこけた頬から想像するに丹生脩太は腕っぷしが強くない。免許証の顔写真には肩までが写されているが、首は細く、肩にも肉がついていない。証言通り、撫で肩であることも確認できる。
 樽本京介は筋肉質な体つきではなかったが、成人男性の一般的な体格をしていた。その樽本京介を背中から刺し、筋肉や骨を貫いて刃先が心臓に達するなど、病的なまでに細い丹生脩太の腕力では考えにくい。ただ、考えにくいというだけであって、まったく不可能とは言い切れない。たとえば背中からナイフを刺し、樽本京介が腹這いに倒れてから全体重を使って刃を押し込み、心臓まで達したのかもしれない。
 監察医は天羽の考えと同じことを言った。考えにくいが不可能と言い切ることはできない、と。また死後硬直の程度から死亡推定時刻は午後四時から五時の間と割り出された。被害者はほぼ即死だったというので、犯行時刻もそれと重なる。
 丹生脩太が犯人で間違いない。それが捜査員の総意だった。捜査一課から派遣された係長は捜査一課長に連絡を取り、丹生脩太を指名手配することに決めた。早速緊急配備が敷かれることになったが、丹生脩太が殺人の逃亡犯であるならば、とっくに東京を飛び出しているだろう。しかし都内に潜んでいる可能性も否定できない。天羽は地域課に協力を要請した。
 捜査一課の捜査員達は現場周辺の聞き込みに当たる。所轄の捜査員は防犯カメラの映像を確認するようにと指示があった。確認するのは昨日の朝から犯行時刻までの時間帯だ。捜索範囲はまず吉祥寺周辺、その後武蔵野署の管内全域の映像を確認する。改めて天羽から指示を出し、映像の確認は古藤に任せた。
 天羽は阿波野を連れて署を出た。丹生皓太に話を聞くことは若林署長を通して捜査一課も認めてくれている。阿波野の運転で板橋区役所に向かった。丹生兄弟は皓太が大学を卒業するまで両親と暮らした小金井でアパートを借りていたが、今は別々に暮らしている。丹生皓太の住所はときわ台だった。職場である板橋区役所に通いやすいから引っ越したのだろう。
 本庁舎に入り、窓口で丹生皓太に話しがあると言った。警察手帳を見せると、職員は慌てて手元の受話器を取り上げた。少々お待ちください、と言うので天羽と阿波野は一般客と同じように椅子に腰掛けた。ぽん、という音の後に番号が呼ばれるのを三回ほど聞くと、さっきの職員が二人の元にやって来て、案内してくれた。
 職員通路に入り、空いている会議室に通された。そこにはシャツの腕をまくった男性が控えていて、刑事を見ると立ち上がって軽く頭を下げた。頭を下げるスピードはゆったりとしていた。
 生真面目そうな男だ、と天羽は思った。丹生脩太の風貌から、鋭い目つきを想像していたのだが、丹生皓太は兄と似ても似つかない、穏やかな目元をしていた。鼻筋も綺麗で、口角を上げるように微笑を帯びた口元は華やかさを持っていた。この兄弟は本当に四つしか歳が違わないのかと疑ってしまうほどだった。
 天羽は昨夕起きた殺人事件の概要を掻い摘んで話した。「被害者の樽本京介さんと丹生脩太さんは同居していたんです。あなたのお兄さんですね。その脩太さんは昨日から自宅に帰っていません。ですので唯一の肉親であるあなたにお話を伺いたいんです」
 背筋をぴんと伸ばし、時折相槌を打ちながら聞いていた丹生皓太だが、最後まで聞くと「はあ」と戸惑うように漏らしただけだった。どうやら樽本京介殺害事件については知らなかったようなので、少し困惑しているのかもしれない。突然刑事が来て、あなたの兄が指名手配されることになりましたと言われて冷静でいれるはずがない。
 テーブルの上で大きな手を組むと、丹生皓太はこちらを見て言った。「警察は、兄が樽本さんを殺したと考えてるんですね」
「まあ、そういうことです」と天羽は耳を掻いた。「皓太さんは樽本さんと面識は?」
「ありません。兄が樽本さんという方と同居していたことも聞かされていませんでした。初耳です」
 同居を開始してまだ二ヶ月だ。弟に報告できていなくても、不自然ではない。仕事が忙しいとか、もう少ししたら話そうと思っていたとか、理由はいくらでも考えられる。ただし、伝えなかった理由があるのだとすれば、話は別だが。
「脩太さんと樽本さんの関係については何も知らないということですか? たとえば、過去の会話の中に名前が出たことがあるとか、その程度でも結構です」
 丹生皓太は数秒瞬きを繰り返し、記憶を遡っているようだったが、やがて首を横に振った。
「樽本という名前に聞き覚えはありません」
 そうですか、と天羽は呟いた。「質問を変えます。脩太さんとはどれくらいの頻度で会われてますか」
「最近は会っていませんでした。もう二年近くになります」
 それが事実だとすれば、丹生脩太は吉祥寺に帰らない時、弟の自宅に泊まっていたわけではないということだ。やはり別に住居を構えているのか、ホテルを利用しているのか、考えにくいが、恋人がいるのか。
「会わなかった理由があるんですか」
「僕のほうにはありません」
「と、言うと?」
「僕からは連絡を取ったりするんです。今年の正月も、顔くらい合わさないかって電話したんですけど、兄が会ってくれなくて。せめて正月くらいは顔を合わせて元気な姿を見せたいと思ってるんですけどね。僕は兄には本当に世話になりましたから。でも、なかなか忙しいみたいで……」
「早くにご両親を亡くされたと伺いました。その後は脩太さんがあなたを?」
 丹生皓太は柔和な笑みを口元に浮かべ、首を縦に振った。兄への本音を語るのが照れ臭いのか、彼はこっちを見たりテーブルに視線を落としたりしながら、両親を亡くした時のことを口にした。
「兄は弟思いで、優しい人です。それは両親を亡くした時だけじゃなくて、大人になっても変わりませんでした。未だに連絡は取りますからね」
 天羽は黙ったまま頷き掛けた。
「僕は正直、父のことは覚えてないんです。父は僕が二歳の時に亡くなってしまっていますから。ヘヴィースモーカーで、それが祟って肺癌を患い、亡くなったと聞いてます。それからは母が女手一つで僕達を育ててくれました。でも僕にとっては兄が父の代わりみたいなところがあったので、父親のいない悲しみを感じることはあまりありませんでした。幼い頃から兄には可愛がってもらっていましたし、よく一緒に遊びました。僕は母にも兄にも大切に育てられました。大人しい性格だったこともあるかもしれません。父は亭主関白で、母が何か文句を言うと暴力を振るっていたそうなんです。だから母は、息子達には女性に手を出すような男には育てたくないと思っていて、父親とは違った穏やかな子に育つように、貯金を叩いて僕達に芸術を習わせました。兄は絵画を、僕はピアノを。でも母が亡くなって、僕はピアノを辞めました。母にやらされていたという認識はなかったですが、母が亡くなったことのショックが大き過ぎて、ピアノどころじゃなかったんです。元々ピアニストを目指していたわけでもないですし、これから生きていくだけでも大変だっていう中で、習い事を続ける余裕はないと思ったからです。母は自殺でした。たぶん、父の傍で副流煙を吸い続けていたから、それが一つの原因で肺癌を患いました。母の肺癌はステージで言うと二か三程度で、治療をすれば治すことができるものでした。でも母は、抗癌剤治療の苦痛に耐えかねて、入院中に自殺しました。僕は塞ぎ込んでしまって、食事も口にせず、衰弱したことがあります。その時でも、兄は僕の傍を離れず、お兄ちゃんがいるから大丈夫だと言って励ましてくれました。それから少しずつ僕も立ち直って、兄と一緒にアルバイトに出ようかなんて小学生ながら考えていたんですけど、兄がお金のことは大丈夫だから、お兄ちゃんが稼ぐからって言って、僕をここまで育ててくれたんです。本当に兄には感謝しています。でも二年近く会えていないというのが現状で、少し寂しいですね」
 丹生皓太は終始落ち着き払っていた。彼の話を聞いて、天羽は胸にじんと来るものがあった。自分の境遇に重なるものがあったからだ。天羽にも三歳下の弟がいる。
 だが感傷に浸っているわけにもいかない。天羽は丹生皓太に兄の職業を訊ねた。丹生皓太は兄を誇るように胸を張った。
「画家です」
 中卒で個人事業主……弟を大学まで行かせた丹生脩太。なるほど、と天羽は腑に落ちた。画家として一定の成功を収めていたのであれば、弟を養うだけの余裕はあっただろう。
「活動は本名で?」
「いや、覆面画家です。本名だと何かと勘繰られることもあるから面倒だって。母の死がショッキングだったこともありますし」
「その……ペンネームというべきなんでしょうか。脩太さんのペンネームを教えてもらってもいいですか」
 丹生皓太は苦笑した。申し訳ありませんと謝ってから、弟である自分も兄のペンネームは知らないのだと言った。丹生脩太は徹底して姿を隠しているというわけか。ただ本名でも何点か絵画を出展しているとのことだった。
 天羽に美術の知識はないが、近年巷でも有名な現代画家の代表格といえばバンクシーだろう。バンクシーも神出鬼没の覆面画家だ。丹生脩太とバンクシーはまったく別物で、丹生脩太は営利目的だろうが、覆面画家にしろ覆面作家にしろ、作品が注目されればそれと正体不明というミステリアスな響きが相乗効果を生み、価値が急騰することもある。丹生脩太がそういう状況にあったとすれば、樽本京介の滞納分の家賃、さらには二ヶ月先の家賃まで支払いを済ませていたことにも頷ける。
「ところでなんですが、脩太さんに連絡を取っていただけますか」目下最大の課題は丹生脩太の身柄を確保することだ。丹生脩太が苦労を重ねつつもその華々しい才能で命よりも大切な弟を育てて来た感動ストーリーにはつい体が火照ってしまうところだが、情に流されるわけにはいかない。いくら弟思いの心優しい兄でも、殺人犯である以上逮捕しなければならない。
 それは丹生皓太も理解してくれているらしい。戸惑いつつも、兄の番号に電話を掛けた。ただ一言、「兄は人を殺したりなんかしませんよ」と穏やかな表情を崩すことなく丹生皓太は抗いの言葉を放った。
 丹生皓太はスマートフォンをテーブルに置き、スピーカーフォンにして兄の応答を待った。天羽と阿波野も彼の座る椅子の後ろに立ち、丹生脩太と表示される発信画面を見つめていたが、繋がらない。何度掛け直してみても、電波の届かない場所にあるかすでに使われていない番号だと感情のない声が説明するばかりだ。
「どうしたんだろう」と丹生皓太は不安げに呟いた。スマートフォンを食い入るように見つめ、画面に吸い寄せられるように発信ボタンを押したが、結果は同じだった。「こんなこと、今までなかったのに……」
「脩太さんはいつも電話にはすぐに?」
「大体はそうです。出られなくても、すぐに折り返し掛かってきます」
 だがそれから二十分が経っても丹生脩太からの着信はなかった。弟によると、十五分あればいつも折り返しの電話があるとのことだった。GPS機能で居場所が割れることを気にして電源を落としているのかもしれない。天羽は丹生脩太の電話番号を控えた。
「最後にですが、脩太さんの交友関係について教えていただきたいのですが」
 中卒で画家になったからには、交友関係はかなり限定される。それも丹生脩太は覆面画家だ。その名を弟にも明かさない徹底ぶり……美術界でも親交のある者は少ないかもしれない。本名で数点絵画を出展しているとのことだが、あまり期待はできなさそうだ。
 兄とよく遊んでいたと丹生皓太は言った。丹生脩太と繋がりがある、もしくは繋がりがあった人物がいるとすれば、それは中学までの同級生である可能性が高い。丹生皓太も面識はあるはずだ。
「兄には二人、仲のいい友人がいました。今も食事に行ったり出掛けたりする仲です。僕は連絡先を持ってないんですけど、一人はどこで何をしているか知ってます」
「その人物を教えてください」
「ドウジマツバサ君です。堂島総合病院の一人息子で、ツバサ君も病院で医者をやっています。確か脳外科医だったと思います」
 ツバサは翼と書くそうだ。堂島翼――堂島総合病院と手帳に書き込んだ。堂島総合病院という病院名は聞き覚えがあった。足を運んだ記憶はないが。
「堂島総合病院というと、小金井にある、あの?」
「そうです」と丹生皓太は首肯した。「もう一人はキミシマタツト君なんですけど、タツト君は整体師だったかな、兄がよくマッサージしてもらってたそうなんですけど、どこの整体院かは聞いてないです」
 漢字を確認した。君島辰斗と書くらしい。整体院については問題ない。堂島翼に聞けばわかるはずだ。
 天羽は礼を言い、会議室を出た。丹生皓太は律儀にも本庁舎の入り口まで見送ってくれた。警察にここまで手厚く応対してくれる者は少ない。勤務中はいつも険しい顔になる天羽だが、丹生皓太の穏やかな笑顔につられて、つい相好を崩してしまう。
 生真面目で人当たりの良い丹生皓太……彼の兄が殺人犯というのは、彼だけを見ていると信じ難いことだと天羽は思った。

        6

 長い夜だった。きっともう朝日が昇っている。昇っていてくれなくては、僕はどうにかなってしまいそうだった。手足を縛られたまま、見るからに非力な女性に凌辱される。女の愛撫に弄ばれ、焦らされ、あまりの屈辱に苦悶の表情を浮かべると、追い打ちを掛けるように嘲笑が飛ぶ。女は山道で出会った時とはまるで違った、はっきりとした甲高い声で喘ぎながら、僕が彼女のためだけの肉塊とでも認識しているように、一人で快楽を味わい尽くし、一人満足げに汗を流していた。その最中、彼女の目には生気が宿っているようだった。自由の奪われた獲物を前にして、奴隷に対して王であるかのように彼女は優越感に浸っていたに違いない。
 絶えず続いた拷問がようやく終わった。女のほうが飽きてしまったというふうではなく、僕の精力が尽きてしまったのだ。とっくに僕は放心状態で、臍から下の感覚が失われていた。もう何日も自分の顔を鏡に映していないが、たぶん最後に見た病的な顔と比べれば、今の僕は一層痩せこけているに違いない。このままだと数日のうちに女に肉を喰らい尽くされ、骨だけになってしまうと何度思っただろう。三十年余り生きて来て、女を怖いと思ったのは初めてだった。その女は、行為が終わった今もまだ目に生気を宿している。運動量は圧倒的に向こうのほうが多かったのに、息を切らしているのは僕のほうで、女は規則正しい呼吸を繰り返している。これからは視姦で嫐ってやるとでも言うように……。
 もはや逃げたいとも思わなかった。十字架に磔られたまま、僕には為す術がない。時々脱出ものの映画やドラマがやっているが、その物語の主人公は極限状態にありながら脱出の手段を見出す可能性が残されている。それはつまり、手足の自由だ。手足が動けば、ほんの僅かな突破口が見つかりさえすれば、それを糸口に、あとは糸を伝って行けばやがて出口に出られる。救出を待たずして自力で生還できる。そんな映画を見て、僕はいつも主人公の胆力に感心していた。絶望的な状況に身を置かれて、よく心が折れないものだ、と。あるいは実際にそうした状況に身を置けば、自分も同じようにがむしゃらになれるのだろうかと考えたこともあった。しかし出した結論は、たぶん無理、だった。初めこそ脱出を試みるだろうが、やがて脱出が困難であることを悟り、僕はそこで死を待つだろう……。
 だがその時考えていたよりもずっと早く、僕は生きることを投げ出した。元々生への執着が弱いこともある。でもそれは最も重大な事情ではなかった。絶望的な状況の今、何が最も絶望的かというと、手足がまったく拘束されているということだった。後ろ手に両手を拘束されているだけなら足が使える。鉄格子の端まで移動し、麻縄を擦りつけ、摩擦で縄を切ることもできただろう。あるいは刃物に似た何かがあればそこまで移動して縄を切断できたかもしれない。足だけが縛られていたなら、むろん手で束縛を解き脱出を試みる。脱出ものの主人公とは、大抵は後ろ手に手首を拘束されるだけだ。あるいは完全な密室に束縛なく自由な身を投げ入れられるだけ……。
 笑えてきた。喉につかえるような、乾いた笑い声が鼓膜に届く。もう何時間も水分を取っていない。唯一僕の体内に入り込んできた液体といえば、僕の女王様を気取っている女の唾液だけだった。それ以外に水分は取っていない。食事も、睡眠薬の混ぜられていたスープを口にしたのが最後だ。久しぶりに激しい運動をしたせいもあって、内臓が歯車みたいにそれぞれ関係し合って体内で捻じれ、僕のやわな体に波状攻撃を仕掛けて来る。そのあまりの痛みに、自分の体内で出血が起こり、空洞になっている場所に血が溜まっているのではないかと思うほどだった。反射的に呻いてしまうほどの痛みが繰り返し訪れたが、僕は身をよじることもできずにいた。
 その度思い出さされる。自分の状況を。僕は脱出ものの主人公じゃない。彼らのように手足が自由なら、それは最後まで諦めないこともできるだろう。頭を使えば脱出できるのなら、そんなに楽なことはない。体力を使うのは、ちょっと僕には辛いが、できないこともない。おそらく人間は、いや生物というのは、一パーセントでも生存の可能性が残っていれば、その一パーセントのために火事場の馬鹿力というものを発揮するのだろう。たぶん火事場の馬鹿力というのは、いつでも発揮できる。でもそれが馬鹿力ではなく火事場の馬鹿力と呼ばれる所以は、人間が普段楽なほう楽なほうへと自らを導いてしまうからだ。死を前にしなくても、困難な道を選べば馬鹿力というのは発揮できるはずだ。希望はない。だが死んでいない。腹を括れば、これまでの自分を殺したかのように、それまで想像もしなかった自分に生まれ変わることがある。そして突然開花した自分の能力に驚愕するのだ。かつての文豪や画家、音楽家が歴史に残る名作を生み出すことができたのはその馬鹿力のせいだろう。彼らの逸話は聞けば聞くほど狂気じみている。無一文、不自由、体調不良、時に自らの手で自分を追い込み、あるいは時代の波に翻弄されながら、死とは別の場所で馬鹿力を発揮して来た。
 その馬鹿力を発揮する力が自分に備わっていることを僕は知っていた。僕はすでに、その馬鹿力を発揮したことがあるからだ。しかし以前馬鹿力を発揮した時は手足が自由だった。今よりずっと健康的だった。そして血の臭いのする女のような敵がいなかった。僕の置かれた立場は、脱出ものの主人公のように生易しいものじゃなかった。
 できることは、諦めることだけだ。こうなってはイエス・キリストだって死んだのだ。僕は神でもなければ救世主でもない。超能力は使えないし奇跡も起こせない。ちょっとした人間に過ぎない。遅かれ早かれ人は死ぬのだ。その死が今訪れたというだけだ。むしろ喜ぶべきだろうか。目の前にいる女は狂人だが、曲がりなりにも美女だ。そして華奢な体つきは僕の好みでもある。首元から股に掛けてつけられた無数の傷跡は何度見ても物々しく怪物じみている。だがその傷が彼女を怪物たらしめたのか、彼女の怪物的な一面がその傷を生み出したのかを考えていると、僕は目の前の怪女が狂気的なまでに美しく思えるのだった。そんな女に息の根を止められるのだと思うと、人生に未練は残らないはずだった。
 一人ひっそりと死んでいく。それはずっと前から決めていたことだ。一人、というのは考えていた通りにはならなさそうだが家族や友人にはその死を知られず、僕は一人死んで行ける。もしかすると、これは僕の人生の報いなのかもしれない。僕が傷つけて来た彼女達を代表して、今目の前にこの女が立っているのだ。彼女は処刑人なのだ。だからこんな磔台まで用意して、僕を捕らえたのだ。きっとそうなのだろう。
 女は一度鉄格子の外に出て、別の部屋に移った。すぐに姿を現すと、手には包丁が握られていた。包丁は鋭く研がれていて、それほど強烈ではない部屋の照明を鏡のように照り返している。
 あれで刺されるのか……。僕は大の字のまま動けない体を心の中で目一杯広げてみせた。さあ殺せ。刺せ! 躊躇うことはない。これで僕は死ぬ。未練などない。すっきり成仏してやる。だから一思いに、心臓を貫いてくれ!
 女はやけにゆっくりと格子戸を開けた。いや、僕にはゆっくりに見えただけかもしれない。女のほうが今になって殺人に身を竦ませるとは思わない。小屋には杉の香りと共に乾いた血の臭いが染み込んでいる。そこに、昨日から垂れ流しになっている僕のアンモニア臭が立ち込めて、それから少しばかりの生野菜の臭い、そして土っぽい女の体臭が蔓延している。女は間違いなく、これまで何人もの人間を殺しているのだ。僕一人を葬ることなど造作もないことだろう。
 女は最後にそっと接吻した。僕の目を見、首を見、胸を見、腕を見、腹を見た。同じように女は自分の体を見回した。そして自分の右脇の辺りを指先で触れ、その瞬間悪魔が憑依したかのように、声もなく大口を開けて笑った。
 突如として、僕は恐怖に襲われた。それだけでなく、彼女に対しての欲望が抑え切れなくなった。女は僕の右脇に指先で軽く触れると、包丁を振り被った。その目は照準である僕の右脇に見入っていた。女は振り被ったまま、舌なめずりをして体重を一気に前に移した。
「待て!」
 僕は叫んでいた。しかし女の動きは止まらない。
「僕は画家だ!」女の眉がぴくりと動いた。「君の肉体を絵にしたい」
 女はそのまま包丁を振り落とした。脇の下に鋭い痛みが走った。だが振り下ろされた包丁は僕の肉体を貫かず、刃先をかすめただけで床に突き立っていた。じんわりと、脇の下から血が流れ出るのがわかる。だが僕は生きていた。
「画家……?」
 女は一晩中そうしていたように僕の上に跨り、まるでキスを迫るみたいに前屈みになって、床に突き立った包丁の柄を両手で握りしめている。僕の耳元で囁かれた彼女の声は我に返ったように冷静で、しかし呆然としたものだった。その中には、どこか希望的な響きも混じっていた。
「人の絵を描くの?」
「そうだ。肖像画を描く」
 女は床からぐっと包丁を取り上げた。いつしか目から生気は失せていた。あの深淵の見えない大きな瞳が僕を見下ろしている。目の前の怪物は、やはり血に飢えているのだ。人を殺す時だけ生気が宿るらしい。
「この体を描きたいの?」
「そうだ。これほど珍しいものはない。だから画家として、僕の絵画として、最後の作品にするのに相応しい。殺すのは、絵を描いた後にしてほしい。君もその体を絵に残したいと思うだろう?」
 女は脇腹の、一際大きな傷を撫でて笑った。それは交渉成立を示すものだと思った。が、女は包丁を再び振り上げた。
「ここに絵を描く道具なんかないわ。残念ね。絵は描けない」
 今度は僕が笑みを浮かべる番だった。芸術家として、男として、僕の凄みを少しでも感じさせられただろうか。僕が笑うと女はややたじろいだので、成功したのだろう。
「画材道具なら、気持ちばかりだけどショルダーバッグの中にある」僕は鉄格子の外に投げ捨てられたショルダーバッグを指差そうとしたが、手首が思うように曲がらなかった。「さあ、バッグを取ってもらおうか。それからこの縄も。手が動かせないんじゃ絵は描けない」
 肖像画は描くつもりだった。だがあくまで、形成を逆転してからだ。手足の縄をほどかせ、今度は女を縛り上げる。その後で絵を描き、仕事が終われば僕は悠々と山を下りる。それで脱出成功だ。
 しかし女は安易に縄をほどいたりはしなかった。立ち上がり、鉄格子のドアを開けた。

        7

 堂島総合病院は小金井公園から程近い場所にある。最寄り駅は中央線の武蔵小金井駅だ。交通の便も良い。天羽と阿波野が病院に到着したのは正午を過ぎた頃で、ロビーには受付を待つ外来患者がまだまだ椅子に腰を落ち着けている。
 天羽は阿波野を連れ、ロビーの外れにあるインフォメーションセンターに向かった。キャビンアテンダントのような制服を来た小綺麗な女性職員に警察手帳を提示し、堂島翼に話があるので繋いでほしいと言った。職員は二人いたが、二人ともぎょとしたように互いの顔を見合った。
「堂島さんがどうという話じゃないんです」堂島翼の名誉のためにも天羽は弁解した。「堂島さんの友人がある事件に関わっているかもしれないというだけです」
 それを聞くと、女性職員もいくらか安心したらしく、やや戸惑いは残るものの口元には微笑を浮かべて受話器を手にした。天羽の要求通り、職員は堂島翼について問い合わせた。二言三言話した後、送話口を手で押さえてこちらを見た。
「申し訳ございません。堂島は今日まで有給休暇を取っておりまして、現在院にはおりません」
「有休?」
「はい。昨日今日とお休みをいただいております。明日でしたら堂島も院におりますが……」
 天羽は堂島翼の診療日を訊ねた。堂島翼が診察室に座るのは毎週金曜日らしい。今日は水曜日だった。診療日以外では手術の予定が入っていたり入院中の担当患者の回診に行ったり、講演会を聞きに行ったりとなかなか忙しい。夜間に救急外来に詰めている日もあるとのことだ。ただ診療日でなければ、他の医師との兼ね合いを見て、二日程度の休暇なら取れないこともないそうだ。堂島翼でなくとも、時々そうして休暇を取得する医師はいる。
 いない人間は仕方がないので、天羽は堂島妙子に繋いでほしいと言った。堂島妙子は堂島翼の母親で、堂島総合病院の院長を務めている人物だ。丹生脩太と中学の頃から親交のあった堂島翼だ。その母親である堂島妙子も丹生脩太と面識があるかもしれない。
 今度は女性職員が何度か丁寧に送話口に話し掛け、二分ほど掛かってようやく話がまとまった。すぐに案内する者が来るとのことで、天羽と阿波野はインフォメーションセンターの前にある椅子に腰掛けて待った。
 数分が経ち、白衣姿の男性が現れた。頭は禿げ上がっており、肉付きの良い頬は垂れている。見た目は還暦を過ぎたところといった具合だが、容貌と年齢が必ずしも一致しないことを丹生脩太に教えられたばかりだ。だが禿頭の医師はどうやらすでに還暦を超えているらしい。
 医師は市井俊夫と名乗った。胸元の名札にもそう書かれている。堂島総合病院では副院長を務めているらしい。
「では、ご案内します」と言って市井俊夫は刑事をエレベータに乗せた。堂島総合病院は広大な敷地を有しており、棟数だけでも五棟が立っている。今いる第一棟の一階はロビー、受付が主になっていて、診療機関はない。他にコンビニやカフェが入っている。二階が主に診療スペースらしく、かつて市井俊夫が勤めた内科の部署が多く入っているそうだ。彼は数年前まで内科部長を務めていたらしい。そのついでというように、かつては堂島妙子も内科医だったのだと市井俊夫は話した。専門は呼吸器内科だったようだ。そうしていないと落ち着かないのか、エレベータに乗っている間中、市井俊夫はずいぶん高い位置まで上げたベルトに指を挟んでいた。
 エレベータはそのまま手術室のある三階、患者が入院している四階から六階までを通過し、七階の通路階に到達した。七階には病院が有する資料などを保管しているそうで、倉庫が多い。今ではすべて電子カルテになっているが、紙に直接記載していた頃のカルテもこのフロアで管理しているとのことで、厳重に鍵が掛かった部屋が多い。
 ぐるりと七階を半周して、別のエレベータに乗り換えた。八階には第一棟に入る診療機関の部長室が並んでおり、九階には市井俊夫が使用する副院長の個室と職員専用食堂が入っている。最上階である十階に院長室はある。他には応接室と会議室、二百人くらいは入りそうなホールがあった。第一棟以外の建物はすべて九階より低い造りになっている。ロビーがない分、一階から診療機関が入っているためだ。手術室があるのも第一棟のみらしく、他の棟は診療機関と入院病棟がよりコンパクトになっているそうだ。
 市井俊夫は痰の絡んだ嫌な咳払いをして、院長室を拳で三度叩いた。「どうぞー」と気楽そうな返事があった。刑事が来ていることを聞いているはずなのだが。
 副院長に続いて天羽と阿波野が入室した。頭髪が半分以上白くなった女性がこちらに気づき掛けていた老眼鏡を外した。老眼鏡をネックレスのように首に掛けるスタイルだ。座っていると姿勢が良く、見た目より若さを感じたが、立ち上がった堂島妙子は腰がやや落ちていて、やはり年齢を感じさせた。ぽっちゃりとした体型も歳相応といったところか。
 天羽がお辞儀をすると、堂島妙子は愛想のいい皺を刻み、品よく軽く頭を下げた。
「お手数お掛けして申し訳ございません」と天羽は言った。
「構いませんよ」としっとりとした声で堂島妙子は言った。歳の割に声が高い。むしろ鼻に掛かったようなキイキイ声に近い。こういう老婦人は、おおよそおしゃべり好きだ。
 副院長を退室させると、堂島妙子は刑事に椅子に座るよう勧めた。深紅のソファはいかにも高級そうで、それが院長のデスクの前に四つ並んでいる。座り心地も、絶妙だった。天羽はこのソファのように、硬めが好きだ。
 天羽は院内の清潔感や院長室の見事さを褒め、案内してくれた市井俊夫の丁寧な対応に謝意を示し、市井俊夫から聞いた堂島妙子の経歴に大した人だと少し大袈裟に言った。
 堂島妙子は「市井先生そんなことまでしゃべったんですの?」と口を尖らせたものの、そうなんですよ、と昔話を始めた。それを笑顔で聞き流し、機嫌が取れたところで堂島翼が有給休暇を取っていたので院長に話を聞くことになったのだと説明した。
「ねえ」と堂島妙子は息子を責めるように言った。「こんな大変な時に何してるのかしら」
「昨日今日と翼さんが何をしてらっしゃるか、ご存知ではないんですか?」
 堂島妙子は不満げに口元を歪めた。
「中学の頃から、どこに行くのも何をするのも、報告なんてありません。訊いても教えてくれないから、高校に入ってからはあたしのほうからは訊かなくなりましたわ」
 堂島翼は三十一歳だ。母親と同じ職場で働いているという特殊な環境ではあるものの、それが普通だろう。親に逐一報告をするのは遅くとも高校生までだ。
「反抗期、ですかね」とお愛想程度に阿波野は言った。彼の気弱そうな顔の効果もあって、堂島妙子には本気で心配してくれていると感じられたらしい。
「ほんとに、大変ですよ。あんまり口利いてくれなくなってからは何考えてるかわからないんですもの」
 子供とのコミュニケーションを取りたいというのは親の願望というわけだ。天羽も両親とは殆ど連絡を取らない。天羽にも反抗期はあったが、反抗期は子供が自立するきっかけの時期だ。親を頼らないようになり、独り立ちしていく。最近は反抗期がない子供も多いそうだが、それで一人前の大人になれるのかと天羽は思ったりもする。そういう子供は大抵親に甘やかされて育っているから、自立ができないのだ。その点、堂島翼は大病院の一人息子として生まれながら、無事に反抗期を迎えることができたということだ。母親の仕事が多忙だったせいもあるかもしれない。
「まあ、翼さんには追々話を聞くことになります」
「それで、何の事件の話ですの?」と堂島妙子は言った。昨夕起きた殺人事件だ。ニュースにはなっているが、まだ事件のことを知っていなくてもおかしくはない。「翼が関わってるんですか?」
 いえいえ、と天羽は顔の前で手を振った。事件の概要を説明した後、堂島翼は容疑者である丹生脩太の友人ということで話が聞きたいだけだと天羽は言った。
「脩ちゃんねえ」と堂島妙子は呟いた。やはり、丹生脩太を知っているらしい。「大変な人生だったから、何かこう、鬱憤みたいなものが溜まっていたのかもしれませんねえ」
「人を殺したこと、驚かれませんか」
「そりゃ驚いてるけど、突然のことでねえ。あらまあというのが正直な感想よ。驚くというより、信じられないって言ったほうが近いかしらねえ、あたしの気持ちとしては。脩ちゃん、いい子だったから」
 殺人事件が起きて近隣住民に話を聞くと、まさかあの人がというのはよくあることだ。それが息子の友人となれば尚更だろう。子供時代からその存在を知っていただけに、知った性格と殺人がどうしても結びつかないなんてことは珍しくない。堂島妙子は丹生皓太のことも知っているようなので、余計そうなのだろう。
「脩ちゃんには申し訳なさもあるからねえ」と堂島妙子は言った。
「申し訳ない?」
 堂島妙子は膝の上で手を重ねると、やや畏まって背筋を伸ばした。頷く際にきゅっと結ばれた口元には悲痛が滲んでいた。
「だってあたしは、脩ちゃんのお父さんもお母さんも救ってあげられなかったんですもの」
 丹生脩太の両親は早くに亡くなっている。父親は肺癌、母親は自殺だ。その自殺のきっかけも、肺癌を患ったことだった。
「できる限りの手は尽くしたんですけどねえ……。お父さんのほうは来院された時にはすでに末期で、手の施しようがなかったけれど、お母さんのほうは、ねえ……」
「治療の苦痛に耐えかねて自ら命を絶ったそうですね」
 丹生脩太の両親が共に堂島総合病院で最期を迎えていることは知らなかった。丹生皓太はそこまで語らなかったからだ。
「治る病気だったんですけど、やっぱり抗癌剤治療って辛いものなんですよ。患者さんの中には、点滴の袋を見るだけで吐き気を催す方もおられますし、それこそこんなに苦しい治療なら死んだほうが楽だとおっしゃる方もいます。脩ちゃんのお母さんも、何度か治療をしていくうちにノイローゼ気味になって、看護師にはよくよく様子を見ておくよう言いつけていたんですけど、彼女はまだ中学生になったばかりの脩ちゃんと小学生の皓太君を残して自ら命を絶ちました。患者さんも屋上には出られるんですけど、その屋上には防護柵がしてあって、乗り越えることはできなくなっています。ただ、屋上からベッドのシーツや枕カバーなんかを干すベランダに行くことができるんですけど、そっちの防護柵はずっと低かったんです。関係者しか入れないように貼り紙がしてありましたから。そこから、飛び降りたんです」
 そして丹生脩太は中学卒業後、弟を養うために働き始めた。大学を出て、脳外科に勤める堂島翼とは真逆の人生と言っていい。だが二人の交友関係が今も続いているのは、二人の間にそれほど格差が生まれなかったからだ。丹生脩太には絵の才能があった。画家として食っていくだけの腕はあり、それで弟を養うこともできた。絵の才能がなければ、残された二人の少年はどうなっていたか、わからない。
「その後すぐに、彼は画家になったんですね」
「すぐじゃありませんわよ。脩ちゃんが画家になったのは中学二年の時で、お母さんを亡くしてから一年近く経っていたんですよ」
「その間、二人はどうやって生活していたんですか」
 丹生兄弟が児童養護施設に預けられたという記録は残っていない。丹生皓太の話から考えても、母親の収入はそれほど多くなかったはずだ。貯金を叩いて息子達に芸術を習わせていたとのことだった。おそらく、遺産と呼べるものもなかっただろう。
「あたしが生活を援助したんです。お母さんのことで申し訳ないという気持ちがあったのも事実、中学卒業までは、二人の面倒はあたしが見ようと思いました。結局、中学卒業まで面倒を見る必要もなかったんですけれどね」
 丹生脩太が画家としてデビューを果たしたからだ。堂島妙子の話から想像するに、丹生脩太はよほど華々しい画壇デビューを飾ったのだろう。絵が一枚売れただけでは生活も苦しいはずだ。
「丹生脩太さんのペンネームをご存知ですか。ご存知なら、教えていただきたいのですが」
「ペンネーム?」と堂島妙子は眉をひそめた。「さあ、わからないわ。あたし絵には疎くてねえ。院内にも何点か絵画を飾ってあるけど、あたしにはさっぱりで」
 弟がペンネームを知らないのだ。友人の母親が知っているはずもない。
「院内の絵の中に丹生さんのものはないんですか」
「ないですよ。脩ちゃんは人の絵を描くのが好きなんですよ。昔から皓太君の絵をたくさん描いてた記憶がありますわ」
「肖像画、ですか」
「そう、肖像画。お詳しいのね」と堂島妙子は言った。
 そんなことは、と天羽は答えた。堂島妙子は「ご謙遜を」と言ったが、謙遜したわけでも何でもなかった。人の絵は肖像画だ。美術に精通していない天羽でも知っている。
 院長室から辞去する前に、天羽は丹生脩太の両親のカルテを見せてほしいと言った。堂島妙子は了承して、七階の倉庫からカルテを二枚持って来させた。丹生脩太の母親が自殺した十八年前はまだ電子カルテではなかったのだ。
 カルテには、堂島妙子が語ったような診断結果が書かれている。丹生脩太の父親は丹生昌夫といった。来院時、すでにステージ四の肺癌を患っており、初診で余命宣告を受けている。丹生脩太の母親は丹生三奈子といった。こちらはステージ二の肺癌だった。カルテを見る限り、治療経過は順調なようだった。しかし、彼女は自ら死を選んでいる。
 礼を言い、天羽はカルテを返した。阿波野と深々と頭を下げ、踵を返した。だが院長室を出ようとして天羽は足を止めた。鼻先でドアが開いたのだ。そこには前髪を額の中央でふわりと分け、銀縁眼鏡を掛けた男が立っていた。男はこちらにちらりと一瞥をやったが、会釈もせず院長室に踏み込んでいった。
 感じの悪い男だ、と天羽は思ったが、その印象はすぐに覆された。
「あら、お帰り」と堂島妙子が言ったので、彼が堂島翼なのだろう。年齢は丹生脩太と同じ三十一歳、中肉中背で、やや貫禄を感じる見た目だ。丹生脩太とは違った意味で、やや実年齢より高齢に見える。
 堂島翼は母親に刑事を紹介されると、そうでしたかと言うようにあっと口を開け、腿に手を添わせながら深々とお辞儀した。天羽も礼を返した。
「翼に話があるんだって」と堂島妙子は母親の顔になって言った。大きな笑みを口元に浮かべているのは息子を安心させるためだろう。過保護なんだろうなと天羽は思った。金持ちの母親は大抵過保護だ。
「俺に?」と堂島翼は自分の顔を指差した。怪訝そうにこちらを見て、銀縁眼鏡を指で押し上げた。
「丹生脩太さんについてお伺いしたことがあります」と天羽は言った。
「脩太……」と堂島翼は呟き、視線を落とした。
 天羽は堂島妙子に応接室の使用許可を取り、そちらに移った。彼女は院長室で話せばいいのにと言ったが、自分も応接室について来ることはなかった。応接室に入ると、それに続いて阿波野に連れられた堂島翼が入室した。
「有給休暇を取られていたとのことですが」腰を落ち着けると天羽は訊いた。
 堂島翼は頷いた。
「昨日からグランピングに行く予定だったんです。それでさっき帰って来たので、母に帰ったことを報告に来ました。この後患者さんの様子だけ見ておこうと思ったので、ついでに」
 天羽は堂島翼の言葉に引っ掛かりを覚え、訊いた。
「行く予定だったということは、グランピングには行かなかったんですか」
「行きましたよ。行きましたけど、予定が狂ったんです。グランピングには、その……脩太と行く予定でしたから」
 おそらく丹生脩太は集合場所には現れなかった。それが堂島翼の言う予定が狂った、だろう。それについて確認すると、堂島翼は首肯した。
「集合は現地の予定でした。脩太は片付けたい仕事があるから先に行っておいてくれと。昨日の午後には車でキャンプ場に到着しました」
「そこで丹生さんを待っていたが、来なかったというわけですね」
 堂島翼は目を閉じて二度小刻みに首を振った。約束をすっぽかした丹生脩太に少し怒っているのかもしれない。せっかくの有給休暇だったというのに、といったところか。
 天羽は丹生脩太が容疑者となっている殺人事件について話したが、堂島翼は事件を知らなかった。樽本京介という人物にも心当たりはないらしい。
「布武、というバンドでヴォーカルを務めていた人物ですが、丹生さんとの会話の中で名前を聞いたりしたことはありませんか」
「布武? 天下布武の布武ですか?」
 好感触だった。彼は布武を知っている。天羽はそうです、と首を縦に振った。
「そのバンドなら知ってます」とやはり堂島翼は言った。「よくうちの病院の前でもライブをやってますから。病院の前の広場で、迷惑なんですよね、あのバンド。小金井公園でもよくやってたみたいですよ。でも知り合いというほどじゃないんです。その……樽本さんでしたっけ。その人の名前を脩太から聞いたことはありませんね」
「樽本さんは丹生さんの同居人でした」
「同居人?」
「ご存知なかったですか」
「ええ、そんな話は聞いたことがないな」
 二ヶ月ほど前から同居していたのだと言うと、堂島翼は目を細めた。何か心当たりがあるのかと訊くと、彼は銀縁眼鏡を指で押し上げた。どうやらそれが癖らしい。
「俺は脩太の友達ですが、もう一つ、別の関係があります」
「別の?」
 はい、と頷いて堂島翼は言った。「主治医と患者という関係です」
「主治医……ですか。丹生さんはどこか具合が悪いんでしょうか」
 訊き返しながら、病気を抱えているのであれば、あのげっそりとした容貌も納得できた。病的な細さではなく、病なのだ。白髪が混じっているのも、そのせいかもしれない。
「具合が悪いなんてもんじゃありません」堂島翼は医師の顔になって言った。歯痒そうに顔をしかめながら、膝の上に肘を載せる彼の仕草だけで、丹生脩太の容態の悪さがわかるようだった。「末期癌です」
「末期癌……」
 癌は遺伝するとよく聞く。丹生脩太の両親はともに癌を患い、亡くなっている。まさかその遺伝子が、すでに彼の体を蝕んでいるとは。三十一歳……その年齢を考えても、やはり若過ぎる。画家としても、まだまだこれから活躍していく才能だっただろうに。
「二年ほど前から具合がおかしくなったんです」
「おかしくなった?」
「ええ、目眩や頭痛を訴えるようになって、一度精密検査を行いました。その結果、脳腫瘍が見つかりました。当時はまだ腫瘍も小さく、手術できないこともなかったんですが、手術による生存確率が五十パーセントだと言うと、脩太は手術をしないと決めました。腫瘍は前頭葉を圧迫していましたから、危険な状態でした。俺は手術を勧めましたが、とうとう手術に踏み切らせることはできませんでした。そうこうしているうちに一年が経ち、ある日脩太は喀血で救急搬送されて来たんです。精密検査を実施したところ、肺に癌が見つかりました。その時すでに、肝臓にも転移していました。その後より詳しく調べると、膵臓にまで転移していることが判明しました。余命は一年持つかどうかといったところでした。個室を用意して療養させようとしましたが、あいつは、数ヶ月で自力退院して、病院には来なくなりました。連絡は取れましたが、すでに以前住んでいたマンションは引き払われていて、どこで何をしているかは把握できていませんでした」
 そして二ヶ月前から、樽本京介と同居を開始したというわけか。行方が知れれば病院に連れ戻される。だから樽本京介を隠れ蓑にできるシェアハウスを選択した。最後まで画家として生きたかったのかもしれない。それが自分の生き様だと考えていたのなら、同居のために惜しみなく貯金を叩いたことにも頷ける。
 何より、折り紙付きの弟思いであった丹生脩太が丹生皓太と二年も顔を合わせていない理由がはっきりした。丹生脩太は、弟に自分の病気のことを伝えていないのだろう。それについて堂島翼に訊くと、「皓太には伝えないでくれと口止めされていました」という答えが返って来た。
 わかってきた。丹生脩太という人間が、少しずつだがわかってきた。樽本京介を殺害した理由は未だ掴めないが、宣告された余命が近づく今、殺人を犯すリスクは彼にはないも同然だった。ほんの些細なことが動機になっているのかもしれない。
 天羽は丹生脩太の容貌についても訊いたが、三年ほど前までは筋肉もついていて、紙も短く、爽やかな青年だったらしい。やはり今みたいにひどく痩せてしまったのは病気が原因だという。
 念のために伺いますが、と前置きをして、天羽はもう一度堂島翼のアリバイを訊ねた。堂島翼は不快感を滲ませることなく、「さっき話した通りです。キャンプ場の管理人が証言してくれるはずです。脩太が来ないと何度も話していましたから」と言った。二人が休暇を楽しむはずだったキャンプ場は東京の外れの山中にあった。小金井からは車で一時間と少しといったところだ。
「最後にですが、丹生さんのペンネームをご存知ですか」
「ペンネーム? 本名で出してる絵しか知りませんよ」と堂島翼は怪訝そうに言った。
 丹生脩太は中学の時に画家デビューを果たしているが、その時は本名を使っていたということだろうか。もしかすると、丹生脩太のペンネームを知る者は誰一人としていないのかもしれない。
 礼を言うと、天羽と阿波野は応接室を出た。エレベータを乗り継ぎ、一階のロビーに戻ると、天羽と阿波野は堂島総合病院を出た。ちょうどその時、古藤警部補から着信があった。

        8

 投げ捨てられたショルダーバッグを女が開いた瞬間、僕は嫌な汗をかいた。嘘は言っていない。女に殺害を思い止まらせる時に口にしたことはまったくの事実で、ショルダーバッグの中にはスケッチブック、小筆、それから絵の具を三原色だけ入れてある。小旅行に出掛ける時、ふいに目に留まる風景や人々をその場で描き止められるようにするためだ。問題なのは、もう一つ僕が肌身離さず携帯しているものだった。それをもし彼女が見つけてしまったら、芸術の極致と言ってもいいあの体をキャンパスに描くことはできず、直ちに殺されてしまう。画材道具があると言い放った時は、バッグの中に画材道具があることしか頭になかった。僕以外の人間にとっては非日常の小物も僕にとっては生活必需品であり、日常的な道具なのだ。しかし血の臭いが鼻先から遠ざかり、冷静さを取り戻した今、僕は自分の寿命がほんの数分延びただけなのだと悟った。
 女はごそごそとショルダーバッグの中に手を突っ込み、まずスケッチブックを引っ張り出した。そして無造作に放り込んでいた赤、青、緑の絵の具、筆箱に収められた小筆二本。……あとは車の鍵とスマートフォン、それから例の必需品が入っているだけだ。女はまだバッグの中身を探っている。鉄格子に見え隠れする女の横顔がぴくりと動いた。それからバッグの口を大きく開け、動物園の職員が河馬の歯磨きをする時みたいに口の中を覗き込んだ。僕は自分の死を確信して、天を仰いだ。しばらく頭を持ち上げて女の動きを目で追っていたせいで、首がひどく痛かった。痛みを感じられるのもすでに新鮮だ。指先の感覚は殆どなくなっていた。
 鉄格子の開く音がした。首が痛むので、僕はさっきみたいに頭を持ち上げるようなことはしなかった。針を見なければ知らぬ間に注射が終わっているように、刺殺される時もそっちを見ていなければ知らぬ間に死んでいるのではないかと考えていた。どうせなら一思いに心臓を突き刺してくれ。長々と痛みに悶えて死ぬのはごめんだ。もうたくさん、苦しい思いはしてきた。殺人の被害者になることが僕の人生の報いだとしても、せめて楽に死なせてほしい。さっきの注射のたとえで言うなら、背中側から胸を貫いてほしい。そうすればいくら怖いもの見たさがあっても、見ることはできないから。
 垂れ下がった髪の影が僕の顔を覆った。ちょうど雲が太陽を隠すような感じだ。やっぱり背中から刺してはくれないのかと腹の底で苦笑しながら女を見上げた。そして僕は、目を疑った。彼女の手に僕が想像していた必需品は握られていなかった。
 なぜだ? なぜあれを持っていない。バッグの中に入っていたはずだ。あれを見て、あえて僕を生かしておこうというのか? 絵を描くには手が必要だ。だから女は僕の手を解放する。手が自由を得れば僕は足を解放する。そしてバッグを取り返せば、彼女はもう僕を殺せない。これで逆転だ。死ぬのは僕じゃない。この化け物だ……。
 だが当然、女は用心深かった。たぶんこの小屋の中で自分以外の人間を完全に自由にさせることはないのだろう。彼女に危害を加えられるのは彼女だけ……そう、ちょうど今朝そうしようとしたみたいに。
 女は僕の右手を自由にした。だが左手を縛る麻縄はほどかず、そのまま飛びのいて鉄格子の外に出た。素早く施錠を行い、ショルダーバッグを格子の間から投げ入れた。僕はすぐには全身を自由にせず、まずは解放された右手を顔の前に掲げ、照明から漏れる光を掴むように手をグーパーさせた。指の関節が満足に伸び切らない。縄で縛られていた手首の部分が赤紫色に変色していた。幸い、壊死はしていなかったが。やはり無理に縄を抜け出そうとしたのがいけなかったのだろう。二度三度と手首を回し、グーパーを繰り返す。指先が少し痺れた。血液が戻って来たのだ。少しして、指の関節がぴんと伸ばせるようになった。それから左手の縄をほどき、同じように血液を送った。その後で両足を自由にした。
 何時間ぶりに起き上がっただろう。足の縄をほどき、いきなり立ち上がったせいで視界がくらみ、膝から崩れ落ちた。そのまま数分、呼吸を整えながら首を回し、頭を少しだけ振った。少し頭痛がするが、それはいつものことだ。ゆっくりと立ち上がり、屈伸を繰り返した。膝の関節がぴきぴきと音を鳴らした。腰の骨も鳴る。スタート前の陸上選手のように手足をぶらぶらと振ると、足首が小刻みにリズムを踏んだ。ようやく歩き出すことができた。
 立ち上がったことで、僕は初めて自分のいる部屋の全容を知ることができた。ものは殆ど置かれていない。部屋に置かれた小物といえば意識を失う直前に見たのとおそらく同じものと思われる髑髏くらいだった。その髑髏も、意識朦朧とする中見たものとは少し印象が違っていた。というのも、それは普通の髑髏ではなく額の上の辺りが陥没した髑髏なのだった。同様に、額を割られた髑髏が三つ、何も入れられていない棚の上に並べられている。その棚の上に絵画のレプリカが飾られていた。有名な絵画で、ギリシャ神話の中でカウカーソス山に磔られたプロメテウスがアイトーンに肝臓を啄まれている絵だった。僕が収容されている鉄格子はむしろ檻と言うべきで、寝ているしかなかった時に想像していたよりはずっと狭かった。僕の入る檻の左右にそれぞれもう一つずつ監獄があった。僕の独房の出入り口は昨夜から女が使っているもの一つしかなく、檻を動かすことはできない。三方が鉄格子で囲まれていて、もう一方は部屋の壁なのだが、杉の丸太ががっちりと組まれていて壊すことはできないし、蹴破ることも不可能だった。鉄格子の隙間はショルダーバッグを投げ入れる程度はあり、それを見た時、僕の体ならその隙間を通れないかと思ったのだが、太腿がちょうどつっかかった。それに顔がどうしても抜けない。脱出するにはたった一つの出入り口を通るしかないようだった。
 ショルダーバッグを掴み上げ、僕は中身を点検した。なぜ女が僕を生かしておくことにしたのか、怪訝に思いながらバッグを見ると、そこには僕にとっての必需品がなかった。車の鍵もスマートフォンも消えている。
「物盗りなのか?」
 まさかそんなはずはないと思ったが、実際に物がなくなっている。最初通された部屋からこの部屋に僕は移り、それと同じように衣服とバッグも部屋を移動していた。その際バッグの中身を見て奪い取ったということだろうか。
「何も盗ってないわ」と女は答えた。
「そんなはずはない。ものが消えてる。あんた以外に誰が盗るっていうんだ」
「何がなくなったの?」
 僕は答えるか迷った。結局、スマートフォンと車の鍵が消えていることだけを言った。女は三つの檻の前の小道を通用口のほうに向かってゆっくりと歩きながら首を傾げた。棚から髑髏を一つ手に取り、プロメテウスの絵画を見上げて一息吐くと、また僕の独房の前に戻って立ち止った。
「さあ、描いてちょうだい」
 ヌードモデルをやるというのに、女は恥じらいを見せない。初めてでないことはないのだろうが、やけに落ち着いている。表情は冷めているが頬の笑みも自然で、堂々としていた。そもそもあんなところでヒッチハイクするような女だ。物怖じするような肝ではないのだろう。それにあれは単なるヒッチハイクじゃないのだ。獲物を山小屋に引きずり込み、手足を縛って磔に処す。息絶えた男は、ちょうどプロメテウスが啄まれている脇腹の辺りに血を流して死ぬ。ただ彼女は、普通の磔とは違い、決まって脇腹を刺すわけではないようだ。それは僕の時もそうだった。彼女は僕の脇の辺りを刺して殺そうとした。僕が助かるかもしれないと直感したのは、まさにそこにあった。
 女は僕を刺す前に自分の体を検めた。そして傷のない位置を確認し、それと同じ位置に照準を合わせていた。僕を刺した後、彼女はたぶんその位置に自ら傷をつけるつもりだったのだ。目的はわからない。ただそうして自らの肉体に傷をつけることに快楽を得る異常者なだけかもしれない。その傷が自分の殺した人間の傷であれば尚更に……。
 とにかく女が自分の体に特別な感情を抱いているのは間違いないと思った。そういう場合、愛でるべき自分を何か形にして残したいと思うのが人間だ。マタニティーフォトがその顕著な例だ。生まれて来る我が子が自分のお腹の中にいる。大きく膨らんだお腹はまさに幸せの象徴であり、しかし永遠ではない。子供が生まれればその姿ではなくなる。だから「記念に」大きくなったお腹を写真として残したいと思うのだ。それと同じようなものだ。
 女は髑髏を右手と左手に持ち替えながら、意外にも乗り気で、自らの体の角度や髑髏を置く位置を探っていた。ここのほうがいいかな、こっちもいいかも、と言った具合に。そんなお茶目な一面を見て、また恐ろしくなる。僕を刺し殺す直前の、深淵の見えない目に生気が宿ったあの瞬間……。人は見かけによらないと言う。僕だってそうだろう。彼女もそうなのだ。人にはそれぞれ、恐ろしい一面がある。
「ちなみに訊いてもいいかな」僕はスケッチブックを破り取りながら言った。スケッチブックではキャンバスが小さ過ぎるので何枚かを貼り合わせて一枚のキャンバスにする。
「何?」と女は不機嫌な声で言った。それでも車内とは比べものにならないくらいはっきりとした声だ。まるでサッカーのサポーターの声援のホームとアウェーくらいの差がある。
「ひょっとしてその体の傷は、今まで殺した人間の数?」
「まあ、そんなところかしら」
 訊いたはいいが、否定しないとは思っていなかったので返す言葉がなかった。僕は微笑を浮かべ、椅子はないかと訊いた。それからイーゼルの代わりになるような台がほしい。できれば椅子は二脚あるといい。裸で仕事をするというのも変な気分なので服を返してもらった。ただ僕の下半身は尿で汚れているのでTシャツだけを着た。今一番何がしたいかというとシャワーを浴びたいのだが、彼女が許してくれるはずもない。
 ただ自分に有益なことには積極的であり、僕の所望した画材道具の代用品は数十分で取り揃えられた。椅子は小屋に置かれている木製の丸椅子が二脚、イーゼルがないので最初はまな板を用意した彼女だが、僕がケチをつけると気前よくプロメテウスの絵を取り外し、その裏面をイーゼル代わりに使えばいいと言った。ただし、傷はつけるなと注意された。それらを檻の中に運び入れる時も女は用心深く、僕に壁際まで下がるよう言ってから出入り口から椅子を供給した。プロメテウスの絵は鉄格子の間から手渡された。僕は椅子の上にプロメテウスの絵を裏向きにして置き、鉄格子に角を噛ませた。もう一方の角は斧の柄のスペアが小屋にあり、それでキャンバスを支えてイーゼルの代わりにした。さすがに刃の部分は貸してくれなかった。
 体勢が整うと、キャンバスにスケッチブックの紙片を隙間なく貼っていった。画鋲は小屋にもあったが、プロメテウスを人間の僕まで刺してしまうわけにはいかないのでセロハンで留めた。スケッチブックのやや上よりにちょうど十字架みたく下の部分がやや長くなるように十字を描いた。手に持っているのは鉛筆だ。まずはデッサンを行う。女は檻の外の通路で髑髏を持った左手を顔の前に据え、その髑髏に口づけするように向き合っている。立ったまま片膝を曲げ、それによって僅かに尻が引かれる。描きながら、魔女が林檎を手に持って魔法の息を吹きかけているみたいだな、とか、あるいは女神が髑髏に息吹を吹き込んでいるみたいだな、とか、まさにサロメだ、なんて思いながら手を動かしていた。
 先に集中が切れたのは女のほうだった。慣れていないせいもあるだろうが、同じ体勢のまま何時間も立ち続けるというのは厳しい課題だ。かといってやっているうちに慣れて来るものでもなく、むしろ時間が掛かれば掛かるほど体に圧し掛かる負荷は大きくなり、体力的な消耗もあってきつくなってくる。描いている時に動かれると堪ったものじゃないが、休憩というならば筆を置く。僕だって二時間も三時間も集中が続くわけじゃない。それに昨日の夕方に軽食を摂って以来何も食べていない。木と土と血の臭いが入り混じった小屋で食欲があるとは言えないが、胃袋は確かに悲鳴を上げている。十字架に吊るされているなら話は別だが、今の状況なら食事が喉を通らないこともない。臭いは大した問題ではなかった。
 女はやはり野菜しか食べない。それも料理というほどのものではなく、切って茹でたもの、あるいは生野菜をそのまま食べる。食事は僅かな量しかなく、とても腹が満たされそうにはなかった。このまま僕がここに棲みついたら、勝手に放牧を初めて喧嘩になるだろう。食事が目の前に出され、胃袋はセンサーが反応したみたいに音を鳴らしたが、僕は食べるのをためらった。
「大丈夫。薬は入ってないわ」
 僕は生の人参を口に運んだ。確かに、昨日のように急な眠気には襲われなかった。それからは、皿の底に火がついているかのように僕は野菜を掻き込んだ。

        9

 緊急で捜査会議が開かれる、と古藤は言った。阿波野に法定速度ぎりぎりまで飛ばさせ、可能な限り素早く署に戻った。阿波野が車を停めると天羽は助手席から飛び出し、署内へと駆け込んだ。
 刑事課のフロアで古藤を捕まえ、何事かと訊いた。
「我々にはまだ何も知らされていません。でも丹生に関することでわかったことがあるようです。とにかく行きましょう」
 古藤は特別捜査本部のある会議室のほうを指差した。ああ、と答え、天羽は大股で廊下を歩いた。
 会議室に入ったが、まだ捜査会議は始まっていなかった。むしろ会議が始まる気配はまったくなく、緊急地震速報を報じるテレビ局のように捜査一課の捜査員達が資料を腕に抱え、右に左に奔走していた。まだ準備は整っていないのだ。見たところ一課の捜査員の中にもまだ戻っていない者がちらほらいるようだ。一課の捜査員は現場周辺で聞き込みを行っている。彼らが帰るのを待って会議は始まるのだろう。天羽が早く帰って来たからといって何にもならないが、緊急連絡を受けてからの迅速な行動で一課の連中を出し抜いてやったと思えていくらか胸がすいた。ハンドルを握っていた阿波野は徒労に終わった運転に溜息を吐いていたが。
「おまえ達のほうはどうなんだ?」
 会議が始まるまで少し時間があるようなので、天羽は古藤に訊いた。おまえ達のほう、とは現場周辺の防犯カメラの確認だ。所轄はカメラ映像の確認をするよう一課から指示を受けている。まずは吉祥寺周辺のカメラを、それが終われば武蔵野署管内のカメラを調べるのだ。たぶん、まだ吉祥寺周辺のカメラの確認も終わっていないだろう。
「それが、一課が来て、カメラの映像を見せてほしいと言われて、我々は仕事がなくなったんです。その時に緊急で捜査会議が開かれると知って、警部に電話しました」
「カメラに丹生脩太が映っていたのか?」
 古藤は腕を組み、右手で自分の顎を撫でた。眉根を寄せると、いや、と首を捻った。「我々が確認し終えた映像も見返していたのがちらっと見えましたけど、丹生は映っていませんでした。見落としはないはずです」
 古藤は天羽の部下で最も優秀な刑事だ。入庁以来現場一筋の叩き上げで、勘も忍耐力もある。近々本庁に引っ張るかもしれないという噂を天羽は上司から聞かされている。古藤が本庁に異動となるのは天羽にとっては痛手だが、彼にとってはキャリアアップだ。捜査一課でも十分やっていけるだろう。その古藤が見落としはないはずだと言うのだ。見落としはないのだろう。それを見返すということは、丹生脩太の姿ではない何かをカメラの中で探しているということか。
 その予想は的中した。まもなく捜査員が揃い、緊急捜査会議が開かれた。捜査の指揮を執る一課の係長は、丹生脩太が借りていたレンタカーが三鷹で発見されたと言った。室内にどよめきが起こり、所轄捜査員は漏れなく驚きの声を上げた。同じく、天羽も驚いた。現場周辺を聞き込んでいた捜査員が吉祥寺のレンタカー屋で丹生脩太の手掛かりを掴み、彼が借りた車の車種とナンバーを確認。一部の捜査員を割いてレンタカーの捜索を行っていたそうだ。その結果レンタカーは三鷹で発見されたが、その場に丹生脩太の姿はなかったという。鍵は差し込まれたまま、エンジンは切られていたという。すでに三鷹には鑑識が向かっており、車内に残された指紋や毛髪を調べさせているとのことだ。
 しかし係長は渋面を浮かべていた。その真意が天羽にはわからなかった。丹生脩太のレンタカーが見つかったのだ。これから指紋や毛髪が採取され、殺害現場に残された凶器に残る指紋とそれが一致すれば、丹生脩太の犯行だと断定する材料になる。あとはその指紋が丹生脩太の指紋であることを確認するだけだ。つまり、身柄の確保である。
「昨日、丹生は午後二時にはレンタカーを引き渡されている。その後どこで何をしていたのかはわかっていない。ただ、レンタカーを借りていたということは、どこかへ出掛けていた可能性が高い」
 天羽はここで手を挙げ、先程の堂島総合病院での聞き込みで、昨日の丹生脩太の予定について詳しく話した。丹生脩太は堂島翼とグランピングに出掛ける予定が入っていた。しかし彼はキャンプ場に現れなかった、と。
 うむ、と係長は変わらず難しい表情を浮かべている。何が係長をそうさせているのか、と天羽は苛立った。グランピングに行くためにレンタカーを借りた。しかし何らかの理由で樽本京介に殺意を抱き、殺害した。その後丹生脩太はキャンプ場には現れず、緊急配備を警戒したのか都内でレンタカーを乗り捨て、行方をくらましている。
「その可能性は否定し切れない」と係長は天羽を見て言った。「だが他に、重大な事実がある」
「重大な事実……」天羽は立ったまま、ぽつりと呟いた。会議室前方に係長、そして若林署長が座っている。中央に捜査一課、その後ろに所轄捜査員という配置だ。天羽の声が係長に届くことはなかった。
「丹生脩太のレンタカーが乗り捨てられていたことだが、これと同様の事件が断続的に発生している。その事件では、車が乗り捨てられた後、その運転手はいずれも姿を消している」
 ざわざわ、と天羽の中に胸騒ぎが生じた。まさか、と口の中で呟き、天羽は倒れ込むように椅子に腰を落とした。
「そしてその運転手は、未だかつて、誰一人として発見されていない。生死も定かではない」
 係長は前方のモニターに資料を映し出した。どうやらその資料こそ、さっき慌ただしく捜査員が運び込んでいたものらしい。連続失踪事件のすべての資料が手元にあるわけではないが、すでに手元にあるものだけを見ても、八件。その中で最も古い時期のものは、十七年前とある。
「十七年……」
 手元の資料の中には神奈川県警から取り寄せた資料が一部あるらしく、その事件は都内でのみ起こっているわけではないと係長は言った。ただし、全国的な事件というわけではなく、車が乗り捨てられるのは決まって東京近郊だという。そして最後に、天羽がまさかと思ったことを係長は言った。
 丹生脩太は、この失踪事件に巻き込まれた可能性がある――。
「天羽警部、丹生脩太はグランピングに行く予定だったと言ったな?」
 天羽は再び立ち上がった。少し息が荒くなっている。「はい」
「その道中で姿を消した可能性がある」
 そういうことか、と合点がいった。つまり一課は、丹生脩太が失踪したその瞬間がカメラに映っていないかどうかを、丹生脩太ではなく丹生脩太が乗っているレンタカーを目標として、防犯カメラの映像を確認していたのだ。
 天羽の横で、古藤が立ち上がった。
「ドライブレコーダーに映像は残っていないのでしょうか」
 そうだ、と天羽は思った。気が動転していて、ドライブレコーダーのことを忘れていた。レンタカーには必ずついているはずだ。ドライブレコーダーを確認すれば、丹生脩太がいつどこにいたのか、何時頃失踪したのかがわかるはずだった。
「残念だが、ドライブレコーダーは見つかっていない。それはこの事件の最近の特徴でもある」
 つまり、他の誰かが丹生脩太を拉致した、と係長は考えているのだ。最近、というのは十七年前だと車にドライブレコーダーがついていないからだろう。
 続いて監察医から正式な樽本京介の解剖結果が報告された。特に目新しい情報はなく、昨日の見分で予想された通り死因は失血死で、死亡推定時刻も変わりはなかった。
 係長は一課と所轄に関係なく、現場周辺の聞き込みと防犯カメラの映像確認を指示した。まずは丹生脩太がレンタカーを借りてからの正確な行動を把握しなくてはならない。樽本京介の死と失踪事件は関係があるのかどうか、丹生脩太にアリバイはあるのかどうか。そして捜査方針を変更し、樽本京介に殺害動機のある人物について洗い直すよう言った。丹生脩太の行方も重大な問題だが、捜査本部が追うのはあくまでも樽本京介を殺害した殺人犯なのだ。ただし、丹生脩太が事件と無関係だと決まったわけではなく、依然有力な容疑者という立場は変わらない。係長は最後に、なるべく多くの車乗り捨て失踪事件の記録を集めるよう指示した。
 天羽はこれから、堂島翼のアリバイの裏付けを取りに行く予定だった。再びカメラのことは古藤に任せ、阿波野を連れて署を出ようとしたが、若林署長に捕まった。阿波野には先に行ってすぐに出られるようにと言った。
 会議室に留まった天羽に若林署長は「堂島総合病院に行っていたのか」と言った。署長には丹生皓太に話を聞きに行くと言っただけで、堂島総合病院については報告していない。堂島翼の存在は丹生皓太への聞き込みで判明したことだ。
 堂島総合病院がどうかしたのだろうか、と思いながら天羽は頷いた。もしかすると、受診したことがあるのかもしれない。若林署長は小太りで、制服は見ているだけで息が詰まるくらいぱつぱつだ。胸元から連なるボタンも、何とか歯を食いしばって踏みとどまっているといった具合だ。それに加えて、署長は背が低いせいか胸を張って話す癖がある。署長の腹の上のボタン達は、すでに歯茎から出血しているかもしれなかった。その体型もあって、何か体に不調を抱えていても不思議ではないと思った。
 だがどこか悪いのかと上司に訊くのも不躾なので、行かれたことがあるんですか、と天羽は訊いた。
 若林署長は頭の上で手をひらひらと振った。「いやいや、行ったことはない。昔、妙な事件がその病院で起きて、その時に耳にしただけだ。ずっと忘れていたんだが、おまえのさっきの話でふと思い出してな」
「妙な事件、ですか」
「ある強盗事件の被害にあった少女がその後発狂して刃物を振り回して暴れるという事件があったんだ。その少女は事件で怪我を負って入院中の患者だった。結局その事件は、少女を止めようとした少年とその少女が揉み合いになって、刃物が少女に刺さったんだったかな……。もう三十年近く前の事件で、うろ覚えだがな」
 天羽は堂島総合病院の掃除が行き届いた病棟を思い出した。体に刃物が刺さったというのだから、当然かなりの出血があっただろう。三十年という時が過ぎているので当然だが、あのロビー、あの廊下に血溜まりができているところは想像しにくかった。
 引き留めて悪かったなと若林署長が言ったので、天羽はいえいえと答えながら、最後にその後少女はどうなったのかと訊いた。署長はその後のことは知らないと言った。どうやら本当に小耳に挟んだ程度の事件らしい。
 樽本京介が殺された事件とは関係ないだろうが、一見血の臭いなど感じない堂島総合病院でもそういう事件があったのだと思うと、見え隠れする一面を注視しなくてはと気が引き締まった。
 署を出ると、西日も弱まっていた。雲が出て来たのだ。夕立があるかもしれないなと天羽は思った。時刻を確認すると、まもなく午後五時になろうかという頃だった。

        10

 食事を終えると、またデッサンを行った。すでに顔には陰影がつき始め、女の顔がくっきりとキャンバスに浮かび上がっていた。ちょうど首元までスケッチしていた絵は、まるで彼女が手に持つ髑髏に肉をつけたかのようだった。肖像画を描く時、頭から手をつけるのはいつものことで、それは今回も変わらないが、僕の心持ちはまるでいつもと違っていた。それは別に、この絵を描き終われば殺されるから、などとしょうもないことが理由ではない。頭を描く、首から肩を描く、ボディーラインを描く。そしてようやく、芸術を生身に写した究極の肉体を写生することができる。そこまではまだ少し時間が掛かるだろう。僕は女の傷だらけの体に早く手をつけたくて、さっきからうずうずしていた。
 だがそんな僕を焦らすように、女はすぐに体勢を崩した。怪女の瞳に比べればいくらかチャーミングにも見える髑髏を床に置くと、女はストレッチをした後、小屋を出て行ってしまった。
 それが何度か繰り返された。時計がない上に窓もないので正確な時間はわからないが、女は決まって一時間ほど外出して帰って来るのだった。おそらく小屋の近くの家庭菜園に行って、栽培している農作物の世話をしているのだろう。戻って来ればまたモデルになる。
 また女が外出した。デッサンはまだ彼女の乳房を描き始めたところだった。すでに六ヶ所、首から胸元に掛けて小さな傷を描き取っている。それを描きながら僕の気分も少しずつ昂って来ていたところで彼女は水を差したのだ。女が小屋を出ると、僕は鉛筆を床に叩きつけた。
「くそったれ!」
 小屋の外で農作業をしている美しい女を生き写した頭部が目の前にある。ゆくゆくは色を纏い、デスマスクより正確な肖像が完成されるが、鉛筆の濃淡だけで描かれた今の彼女も十分美しく、芸術的だった。美術を愛する多くの人間は、このデッサンにこそ価値があると言うだろう。だが僕には物足りない。肖像画とは、そこにあるものではない。そこに生きるものだ。この絵には、血が通っていない。その血を通わせるのが、何よりも至福の時なのだ。僕が画家として生きる意味がそこにはある。こんなものは、芸術でも何でもない。
 黒と銀の女が一時間近く戻ってこないのだと思うと、せめてキャンバスの中の女だけでも殴り飛ばしてやりたくなった。唾を吐きかけてやったが、その唾はキャンバスの脇に逸れた。わざと。この程度のデッサンならいつだって描いてやる。だがここまでに掛かった時間を考えると、また一から出直すというのは僕にとって拷問に等しい。あの傷を、究極の肉体を早く描きたい。これが僕の人生最後の作品ならば、思い残すことは何もない。だから唾を当てなかった。僕を焦らす女の顔を見ると無性に腹が立った。ちょうど尿意を催したのでその顔にだらだらとぶっかけてやろうかと思ったが、やはりそんなことはできず、部屋の隅で放尿した。簡易トイレも与えられていない。もはやトイレ以外の場所で小便をすることに抵抗はなかった。肖像画に血が通った時、この独房は血の臭いよりもアンモニア臭が強くなっているかもしれない。悪臭は酷いが、嗅覚が麻痺してしまっているのかあまり気にならなかった。
 だがやはり、大便にはまだ躊躇いがある。部屋で出すのはいい。問題なのはその後だ。自分のものとはいえ人糞が放置されている。見栄えは悪い、臭う……汚れた尻を拭くこともできない。さっきから数匹の蠅が目につくようになった。僕にも常に二、三匹蠅がたかっている。蚊に噛まれたらしく、足元が常に痒い。これほど劣悪な環境が他にあるだろうか。僕を殺した後、女は人糞を片付けるのだろうか。尿に塗れた部屋を掃除するのだろうか。いつもそうしているのか? いや、いつもは獲物が尿意を催す間もなく喰らっているのだ。この部屋に置かれる髑髏達は、この小屋をあまり汚さなかったのだろう。だから血の臭いは沁みついているが、別の類の悪臭はあまりしないのだ。
 はじめこそ、僕は女が外出すると暇を持て余し、スケッチブックに髑髏をデッサンしてみたりしていたが、さすがに四度目ともなると女があとどれくらい帰ってこないかがわかってくる。僕は鉄格子に体を密着させて部屋の中を窺った。脱出経路を見つけておこうと思ったのだ。数時間前までは生き延びることを諦めていたというのに、手足が自由になったことで脱出できる望みが僅かだが見え、生還しようとしている。まさに脱出ものの主人公に躍り出た気分だ。ただし、女の肖像画を描き終わるまでここを出る気はないが。
 部屋の出入り口はただ一つ。それは一目でわかる。三つ並んだ檻の前の通路。檻から見て右手は行き止まりになっていて、窓もない。通路の髑髏が置かれていたところとプロメテウスの絵が掛けられていた部分だけ、穴が開いたように白くなっている。そして左手に他の部屋と繋がる通用口があるだけだ。ここを出るにはあそこを通るしかないし、女もそのドアしか使っていない。隠し扉のようなものもないようだった。ならば一番の問題は檻を抜け出すことだ。檻の入り口には円柱型の横棒が噛ませてあり、下ろされた錠には南京錠が掛かっている。鍵は当然、女が持っている。南京錠をどうにか開けることができれば檻を抜け出すことができるのだが、僕には泥棒の解錠術のような芸当はできない。イーゼル代わりに使っている斧の柄があるが、これに刃がついていれば何度か試して錠を破壊できたかもしれない。むろんそれもできない。檻の中にある道具と言えば棚と絵画、斧の柄、小筆、スケッチブックと絵の具、鉛筆、中身が空のショルダーバッグくらいのもので、鍵穴に差し込めるようなものはない。あとは僕が縛られていた磔台が檻の中の半分ほどのスペースを奪って横たわっているだけだ。磔台は杉の木でできている。
 使えるとしたらこれだと思った。棚は破壊することはできても思うような形にするのは難しい。それにまだ絵を描くことを考えると、今棚を破壊してしまうわけにはいかなかった。僕はショルダーバッグの肩掛けの長さを調節するための金具で十字架の端を打撃した。二度三度と叩きつけると、十字架の角を削り取ることができた。それをさらに金具で削っていき、爪楊枝のように細くしていった。
 しかし鍵穴というのは想像よりも小さく、これでどうだと鉄格子を抱くように腕を回し、鍵穴に鋭い木片を重ねてみるが、まだ太い。また金具で削る。それを繰り返しては何度も解錠を試みたが、あと一息で鍵穴に入りそうだという頃合いに、女が帰って来た。
 戻ると女は、大学生が休憩から講義室に戻った時のように悠々と髑髏を手にしてポーズを取る。無言のままだが、それが「さあ、描きなさい」という命令であることは僕も理解している。ここにいては、彼女に抗う術はない。僕は鉛筆を取った。女に目で促されるままキャンバスに筆を落とすのは不本意だが、そんなことはどうでもよく思えるほど、僕は彼女の体に飢えていた。餌を出された犬が主人に尻尾を振るように、僕は女がワンピースを脱ぐと口元を綻ばせた。思わず舌なめずりしてしまいそうなほどだ。
 餌食になるのは僕だけじゃない。あんたも同じだ……。目の前には、芸術があった。

        11

 キャンプ場に着いたのは午後六時半前だ。空はまだ明るく、白い月がスケルトンのように上空に浮かんでいる。空の青さのせいだろうか、地球のように見えたりもする。まだ上空には一番星も光らない時刻だが、こうして月を見上げているだけで、見事な天体が観測できるのだろうと天羽は思った。あいにく空は曇っていて、今日はそれほどはっきりと星は見えそうにないが。
 ナビでは一時間五分という案内が出ていたのだが、実際には一時間二十分ほど掛かった。阿波野の運転の問題、というわけではなく、山道を登るために何度も急なカーブがあり、その度に減速を繰り返すので、ナビの弾き出した所要時間よりも時間が掛かってしまったのだ。堂島翼が丹生脩太とグランピングを楽しむ予定だったキャンプ場は、所在地としては一応東京ということだ。山の中腹に駐車場があり、そこから少し上るとグランピング施設があり、客の用途に合わせてテントやバンガローも設置されている。展望台もあり、そこから渓谷を一望できる。天羽も展望台に立ってみたが、同じ東京とは思えないほど自然豊かな土地で、立っているだけで心が洗われる気がした。
 医師として忙しい堂島翼がリフレッシュ場所に選ぶはずだ。もし丹生脩太がここに来れば、きっと画家魂をくすぐられただろう。天羽は両手でそれぞれピストルの形を作り、それを使って顔の前で長方形の額縁を作った。これだけで名画になる。そんな風景だった。
 キャンプ場に向かう車内で、天羽は「丹生脩太」とインターネットで検索をしてみた。複製防止のためのサンプル品だが、何点か丹生脩太名義の絵画を見ることができた。堂島妙子は彼の絵について、幼い頃は弟の肖像画を描いていたと話したが、丹生脩太の作品はどれも風景画だった。地方の風景を描いたものも少なくなかったが、中には天羽もよく知っている都内の風景が描かれたものもあった。ただ、細かな色彩やタッチの効果などはネット上の画像ではわからない。美しい絵ということだけが伝わって来た。そんな丹生脩太だからこそ、もしここに来ていれば、きっと絵に残しただろうと思うのだ。
 まもなく阿波野が管理人を連れて戻って来た。天羽は渓谷に望む絶景を賞賛し、唸ってみせた。半分が本音、半分が御世辞だった。管理人はにっこりと人懐っこい笑みを浮かべ、「そうでしょう。あたしも長年ここで暮らしていますが、飽きません。来てくださった皆さん、満足して帰られます」と仙人じみたゆったりとした口調で言った。
「ここで暮らしているんですか?」
 驚いて天羽は訊いた。こんな土地で暮らせたら、きっと体内にも好循環が生まれて、まるで自然と一体化したような、不思議だが清々しい毎日を送れるのではと少し羨ましくなる。仕事人間の天羽にはまったく似合わない生活だが。
「ええ。事務所のほうで寝泊まりしています。夜中でもお客様に対応できるようにしないといけませんから、夜勤のスタッフも事務所の詰所に常駐しています。一通り、生活動線は整っていて、ちょっとしたアパートのようなものです」
 基本的にはキャンプにやって来る客はグランピング施設を利用するとのことだが、体調不良を訴えた場合や大怪我を負った時など、例外的に客が事務所の入るアパートを使用することがあると管理人は言った。その頻度を訊いたが、意外に多いそうで、その理由は学生が校外学習に訪れることが多いからだと言う。一度に百名以上の団体がやって来る時は大抵二、三人の体調不良者が出るとのことだった。
 言われてみれば、キャンプ場の外れに煉瓦造りの炊事場があった。天羽も学生時代、クラスメイトと班を作り、みんなで一生懸命料理を作った記憶がある。あの時のメニューはカレーライスだっただろうか。天羽の班では女子が積極的に包丁を手に取ったため、天羽達男子は顔を赤くしながら必死に火を起こしていた。その時も、確かに何名か体調不良者が出ていた。
 施設内の巡回や食材の準備、炊事場の掃除など、基本的な業務内容を確認した後、天羽は昨日の午後から今日の午後までの二十四時間で勤務していた職員を訊ねた。昨日今日と出勤しているのは管理人だけらしい。仙人はほぼ年中無休のようだ。
「昨日この男性はここにやって来ましたか」天羽は丹生脩太の顔写真を取り出し、訊いた。
 いいや、と管理人は首を左右に振った。
「昨日、堂島翼さんがこちらに来られたと伺っておりますが」
「はい、堂島さんね。確かに堂島さんなら昨日当施設をご利用になって、今朝方帰られました」
「その堂島さんが昨日ここでどのような行動を取っていたか、覚えている範囲で構わないのでなるべく詳細に話していただきたいのです」
 管理人は初めて不信感を露にした。なぜそんなことを訊くのか、と目で訴えて来たので、天羽は丹生脩太の顔写真を再び提示した。
「この男性は、昨日堂島さんとここに来る予定だった人物です。そして昨日発生した殺人事件の容疑者でもあります。そして今、彼は行方をくらましています。この男性と堂島さんは中学校からの友人で、今も繋がりがある。そういうわけで、昨日の堂島さんの行動を確認したいというわけです。我々も、堂島さんが犯人と考えているわけではありません」
 そういうことでしたら、あなた方が考えているように堂島さんは犯人ではありませんよ、と管理人は確信めいて言った。
「私は昨日、そのご友人が来ないと困っておられる堂島さんを何度もお見掛けしました。そのことで少し話したりもしました。確かに彼はご友人を待っておられました。確かお昼過ぎには当施設に到着されてチェックインを済まされました。その後二時頃からまだ連れが来ないと施設内をうろうろされていて、三時頃には私と少し話した後散歩に出掛けられました。それからしばらくして、次に堂島さんを見たのは五時半頃だったでしょうか。その時、まだ連れが来ないとご友人を心配されている様子でした。その時堂島さんはまた散歩に出ていたと話されました。次にお姿を見たのは今朝方で、ちょうど散歩に出るところでした。結局ご友人は来なかったと話しておられました。午前十一時頃にチェックアウトされて、私達はお見送りしたという次第です」
 堂島翼が話したこととずれはない。今日院長室に堂島翼が現れた時間から逆算しても、管理人は嘘を言っていないだろう。それにチェックイン、チェックアウトの記録が残っているはずなので、その気になればいくらでも調べられる。
 ただ、一つ気になる点があった。
「もう一度伺いますが、午後三時頃から午後五時半頃まで堂島さんの姿を見ていないんですね」
 その時刻は樽本京介の死亡推定時刻と重なっている。車で一時間と少しという道のりだから、その間吉祥寺に戻って樽本京介を殺害し、キャンプ場に帰って来ることは可能だ。
 しかし管理人はそっと目を閉じ、大きく首を横に振った。
「お姿は見ていませんが、堂島さんは確かにこの施設内におられました。彼が犯人というのはあり得ない話です」
「それはなぜ?」
「その間車が駐車場に停まったままだったからです。先程言ったように、私達は巡回を欠かしません。昨日は私ともう一人の職員で駐車場のほうまで巡回を行っておりましたが、昨日の午後四時十五分に駐車場を確認したところ、堂島さんの車は間違いなく駐車されていました。施設内には監視カメラは一切ございませんが、防犯上の理由から駐車場だけはカメラをつけさせていただいております。昨日の映像を確認されますか?」
 念のため、天羽は映像を確認することにした。管理人はおそらく嘘は言っていない。堂島翼を庇っているというよりは、施設の利用客に殺人犯が混ざっていたと考えたくないのだろう。その心理はわからなくもない。
 管理人は堂島翼の車だと言ってBⅯWを指差した。これについては署に戻ってから確認する必要がある。天羽はその車体を確認しながら、他のアングルのカメラ映像にも目を向けた。そこに丹生脩太のレンタカーは映っていなかった。
 堂島翼のアリバイは成立しているということだ。これで一人容疑者は減った。いや、そもそも堂島翼と樽本京介に明確な繋がりはない。彼を容疑者と呼ぶのは少し失礼か。
 天羽は管理人に礼を述べ、キャンプ場から歩いて駐車場に戻った。助手席に乗り込み、シートベルトを締めると、ふうと一つ息を吐いた。すでに午後七時を回り、ようやく月も光り輝いて来た。その月をフロントガラス越しに見上げた天羽だが、月はすぐ分厚い雲に覆われた。阿波野が車を発進させてすぐに大粒の雨が降って来たのだ。
「雨が降る前に聞き込みが終わってよかったですね」と阿波野は言った。たぶん、雨が降れば駐車場まで傘を取りに行かされるからだろう。
 天羽はそうだな、とだけ返事をして、事故には気をつけろと言った。登って来た山道を今度は下らなくてはならない。カーブの多い山道は事故の名所だ。キャンプ場に続くこの山道もその御多分に漏れず、といったところだ。しっかりと看板も立っている。
 阿波野は言われた通り、たらたらとへっぴり腰な運転になって車を走らせた。のろのろと山道を下っていると、対向車線の車のヘッドライトがその場で動かないのに天羽は気づいた。
 事故だろうか。
 部下に安全運転を心掛けるよう言った矢先、目に飛び込んだ光景にそんなことを考えた。対向車がこの山道でも特に事故が多い場所に停車していたこともある。だが対向車は阿波野の運転する車とすれ違うより早く動き始めた。どうやら事故ではないらしい。ワイパーがフロントガラスから水飛沫を上げ、暗い運転席と助手席の人影がちらりと見えた。男がハンドルを握っていて、助手席には女性が座っていた。
 痴話喧嘩でもしたのだろう。向かう方角からして、二人はこれからキャンプ場に向かうのだろう。あいにくの天気ということもあって、女性のほうが機嫌を損ねてしまったのかもしれない。再び車を走らせたということは、話は落ち着いたのだろう。
 よかったよかったと呑気に恋人達の車両を見送った天羽だが、その瞬間黒い雲の中を稲妻が駆け抜けた。数秒して大型トレーラー同士が衝突事故を起こしたような大きな雷鳴が轟いた。阿波野はびくっと肩を震わせ、ハンドルを握る手には不自然な力が入っていた。阿波野はまるで心霊を怖がるように夜の山道を窺っていた。同じように天羽も窓の外を眺めたが、雨粒に揺れる道沿いの木々は確かにおどろおどろしい。遠雷が絶えず響いて来る天候も相俟って、化け物に出くわしても不思議ではないような不気味な夜だった。

 自宅まで阿波野に送ってもらい、天羽は直帰した。ポストに溜まっている郵便物を取り出し玄関を開けた。すでに午後八時半を回っていた。雨を気にする阿波野の運転のせいで、帰りは行きよりも時間が掛かったのだ。山道を抜けてからは、少し速度も上がったのだが。
 妻の亮子は出迎えには来ない。捜査で帰りが遅いことなどしょっちゅうだから、特に心配されることもない。亮子も天羽と結婚するまでは警察官だったから、事情もよくわかっているのだ。
 リビングに入ったが、妻の姿はなかった。息子の亮真もいない。手を洗おうと洗面所を開けると、洗面所から続く風呂場のほうでシャワーの音が聞こえて来た。妻は息子を連れて風呂に入っているらしい。手を洗っているとシャワーが止まり、お帰りなさいとぞんざいな口調で迎えられ、またすぐにシャワーから水が出る音がする。かと思えば何かを思い出したようにまたシャワーが止められ、「ごはん、ラップで包んであるから温めて食べて」と亮子は言った。返事をすると、天羽はリビングに戻った。
 夕飯は生姜焼きだった。他に盛りつけられたサラダがテーブルにあり、白米と味噌汁の茶碗は逆さまに置かれている。いつものことだ。天羽は生姜焼きをレンジに入れて温めた。それを待つ間、食器棚とテレビの間に置かれた位牌の前に立ち、写真立てに入れられた弟の写真を手に取った。遺影ではない。写真だ。
 天羽が遺影と呼ばないのは、弟の死が未だ確認されていないからだった。
 今から十五年前、弟の真太が失踪した。真太が十九歳、天羽が二十二歳の時だ。高校までの真太は引っ込み思案でうまく周囲に溶け込めず、兄である天羽に心配を掛けさせていたが、大学に進んでからは心機一転少し明るくなり、活発な青年へと変化しつつあった。それは兄である天羽にとって喜ばしいことで、真太からはそれまで聞かなかったような友人との話などを聞くようになった。
 それから少ししてその友人らと旅行に出掛けたのだが、その最中真太は姿を消した。友人からの連絡を受けて天羽も捜索に出掛けた。彼らは富士山周辺を散策しに河口湖に旅行に出掛けていたのだ。旅行のメンバーは真太を入れて四人で、当時天羽もたまに使っていた軽自動車で河口湖に行っていた。真太は途中の休憩所で忘れ物をしたと言い残して一人引き返し、結局河口湖には戻ってこなかったらしい。その休憩所や周辺も探ったのだが、真太は見つからなかった。天羽が現場に向かった天羽家の自家用車で友人を東京に連れ戻し、その後警察に捜索願を届けたが、本格的な捜索が行われたかは疑わしい。
 それから少しして事態は急変した。大学四年で就職活動中だった天羽の元に真太の乗っていた車が見つかったと連絡があった。車が見つかったのは品川だった。しかしそこに真太はおらず、車には鍵が差さったまま乗り捨てられていた。
 その後も天羽は時間の許す限り弟の捜索を続けたが、両親の心が折れてしまった。天羽の両親は次男がどこかで生きていると信じたいが、それよりも、どこかで亡くなっている可能性のほうが極めて現実的であり、それならば、せめて供養だけでもしてやりたいと言ったのだ。そのため遺体は見つからないまま葬儀が催された。
 真太の葬儀がどれだけ空々しく、虚無感に覆われたものだったかを、天羽は今もはっきり覚えている。その時の真太の遺影を見て、天羽は絶対に弟の無念を晴らすと誓った。生きているのなら、必ず見つけ出してみせると誓った。だからその時すでに内定を得ていた一流企業を蹴り、警察学校に進んだのだ。
 まさか自分が警察官になるなんて思ってもみなかった。だがそんな天羽を突き動かすほど、弟の失踪事件は大きなものだったのだ。警察学校を卒業し、所轄に配属されてからというもの、天羽は目の前の事件を解決するのと同時に、弟の捜索を続けた。似たような失踪事件が発生していることを聞きつけてからは、それらの捜査資料にも目を通してきた。だから今回、丹生脩太の失踪の概要を耳にした時、胸騒ぎを感じたのだ。
 遂に来た――。弟の無念を晴らす時が遂にやって来たのだと天羽は思った。そう思うと武者震いするのと同時に急に怖気づいても来て、足が震えた。こう言っては若林署長をはじめ捜査本部の全員から激昂されるかもしれないが、天羽は正直樽本京介を殺害した犯人などどうでもよかった。警察官の風上にも置けないやつだと部下に見損なわれるかもしれないが、天羽にとっては丹生脩太の失踪事件のほうが重要だった。丹生脩太が樽本京介を殺害して失踪したのなら、都合がいい。
 自分は弟の事件の真相を突き止めるために警察官になったのだ。町の治安や正義のために働いて来たのは事実だが、そんなものよりも大事なものが天羽にはあった。弟の事件の真相を突き止められたのなら警察官を辞めてもいい。捜査方針に従わなかった責任を負い懲戒免職になっても構わない。それくらいの覚悟でこの十五年間警察官として生きて来たのだ。
「ようやくだ。ようやく真太の身に何が起こったのかを突き止める時が来たんだ。見てろ真太。俺が、兄ちゃんがすべて暴いてやるからな」
 写真立ての弟は、まるで写真が生きているように鮮やかな笑みを浮かべている。天羽はそれを見て、生身の弟が笑ったように思えて、口の端を曲げた。
「生姜焼き、もうできてるよ」
 レンジを指差しながら亮子が言った。いつの間にか風呂から上がって来ていた。短い茶髪をバスタオルでぐしゃぐしゃに拭いている。不満そうに引き締まった口元はいつものことだ。亮子は結婚後亮真を出産して専業主婦になったが、その頃から恋人だった頃とは雰囲気が変わって、仕事人間の夫に愛想を尽かしてしまった。だから今も、生姜焼きを温め終わったとは言ってもテーブルに出しておくようなことはしない。
「お父さんお帰りー」と三歳の息子は駆けて来て、天羽の太腿に抱きついた。そっけない妻とは違い、ホームドラマのようなきらきらと温かいお帰りだ。
 天羽は亮真を抱き上げた。まだまだ軽い。ただいま、と言うと亮真は母によく似た形の違う左右の目をくしゃっと細めるようにして笑った。
「雨、大丈夫だったの?」と妻はどうでもいいことのように訊く。
「何とか。車に乗ってから降り出してきたから。帰りも家の前まで送ってもらった」
「古藤君?」と妻は訊いた。
 亮子と古藤は天羽の三歳下で、警察学校時代の同期だった。天羽が自宅に誰かを招くなんてことは滅多にないが、亮子と古藤のよしみで、天羽が捜査一課から武蔵野署に横滑りしてからは、何度か古藤を自宅に招いたことがあった。
 そういえば、亮子がそっけなくなったのは天羽が左遷された時期とも重なる。仕事に集中してしまうあまり部下に高圧的な態度を取ってしまい、パワハラが認定されたのだ。武蔵野署に異動してからはそのようなことはないように心掛けているし、家庭でも決して亭主関白ではないのだが、夫がパワハラで左遷されたとなると亮子の虫の居所もよくないのだろう。近所ではパワハラ夫とでも噂されているかもしれない。
 もしかすると亮子は結婚を後悔しているかもしれない。仕事のできる先輩刑事と結婚したのはいいものの、その後はパワハラ、左遷、家庭を顧みない仕事人間――いいところなど何一つない。その点同期で優秀な古藤は近々捜査一課に引き上げられるのではという話も持ち上がっている。手足も長く見栄えもいい。
 左遷されてからの俺ではとても敵わないな、と天羽は心の中で苦笑した。
「いや、阿波野っていう今年配属された部下だ」
「古藤君は元気にしてる?」
「ああ、大活躍中だ」
 ふうん、と亮子はどうでもいいことのように鼻を鳴らし、亮真を手招きした。ドライヤーをするためだ。息子が自分の膝の上に座ると、亮子はドライヤーのスイッチを入れた。
 天羽はレンジから生姜焼きを取り出して、ラップをめくった。

        12

 体勢を崩すとひらりとワンピースを纏い、女はまた外出した。何度目の外出か、もう数えてはいない。七回か八回か、それとも十回以上外に出ているだろうか。その度に僕の前から美の象徴が取り上げられたようでやきもきしたが、今度は少し事情が違った。なぜならキャンバスの上の美の象徴が完成間近になっていたからだ。正確には、この後絵筆を落とすのだが、とりあえず、彼女が外出してもその体を拝むことができる。片膝を軽く曲げ、尻を少し突き出して、手に持つ髑髏に口づけするように横を向いている……そんな彼女の体勢が、脳天から足先まで描かれている。あとは怪物を美しき怪女たらしめているその肉体の傷跡を写生すればデッサンは終わる。
 女が小屋を出ると、僕はもう何時間前に始めたのかすら思い出せない地道な作業に取り掛かった。女が外出する度木片を細く鋭く研いでいる。ショルダーバッグの金具は一ヶ所だけ光沢が剥がれ落ち、鈍色に変わり始めていた。南京錠の口にはまだ潜り込めない。それはさっきのチャレンジで判明していた。だから南京錠には目もくれず、木片を研ぎ始めた。
 ところがあからさまに、手に伝わる力が落ちて来た。女の都合で小休憩を何度も挟んでいるものの、鉛筆を持ち続け、休憩中には木片を研ぎ続けていた。拘束されている時にひどく消耗してしまったのもここに来て利いている。何より、今の僕にはエネルギーが不足していた。相変わらず正確な時間はわからないし、体内時計もすっかり狂ってしまっているだろう。さっきから胃袋が断末魔のような音を立てている。胃袋が警鐘を鳴らすということは、夕方……午後六時か、七時か、八時頃だろうか。
 いや、山小屋に連れられて以来腹が満たされたことはない。最後に食事を与えられたのも、昼頃だとは思うのだが、正確なところはわからない。ただ、日が暮れてから女が農作業に出るとも思えないので、やはりあれは正午前後だったのではと推測している。それでも正確な時間はわからないが、今の僕にとって、時計の針が何時を差しているかなどどうでもいいことだった。ただ腹が減ったから、今何時だろうと無意識に考えてしまうのだ。
 せめてあの女がビーガンでなければ……。
 考えるだけ無駄とはわかっているが、嘆かずにはいられない。心許ない野菜じゃなく、心許ない肉を与えられていれば、木片一つ研磨する時間だって大幅に短縮できただろう。ここに監禁されてから、体重も五キロは落ちているだろう。四十キロ……百七十センチの男が四十キロ……。山道で初めて女を見た時の印象を思い出し、僕は自嘲した。
「どっちが幽霊だ……」
 さっきから眠気もひどい。体感では、目覚めた後女の相手をした時から丸一日ほどが経っている。そのせいもあって、気力も失せかけていた。
 さらに細く削った木片を手に鉄格子に近づいた。今度こそ南京錠の口に収まるのではないか、そんな期待を抱きながら木片の先を穴に突っ込んだ。先のほうは穴に入った。思わず口元が緩んだが、顎の辺りに妙な感触があり、僕は顎に手をやった。唾液が流れ出ていた。あまりの興奮と極度の空腹に唾液腺が決壊したのだ。力なく笑った。自分の体はぼろぼろだ。もはや健康的な場所を探すほうが難しいんじゃないかとさえ思う。
 気を取り直して、木片をさらに奥へと押し込んだ。錠を回転させられるように中ほどまで木片が入らないといけない。が、途中でつっかえた。先端はすっかり削ぎ落ちて、錠の口に入っていくことはできるが、その少し後ろの部分からは削ぎ方にむらがあり、もう少し研磨しなくてはならないようだった。思わず溜息が出た。期待した分、落胆も大きかった。いつでも出られるという安心感があれば、僕だって生きようと思えるかもしれないのに。
 またショルダーバッグの金具で木片を研ごうとしたその時だった。
 小屋の外で物音が聞こえた。僕は木片を研ぐ手を止め、血の臭いが染みついた杉の壁に体を添わせ、耳を押しつけた。耳をそばだてると、何かが激しく噴き出される音が聞こえた。エンジンだ、とすぐにわかった。そしてもう一つ、木の葉を叩くような音が絶えず聞こえて来た。轟音と共に……雨だ。小屋の外は雷雨なのだ。それを知るのと同時に、女が戻って来たことを察した。外出の時間としては、今までよりずっと短い。農作業なら、女が戻るまでもう少し時間があると思っていたが、どうやら事情が違うらしい。エンジン音がするということは、山小屋の前に車がやって来たのだろう。車……僕もここまでは車でやって来た。まさか僕を始末する前に別の獲物を誘い込んだというのだろうか。いや、僕がキャンプ場に現れなかったことを友人が通報していて、警察が監禁場所を突き止めたのかもしれない。ああ、僕は馬鹿だった。冷静さを欠いていた。人間が冷静さを失う時は、決まって希望を見た時なのかもしれない。警察が救出に来たのなら、エンジン音以外に音が聞こえるはずだった。サイレンだ。だがその音は、どれだけ耳を澄ましても聞こえない。耳を澄ますと、小屋の屋根に落ちる雨粒の音が少しずつ近づいて来るだけだ。それで僕は、救出にやって来た車でないことを悟った。
「ありがとうございます。お礼に軽食を作るので、よかったら――」
 おまけにそんな話し声が聞こえて来た。女の声。僕を誘い込んだのと同じような文句。やはり女は狩りに出ていたのだ!
「来るな! その誘いに乗るな!」
 壁を突き破らんばかりの声を張り上げ、僕は訴えた。だがその声は雨音に搔き消されてしまったのか、外の状況にこれといって変わりはないようだった。山には動物もいるかもしれない。もし僕の雄叫びが獲物の耳に届いても、猿か鹿の鳴き声とでも言って誤魔化されただろう。
 相手は男だった。はじめこそ女の申し出を断ったが、女の再三の申し出に、それほど抵抗を見せない間に折れた。「じゃあ、少しだけいただこうかな」と男の声は言った。曲りなりにも女は美しい。その本性を隠して合コンにでも参加すれば一番人気は間違いない。陶器のように白い肌は男の目を一瞬で釘付けにする。薄化粧の可憐な顔が、その美貌を一層引き立てている。だが揚々と彼女を引き連れ同じ部屋に入り、人間というヴェールを脱いだ瞬間、目の前には美しい怪物が姿を現す――。
 まもなくエンジン音が止まった。僕はもう一度、警告の雄叫びを放ったが、虚しくもその声は届かない。もしかすると男の耳に届いたかもしれないが、やはり女にうまく誤魔化されたのだろう。それから十数秒ほどで山小屋の玄関が開閉する音が聞こえた。女はこれから調理を行う。少し時間がある、と僕は判断した。すかさず金具に木片を当て、研磨した。
 しかし僕が考えているほど時間はなかった。遠い山裾を走る電車の車輪がレールの繋ぎ目を踏んで小刻みに音がするように、小屋の中の離れたところから包丁が振り下ろされる音が聞こえていたのだが、それもすぐに止まった。考えてみれば、生野菜にほんの僅かな手を加えるだけなのだ。そして量は、一日二十四食なのかと思うほど少ない。いつ女がこの部屋に戻って来てもおかしくない。僕はすぐに研磨をやめた。
 耳を澄ましていると、数分してゴン、という物音がした。男がやられたのだ。料理の中に仕込まれた睡眠薬で。
 まもなく通用口が開いた。女がドアを蹴飛ばしたので、ドアは勢いよく壁に打ちつけられた。女は白いワンピースを着たまま前屈みになって、後ろ向きにゆっくりと部屋に入って来る。その手には、彼女の手の倍ほどある大きな足が持たれていた。正確には、彼女は足首を持ち、仕留めた獲物を部屋に引きずり入れていた。
 通路に男の全貌が露になった。僕より一回りほど大きい。背も高く、学生時代はラグビーか柔道でもやっていたのか、がっちりとした筋肉が盛り上がっていて、体重も相当ありそうだった。女はおそらく、僕を収監した時の何倍もの労力を消費して、新たな獲物を運び込んでいた。
 女は僕の左隣の鉄格子を開けた。ひとまずそこに男を投げ入れると、一度部屋を出てすぐにまた戻り、持って来た木材を檻の中に運び込んだ。慣れた手つきで磔台を組み立てていく彼女を見て、僕は一つ安心した。よかった。磔台は使い回しではなかったのか。見知らぬ男が全裸で括りつけられ、その血に染まった処刑台の上に寝かされていたのではと思うことがあったのだ。その度、全身に鳥肌が立った。ただ、毎回磔台を処分しているという確証もなかった。女には殺人が罪であるという認識はたぶんない。だから人を殺して、もしここに警察が来ても、逮捕されるなどと考えることはないのだろう。磔台を処分しなければそこに付着した血液が殺人の揺るがぬ証拠となるわけだが、怪女には関係のない話だ。ならば証拠となる磔台を処分していない可能性もあるわけで……臍の辺りから全身へと、放射状に鳥肌が駆け巡った。
 ものの数分で磔台は完成された。獲物の調理工程はばっちりとレシピ化されているようで、女は迷うことなく今度は男の衣服を剝いでいった。服の上からもわかったように、男は筋骨隆々、がっちりとした体格だった。間近で見て気づいたのだが、やはりスポーツマンらしく肩幅が広い。僕が彼に喧嘩を挑んだとしたら、その肩幅に全身を締めつけられ、大蛇に締め殺されるように肋骨の骨がばらばらに粉砕されてしまうだろう。そんな男が、幽霊のように白く華奢な女性に為す術もなく解体されている。服を脱がすと、今度は少し時間が掛かったが、女は十字架の上に男を乗せ、手足をきつく縛った。
 一旦仕事を終えると、女は何事もなかったかのように僕の独房の前に躍り出て、ワンピースをずり下ろし、髑髏を手にポーズを取った。描け、の合図だ。僕はちらりと無力な男を横目に見て、目の前の化け物に視線を戻した。やはり狂っている。そもそもこんなことをずっと続けていて正常な人間であるはずはないのだが、何度だって思える。この女は狂っている。
 僕は鉛筆を手に取ったが、すぐには描き出さなかった。
「この人を殺すのか?」
 女はむっとしたようにこちらをねめつけた。だがむっとしたと思えるのは彼女の眉間がぴくりと反応したからで、その目には感情がない。肖像画を描いている時も、さっきせっせと男の処刑の準備に取り掛かっていた時も、鉛の自分の出来栄えをたまに確認する時も、女の目はただ黒々とはめ込まれているだけで、生気も感情もまるでなかった。人形を描いているみたいだ……。それはデッサンを始めた時から抱いている違和感だった。だが手を動かしている時、僕は女の目を見ているわけじゃない。生気も感情もない女が美の象徴でいられるのは、その肉体に芸術を宿しているからだった。むしろ深淵の見えないその瞳は、その芸術を昇華させるべく作用しているようだった。絵画より絵画的な女。その目に生気が宿るのは人を殺す時だけ……。
「ここに入った以上、それ以外の道はないわ」
 おまえも例外ではない、と言われているようだった。さっさと仕事を済ませて、あたしの血肉となれ、と。女はまるで会社の社長で、捕らわれた僕達は従業員だ。社長は従業員の首を切る。女は正真正銘、首を切る。そして僕らは髑髏になる。生前たった一度だけ美女の皮を被った化け物と体を重ね、死後再び口づけを交わす……。
「早く描いて。まあ、四、五時間は起きないでしょうけど」
「僕の目の前で、僕の時と同じようなことするのか」
 女は憮然として答えなかったが、少しして妙案でも思いついたように破顔した。目元に感情はないが、口元にはあるらしい。女は思いの外、よく笑う。だがその笑みは、僕達にとっては歓迎できるものではないと身を以って知っている。そのせいで、体がぞっと震えた。
「流血を許しているのはこの部屋だけだもの。ここで、あなたの目の前で、同じことをするわ。初めて……初めてよ! 誰かの前でショーをやるなんて。こんなことは二度とないわ。あなた幸せ者。地球上でただ一人、あたしのショーを見られるのよ。画家をやっててよかったわね。生き長らえていてよかったわね。ショーを絵に描く? それは妙案だわ! 絵に描きなさい。きっと描きなさい。あなたの画家人生を飛躍させてくれるかもしれない。それって素晴らしいことじゃない? ああでも、あなただってここを出ることはできないから、あなたの名前と共に名画は何百年と残るけど、その栄光をあなたは見られないわね。それでも構わないと思わない? 芸術家ってそういうものでしょ? ねえ、不老不死と自分の作品が永遠に残るって二つの選択肢があったらどっちを選ぶ?」
 相変わらず感情のない目で、しかし夢見る少女のように胸の前で手を組んだり顔の前で手を叩いたりしながら、女はまくし立てた。だがそれも今止まり、僕に口を開く権利が与えられたのだと認識した。答えは、言うまでもない。しかし女が今か今かと返答を待っているので、僕は答えた。
「作品を残したい。芸術家ならそう思うさ」
 女はにやりと笑った。

        13

 会議室を見渡すと、欠伸をしている捜査員がちらほらと目につく。徹夜で捜査を行っていた者も多いのかもしれない。まさか樽本京介の知人に朝方まで聴取を行っていたとは思わないが、今朝まで仕事をしていたとすれば、防犯カメラ映像の確認だろう。ブルーライトを直接浴びるから、眼精疲労は酷いのだろう。天羽の背後からも、時折気の抜けた欠伸が聞こえてくる。
 これから捜査会議だというのに欠伸をしている不届き者はどいつかと後ろを睨みたかったが、やめておいた。天羽も欠伸くらいはする。ただ、せめて声は抑えろと思った。
 一課の係長が入室すると、挨拶の後、まず丹生脩太の行方について捜査員に訊ねた。さっきまで眠そうにしていた捜査員が立ち上がり、きちっと背筋を伸ばして話し始めた。やはり今朝方まで映像と睨めっこしていたのだろう。仮眠が取れていたとしても、せいぜい一、二時間といったところか。
「はい。昨日から吉祥寺の住宅街、キャンプ場へと向かう道中のカメラを確認しておりますが、今のところ丹生脩太のレンタカーは確認できていません」
 当然と言えば当然だ。丹生脩太がキャンプ場に行くことはなかったのだから。だがキャンプ場に向かう途中で行方をくらましたのか、そもそもキャンプ場に行くつもりはなかったのか、その点ははっきりしない。
「丹生は車を借りてからシェアハウスには一度も戻っていないのか」係長が訊いた。
「はい。周辺の防犯カメラ映像を確認しましたが、自宅周辺にもレンタカーは映っていませんでした」
 ならば丹生脩太はレンタカーを受け取った後、その足でキャンプ場へと向かったのかもしれない。だとすれば、丹生脩太にはアリバイがあるということになる。彼がレンタカーを引き渡されたのは午後二時頃だった。むろん、一度シェアハウス近辺に戻り、車を停めてシェアハウスに忍び込んだという可能性も考えられなくはないが。
 係長は天羽の考えと同様に、レンタカーを借りてそのままキャンプ場に向かったのかもしれないと言った。そうであれば道順も多少変わってくる。捜査員によると、まだそこまで手が回っていないとのことだ。たった半日で管轄内の防犯カメラ映像をすべてチェックできるとは天羽も思わない。
 続いて係長は最近の車乗り捨て失踪事件の詳細について訊ねた。これについても昨日、過去の記録を揃えるよう指示が出されていた。
「すべての記録を揃えたわけではありませんが」と前置きをした上で一課の捜査員は報告した。「ここ数年で家出人登録がなされている都民について、丹生脩太の件と同様に車が乗り捨てられているかを精査した上で、所轄から捜査資料を借りて来ました。取り急ぎここ三年の間に確認されている車乗り捨て後の失踪については資料が揃っています」
「この件は都内だけで起きている事件ではなかったんじゃないのか」
「県警とは今連携を取ろうとしているところです。明日には資料も揃えられる見込みです」
 係長は満足そうに頷いた。
「うむ、それで?」
 はい、と返事をした後、捜査員は過去三年のうちに発生した都民の車乗り捨て失踪事件の詳細について報告書を読み上げた。その内容によると確かに丹生脩太と同じくその場からは姿を消し、しかし車に鍵は差さったままであったという。三年間での発生件数は都民のみの被害でも七件、他県の被害を合わせれば、三年の間に十件ほどにはなるのではないかとのことだった。その七件に丹生脩太は数えられていない。つまり彼の失踪を加えれば八件ということになる。
 今年に入ってからのデータで言えば、二件とのことだった。丹生脩太を入れて三件。およそ半年の間に三件……単純計算をすれば一年で五、六件というペースだ。失踪時期を鑑みても規則性はないので、誘拐犯あるいは殺人犯の気まぐれでこの失踪事件が発生しているのかもしれない。実際、殆ど失踪が確認されていない時期もあれば事件が集中している時期もある。
 こうした失踪事件の発覚の殆どは家族からの捜索願、もしくは乗り捨てられた車を不審に思い通報が入った時だ。
 改めて一連の失踪事件の詳細を聞いていると、やはり真太が姿を消した時と状況が酷似している。いや、まったく同じと言っていい。弟の車も都内に乗り捨てられ、鍵は差さったままだった。事件から十五年が経った今も、行方はわかっていない……。
 丹生脩太が樽本京介を殺害したかどうかは不明だが、一つ天羽が確信しているのは、丹生脩太は捜査の網から逃れるために行方をくらましているわけではないということだ。丹生脩太は、キャンプ場に向かっていたはずだ。
 失踪事件の話が終わると、次に樽本京介の交友関係へと話は移った。こちらも捜査を行う上では重要な話だが、天羽は無意識のうちに少し肩の力を抜いてしまった。だがそれも仕方がないと天羽は思った。弟の事件を解決するために警察官になった。十五年が経ち、ようやくそのチャンスが訪れたのだ。肩に力も入る。今まで捜査線上に知人が浮上することは何度かあったが、親族に関わる事件は初めてだ。
 やはり樽本京介の交際範囲は狭い。だがトラブルは少なくなかったようだ。
「昨日バンド布武のメンバーに話を聞きました。布武の構成はヴォーカルの樽本、ドラムの樋口、ベースの猪田、エレキギターの斉木といった具合で、作詞は樽本が担当していました。作曲も主に樽本が行っていましたが、曲によってはそれぞれが意見を持ち寄って楽曲を作っていたそうです。布武の曲は風刺的なものが多く、そのため熱狂的なファンもいればかなり冷ややかな視線を送っていた者も多いので、そうした音楽の方面から恨みを買っていたケースは少なくないと思われます」
 すでにメジャーデビューを果たし、一定の認知度があれば風刺的な曲も現代社会を代弁する、一部の人間にとって価値のある芸術になるのだろう。だが彼らはせいぜいライブハウスに立つ程度の言ってみれば地下の住人だ。影響力のない今の彼らでは風刺的な楽曲もただの理想論と取られる可能性が大きい。無名のバンドが理想論を吐き捨てる場として公共の広場や敷地内が使われたのでは、遺憾に思う者がいても不思議ではない。
 事実、堂島翼は布武について迷惑だったと語った。
「ただ、昨日はそうした方面ではなく、バンド内の問題について当たりました」同じ捜査員が言う。
「バンド内の問題?」
 事件発生直後、初動捜査で第一発見者の浅倉瑠璃に話を聞いた時、彼女も樽本京介について、バンドの仲間とぶつかることがあったらしいと話していた。グループで活動する以上、お互いの意見がぶつかることはあって然るべきだろう。曲がりなりにも自分達の理想を追求していたのだ。
「はい。これからのバンドの行く末、つまり方向性だったり、音楽性の違い、あとは温度差といったところでしょうか。特にヴォーカルの樽本、ベースの猪田はメジャーデビューを目指したいということでしたが、エレキギターの斉木は趣味や娯楽程度に音楽ができればいいと考えていたようで……」
 それは、樽本京介からすれば見過ごせない考えだったのだろう。
「それはまた、斉木という男はずいぶんのんびりとした男だな。金持ちのボンボンか何かか?」
「いえ、そういうわけではないのですが、バンドの中では、確かに金はあるほうでした」
「と言うと?」
「バンドの中で定職に就いているのは斉木だけなんです。斉木は中小企業に勤めるサラリーマンです。他の三人は皆アルバイトで生計を立てているフリーターでした」
「それはまた、斉木はややこしい存在だな」
 だが金のない布武を支えていたのも斉木だったと捜査員は言う。レコーディングスタジオでバンドの曲を合わせた帰りなど、よく四人でファミレスに立ち寄ったらしいが、毎回ではないものの、斉木が全員分の食事を奢ることが多かったらしい。その点、樽本京介も感謝はしていたはずだと猪田と樋口は口を揃えたそうだ。
「それにもう一人、ドラムの樋口も、近頃は定職に就こうかと考えていたらしく、それが樽本に知られて口論になっていたそうです」
 人生に安定を求めることは何も悪いことじゃない。音楽だけが人生のすべてではない。樋口はそう思ったのだろう。金がなくては生きていけないし、結婚もできない。子供を育てることなど不可能に近い。結婚や子供など、そういった人生設計が樋口にあったのなら、そろそろ潮時かと考えてもおかしくはない。いつまでも売れないバンドでいるわけにもいかない。
 そんな樋口に、樽本京介は覚悟が足りないと言い放ったそうだ。ようやくライブハウスも埋まるようになってきて、音楽関係者とも繋がりができ始めた今だからこそ、もっと音楽に没頭しなくてはならない。それが樽本京介の主張だった。だがいくら活動を続けていても、知り合ったプロデューサーからはメジャーデビューの話題など出てこない。鎌を掛けてみても微笑を浮かべるだけで聞き流されてしまう。そんな現状に、自分達の限界を感じ始めていたと樋口は言った。
 温度差は、相当なものだった。その矢先に樽本京介が殺害され、自分達が疑われるのも無理はないと樋口と斉木は口にしたらしい。
「音楽観についても、やはり樽本は弱者の代弁者であり続けるべきだと風刺的な歌詞にこだわったようですが、これに全面的に賛成していたのは猪田のみで、斉木は漠然といい曲を作りたい、樋口はメジャーデビューを目指すならもっとわかりやすくて馴染みやすいバラードを作るべきだと反論していたそうです。実際樋口と斉木によってバラードが何曲か作られましたが、樽本は歌詞を見ることなく楽譜を破り捨てたそうです」
 確執は相当深まっていたということか。同時に、樽本京介は焦ってもいたという。猪田の証言だ。金がない。それはいつも変わらないバンドの根底にある問題だった。二人の気持ちもわかる。だがなぜ何が何でもメジャーデビューして一花咲かせようという方向を向けないのかが理解できないと樽本京介は漏らしていたそうだ。猪田は、人一倍仲間意識の強い男でもあったと樽本京介について語ったそうだ。
 樽本京介が弱音を吐ける関係性にあった猪田だが、そんな彼にも不満はあったらしい。特に路上ライブで浴びせられる批判の声だ。ライブハウスに客が入るようになった今、これ以上路上ライブを続ける意味はあるのかと考えていたらしい。公共の広場でライブを行うと、決まって正式に苦情が届けられたらしい。それを気にせず、樽本京介はライブを続けていた……。
 係長はそこまで聞くと、布武のライブ場所として使われた敷地の関係者にも話を聞くよう指示を出した。その中には堂島総合病院も含まれていたので、天羽は手を挙げて立ち上がり、堂島翼のアリバイについて話した。ただし堂島妙子をはじめ他の病院関係者については詳しい話を聞けていないので、これから当たる必要があるだろう。
 会議は引き続き、樽本京介の交友関係についての話題になっていた。堂島総合病院への聞き込みについて係長が指示を出すと、今度は天羽の隣で古藤が立ち上がった。古藤は昨日、浅倉瑠璃に改めて話を聞きに行っていたのだ。
 浅倉瑠璃の証言は、初動捜査に当たった時とずれはなかったという。ただ彼女本人に関して言えば、アリバイがないのも事実。事件直後で気が動転していたこともあり、天羽は彼女と樽本京介の関係性についてあまり深くは訊ねなかった。その点を、古藤は念のために確認しに行ったという。つまり殺害動機があるか、ということだ。
「聞き込みを行う前の可能性として、動機になり得るものとしては、丹生脩太という同居人ができてからというもの、恋人である自分を家に上げてくれなくなったことを念頭に置いていました。彼女は丹生と面識がないようでしたので、本当にただの同居人かと疑うこともあったのではないかと。その点について話を聞くと、確かに疑うことはあったけれど、浮気なら合鍵を取り上げるようなあからさまなことはしないと思っていたらしく、そう思うようになってからは浮気については考えなかったそうです。時々家に上がって料理を振舞っていた伊坂翔平に同居人について訊ねたことがあるらしく、伊坂からも男性と同居していると聞かされていたそうなので、安心していたようです。これについては伊坂自身も認めています」
 銀座のイタリアンを天羽は思い出した。かなり忙しそうだったから、伊坂翔平が厨房に立っていたのだとすれば、話を聞くまで相当待たされただろう。浅倉瑠璃の供述の裏を取るだけだから、もしかすると一言くらいなら厨房を抜けてくれたかもしれないが。
「他にも恋人である樽本について、何か不満に思っていたことや直してほしいと思っていたことについて訊きました。浅倉瑠璃は歳上ということもあってか、どこか保護者的な眼差しで樽本を見ている節があり、彼の音楽活動には理解を示していました。メジャーデビューを目指して頑張る恋人を尊敬しているとも言っていました。ただ現実的な問題という点で言うと、さっき話にあったバンドメンバーのように、将来のことを考えると就職してほしいと思う部分はあったようです」
「しかし現状に不満はなかった、ということだな」係長が訊いた。
 古藤は返事と共に大きく頷いた。つまり、殺人に結びつくような動機はなかった、ということだ。天羽がそう考えた時、もう一つ報告があります、と古藤は言った。
「昨日浅倉瑠璃から話を聞いたのは彼女の勤務が終わった後、午後六時半頃でした。私は病院前で彼女を捕まえ、カフェに入って話を聞いたのですが、七時頃に聞き込みが終わってカフェを出ると、伊坂翔平が彼女を待っていたんです」
 どよめきが会議室に起こった。天羽も、意表を突かれて眉間に力が入った。同時に、浅倉瑠璃の供述について伊坂翔平の証言がすんなり取れたわけを知った。
「待っていたとは、どういうことだ?」
「一言で言ってしまえば、デートでしょうか」
「デート?」天羽は思わず呟いた。浮気をしていたのは浅倉瑠璃のほうだったということだろうか。そうなると、話は変わってくる。その浮気相手が樽本京介の親友である伊坂翔平なら尚更だ。
「私にはそう感じたということです。浅倉瑠璃の手前、本音を言うのは憚られたのかもしれません。伊坂は昨日のことについて、事件のことで傷ついている彼女を慰めてあげたいと話しました。ですが伊坂は彼女に惚れています。昨夜私は二人を見張り続けました。二人はそのまま居酒屋に入り、二時間ほど食事をした後、バーでさらに一時間半を過ごしました。その後タクシーで代々木の彼女のアパートまで送り届けましたが、伊坂はしばらく立ち去ろうとせず、浅倉瑠璃に押し返される形で帰路に就きました」
 その後伊坂翔平から話は聞いていないようだから、惚れていると断言するのは早計な気がするが、恋人を殺された浅倉瑠璃に対して下心を持って近づいたことは確かだろう。惚れているとまで言えるかはわからないが、少なくとも好意はあったはずだ。
 伊坂翔平は秋にはフィレンツェへと旅立つ。もし古藤の言うように浅倉瑠璃に惚れていたのだとしたら、それまでに彼女を自分の恋人にしたいと考えていたのかもしれない。だが彼女は親友の恋人で、二人が別れる気配はない――。
 フィレンツェに逃れられると思っていたのなら、腹の一物が剥き出しになってもおかしくはない。
 古藤が発言した浅倉瑠璃と伊坂翔平の話で会議は終了した。捜査方針は特に変わることはなく、昨日の捜査を継続することになった。
 天羽も引き続き、丹生脩太の失踪を調べることにした。

        14

 丹生皓太から聞いた兄の友人のもう一人、君島辰斗は久我山の整体院で整体師として働いていた。天羽が到着したのは午前十一時を過ぎた頃で、ベッドで施術を受けている客が一名、待合で施術を待つ老婦人が二名いるばかりだ。内装は軽めのグリーンが基調となっていて、どこか安心感を覚える。
 受付で警察手帳を提示して、君島辰斗に話が聞きたいと言ったのだが、間が悪く、現在施術中の患者を診ているらしい。一応、看護師風の紺のカーディガンを羽織った事務員はベッドのほうに確認を取ってくれたが、現在診ている患者が終わり次第話に応じると君島辰斗は言ったそうだ。
 申し訳ありませんが、と事務員は本当に申し訳なさそうな顔で言った。施術に要する時間を目安で訊くと、先程開始したばかりなので三十分ほど掛かるという。こればかりは仕方がない。仕事をほっぽり出して捜査に協力しろ、とまでは言えない。
 このまま居座るわけにもいかないので、天羽と阿波野は近くのカフェで時間を潰すことにした。事務員にはその旨を伝えて退出した。
 意外にも早く君島辰斗は現れた。時計を確認したが、まだあれから十五分ほどしか経っていない。それについて訊ねると、君島辰斗は口元を和らげた。
「マッサージが済んだので、その後のことは他の整体師に任せて来ました。あとは電気を流すだけだったので」
 刑事に呼び出されたことに不快感を示していないことにひとまず安心した。受け答えも丁寧である。
 君島辰斗は背が高かった。百八十センチ近くあるのではないだろうか。毎日人のかちかちの体をほぐすという職業のせいなのか、腕もスポーツマンのように太い。そんな体格でありながら圧を感じないのは垂れた目元の穏やかさのせいだろうか。阿波野は君島辰斗のような体格の男を前にするとやや怯む傾向があるのだが、今の若手刑事にそのような様子はまったくない。掻き上げられた前髪も爽やかさがあって、一目見て好青年だと天羽は思った。丹生脩太とはえらい違いだ。
 その丹生脩太が失踪していることを知っているかと天羽は訊ねた。君島辰斗は柔らかな口元をきゅっと引き締め、首を縦に振った。
「翼から電話がありました。脩太が姿を消してしまって、そのことで警察が来たと。脩太の同居人が殺された事件も、脩太が指名手配されていることも知っています」
「ところでその同居についてですが、君島さんは丹生さんから何か聞かされていましたか」
「はっきりとは聞いていませんでした」
「はっきり、と言うと?」
「僕は脩太のマッサージを担当していました。言わば専任整体師です。脩太も座りっぱなしで絵を描くことが多いものですから肩や腰が張ることもしょっちゅうで、それで僕がいつも脩太の体を見ていたんです。ある日脩太をマッサージしている時に、マンションを引き払って今はどこに住んでいるのかと聞いたことがあります。僕もあいつの体のことは心配していますから」
「末期癌のことですね」どうやら丹生脩太の周囲の人間で病気のことを知らなかったのは唯一の肉親である丹生皓太だけのようだ。
 君島辰斗は頷いた。
「翼から居場所がわかったら教えてほしいとも言われていましたし。それで脩太は、場所ははっきり教えてくれませんでしたけど、人と一緒に住んでいるのだと話しました。音楽家だということは聞いていました」
 つまり、名前までは聞いていなかった。樽本京介という名前に聞き覚えはない、ということらしい。当然面識はない。整体院から少し行けば高井戸公園があり、そこでも布武はライブを行っていたようだが、君島辰斗の仕事が阻害されるようなこともなく、そもそも整体師は布武というバンドのことを知らなかった。
 嘘を言っているようには見えないし、たとえ布武を知っていたとしても現時点で君島辰斗が樽本京介殺害の容疑者となることはないだろう。だが一応、アリバイを訊ねた。事件のあった日、君島辰斗は朝から整体院に勤務しており、午後も同様だったという。昼休憩の午後一時半から二時半を除いて、ずっと整体院にいたそうだ。それは同僚の証言も得られるだろうし、院の出入り口のカメラ映像でも確認できるはずだと彼は言った。
 ここまで聞いて、天羽は話題を変えた。樽本京介殺害事件の犯人を絞ることが天羽達捜査員の使命だが、今日はどちらかと言えばこれからの話が本題だ。
「丹生さんに恨みを持つ者について心当たりはございませんか」
 上司の腹づもりなど露知らず、阿波野はさっきまでと同じ顔で天羽の隣に座っている。丹生脩太の行方、身辺を調べることも任務の一つだ。部下に疑念が生まれるはずはなかった。
 君島辰斗はここで初めて表情を曇らせた。低く唸った後、窺うような目でこちらを見た。
「正直言うと、好き嫌いはわかれるでしょうね」
「と、言うと?」
「脩太は群れることを好まないやつでした。だから友達と呼べるのも、せいぜい僕と翼くらいで。かといって人と接するのが苦手なわけじゃないんです。クラスでは普通にコミュニケーションを取っているし、根暗なわけじゃない。ただどこか一歩引いたところから周囲を見ている節がありました。それが脩太の育った環境のせいなのか、芸術家としての目だったのかはわかりません。だから時々、ド正論をかます時があったんです。あとは、これも芸術家らしい一面といいますか、こだわると、絶対に折れないんです。みんなが脩太のことを画家だと知っていれば、まあ許容の範囲だったかもしれませんが、脩太が画家として生きていくことを知ったのは僕と翼でさえ卒業の時でしたから、一部ではそういう脩太を内心よく思っていない生徒はいたでしょうね」
 天羽は意外なことを聞いたような気がした。
「丹生さんが画家デビューしたのは中学二年の頃ですよね? それまで彼は、君島さんと堂島さんにも画家として活動していることを伝えていなかったんですか」
「はい。たぶん、デビューした時から画家だと知っていたのは翼のお母さんだけです。これも後から聞いた話ですけど、脩太と皓太の面倒を卒業まではおばさんが見ようとしていて、でも脩太が画家デビューをしたから援助はいらなくなった。その援助を断る時に、自分は画家としてやっていくので心配はいらないと伝えたそうです」
 その堂島妙子も美術には関心がなく、丹生脩太のペンネームを知らない。せめて感謝を示すためにも一枚くらい絵画を贈ってくれていれば、丹生脩太のペンネームを知ることができたのだが……。
「それにさっきの話で言うと、脩太の絵もまさに好き嫌いはわかれます」
 天羽は丹生脩太名義の風景画を脳内に思い浮かべた。あの絵のどこに好き嫌いがわかれるというのだろう。丹生脩太の描く風景画は美しく、ケチをつけるとしたらその才能に嫉妬する専門家くらいじゃないのかと天羽は考えた。
「こういう僕も、脩太の絵はあまり好きじゃありません」
「それはなぜ?」
「刑事さん、脩太の絵を見たことはありますか?」
 天羽は首を縦に振った。そして首を捻った。彼の絵を見たのはあくまでネット上のサンプル作品だった。実物を見たことはない。
「ならわかるでしょう? あの気味の悪い絵を。生々しくて、おどろおどろしい肖像画。脩太のペンネームにちなんで専門家は狂気に憑りつかれた鬼才などと言いますが、僕にはどうも……。見ると吐き気がするくらいですよ」
 絵画を見て吐き気がするとは、それはまさに丹生脩太の才能を示す一つの指標になっているのではないかと素人の頭で思ってみたが、重要なのはそこではない。
 肖像画? 丹生脩太名義の作品はすべて風景画だったではないか。ペンネームにちなんで……天羽は何かに突き上げられたように声を張り上げ、訊いた。
「ひょっとして、丹生脩太のペンネームをご存知なんですか?」
 周囲の客がこちらに冷ややかな目を向けたのに気がついて、天羽は一つ咳払いした。いつのまにか身を乗り出していた。コーヒーを飲んで、頭を冷やした。
「知ってますよ」と君島辰斗はさらりと言ってのけた。「でもこれはトップシークレットです。脩太の安否が掛かっているのでお教えしますが、他言無用でお願いします。捜査のためであっても、安易に他人に漏らさないでください」
 念には念をといった様子で再三釘を刺してから、君島辰斗は「ビッザロ」という名を口にした。それが丹生脩太のデビュー当時からのペンネームらしい。フランス語で「狂気」という意味の単語らしい。
 それで狂気に憑りつかれた、か――。
 天羽は素早く手帳にその名を書き込んだ。
「ところで君島さんはなぜ丹生さんのペンネームをご存知なんです? 我々はこれまで、弟皓太さん、堂島妙子さん、堂島翼さんと身近な方に話を聞いて回りましたが、弟の皓太さんですら知らなかったんです。なぜあなただけが知っているんでしょう」
 君島辰斗は得意げな笑みを浮かべた。一見好青年の彼だが、やはり自分しか知らない秘密を話す時は相手を見くびってしまうようだ。
「皓太には言えないでしょうね。自分がビッザロだなんて。あんな絵を描いてるんだから」
「あんな絵、とは何でしょうか。丹生脩太名義の絵ならネット上で少しだけ見ましたが、どれも美しい風景画でしたが」
「そうなんです。中学の頃から、美術の授業で描かされる絵は抜群にうまかった。それこそ美しい街並みや、写真をモデルにした滝の絵なんかは見ていて心打たれました。あの絵は僕も大好きでした。でも脩太は――ビッザロはそんな絵は描かないんです。ビッザロの絵は肖像画です。裸体に傷を負った女性が血を流している、そんな光景を切り取った血の肖像を描くんです。それもただの絵じゃない。モデルの体に実際に傷をつけて、流れ出たその血液を絵の具としてキャンバスに塗り込むんです。常人の絵じゃありませんよ、あれは。だから僕は、脩太の風景画は大好きですけどビッザロの肖像画は大嫌いなんです」
 血液を絵の具に……。確かにそれは、あまり聞こえの良いものではなかった。それも絵の具として鮮血を使うということならば、多少の出血程度では足りないはずだ。流血――少なくとも、だらだらと血が流れ出る程度には傷をつけなくてはならない。
 たとえモデルが了承していたとしても、それは人道を外れた行為なのではないか。芸術至上主義などでは片付けられない問題だ。
「そんな、場合によっては傷害罪になることを、丹生脩太はあなたに打ち明けたのですか」
「当然、そんなことをあいつは一言も口にしませんでしたよ。僕はある日見たんです。公園で肖像画を描く脩太を」
 ごくり、と天羽は唾を飲み込んだ。まさか、公園で女性を全裸にしてその体に傷をつけていたというのだろうか。
「その日は肩から上だけを描いてほしいという注文だったようです。そのため女性は裸じゃありませんでしたが、それも立派な肖像画です。僕は邪魔をしてはいけないと思い遠くから見守っていたんですが、少しして脩太は小刀のようなものを取り出して、それで女性の肩に切り込みを入れたんです。女性は血を流しました。その血を使って、最後の仕上げと言うように、その傷の絵を描いていったんです。そうして完成した肖像画を見た時、ある既視感を抱いたんです。それがビッザロの絵でした。ビッザロの登場時期は、脩太がデビューした時期とちょうど重なります。ビッザロの個展に足を運んだこともありますが、見れば見るほど脩太の肖像画だったんです。僕が公園で見た肩から上だけの肖像画もそこには置かれていました。それである日脩太に直接訊いたことがあります。脩太はただ一言、僕は絶対にそれを認めることはない、ただし、絶対に人に言うな、と言ったんです。僕はそれで確信しました。生きるためとはいえ、女性の裸体に傷をつけ、その血で絵を描き、評価されて弟を大学まで卒業させた。そんなこと、脩太が皓太に話せるわけないんですよ」
 丹生脩太がなぜ覆面画家を選んだのかが少しわかる気がした。顔を出せば、うまくいけばテレビ出演やコマーシャルへの出演など、美術以外の場所でも収入を得ることはできたかもしれない。だが自分のスタイルで顔を出すのは危険過ぎる。それに何より、弟思いの兄は自分の本当の仕事を弟に知られることを恐れたのだ。丹生脩太名義の風景画は、弟に疑念を抱かせないためのカモフラージュだろう。値段を偽れば、二年に一度しか作品発表をしていなくても、生活ができていると思わせることはできただろう。当時丹生皓太はまだ小学生だったのだ。
「その、血の肖像を描き始めたのはいつからなんでしょう」
「デビュー当時からですよ。個展にはデビュー作となった『血に溺れた女』も展示してありましたが、僕が見た中で、その絵が一番血生臭かったですね。圧倒的でした。あの絵を見て顔をしかめずにいられる人はいませんよ。他の絵も、相当ですけどね。ビッザロの個展は血の臭いが充満しているんです。まるで殺人現場のように」
 本物の血液を採取しているのだから、それは当然と言えば当然のことだろう。だがその生々しい血を絵の具で表現するのが絵画美術の真骨頂ではないのだろうか。美術史を見ても人間の流血シーンが描かれる絵は数多あるだろう。その場面を描く時、本物の血液をキャンバスに載せてしまうのはタブーではないのだろうか。
 それに君島辰斗の話を聞いていると、どうしても丹生脩太という人間の実像と重ならない部分が出て来る。いや、重なるところは重なるのだが、まるで金環日食の端の光っている部分のように、それは丹生脩太なのか丹生脩太ではないのかと思ってしまう部分があるのだ。
「弟思いの兄、とはかけ離れたような話に聞こえますが」
「弟思いというのは事実ですよ。僕も翼も、それほど親しくなかった同級生もそう言うでしょう。でも弟思いだからと言って慈愛に満ちた人間とは限りません。愛する人に暴力を振るう筋肉馬鹿でもハートマークを好むような一面があるようなものです」
「それは、まさしくそうですが……」
 天羽は自分と重ねてしまった。職場では仕事ができる厳しい上司――まるで完全無欠の男と思われているが、家に帰れば妻にも相手にされないダメ夫なのだ。家での天羽の姿を阿波野が見たら、さぞ驚くことだろう。
 確かに、人はどんな顔を持っていてもおかしくはない。仕事上でも、この人が殺人を犯したのかと驚きを隠せないことだってある。
「最初の質問に戻れば、言わば脩太の肖像画のモデルを務めた女性の中には、当時のことを恨んでいる人もいるかもしれません。モデル代欲しさに絵になった人もいますから」
「モデルの方について、知っていることがあれば教えてください」
「殆ど知りませんよ。ああでも、脩太の歴代の彼女は、みんな絵になっているはずです。そして決まって、血を流しているはずです」
 天羽は丹生脩太の元恋人について訊いた。現在の容貌しか知らない天羽は狂気の画家に恋人がいたこと自体驚きだが、以前は見栄えもよく、その才能にすり寄って来る女性も多かったとのことだ。しかし画家の恋愛遍歴はそれほど華やかではなく、君島辰斗の知る限り、恋人は二人だけだと言う。
 堀内葉子、小口凛花というのがその名前だった。ただ、彼女達の現在はまるで知らないという。むろん連絡先も持っていなかった。
 君島辰斗はスマートフォンを取り出すとインスタグラムで彼女達のことを検索したが、アカウントは見つからなかった。
「葉子ちゃんなら、確か実家が弁当屋だったから、そこに行けば今どうしているかわかるかもしれません」
 礼を言い、天羽は立ち去ろうとしたが、君島辰斗はカフェで昼食を摂っていくらしい。天羽は貴重な話を聞かせてくれた感謝も込めて、御馳走しますよと申し出た。君島辰斗は遠慮がちに顔色を変えたが、すぐに礼を言った。
 天羽が財布から二千円を取り出しテーブルに置いた時、君島辰斗はスマートフォンを見ながら「似てるな……」と呟いた。彼はまだインスタグラムを見ていた。
「小口凛花さんですか?」
 アカウントが見つかったのであれば、そこから接触して話を聞けるかもしれない。しかし君島辰斗はいえいえと手を左右に振った。
「翼の見合い相手ですよ」
 そう言って君島辰斗はスマートフォンを天羽に向けた。それは堂島妙子のアカウントだった。インスタグラムのストーリー機能で縁談がまとまったことを投稿していた。
「今時見合いですか」天羽は苦笑した。恋愛結婚が必ずしも幸せになれるとは限らないと天羽は痛いほど知っているが、それでも恋愛結婚が主流の現代で見合い結婚とは、現実離れした話のように思えてならない。
「翼はお坊ちゃんですからねえ」聴取が終わったからか、君島辰斗はやや砕けた口調になっていた。
「それで、似てるというのは?」
「ああ、翼のこの見合い相手の女性のことです」
「何に似てるんです?」
「ビッザロの、デビュー作のモデルにです」
 天羽はうろ覚えの記憶をたどった。確かデビュー作の題名は『血に溺れた女』だった。天羽はストーリーに映る女性を見た。切れ長の目元が特徴的で、長髪をカールさせている。小綺麗な女性だった。
「綺麗な娘だなあ」と君島辰斗は呟いた。「この娘もお嬢様なんだろうな」

 昼食を摂った後、天羽は阿波野と丹生脩太の元恋人に当たってみた。二人の居場所は幸い掴めたものの、結論から言うとあまり踏み込んだ話を聞くことはできなかった。丹生脩太の絵のモデルを務めた過去は、相当なトラウマとして今も残っているらしい。
 堀内葉子の実家の弁当屋は築地にあった。築地市場の只中にある弁当屋は年季が入っていて、創業以来触れていないという外装にはそれだけの歳月が染み込んでいるようだった。市場にもよく馴染んでいる。その弁当屋に堀内葉子その人はいた。
 赤のエプロンに赤の三角巾がよく似合っている。高い鼻の横顔を一目見て、日本人離れした美人だなと天羽は思った。その横顔はまるで彫刻のようで、美しい。華奢な体つきは肩や肘の出っ張りが服の上からでもわかるほどで、肉がついているというよりも皮が張ってあるといった印象だ。背が高い分、余計に細く見える。
 事情を話すだけで堀内葉子は顔をしかめた。それだけで丹生脩太のことを思い出すのに抵抗があるのだと天羽は察したが、これは殺人事件の捜査であり、引いては真太の失踪事件の真相に繋がる聞き込みなのだ。配慮して何も聞かずに帰るわけにもいかない。
 堀内葉子は丹生脩太と同い年の三十一歳だ。出会いは彼女が高校生の時だった。彼女が、というのは、丹生脩太は高校には通っていなかったからだ。その高校時代、友人との食事会に丹生脩太が同席していた。彼女の友人の知り合いが丹生脩太の中学時代の同級生だったのだ。殆ど合コンのような形だったという。
 惚れたのは丹生脩太のほうだった。彫刻のように美しい顔立ちをした堀内葉子に画家として、あるいは単純に男として惹かれたのだろう。その後丹生脩太と二人きりで何度かデートを重ね、やがて交際へと発展した。当時の印象は穏やかで優しく、愛情表現も豊かだったそうで、彼女自身は深く愛されていると実感していたらしい。特によく覚えていることは、丹生脩太が弟皓太の話をよくしていたことだった。彼女自身、皓太とも何度か会ったことがあると言う。彼の家庭環境については交際に至ってまもなく聞かされたという。画家として活動していることも承知していて、休日などは彼のアトリエでもあった自宅マンションに手作りの弁当を差し入れていたそうだ。天羽はペンネームについて知っていたのかと訊いたが、丹生脩太は本名で活動しているとしか言わなかったらしい。アトリエに保管されている絵もすべて風景画で、疑う余地はなかったと堀内葉子は言った。
 それだけを聞いていると、高校生にしては少しドラマチックな恋愛話である。だが丹生脩太は、ある日豹変した。
 そこまで語って聞かせたところで堀内葉子は声を詰まらせた。画家との恋愛というやや特殊な思い出を懐かしんでいる様子はすでになく、目をしかめ口元を歪めて奥歯を噛んでいた。
 肖像画のモデルを頼まれたのだ。交際を開始してからおよそ一年が経った頃だったそうだ。丹生脩太は優しく微笑み掛け、「君を描きたいんだ」と囁いたという。せっかくだから記念に描いてもらおうと堀内葉子もすぐに受け入れたという。むしろモデルを頼まれた時はお花畑でワルツを踊っているような気分になったという。
 耳を疑ったのは、服を脱ぐよう言われた時だったそうだ。すでに肉体関係は結んでいて彼に裸を見せることに抵抗はなかった。が、絵になるのは別だと思ったらしい。堀内葉子はヌードモデルを頼まれたとは思っていなかったのだ。
 その後丹生脩太の手によって堀内葉子の肖像画が描かれたわけだが、その時の仔細はわからない。堀内葉子は言葉が幻に消えたみたいに訥々と、「ナイフで両肩を切られて、痛くて泣いて、でも彼は絵を描いていて……」と要領を得ない様子で話すだけだった。
 その時の、いつもとはまるで別人の丹生脩太を見て震え上がったという。その後堀内葉子はすぐに別れを切り出した。丹生脩太は戸惑ったようだが、それ以降会うことも連絡を取ることもなくなったという。
 天羽はスマートフォンの画面を堀内葉子に向けた。築地に向かう車内でビッザロの肖像画を検索していた。君島辰斗が足を運んだと思われる個展の時に撮影された写真がネット上には多く上がっていて、その中に今彼女が話した内容と一致する肖像画があったのだ。それは正面ではなく体は斜めを向いていて、そこから顔はさらに横を向いている。キャンバスに浮かび上がる横顔は彫刻のようで、やはり丹生脩太も彼女の横顔に芸術性を見出していたのだと天羽は思った。彼女の横顔は絶品である。その横顔のすぐ下に覗く露出した肩には出血が描かれている。まるでキャンバスの中の女性が本当に血を流しているように……。
 その絵を見ると、堀内葉子は目を瞠り、何度も大きく息を吸った。モデルをした時のことがフラッシュバックしてしまったのかもしれない。その様子を見て、天羽はすぐにスマートフォンの電源をオフにした。
「この時つけられた傷は、今どうなっているのでしょう」
「もう十年以上前の話ですから、傷は小さくなっています」
「でも残っているんですね?」
 天羽はネット上で『血に溺れた女』も見た。その絵は君島辰斗が言ったように電子版で見ても血の臭いが漂ってくるような悍ましい絵だった。まず目が行くのが表題の通り血に溺れた女性の体だ。女性は全裸だが、胸元や陰部などは大量の血液で隠れるようになっている。絵画に使われた血液は女性の顔や手足、背景など、キャンバスの至る所にその色を落としており、大量の出血で意識が遠のくモデルを写実的に描いたのか、顔色は悪く目にも力がなかった。『血に溺れた女』と比べると堀内葉子の出血は微々たるものに思えるが、今も傷が残っているということは、傷はかなり深い。当然その分痛みを感じ、出血もある……。そして傷は一生残るかもしれないのだ。
 丹生脩太のことを恨んでいて当然だろう。だがそれについて訊くと、恨むことすらできないほどのトラウマなのだと彼女は話した。恨むのではなく、忘れたい。仕返しなどを考える以前に会いたくない。それが本音だという。堀内葉子は天羽に責めるような目を向けて、できることなら思い出したくなかったと言った。
 最後に一つ、もしかすると心苦しい思いをさせるかもしれないがと断った上で、天羽は一枚の写真を見せた。それは現場に残された、鮮血に染まった刃物だ。
「丹生脩太があなたの体に傷をつける時に使ったのは、この刃物ではありませんでしたか」
 堀内葉子は息を呑み、目を瞑ってしまった。彼女の名前を呼び掛け、もう写真はしまったと言っても、彼女はその瞳を見せようとはしなかった。ただ確かに、堀内葉子は僅かながら首を縦に振った。確認のためもう一度訊くと、彼女はやはり頷いた。今度は阿波野も確認できるくらい大きな動きだった。
 現在の想いに関しては、小口凛花が同様のことを口にした。彼女もまた、丹生脩太の絵のモデルを務めて深い傷を負った一人なのだ。
 小口凛花は今年に入って結婚し、姓が変わっていた。現在は粟田というのが彼女の姓だが、天羽は丹生脩太と交際していた当時の名前で呼ぶことにした。小口凛花は上野のマンションで四歳歳上の夫と暮らしていた。現在は専業主婦のようだ。
 やはり好みというのは人を見る時の軸としてそれぞれ持ち合わせているのだろう、と天羽は思った。小口凛花も堀内葉子同様、華奢な体つきをしていた。顔はまるで違っていて、小口凛花は目尻の垂れた狸顔で、美人というよりは愛嬌のある女の子らしい顔をしている。ただ華奢な体つきの中でも彼女が堀内葉子と違うのは、小口凛花のほうはやや丸みのある体をしていて、遠目に見るとややふくよかに映るような、つまり女性らしい肉感が備わっていたのだ。身長も堀内葉子とは対照的で、百五十五センチとのことだった。
 一方で、小口凛花は歳上を好む女性のようだった。彼女は現在二十九歳。丹生脩太の二つ歳下だ。そして現在の夫は四歳上……偶然だろうか。これまでの恋人も、たぶんすべて歳上だと天羽は勝手に思った。
 二人の出会いはナンパだったそうだ。小口凛花が友人と公園で写真を撮っている時、ちょうどその公園の風景画を描いていた丹生脩太に声を掛けられたという。それから親交を持つようになり、やがては交際へと発展していくのだが、今回は二人が恋人になるまで少し時間が掛かったそうだ。というのも、小口凛花はナンパには硬派で、言い寄って来る男性と付き合うことはそれまでして来なかったのだそうだ。そのため丹生脩太と知り合った後もすぐには心を開かず、交際までに二年の期間を要している。小口凛花が二十二歳の時に知り合い、二十四歳で恋人になったそうだ。それから二年近く交際したが、やはり丹生脩太が絵のモデルをさせたことで二人は別れることになった。
 ナンパ男をことごとく返り討ちにしてきたことからもわかるように、小口凛花はかなり勝気な性格だった。これまでの恋愛でも、交際のきっかけは常に彼女のほうが作って来たらしい。ただし、告白をしたことはないとのことだ……。
 そうした性格もあって、交際中の二年間、喧嘩も多かったという。特に小口凛花は丹生脩太の画家としての地位を聞かされていなかったため、定職に就くべきだとよく窘めていたらしい。しかし聞く耳を持たない彼に彼女は感情的に言葉を浴びせ、そこから怒鳴り合うこともしばしばあったそうだ。他にも丹生脩太の生活リズムや食習慣など、細かいことでもたくさん喧嘩をしたと彼女は語った。すべて彼を思ってのことだったが、自分の言葉は一向に彼には響かなかったと無念そうに肩を落とす。
 当時の彼女の注意を素直に受けていれば、丹生脩太はもっと長く生きることができたかもしれない。彼の病気のことを知ったら、小口凛花は自業自得だと吐き捨てるに違いない。
 本題に入ると、やはり小口凛花は声を落とした。脇腹の辺りに手を当てて、頬を引きつらせている。どうやらそこを刃物で傷つけられて、血の肖像を描かれたらしいと天羽は思ったのだが、今回はそんなものではなかった。
 小口凛花はヌードモデルまでは許容できた。だがナイフを突き立てられた瞬間、これから行われる行為をあれこれと想像してしまい、じっとしていることに耐えられなかった。考えるより先に体が拒否反応を示し、力一杯抵抗した。抵抗する小口凛花を力づくで押さえつけようとした丹生脩太と揉み合いになり、その拍子に脇腹に刺さったナイフは争っていた分深く刺さった。幸い命を落とすことはなかったが、彼女は気を失った。応急処置は行われたものの、丹生脩太はそのまま絵を描き続けたという。
 小口凛花がモデルの血の肖像は、ソファに横たわる失神した女性の脇腹から今も少量の血が流れ出ている、そんな絵だった。全裸で横たわっているせいか、堀内葉子の肖像画よりも艶めかしい雰囲気を感じる一枚に仕上がっていた。
 天羽はまず、樽本京介殺害事件の凶器として確定しているナイフについて訊いた。すでに堀内葉子の証言がある。その証言をさらに正確にするためにも、小口凛花からも言質を取りたい。丹生脩太だって、そう何本もナイフを持っていたとは思えない。おそらく血の肖像画を描く際は、いつも同じものを使っていたはずだ。
 その予想は正しかった。小口凛花は堀内葉子と同様に首を縦に振った。ショッキングな記憶というのは強烈に残るものだが、やはりその記憶の一部として、その刃物ははっきりと残っているのだそうだ。
 続いて丹生脩太への恨みについて訊いたが、堀内葉子と同じような答えが返って来た。意識を取り戻した後なぜ警察に被害届を出さなかったのかと訊くと、錯乱していて当時のことをよく覚えていないため、状況を正確に説明できないと思ったことが一つ、丹生脩太から警察に通報して芸術を損なわせるようなことはするなと脅されていたことが理由だと答えた。その時の丹生脩太の顔を思い出すと、今でも恐怖に身が竦むという。
 その後小口凛花は鬱の症状がみられていたが、現在の夫と出会い、深く愛されることで回復したのだという。
 一応、小口凛花にはアリバイを確認した。堀内葉子は丹生脩太が失踪した時、店頭に立っており、その様子が防犯カメラの映像にも記録されていた。しかし小口凛花にアリバイはなかった。丹生脩太に会いたくもないというのは嘘ではないだろうが、勝気な性格なだけあって、ある時復讐を決意したかもしれない。復讐を思い立つきっかけは、今もその体に刻まれているのだから。毎晩風呂に入る度に物騒なことを想像していても不思議ではない。それだけのことを丹生脩太はしてきたのだ。
 そういう意味では、とりわけビッザロのデビュー作が気掛かりだ。出血の量は、すべての絵を見渡しても『血に溺れた女』が突き抜けている。この絵のモデルの女性が最も強い犯行動機を持っていると考えてもおかしくない。天羽は小口凛花にその絵のモデルについて訊いてみた。肌の艶などを見ていても、描かれた当時、この女性は大学生くらいだったのではないだろうか。この質問には堀内葉子も小口凛花も首を横に振った。モデル同士の繋がりなどは一切ないらしく、ましてデビュー作となると彼女達が中学生の頃の話である。丹生脩太以外の誰かがモデルの正体を知っているはずはなかった。
 その予想は正しく、この後丹生皓太、君島辰斗にも『血に溺れた女』のモデルについて訊いたが、揃って首を横に振った。その後堂島総合病院に足を運んだが、堂島母子は不在だった。そういえば、見合いをしているんだったと天羽はそこで思い出した。
 堂島翼不在の旨を市井俊夫から聞かされている時、天羽のスマートフォンが着信を告げた。古藤だった。
「どうした?」
「警部!」と古藤にしては珍しく切迫感のある声で怒鳴り込んだ。「またです」
「何がまただ?」
「またなんです。失踪事件が、車乗り捨て失踪事件がまた起きました。


第二部 血の肖像

        15

 女は新たな獲物が目を覚ますのに備えて仮眠を取ると言った。そのおこぼれを頂戴し、僕も少し寝る権利を与えられた。頭は岩のように重く、瞼は燃えるように熱い。焦点が合わず、視界もぼやけていた。欠伸をしても、浮き上がる涙は乾いた瞳にすぐに吸収される。僕は横になったが、極度の疲労と蠅の羽音でなかなか寝つけなかった。蚊は、僕ではなく新たに運び込まれた男のほうに遠征していた。
 それでも疲れ切った体はやがて限界を迎え、僕は気を失うように眠りに落ちた。しかし眠りは浅く、僕の前には常に杉の木と鉄格子が浮かんでいて、これが夢なのか眠れていないのかすらわからなかった。結局数時間で起き上がった。そこで初めて、自分は仮眠を取れたことがわかった。ほんの数時間の仮眠だが、僕の目元には大きな黄緑色の凝固体がへばりついていた。お湯を持って来てもらいたいが、女は寝ているし、起きていてもそんな望みは叶えてくれない。僕は抜け切らない疲労と目ヤニを剥がす痛みと闘った。劣悪な環境、強制労働、そのせいか、息切れが目立つ。胸の辺りに締め付けられるような痛みがあり、苦しい。
 気管を広げるために大きく息を吸い、短く吐いた。酸素が喉につっかえ、咳払いをした。痰が口までせり上がって来たのでぺっと吐き出すと、血痰だった。
「ご馳走だぞ」
 そう言って吐き出した血痰を部屋の隅に投げた。僕にたかっていた数匹の蚊が血痰のほうへと飛んでいき、体を倍くらい膨張させた。隣の檻に寝かされた男にたかっていた蚊も何匹か血痰のほうへと移動した。だが蠅は僕の元を離れようとしない。部屋の隅に行って小便をすると、そこに溜まった糞尿に数匹の蠅が群がったが、糞尿と僕の臭いは変わらない。蠅は依然として僕にも群がったままだ。
 それから一時間ほどが経ち、女は監禁部屋にやって来た。寝起きのはずだが、顔はむくんでいない。これから始まるショーに出演するため化粧を施してはいるが薄化粧で、濃いのは口紅だけだ。それなのに血色がいい。でかでかとした目ヤニを剥がす痛みなんて知らないんだろうと僕は女を憎く思った。
 女は入ってすぐの檻の中を見た。新たな獲物が鼾をかきながら眠っているのを確認すると、薄明かりの中髑髏を手に定位置に着いた。僕は丸椅子に腰掛けたが、女を見て筆を取る手を止めた。
「デッサンの時はすっぴんだった。化粧をした顔を描くのか、すっぴんを描くのか?」
「顔なんてどうだっていいでしょ」
 僕と彼女は美術については気が合うらしい。そうだ。彼女の言う通り。顔なんてどうでもいい。モデルは大抵顔を気にするが、顔など芸術にはなり得ない部分だ。あくまで人間の一部品でしかない。綺麗な顔を形に残したいのなら画家の元は去り、写真館に行くべきだ。
「わかった」
 そう言うと、僕は手帳サイズのパレットに三原色を取り出し、女に水を持ってこさせて色を作っていった。赤と緑を混ぜ、黄色を作る。その黄色を水で薄め、薄め、さらに薄め、赤を少し足しながら肌地を作った。その作業に数十分を要した。白があれば便利だったが、今日は三原色しか持参していない。そもそも出掛けた先で人間を描くことは少ない。いつもは風景を描くから、三原色あれば事足りる。
 僕はポーズを取る女の顔を横目に見ながら、継ぎ接ぎのキャンバスに絵筆を落とした。美しい顔の半分と少しを塗り終えた頃、隣の檻から物音が聞こえた。僕は一瞬そちらを気にしただけで、またキャンバスに筆先を置いた。だが女は檻のほうを見ていた。ポーズが崩れている。僕は溜息を吐き、キャンバスから筆を離した。
 隣の檻に磔られた男を見ると、指先がぴくぴくと動いた。寝返りを打とうとしているらしく、縛られた肉体をもぞもぞと動かしている。が、体はがっちりと固定されていて動かせない。夢の中でもどかしさを感じたのか、男は眉と鼻を不機嫌に寄せると薄っすら目を開けた。その瞬間、女は男の前に躍り出た。十字架に縛りつけているためか、檻に鍵は掛かっていなかった。
 女は、すでに裸だった。大の字を作る男はまだ視界がはっきりせず、目元を擦りたいのに擦れないもどかしさに顔を歪めていたが、やがてはっきりと目を開けた。一度それを目にすると、眠気も目ヤニも吹っ飛んでしまう。男は痛みを伴いそうなほど寝ぼけ眼をかっと見開いた。女が微笑むのがわかった。どことなく、彼女の背中に人間らしい空気が漂っているように思えた。男の鼻先まで顔を近づけると、耳元で何か囁いた。
「誰なんだ、あんたは」
 痰の絡んだ声で男は言った。怯えた声だった。見開かれたままの黒目が、女の体を何度も見回した。全身につけられた夥しい数の生傷を見て腰を抜かしているのだ。女は勝ち誇るように笑った。この瞬間が堪らないと言うように。
 女は男をじっと見据えたまま、ゆっくりと男の乳首を撫でた。喘ぐのを我慢した男だが、男の下半身は恐怖の中でもいきり立っている。女はそれを見て満足そうに鼻を鳴らし、次の瞬間噛みつくように男の唇を吸った。
 何を見せられているんだろう……。
 ショーを見せると意気込んでいた女だが、すっかり僕のことなど忘れてしまっているらしい。僕は監獄で催される華麗なショーに背を向けた。背を向けても、背後の状況は手に取るようにわかる。攻め手が変わらないからだ。女が馬乗りになって好き放題動く。男は息を切らして喘ぎながら、それに必死に耐えている。そこに女の喘ぎも重なって、二人はますます熱を帯びてくる……いや、熱を帯びるのは女だけ。
 男が力尽きたのは、女に噛みつかれてから数十分経った頃だった。僕はその間じっと背中を向けていたわけだが、空虚な時間ではなかった。僕の目の前には彼女のデッサンがあった。顔の半分には色がつき始めている。その女の喘ぎが常に聞こえていた。究極の肉体を持つ女の喘ぎが。興奮で、僕は自分の一物を何度握りしめたかわからない。そのおかげで、男が力尽きるまでの時間は僕にとって至福の一時となった。
 が、恍惚としている場合ではなかった。ぎい、という檻の開けられる音で僕は我に返った。女が監禁部屋を出た。僕は鉄格子に翻って、少しでも男の目線に近づくように体を丸めた。
「何かできないか」
「何かって……何を?」
 男は息を整えながら言った。まさかこれから自分が殺される運命にあるとは思ってもいないだろう。むしろ美女に抱かれた喜びと快楽に浸っているようにも見えた。生きて帰れば、「とんでもない美女を抱いた話を聞かせてやる」などと言ってまるで武勇伝のように仲間に語るのだろう。だが男は女を抱いていたのではない。抱かれていたのだ。この山小屋では、すべての支配権を怪女が手にしている。ここに連れ込まれた時点で抗う術はないのだ。彼の命も、僕の命も、すべてはあの女が支配している。その支配に慈悲など微塵もない……女の皮を被った化け物は、獲物を喰らうと、あとは問答無用で殺すだけ。そして殺人を、芸術へと昇華する……。
「殺されるぞ」
「ああ、何となくそんな気がしてる」冗談めかして彼は言った。口元の微笑がそれを示していた。「あんたはここで何を? あんたは殺されてない」
「あなたと同じようにここに連れられた。山道の途中でヒッチ――」
 女が戻って来た。包丁を持って。
 それを見て、男はようやく僕の言葉を信じる気になったらしい。急に動かない足をじたばたと動かし、額には玉の汗を浮かべ、命乞いの言葉を探すように口をぱくぱくと動かしている。
「何かできないのか?」僕はもう一度訊いた。
 僕が生き長らえる術を見出そうとしても、女に焦る様子はない。僕の時と同じように自分の体を見回し、新たなる芸術を封印する場所を探していた。が、それにはそれほど時間を要しなかった。僕の時につけ損ねた傷がある。女は自分の右脇腹を撫で、男を見下ろした。四つん這いになると男の右脇腹を撫で、狙いを定めた。
「やめろ! やめろ!」男は後ずさるように声を上げた。
「何かできないのか? その女に何か還元できるものはないのか。僕は画家だ。僕は彼女の絵を描いてる。だからまだ殺されてない」僕は製作途中の肖像画を指差した。「何でもいい。彼女を喜ばすことができる特技はないのか」
 男は僕のほうを見て、目を瞠った。黒目が震えるように揺れていた。どうやら、命乞いに差し出せるようなものはないらしい。女は構わず包丁を振り被った。僕は反射的に目を背けた。が、男の呟きに呼び戻され、僕はその瞬間を見た。女が振り下ろした包丁は深々と男の脇腹に潜り込んだ。傷口から沸騰した泡のように滲み出る鮮血が包丁の柄を濡らすほど、刃物は男の体深くに入り込んでいた。男はゆっくりと目を見開き、喉を締められた時のように痛みと苦しみに悶えながら、ゆっくりと口を開いた。口の端から、大量の血が流れ出た。女が包丁を引き抜くと、数分前の男の射精のように返り血が勢いよく噴射された。女はその血を肉体で受け止めた。血が射精されたのはその一回切りで、それからしばらくは溺れた泳者が飲み込んだ水を吐き出す時くらいの返り血を男は噴き出していたが、それもやがて止まり、べったりとした黒い血が屈強な肉体を伝っていた。
 瞳孔が開きっ放しの男を僕は見つめた。女は男の瞼を閉じてやろうともしない。だがそんなことはどうだってよかった。僕は男を睨みつけた。
 女に殺される直前、男は「ビッザロ……」と呟いた。僕を見て。ビッザロは僕のペンネームだ。それを知る人物は限られている。だがこの男とは面識がない。なぜ男が僕の正体を知っているのか。いや、男は僕を見てビッザロと言ったのではない。おそらくだが、男は僕の描いている絵を見てビッザロと呟いた。だとすると僕のファンか? 僕の絵を持っている、だから画角や絵のタッチでビッザロだと見抜いたか。相当な美術好き……。
 絵を振り返って、首を傾げた。これはまだビッザロの絵ではない。女の肖像を描いてはいるが、まだ血が通っていない。こんなものはビッザロの絵じゃない。男が呟いたのは偶然か……。
 そう考えた時、目の端に女が自らに刃物を突き立てるのが見えた。僕は目を凝らした。女は冷たくなりつつある男を見下ろしながらその致命傷となった右脇腹と同じ位置に刃先を突き立て、切腹するみたいに自分の肉体に刃先を潜り込ませた。
 女の呻き。
 荒くなる呼吸。痛みに耐える顔……。刃物は、肉体を少し傷つけるという程度ではなく、刃先がしっかりとその華奢な肉体に入り込んでいる。見ているだけで痛々しい。だがそれだけ深く刺さなければ一生傷にならないのも事実。女は痛みに悶絶しながらも、悦びの声を上げていた。僕は助産師になった気分でそれを見守り、やがて女が包丁を引き抜いて怪物の血がじっとりと滲み出て来ると、新たな命が誕生したような不思議な気持ちになった。
 血塗れの女の体を、赤々とした新鮮な血液が上書きしていく。女は流れ出る血液を手で撫でつけながら男の元に歩み寄り、腰を下ろした。そこで瞼を閉じてやると、血を吐き出した男にそっと口づけした。
 死体と接吻している間も、女の血は背中側から窺い見ることができた。僕は何度も息を呑んだ。
 これが芸術だ。至高の作品だ。究極のこの肉体に、僕を自らの手で傷をつけたい――。
 手が疼いた。

        16

 しんと静まり返った捜査本部は珍しい。いつもは部屋のどこかで誰かが電話を掛けているし、部下が上司に報告を行っている。そうでなくとも上司から指示が出されたり、口を開かずとも靴音が慌ただしく響いているものだ。一息吐く刑事がコーヒー片手に束の間の談笑をしていることだってある。そのすべてが今は消えていた。天羽は会議室の長机の前に座って、さっきから非日常的な捜査本部を眺めていた。
 捜査本部が異様な雰囲気に包まれているのは、偏に一課の係長の渋面のせいだった。だがそれも仕方がない。もし自分が捜査班を率いていても、今の状況に直面すれば同じ顔をするだろう。天羽の場合、今よりも張りつめた空気を作っているかもしれないが。
 午後三時を過ぎると、捜査員が揃うのを待たずに緊急の捜査会議が始まった。昨日も緊急の捜査会議があった。もはや緊急の捜査会議が定例会議のような感覚だ。それだけ、事件が目まぐるしいということだ。
「ナガカワユウゴが姿を消した――」
 重々しい口調で係長は言った。目の前には永川雄吾のマイナンバーカードの画像が映し出されていた。そこに書かれた情報によると、年齢は三十八歳、住所は荻窪とのことだった。顔写真を見て天羽が受けた印象は、ごつい男、だった。年齢的にも肥満が見え始めてもいい頃なのだが、肥満体型とは少し違う。写真に写る顔は二重顎が目立っているので肉付きがいいと言えばそうなのだが、肩幅が広く、ぎりぎり写真に写る胸元を見てもがっちりとしていて、どちらかといえば筋肉質に見える。何かスポーツをやっていたのだろうと天羽は思った。
 さらに永川雄吾について係長が補足した。永川雄吾は保険会社に勤めていて、家庭もある。妻の理穂と六歳の息子雄介、二歳の娘理菜の四人家族だそうだ。永川雄吾の失踪が発覚したのは今日の正午過ぎに妻の理穂が所轄署に赴き、夫の行方が知れないことを相談したためだ。都内の全所轄署に車乗り捨て失踪事件のデータについて問い合わせていたこともあり、念のため樽本京介殺害事件の捜査本部に連絡が入った。ちょうど捜査員がその所轄署に出向いて過去の失踪事件のデータを集めていたこともあって、より迅速な報告がなされたのだ。
「永川理穂によると昨日夫は出勤した後、定時を過ぎても帰宅せず、連絡もつかなかった。その時点では理穂も深くは考えず、同僚と飲みに行っているのだろうと思っていた。しかし翌朝、つまり今朝になっても夫は帰宅しておらず、相変わらず連絡はつかない。メッセージを見たらとにかく一度連絡してほしいと書き残したが、昼になっても夫からの連絡はなく、心配になって会社に問い合わせてみると無断欠勤していることを知った。出張の予定もなく、これはただごとではないと感じた理穂は警察に捜索願を出しに行った」
 連絡がつかなくなってから僅か一日なので心配性の可能性もやや否めないが、取り返しのつかないことになってからでは遅い。永川理穂によると、永川雄吾は自家用車で出勤しており、職場からはその車も消えているとのことだ。車乗り捨て失踪事件に巻き込まれた可能性も考えられるため、心配性の一言で片付けられるものではなかった。むしろ今回に限って言えば、たった一日で届け出てくれてよかった。天羽が一連の事件に巻き込まれていても、たぶん亮子なら三日くらいは気にも留めない。
 ただ、一連の失踪事件に巻き込まれたと決めつけるのは早計だと天羽は思った。現在捜査本部に収集されている過去の捜査資料を見る限り、初めてこの事件で失踪者が出た二十年前から今日まで、こんなにも早い頻度で失踪事件が発生したことはないのだ。丹生脩太が姿を消し、永川雄吾が姿を消した、それは僅か二日間の出来事である。これまでの記録によれば、どれだけ期間が詰まっていても二週間は開いている。それが二日間に二人というのは……あり得ないと言い切ることはできないが、同一の失踪事件と確定するのは早い。実際、永川雄吾の車は職場から消えているが、まだ乗り捨てが確認されたわけではない。
 失踪人登録がなされてまず行うのは失踪人が姿を消す直前までの行動を調べ上げることだが、丹生脩太の場合、交友関係も狭く自営業――それも覆面画家ということもあって、これがまるで判明していない。言えるのは、午後二時頃にレンタカーを借りているということだけだ。その後どこにいたのかもわかっておらず、キャンプ場に向かっていたのではないかと推測が立てられるだけだ。その点永川雄吾は会社員ということもあって、失踪直前までの目撃情報は豊富だ。午後五時半を過ぎた頃までは会社にいて、仕事をしていた。そこまではすでに判明していることだった。だがその後の永川雄吾については同僚も家族も知らない。断言できるのは、永川雄吾の失踪が昨日の午後五時半以降に起きたということだ。それだけでも、丹生脩太の失踪事件よりは情報が揃っているほうだった。
 注視しなくてはならないのは車ごと消えているという点だ。人間だけが消えていたのなら今回の失踪は我々捜査班には何の関係もないただの失踪事件として構うこともないのだが……。
 係長はその点を気にしているようで、さっきから難しい顔をしているのだった。係長は、念のため数人を永川雄吾の捜索に割き、続報を待つと判断した。天羽も同意見だった。車の乗り捨てが発見された場合、これは関連した事件と見なさなくてはならない。無関係だと決めつけてしまった後で関連事件でしたと認めるのは体裁も悪い。
 続いて別の報告が上がって来た。防犯カメラを調べていた捜査員が丹生脩太の借りたレンタカーがカメラに映るのを発見したとのことだ。それを聞いた時、天羽は思わず立ち上がって歓声を上げたくなったが、少し尻を浮かしたところで我に返り、何となくバツが悪くて背広の襟元を直す振りをした。
「映像記録によると一昨日の午後二時三十四分に丹生脩太の借りた車両が八王子のカメラに映っていました。ただし映像では運転手の顔までは確認することができず、丹生脩太本人が運転していたかは不明です。それと別の時刻ですが、午後三時五十八分に車が乗り捨てられていた三鷹付近の防犯カメラに同じ車両が映っていました」
 レンタカーの映像発見を聞かされていなかった捜査員の間でどよめきが起こった。午後三時五十八分に三鷹を走っていたということは、樽本京介が殺害された午後四時から午後五時の間にシェアハウスに戻り殺人を犯すことができるということだ。
「ただ、こちらの映像でも運転手の顔は確認できませんでした」
「車を降りるところはカメラに映っていないのか」係長が訊いた。
 それはないだろうと天羽は思った。一連の失踪事件が何者かによる人為的なものであるとすれば、二十年もの間警察の捜査網に掛かっていないことを考えると犯人はよほど用心深く、カメラに映る位置で素顔を見せることはないだろう。
「はい。車は防犯カメラの死角で乗り捨てられていましたので、車を降りるところは確認できていません」
 一瞬にして溜息に変わった。だが丹生脩太が一連の失踪事件とは関係なく、四時前に三鷹で確認された車のハンドルを彼が握っていたと仮定すれば、やはり樽本京介を殺害したのは丹生脩太である可能性が極めて高まる。なぜ車乗り捨てを行ったのかというと、丹生脩太が過去の連続失踪事件を知っていた、あるいは彼が真犯人である……警察から向けられる容疑の目を自分から逸らすために失踪を自作自演した。そのためには車が必要だった。だからレンタカーを借りた。
 辻褄は合っている。だがあくまで仮説であり、天羽の中でその仮説は仮説の域を出ない。それはやはり、丹生脩太が樽本京介を殺すためにそこまで手の込んだことをするだろうかという疑問が浮かぶからだ。丹生脩太は末期癌を抱えていて余命いくばくもない。画家として人生を全うするために金を出し惜しむこともない男だ。もし樽本京介を殺害して逮捕されたとしても警察病院に入るのがオチだろうし、そもそも有罪が確定するまで寿命が持つかもわからない。仮に有罪となって投獄されても、服役してまもなく獄死するだろう。丹生脩太にとって逮捕されるデメリットはあまりない。強いて言えば自由に絵を描けなくなくなることくらいだが、絵を描くことくらい死刑囚であっても許される。
 丹生脩太が四時前に三鷹にいた理由として樽本京介を殺害するためだったということは納得できる。しかしわざわざレンタカーを借りた理由が、天羽には謎だった。
 四時前の映像……運転しているのは丹生脩太ではないのではないか。丹生は堂島翼の待つキャンプ場に向かっていたのではないか。だからレンタカーを借りた。そしてその道中で失踪した。やはり、それが最も自然なことではないか?
 だが天羽は、丹生脩太の犯行を示す決定的な証言を握っている。それを踏まえれば、やはり樽本京介を殺害したのは丹生脩太であり、四時前に三鷹で車を運転していたのも丹生脩太ということになる。つまり丹生脩太は、樽本京介を殺害した後、その足で行方をくらました。逃亡だ。
 天羽は手を挙げた。
「先程丹生脩太の元恋人に話を聞いたところ、ある重大な証言を得られたので報告します」
 係長だけでなく、一課の捜査員が揃って天羽を振り返った。天羽は君島辰斗によって丹生脩太が「ビッザロ」という名の画家であること、ビッザロの肖像画は血塗られたものであり、その血液は必ずモデルを務めた人物から採取した生血であること、そしてかつての恋人もモデルを務め、それが原因で画家と破局したことを話した。
「丹生がモデルの体に傷をつける時、使っていたのが現場に残されていたあのナイフでした。これは丹生の元交際相手である堀内葉子さん、小口凛花さん――現在は結婚して粟田凛花さんの二人が証言しています。このナイフで傷をつけられたと。そしてその傷は、現在も彼女達の体に刻まれています」
「やはり丹生か……」
 係長は背もたれに身を預け、肘置きに体重を掛けると、顎に手をやった。そのまま数十秒思案した係長は、丹生脩太の行方を最優先で追うよう指示を出した。現時点で丹生脩太にアリバイはないと見ていい。そして犯行に使われた凶器が彼のものであると判明している。逮捕状は出る。
 ただ引き続き、樽本京介の周辺の捜査も怠らないよう指示を出した。

        17

 僕の回りから蠅が消えた。蚊は僕に興味を失くしたホステスのようにとっくに僕を取り巻かなくなっていたが、とうとう蠅までもが僕を見限った。別に悲しくはないし、むしろ喜ばしいことだったが、一匹もいなくなってしまったのはどこか寂しいような気がした。血と糞尿が好物の羽虫達は、僕のすぐ傍に放置された刺殺体に群がっている。遠目に見ると、死体を覆う黒い塊が虫なのか体毛なのかわからない。それくらいの数が、死体には群がっていた。
 女は一仕事終え疲れたのか、自らの体に傷をつけると処刑場を出て行き、しばらく戻ってこなかった。それを悟った僕も横になり、しばらく眠った。血の臭いには誰より慣れている自負があった。ただ、あの女を除いては。だから血の臭いが充満する部屋で眠ることに抵抗はない。が、今回はわけが違った。すぐ傍に死体が寝ている。冷房も利いていて、腐敗が始まるまではまだ何時間もあるだろうし、女によって瞼は閉じられた。ただ寝ているだけと思えば、死体を死体と思わないこともできた。だが男に群がる蚊と蠅の羽音が、傍で横たわる男がただの肉塊になり果てたことを絶えず教えて来る。
 それでも僕は寝た。もはや感覚は麻痺している。傍に死体があろうが、横になった視界に自分の糞尿が見えていようが、特に気にすることもなかった。
 今度はさっきよりも眠れた。その分、肘の裏の瘡蓋くらいある目ヤニがいくつもできていたが。
 女がいた。粘っこく引っ付く睫毛を力づくに離し、ぼやける視界に女が見えた。死体の傍に立っていて、手には棒状のものを持っている。少しずつ視野が開け、睫毛が二本千切れたのがわかった瞬間、僕の中で血の気が引いた。
「嘘だろ……」飛び起きるのと同時に僕は声を震わせた。
 女が手に持っている棒状のものは斧だった。僕の檻で使っている刃のない斧ではない。刃のついた、根を張る杉の木を切り落とすことのできる斧……その斧の刃先を、女は男の首根っこに設置し、足で固定した。すでに喉仏に一直線の赤い線が入っている。ごくり。唾を飲み込む音がやけに大きく響いた。女はこちらを振り返り、おはようと挨拶するように口角を上げると死体に向き直り、斧の柄に足を掛けた。そのまま柄のほうに体重を掛けると、ザクッという音の後、ごろりと音を立てて男の頭が二回三回と床に転がった。首が真っ二つに切断されたが、大化の改新の絵図の蘇我入鹿のように血が何メートルも噴き出すことはなかった。男がすでに死に、心臓が血液を送り出していないからだ。ごろりと転がった男の頭は僕のほうを向いている。首を捻じ切られたというのに、仰向けに寝ていた時と変わらず平然とした顔をしている。全身に鳥肌。そして寒気。
 女の死体処理は終わらなかった。薄っすら血のついた斧を手に一度処刑場を出ると、戻って来た時には斧が白いボトルに持ち替えられていた。その見た目に刹那安堵を覚えた僕だが、女は白いボトルを男の頭の上で逆さにし、中に入っていた液体をどばどばかけた。液体に浸った男の頭はじゅうじゅう音を立て始めた。べっとりとした液体が短い髪を濡らし、顔面を覆うと、途端に肉片が崩れ始めた。硫酸だ……。男の頭に群がっていた羽虫も何匹か巻き添えになった。
 腰を抜かす僕には目もくれず、女は淡々と作業を進めた。硫酸をかけた頭は僕のほうに向いたまま、七分の一が失われた肉塊を運び入れた時の逆再生のように運び出していった。
 皮膚が爛れ、タイムプラスで老化を見ているように、男の瞼、頬、顎が垂れ下がっていき、ぽつぽつと穴が開き始めていた。瞼が垂れ下がるのと同時に眼球が宙ぶらりんになり、視神経が剥き出しになると、今度はそこに硫酸が流れ落ち、ころりと眼球が床に転がった。死んでいるのに血走った白目が、途方もない恨みを持って今すぐ動き出しそうなほど気味悪い。さすがに吐いた。血の混じった吐瀉物を。また蠅が来た。
 焦げ臭い臭いが鼻を突いた。死体を焼いているのだろう。その立ち込める煙にヘリが気づいて、警察に通報してくれないだろうか。そんなことを思ったが、この辺り一帯はグランピング施設が点在するバーベキュースポットだ。山の中から煙が上がっていても、救助を求める煙とは思わないかもしれない。そんなことを考えていると、男の顔面が崩れ落ちていくのを見た瞬間、死ぬのが恐ろしくなったのだと気づいた。死ぬのはいい。だがこんな死に方は望まない。首を捻じ切られ、顔を硫酸で溶かされる……。こんな無惨な死に方があるだろうか。体の震えが止まらない。朝一番で見る光景か? 激しい頭痛に襲われ、また吐いた。
 げえげえ吐いていると、遠くにエンジン音が聞こえた。他に誰かいるのか――いや、まさかまた、新たな獲物を捕らえて来たのかもしれない。惨劇は繰り返される。いつかは僕も……。
 女が戻って来た。だが獲物を連れてはいなかった。ではさっきの音は何だったんだろう。僕には車が発進する音のようにも聞こえたが、仲間がいるのならここへ連れて来て一緒にこの残虐なショーを楽しむだろう。空耳か、僕の不安を耳がより深刻にしようとしただけなのか。
 女は皮手袋を嵌め、頭蓋骨が剥き出しになりつつある男の髪を引っ掴んだ。それと同時に、ゴトッと鈍い音がした。頭皮が剥がれ、髑髏だけがすっぽりと抜け落ちたのだ。怪女は硫酸を被った頭皮を投げ捨て、床に転がる髑髏を抱き上げた。雑巾で髑髏をぐるぐる拭くとにやりと笑い、空洞の鼻に口づけした。何か呟くとまた部屋を出て、今度は手にトンカチが握られていた。
 これ以上、何をするっていうんだ……。
 恐怖より興味が勝った。僕はじっと女の手元を見ていた。硫酸で顔が爛れるのを見た。あれ以上残酷な仕打ちではないという希望的観測もあった。
 女はハンマーのネジ抜きのほうを撫でた。髑髏と向き合って片膝をつくと、包丁を握っていた時と同じフォームで振り被り、一直線に振り落とした。ハンマーは頭蓋骨にめり込んだ。それを二度三度と女は繰り返した。頭蓋骨には罅が入り、その中に残された脳から最後の流血が見られた。僕のところまで、頭蓋骨の破片がいくつかすごい勢いで飛んで来た。もはや彼女に憑りつくのが狂気なのかさえも怪しいくらいだ。
 女は頭蓋骨の大きく陥没したところから脳味噌を取り出した。それを投げ捨てると愛撫するように髑髏の頭蓋を擦り、小さく微笑むとそれを抱いて部屋を出た。大切そうに、まるで彼を心の底から愛していたかのように……。
 自分もああなるのか――それはもはや決まり事として、僕の胸に迫って来た。なぜこんなことをする? 女は何者なんだ……。逃れる術はないのか。甘んじて死は受け入れよう。それはここに来る前から覚悟していたことだ。だがこんな死に方を望んだ覚えはない。
 少しして女が戻って来た。女は箒と塵取りを手にしていて、投げ捨てた脳味噌と床に転がる眼球をただの埃のように回収した。焼け残った肉片も、まるで鼻くそのように扱っている。ひどく寒気を感じた。

        18

 捜査会議が散会となると、天羽はその足で刑事課のフロアに行き、丹生脩太のレンタカーが映る映像を確認した。今や防犯カメラ映像の確認を受け持っているのは一課の連中だが、大量の資料映像を持ち出す手間を省くため、映像確認は刑事課のフロアで続けられていた。パソコンやテレビも揃っているので、効率もいい。
 すでに報告のあった映像以外にも丹生脩太を乗せたレンタカーの走行映像はいくつか発見されていた。係長が指示したように、レンタカーを受け取った場所からキャンプ場へと向かう道中のものだ。
 時速五十キロ以上の鉄の塊がカメラの視界を横切るのは一瞬のことで、単なるカメラ映像ではナンバーまでは確認できない。スローモーション再生でようやくナンバープレートを確認できた。
 確かに、丹生脩太の借りたレンタカーで間違いなかった。ただ、カメラ位置から車道までには少し距離があり、拡大すると画像が不鮮明になってしまうので、捜査員から報告のあった通り、運転手の顔までは見えない。映像班は丹生脩太の通った道順に沿ってカメラ映像を追っている。カメラの設置場所などの兼ね合いで所々車を見失うこともあるが、丹生脩太のレンタカーは予想経路にきちんと戻って来て、また追跡ができていた。
 この分だと、やはり丹生はキャンプ場に向かっていたのだろうと天羽は思った。
 問題の午後四時頃の三鷹の映像も確認したが、一度キャンプ場に向かうと見せかけてから引き返してきたということか? だがそんなことをする理由が何なのか、天羽にはわからなかった。
 八王子付近の映像も、三鷹付近の映像も、運転手の顔までは見えないが、薄っすらと色の違いはわかる。フロントガラスが映った映像を停止してみてみると、顔の下半分が白くなっているのでマスクを着用しているのかもしれない。丹生脩太は末期癌患者だから、外出する時に感染症対策を施すのは不自然なことじゃない。目元が暗くなっているので、サングラスをしているのかもしれない。これから時間は夕方へと移り行く。西日が強くなってくる時間帯なので、運転中にサングラスをかけていても不思議ではない。車は西を向いていた。
 だが裏を返せば、顔を隠す道具が揃い過ぎていると考えることもできる。たとえば丹生脩太の外出にマスクが必須だったとしても、車内では着用の義務はないのではないか。掃除は行き届いているはずだ。他人も使う車だからマスクをつけなくてはならないというのなら、病室のベッドだって同じ理由で常にマスクをしていなくてはならない。だがベッドの上でも常にマスクをしている患者は少ない。そもそも、今更感染症を恐れるなら他人との同居生活などできるはずがない……。
 考え過ぎだろうか。ほんの些細な違和感だ。気にするほどのことではないのかもしれない。樽本京介を殺害したのは丹生脩太で間違いない。事実、樽本京介を死に至らしめた凶器に対しての証言も上がっている。アリバイもないのだ。
 天羽はコーヒーを一杯飲むと、阿波野と署を出た。これから念のために丹生脩太と永川雄吾の関係について聞き込みを行う。望みは薄いが、事実確認を怠るわけにはいかない。もしかすると、思いもよらぬ繋がりが見つかるかもしれないのだ。それを見落としては職務怠慢と市民から叱責を受けても返す言葉がない。同様に、樽本京介と永川雄吾の関係については古藤に聞き込みを行ってもらう。こちらも望みは薄いが、今回の殺人事件と関連性のある事件なら、どちらかといえば樽本京介側から調べるほうが可能性はあるかもしれない。
 まず向かったのは板橋区役所だった。親族から、というこだわりはないのだが、単に遠いところは早めに片付けてしまいたいのが天羽の性格だ。昔から、やるべきことは先にやってしまって最後に楽をする。夏休みの宿題を最後の日までためておくなんて天羽には想像もできないことだった。
 予想通り、丹生皓太は永川雄吾という人物について知らないと言った。兄からそういう名前を聞いたこともないし、顔写真を見せても見覚えはないとのことだった。これは堂島妙子も同様だった。天羽と阿波野は板橋区役所から堂島総合病院に向かったのだ。堂島翼は縁談のまとまった見合い相手である倉本亜沙美と二人の時間を過ごしていてまだ病院には戻っていなかったが、母親のほうは見合いを切り上げ、一足先に病院に戻っていたのだ。天羽は堂島翼のほうに話を聞きたかったのだが。堂島妙子が永川雄吾を知るわけがないと思いつつ、丹生皓太にしたのと同じ質問を行った。結果はやはり、だめだった。
「しかし翼さんにとっては、忙しい一週間ですね。仕事のほうは大丈夫なんですか」
「有休は労働者の権利でしょう? だからそれを取得することに文句は言えませんわよ。お見合いだって、こっちの都合だけで決めるわけにはいかないでしょう? あちら様のご都合もあって今日になったんですの。仕事のほうは、予約いただいてる患者様にはお電話で予定を変更していただいて、新患様の診察は他の方に回させてもらって、問題ありませんわ」
 他の医師なら、すんなりと受け入れてはもらえないのだろうと天羽は思った。脳外科医というくらいだから堂島翼は当然優秀なのだろうが、やはり院長の息子という七光りはしっかりとあるらしい。有休二日、そして見合い……事件が起きてから、堂島翼が通常通り勤務していたことは一度もない。むろん、その三日間が偶然今だったというわけなのだろうが。
 そんなことを考えていて、ふと思い浮かんだことがあった。だがそれは堂島翼にではなく君島辰斗への質問だった。天羽は最後に、ビッザロのデビュー作『血に溺れた女』のサンプル画像をスマートフォンに移し、堂島妙子に提示した。
「これは丹生さんのデビュー作です。この絵のモデルの女性に心当たりはありませんか?」
 美術にはとんと関心がない堂島妙子だ。期待はしていなかった。その絵の持つ猟奇のせいか、堂島妙子は頬をぴくりとさせ、ホラー映画が苦手なのに見ている人のように老眼鏡の奥で目を細めた。
「さあ……。でも中学生には見えないわね」
「昼間、翼さんの友人である君島辰斗さんはこうおっしゃいました。この絵の女性と倉本亜沙美さんが似ていると。これは倉本さんではありませんか?」
「それはないわ。だって亜沙美さんは翼より三歳下ですもの。これが脩ちゃんのデビュー作なら、亜沙美さんは当時小学生ってことでしょう? この絵の人……モデルですか? この絵のモデルはどう見ても小学生じゃないと思いますけど」
 それはもっともな意見だった。天羽も『血に溺れた女』が小学生には見えない。中学生でもない。二十歳前後といったところだ。立ち去ろうとした天羽だが、亜沙美さんを疑うのはやめてと堂島妙子に注文された。というのもようやく息子が見合いに前向きになってくれたからだそうで、倉本亜沙美が丹生脩太の絵のモデルをしていた疑いを警察が持っていたら息子の気が変わってしまうかもしれないというのがその理由だった。天羽はそれを受け入れると約束したが、その後も倉本亜沙美は自分の長年通っている歯医者の一人娘で現在は医療機器メーカーに勤めているだの、同じ歯科医院で歯科衛生士をしている倉本亜沙美の母親の話などを延々話した後、倉本亜沙美は良家の令嬢で見栄えもよく、素晴らしい花嫁であることを力説された。結婚後は夫の収入次第では家庭に入りたいと考えているらしく、堂島翼の収入であれば結婚後は専業主婦として夫を支えるつもりで、堂島妙子にとって息子の婚約者として理想的な相手なのだそうだ。だからせっかくまとまった縁談にケチをつけるな、というのが堂島妙子の主張だった。
「肝に銘じます」とだけ言って天羽は院長室を後にした。
次に二人は久我山の整体院に向かった。今日だけで三度目の訪問だ。それでも整体師は嫌な顔一つせず、少しお待ちいただけますかとだけ言ってすぐに応対してくれた。君島辰斗が施術室から出てくると、それに少し遅れて制服姿の男子高校生が現れた。部活動でどこか痛めたのだろう。時刻はすでに午後五時を回っている。こんな時間まで掛かる計算ではなかったのだが……。予定が狂うのも捜査の宿命だ。
天羽は丹生皓太にしたのと同じ質問を君島辰斗に投げ掛けた。君島辰斗も永川雄吾については知らないとのことだった。
「そもそもそれだけ歳の離れた人と付き合うことはありませんからね」と言った。
 君島辰斗と永川雄吾の年齢差は七歳だ。確かに、部活動の先輩後輩という間柄でも、年齢差はせいぜい二歳、大学生なら、例外もあり得るだろうが。
「五歳以上歳上の人と付き合いがあるのは、職場の先輩方くらいですからね」と君島辰斗は院内を振り返った。歳下の場合も同様だと言った。まあ、そんなものだろうと天羽も思う。
 あまり時間を取らせるわけにもいかないので、永川雄吾関連の質問は早々に切り上げ、さっき堂島総合病院で気がついたことを訊いた。
「丹生さんが失踪することになった日、君島さんはキャンプに誘われなかったんですか?」
 ええ、と君島辰斗は頷いた。
「三人はよく一緒にいたと伺いましたが」
「もちろん。それは今でも変わりませんよ。今でも三人で会うことはありますから。でも仕事のこともありますし、全員が揃うことはあまり多くありません。僕と翼だけで会うこともあれば僕と脩太だけで会うこともありました。逆に翼と脩太だけで会っていることだってあります。誰かの顔を窺うようなことはわざわざしませんよ。あの日は僕も仕事だったし、誘われても行けなかったんで、全然気にしてないです」
 まあ、そんなものだろうなと天羽は思った。誰かと出掛けるためにあいつはどうしようかなどと一々考えるようではキリがない。ただ彼らの場合、親しい間柄である三人ということなので、君島辰斗にもお伺い程度はあってもおかしくないと思ったのだ。
「グランピングに誘われなかったことに深い意味はないと思いますよ。まあ、機会があればまた今度にでも三人で行きたいですけどね」と君島辰斗は言った。
 笑顔が、どこか取り繕っただけのように見えた。

 天羽が署に戻ったのはまもなく午後五時半になろうかという頃だった。すでに古藤が署に戻っていて、聞き込みの結果を手土産に上司の帰りを待っていた。が、古藤のほうも、大した情報は得られなかったようだ。古藤は樽本京介と永川雄吾の関係を調べるため浅倉瑠璃、伊坂翔平、バンド布武のメンバーに当たったということだが、皆口を揃えて永川雄吾という男は知らないと言ったそうだ。
「こっちもだめだった」
 天羽が言うと、「やはり関係はなさそうですね」と古藤は腕を組んだ。お互いの捜査結果を係長に報告した。係長は難しそうな顔で、「車が見つかるまでは無関係と決めつけることはできない」と言った。「もう少しだけ、続報を待とう。まったく別のところで繋がりが見つかるかもしれない」
「そうですね」と天羽は答えた。古藤も黙って頷いた。
 それから、と係長は言った。「失踪した永川雄吾だが、多額の生命保険が掛けられていた。受取人は妻の理穂だ」
「保険金目当て、ということですか」
「そうだ。それともう一つ、最近、育児のことで夫婦喧嘩が増えていると永川が言っていたのを同僚が聞いていた」
 永川理穂が夫に危害を加える動機はある、ということだ。保険金を受け取れるとなると、一時の気の迷いで、ということも十分考えられる。
「遺体が見つかっていないのでまだ何とも言えないが、妻が夫を殺した可能性は十分考えられる」
 ただし、永川雄吾が殺害された事件の犯人が妻の理穂であるならば、天羽達のいる捜査本部とは無関係の事件、というわけだ。しかしそれも未だ判然としない。係長がすっきりしないというような表情を浮かべているのはそれが理由だ。
 せめて失踪絡みじゃなければなと天羽は思った。報告を終えるのと同時に係長のスマートフォンが着信を告げた。それを受けて、天羽と古藤は黙礼し、踵を返した。だがすぐに、「天羽!」と呼び止められた。
 係長の前まで引き返すと、「丹生脩太がビッザロだと突き止めたのはおまえだったな?」と問われた。
「はい」と答えながら、それがどうしたのだろうと天羽は思った。
「永川雄吾の自宅に、ビッザロの肖像画が置かれていると報告が入った」
 心臓が跳ねるのが自分でもわかった。ビッザロの肖像画……つまりそれは、血の肖像画なのだろう。丹生脩太と永川雄吾の繋がり……いや、繋がりと考えるのは尚早だ。だが僅か二日間で姿を消した二人の人物が一枚の絵で繋がっている。永川雄吾は大手保険会社に勤めているが、年齢は三十八だ。ビッザロの肖像画は一枚数百万円から数千万円、場合によっては臆を超える……。そんな美術品を永川雄吾が所持しているというのか。にわかには信じられない。永川雄吾がビッザロの絵画を所有している理由として、金額面を考えた時に最も現実的なのは、丹生脩太から進呈された、だろう。そうなると、二人の間には繋がりがあったことになる。
 僅か二日の間に姿を消した二人の男……一枚の絵……これは偶然だろうか。
 やはり係長も、天羽と同じことを考えているようだった。これは見過ごせない重要な新事実だと言って、二件の失踪の連続性、そして樽本京介殺害事件との関連について調べる必要があると口にした。
「その永川家のビッザロの絵ですが、画像を送ってもらえますか」
 係長は了承して、永川家で聞き込みを行っている捜査員に肖像画の写真を撮影して送るよう指示した。通話を終えて、一分ほどで係長のスマートフォンにその画像が送られて来た。係長は画面を覗くと顔をしかめた。その歪めた顔のまま、スマートフォンを天羽のほうへと向けた。
 永川雄吾が所有している血の肖像――それを見た瞬間、天羽は踵を返し、走り出していた。

        19

 男の肉片を片付けると、女は少しして処刑場に戻って来た。慈悲もなければ常識もない、そんな化け物でも、かつて一人の女性だった微かな記憶がそうさせるのか、衛生面は気になるようだった。数時間前までは血を流した男が倒れ、それだけでなく爛れた肉片、さらには眼球が転がっていた監獄にホースの口を向け、大量の水を放射した。それですべての汚れが洗い流されるというように。
 檻は鉄格子を隔てただけで、床は一枚板だ。そのため女が撒いた水が僕の独房にも流れ込んできた。僕は咄嗟にキャンバスを確認した。キャンバスまで水が跳ね上がる危険はない。まずは胸を撫で下ろしたが、床に放り出したままのショルダーバッグやパレットが目について、慌てて持ち上げた。丸椅子の上にそれらを置くと、今度は自分の尻の不潔さを思い出し、水浸しの隣の檻のすぐ傍に尻を落とした。水の色が変わらない程度に男の血が混ざっているが、それを気にしている余裕はなかった。変な虫が湧き出ているのではないかと思うほど、股間から尻に掛けてがむず痒い。だがそのピークはすでに去り、もはや不快さも消えつつあった。それは慣れではなく壊死に近かった。
 ひんやりと肌を撫でる液体に浸ると、中指で自分の肛門を拭った。黴のようにしつこくへばりつく塊がぽりぽりと取れた。これですっきりすると思ったが、むしろ逆だった。痛み。瘡蓋を取った時とは少し違う。皮を剝いだような、細胞をめくられたような痛みだ。
 少しは清潔になった尻に手をやった。血が出ていた。未だ流れ込む水で手を洗い、立ち上がった。不快さはいくらかましだった。風呂にずっと入っていなかったこともある。ただ立ち上がってから、びしょ濡れの下半身を拭くものがないことに気づいた。冷房の効いた部屋に濡れたままでいるのはあまり気持ちのいいものではなかった。これじゃ小便で濡らすのと変わらない。感覚的には。
 事後処理を終えると女はホースを片付け、僕の前に平然と立ち、髑髏を手にポーズを取った。その時初めて、女が風呂に入ったことに気づいた。男の体から吹き出た返り血が彼女の体からすっかり消えていた。血の臭いを強く残して。
 僕は筆を取った。乾き始めたキャンバスをまた湿らせる。
「どうして殺した相手の致命傷と同じところに傷をつける?」女の右脇腹を指差しながら訊いた。そこにできた生々しい傷はまだ瘡蓋になっていない。出血はすでにないが、指で傷口を開けば簡単に血が滲みそうだ。
 女はさっきつけた傷ではなく、胸の下にある一際大きな傷を撫で、ふふんと鼻を鳴らした。
「殺した男の致命傷であたしを作る。この体は、この傷は愛の証。あたしの愛した男の死が、この一つ一つに刻まれている。傷に触れる度、何人かの男を思い出す。あたしに殺される直前に見せた怯える目を。それに傷をつける時のあの痛み。これこそ愛。痛みこそ愛。そうじゃない?」
 僕は筆を動かしながら、女を見ずに笑って見せた。
「そうかもしれない。僕はそういう愛に包まれる君の体に見惚れてしまう。……その愛を刻むようになったきっかけがあったんだろう」
 美しい横顔に色をつけながら、僕は女の顔色を窺った。やや瞼を伏せ、長い睫毛で髑髏を見つめる女は日本人離れした顔をしていて、骨格がはっきりとしている。鼻もすらっと通っていて、絵にしなくても鼻筋には陰影が見える。それを正確に描き取る。
「別に大した話じゃないわ。昔自分で自分を刺してしまったことがあった。その時の痛みと快感が忘れられないでいる。その時思っただけ。自分の体すべてを傷で埋め尽くしたいって。これこそあたしの芸術だって」
 僕は微笑を浮かべた。「よくわかる」
「そんな人今までいなかった。みんなあたしの体を見れば怖がるだけ。誰もあたしを理解できない。それでいい。あたしはここに隔離された気が狂った女――誰とも関わらず、誰にも理解されず、ただ自分のために傷をつける。まさかこんな最高の人生を送れるとは思ってもみなかった。自分の理想をここまで追い求められるなんて」
「奇遇だな」と僕は言った。「君と同じだ。僕も」
 女はポーズを崩し掛けたが、一瞬僕のほうを向いただけですぐに元の体勢に戻った。目には戸惑いの色が微かに見られた。
「あたしと同じ? そんな人がこの世界にいるかしら」
 僕は人差し指を立て、自分に向けた。女は眉をしかめ、あの生気のない目で僕を見つめていた。僕の心臓から送り出される血液を透視するかのように。
「いるね。まったく同じじゃないが、僕も君と似たような性癖を持ってる」
「性癖? 悪いけどあたし、そんな言葉知らないわ。あたしは理想を持ってる。その性癖とやらをあたしは持ってない」
「理想でも構わない。理想と性癖は同じ意味だ」
「地域の呼び方の違い?」
「まあ、そんなところだ。僕は絵を描いてる。人の絵を。特に女性の絵を描いている。僕の絵には一つの特徴があってね、それは絵を描き上げる時、モデルの体に傷をつけることだ。その傷から流れ出た血をキャンバスに載せる。僕は写実派だから、血を流す女性を描くなら血を流していないと描けない。ポリシーとでも言おうか」
 女は髑髏を持つ手をぶらりと垂らした。
「何のことだかさっぱりわからない」
「僕の理想の話だ」
「性癖じゃなくて?」
「そう、性癖。好みの体型の女性が血を流している。それも僕がつけた傷から。それこそ僕の芸術。血の通った肖像画。目の前の女性の究極の姿がキャンバスに写し出される。究極の芸術さ。その僕を君は驚かした。その美しい愛の遺物だ。一目見て絵にしたいと思った。僕と君は同じだ。同じものを一つの芸術として追い求めている」
「芸術? 悪いけど、あたし芸術なんて興味ないわ」
「知ってる。君が求めるのは血――」
「愛よ」
「そう、愛だ。その愛の傷が、僕には芸術なんだ。僕達は同じだ」
 女は髑髏を顔の前に持ち上げ、割れた額を撫でた。この髑髏も、女に皮膚を剥がれ、ハンマーで頭蓋を割られたのだ。
「そんなふうにあたしを引き込もうとしても、あなたにはあたしの一部になってもらうから。ここに来たということは、そういうことなの。いい?」
 僕は答えなかった。もし頷くやつがいたら、そいつは馬鹿でも阿保でもない。死人だ。僕は死人のような人相をしているが、まだ死んでいない。少なくとも、絵を描いているということは生きているということだ。死は甘んじて受け入れよう。だがここで残忍な殺され方をするのは望まない。
「その髑髏……さっきの男もそうだけど、どうして額を叩き割る?」
 女は憮然として、僕を見下ろした。口をきゅっと引き結んだまま、自分の頭を指差した。僕が小首を傾げると、女は言った。
「あたしもここが割れてるの。陥没って医者は言ったっけ」
 僕はゆっくりと、そして深く頷いた。納得。この狂気はそこから来ていたのか。気違いという言葉は、たぶんもう使ってはいけない言葉としてブラックリストに載っているだろうが、目の前の怪女はまさに気が違ったのだ。かつては普通の少女だったに違いない。頭蓋骨が陥没し、脳に何らかの影響が出てしまったのだろう。だからこんなところで一人で生活している。そして当たり前のように人を殺し、自らを傷つけている……。
 狂気を生まれ持った人間などいない。人を変貌させるのは、そのきっかけとなる何かを体験したからだ。それは彼女だけじゃない。
 そう。僕だって、女性を傷つけることが初めから好きだったわけじゃない。血を流す女性に芸術を見出していたわけじゃない。あれがあったから、僕は今血の肖像を描いているのだ。

        20

 永川雄吾が所有している肖像画の写真を見てから、本来車で二十分は掛かるところを天羽は僅か十二分で荻窪の永川宅に到着した。阿波野に運転させていたらやはり二十分は掛かっていただろう。もしかすると二十五分、三十分と掛かったかもしれない。あるいは天羽の鬼気迫る雰囲気に気圧されて、五分で到着してみせたかもしれない。
 助手席に座る古藤には、「警部が急ぐと運転が荒いんですよね」と言われた。古藤はいつもと変わらずスマートに立っているが、十二分のカースタントで車酔いしているのかもしれない。それだけ急いでいたということだ。
 天羽も、ビッザロの絵画を直に見るのはこれが初めてだった。そのせいか、どことなく異様な緊張感が肩肘を駆け抜けた。殺害現場に踏み入る時も、仏になった被害者の顔を拝む時も、こんなふうに足が竦むことはない。女性の靴が二足、やや踵の高いヒールとスニーカーだ。それから子供用の運動靴、赤ちゃん用の人形遊びで履かせるのかと思うほど小さなテープ靴、そして威厳を示すように黒光りした革靴が二足並んだ玄関に、天羽と古藤はそれぞれ一足ずつ威厳を据え置き、リビングに上がった。
 その絵はリビングにあった。
 全裸の女性……大量の血液で覆われた胸元と陰部、顔や手足、背景に至るまで飛び散った赤い点々。痩せこけた頬、血色の悪い顔、力ない目――『血に溺れた女』だ。ビッザロのデビュー作。間違いなかった。
 天羽はいつしかビッザロの絵を見ることを望んでいたらしく、その絵を見ると微笑を浮かべて額縁に近づいた。真鍮の額に入れられてはいるが表面にカバーはされていなかった。顔を近づけると、乾いた血の臭いが今も残っていて、鼻の奥を刺激する。まるで自分が鼻血を出しているのかと思うほど、その臭いは強烈だった。十七年も前の作品だというのに……。
 それを思うと、作品の保存状態もいいように思われた。塗料もすっかり乾いていて、油絵特有のパリッとした表面になっているが、塗料が割れることはなく、むしろそれが味を出しているようにも思える。同様に、血液も乾いて固まり、赤というよりは黒に近い色に変わっている。それを見て、丹生脩太は本当に生血を使っていたのだなと天羽は思った。
「この絵はいつもここに置かれているのですか?」
 この奇妙で気持ちの悪い絵を四六時中リビングに置いているところを想像すると寒気がした。血の肖像との生活なんて天羽には耐えられない。
「普段は、クローゼットの奥にしまってあります。それを今日は、こちらの刑事さんが引っ張り出して来られたんです」
 長い髪を後ろで一つに束ねた女性が言った。どうやら彼女が永川理穂らしい。『血に溺れた女』に魅入られて――いや、憑りつかれて――いや、引きずり込まれて、周りなど一切見えていなかった。永川理穂は夫と同じ三十八歳とのことだが、年齢の割に肌艶はいい。しかし年齢のせいか少し肉がついていて、顔も丸い。童顔だった。実年齢より少し若く見られるタイプだろう。
 永川理穂は天羽と古藤が来る前に聞き込みに来ていた捜査員を迷惑そうに指差していたが、天羽は内心大手柄だと褒めていた。
「こんな気味の悪い絵、とてもじゃないけど飾れません」
 永川理穂の口振りから察するに、やはり血の肖像を手に入れたのは永川雄吾のようだ。それを確認すると、永川理穂は首を縦に振った。
「雄吾さんは、いつ頃この絵を?」
「二年は経っていないと思います。仕事の得意先の方から特別に低価格で譲ってもらったとか言って……」
「低価格というと、具体的な値段はいくらだったんでしょう?」
 永川理穂は眉をしかめ、首を捻った。血の肖像を横目に見ると、忌まわしいものを見たように顔を背けた。
「三十万円ほどで購入したと聞きました」
「雄吾さんは美術品集めが御趣味だったんですか?」
 永川理穂は激しく首を左右に振った。
「芸術なんて、まるで無縁の人でした。ばりばりの体育会系でしたし。だから絵を買って帰って来た時も、あたしは何でそんなもの買うのって、騙されたんじゃないの、いいカモにされただけなんじゃないって言ったんですけど、夫はこの絵を気に入って買ったとか……それも本来だと一千万は下らない絵と紹介されたそうで、持っていれば価値はさらに上がると言われたそうなんです」
「それを三十万で?」
「胡散臭いじゃないですか。絶対騙されてると思うんです」
 天羽は白手袋を嵌め、永川理穂の了承を得て額縁の裏側を開け、キャンバスを取り出した。すんなりと額が開いたのは、先に来ていた捜査員が同じことをしたからだろう。キャンバスの右下に記されたサインは間違いなくビッザロのものであり、そもそもこの作品が贋作や複製品であるわけはなかった。それは描かれた女性に滴った血液だ。これが贋作であれば、血を描くのに絵の具を使うしかないだろう。ビッザロのモデルを務めた女性は揃ってトラウマを抱えている。贋作作りのためにもう一度体に傷をつけさせてくれと頼んで了承を得られるはずがない。これは正真正銘ビッザロの血の肖像であり、すなわち価値価格として一千万は下らないという譲渡者の言葉はまったくもって正しいものである。永川雄吾は騙されてなどいない。
 だがそれを言って血の肖像を捜査協力のために出し渋られたり、早々に売りに出されでもしたら面倒なので、天羽はこの絵の価値を口にしなかった。代わりに、もしもの話をした。
「もし、この絵が本当に一千万円の価値があったとして、雄吾さんに絵を譲った方はどうして三十万円という破格の値段を提示したんでしょう? オークションに出せば、一千万どころか何千万、何億という値段がついたかもしれませんよね」
「だから騙されてるんですよ」
「その辺りのことを雄吾さんは何か話しておられませんでしたか?」
 話してましたけど、と呟いた永川理穂だが、納得はしていないのだろう。騙されて高い買い物をしてきた夫、育児のことで口論が増えていた夫婦、夫に掛けられた生命保険――殺害動機としては、十分揃っている。
 話してください、と天羽は迫った。
「前にこの絵を持っていた方は」と永川理穂は小さな声で言った。「相当な資産家だそうで、こういった美術品も多く持っていると夫は話していました。その資産家の方の担当を務めているのが夫で、若手の頃から、もう十年くらいになるのかな、割と長いお付き合いをさせてもらっているとかで、食事に招かれたり、自宅に招かれたりする間柄でした。ある日コレクションを見せてもらった時に、夫はこの絵を見染めたんです。絵を見た時に画家の名前を口にしたそうなんですけど、それがきっかけで話が弾んだとか。夫は昔、これを描いた画家の個展に足を運んだことがあって、そこでこの絵を見ていたんです。その資産家の方も、その個展でこの絵を気に入ったそうで、所有者から一千万円で買い取ったそうで……。その絵を三十万円で夫に譲ったのは、長い付き合いだからというのは一つの理由ではあるんですけど、もう一つ、別に理由があったからです。それはやはり、気味が悪いということなんです。その方は絵を気に入って飾っていたそうなんですけど、その絵を見ると飼っている犬が憑りつかれたように吠え立てるんだそうです。それで呪われているんじゃないかと思ったそうで、夫が気に入ったのなら三十万円で譲ると……」
 呪われている……それはある意味正しいのかもしれない。犬が吠え立てていたのは、絵に塗られた血の臭いが強烈だったからに違いない。この絵は普通の絵ではない。人の血で描かれている。人間を描いた絵ではあるが、絵でありながら血の通った人間でもあるのだ。犬が過剰な反応を見せても不思議じゃない。
 資産家が破格の値段で永川雄吾に美術品を譲った理由についても納得がいった。ただ一つ、芸術に興味のない永川雄吾が三十万円を出資してまで血の肖像を譲り受けた理由だけがわからない。大切な顧客を無下にはできない、絵を気に入った、それだけの理由で三十万円もの買い物を家族に相談もせずにしたという点が違和感として残る。
 何がそこまで永川雄吾の心を鷲掴みにしたのか、それについて訊くと、永川理穂は一応答えを持ち合わせているようだった。
「夫は細身の女性が好きなんです」永川理穂は自分の体を見えないヴェールで包み込もうとするように手を交差させ、腰元にやった。「男の人って、だいたい細い女の人が好きですよね。モテるのは細い女の子。あたしだって、昔は細かったんです。夫と出会った時に今の体型だったら、たぶんあたしは夫と恋人になれなかったんでしょうね。このモデルの人もめちゃくちゃ細い。顔も綺麗だし、きっとモテたんでしょうね」
「この絵のモデルがあなたということはありませんね?」
 明日には一気に老け込んでいそうなほどずっとしかめっ面を浮かべていた永川理穂だが、天羽がやって来てから初めて相好を崩した。
「そんなふうに言ってもらえるのは嬉しいですけど、あたしはこんなに大人びた顔じゃないし、昔は細かったといってもここまで華奢じゃなかった。たぶん身長も、この人はあたしより十センチくらい高いと思います」
「この絵を描いたビッザロという画家は、華奢な女性をモデルに肖像画を描いています。過去にビッザロの絵のモデルを務めた経験は? もしくは、ビッザロでなくても構いません。肖像画のモデルを務めたご経験は?」
 永川理穂は小さく首を振った。小学生の頃に似顔絵を描き合うモデルを務めたくらいだという。それなら天羽も務めたことがある。思わず苦笑が漏れそうになった。
 一度肖像画から離れ、先に来ていた捜査員が永川理穂から聞き取っていた諸情報を古藤から聞いた。天羽が血の肖像について話を聞いている間、古藤は二人の捜査員から報告を受けていたのだ。
「夫婦の出会いは高校時代のようです。永川雄吾は野球部の主力として活躍、妻の理穂はマネージャーを務めていました。大学進学を機に別々の道を進むことになり、卒業後永川雄吾は保険会社に就職、理穂は管理栄養士として働いています。数年して、高校時代の同級生に招かれた食事会で再会し、その後交際に発展したそうです」
「その間二人は一度も会っていなかったのか?」
「大学時代に野球部の飲み会で二度ほど顔を合わせているそうです」
「その時は何もなかったのか?」
「その頃は永川雄吾に交際相手がいたそうです。理穂のほうも、当時は将来の夫のことを何とも思っていなかったようで……。後に再会した時には結婚を意識する年齢だったこともあり、お互い異性として見るようになったとか」
 まあ、わからなくもないといったところか。ただ一つ気になるのが、永川理穂の大学時代というのは、年齢を見るとビッザロがデビューした時期と一致する。それについて改めて訊こうとした天羽だが、その前に永川雄吾の競馬癖について古藤から報告があった。夫の競馬癖、それも連戦連敗の競馬に妻はうんざりしていたという。動機になり得るものがまた一つ追加された……。
「もう一度伺います。というのも、この絵が描かれたのはあなたがちょうど大学生の時なんです。絵のモデルの女性は二十歳前後です。この絵のモデルはあなたではありませんね?」
「違います」
「知り合いでこの絵の女性に似ている方はいませんか?」
「さあ……」永川理穂は首を捻った。
 それと同時に、天羽のスマートフォンが着信を告げた。若林署長からだった。署長から電話とは、余程緊急の内容なのだろう。天羽は「失礼」と言って電話に出た。
「天羽、シェアハウスの鍵の掛かった部屋が開いた。令状が出て、合鍵が作られたんだ。そこから何が出て来たと思う?」
 まさか丹生脩太の死体だなんて言わないだろうな、と天羽は考えた。「何ですか?」
「たった一枚の絵だ。一枚の絵だけが保管されていた。おそらく、発表されていないものだろう」
「新作ということですか?」
「いや、どうやらそうじゃないらしい。かなり昔に描かれたもののようだと報告が上がって来てる」
「それは女性の、血の肖像ですか」
「ああ、血の肖像だ」

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