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連載長編小説『怪女と血の肖像』第二部 血の肖像 28

        28

「お父さんとお風呂入るか?」
 夕食を終え、天羽は亮真に訊いた。今日は久しぶりに少し早めに帰宅した。早めといっても、すでに午後八時半を過ぎているが。心なしか、妻はどこか不機嫌そうにも見える。
 亮真は小首を傾げ、つぶらな瞳で父親をまっすぐ見つめている。「お父さん、髪の毛洗ってくれる?」
「ああ、洗ってやるぞ」
「目に水が掛からないようにしてくれる?」
「目に水? どうして?」
 すぐ傍で、亮子の溜息が聞こえた。天羽が空にした器を持ち、キッチンに入ると数秒水を流し、布巾を持って戻ってきた。
「お父さんには無理だから、お母さんと入るよ」
「無理?」息子は訊いた。
「無理なもんか。亮真が俯いて、目を閉じてればいい。あとはお父さんが全部洗ってやる」
 亮真は細い首を激しく横に振った。柔らかな眉が形を変え、八の字を描いている。
「それいや。こうやって――」亮真は天羽の膝の上にブリッジをするように寝転がって言った。「上向いて、それで髪の毛洗ってくれる?」
 天羽はうん、と頷いた。
「ちゃんとおでこに手をこうして、目に水が掛からないようにしてくれる?」
 天羽は頷いたが、髪を洗うだけでやることが多過ぎると思い、自信がなくなって来た。手元が狂って息子の目に水が掛かり、泣かしてしまうところがぼんやりと目に浮かぶ。
 そんな夫を見て、亮子は息子の手を引いた。
「お母さんと入るよ」
「また今度入ろうな」手を引かれる息子を見送りながら、天羽は言った。亮真は不満と期待の入り混じった顔で三度首を縦に振った。
 喉を潤すと天羽は立ち上がり、真太の写真を手に取った。
「何が何だかわからん。情けないな……刑事として、兄貴として……」
 自嘲気味に笑うと、ずっと微笑んでいる真太が兄を励ますように少し口角を上げたように見える。もしくは、喝を入れるように。
 そうだな、と天羽は心の中で呟いた。これは俺の使命だからな、きちんと果たさないと。でもな真太……手詰まりだよ。何を調べても手応えがない。これだと思って手を伸ばしたら、その手は空を切るんだ。まるで幽霊を追っているみたいにな。そんなことを続けているうちに、自分が今どこに立っているのかすらわからなくなってしまった。白状するよ。俺は迷走している。今までこんなことはなかった。一人の画家を指名手配しているけど、それが正解なのかもわからなくなっているんだ……。空は空、道は道でしかないのに、証拠が揃っている殺人犯が本当に殺人犯なのかと時々思ってしまうんだ。道がただのコンクリートでしかないように、やつはただの猟奇的な画家なんじゃないかと思う時がある。どこか釈然としないんだ。この事件は……。
 突然着信があり、天羽は不意打ちを食ったように驚いた。真太の写真を元の場所に戻し、スマートフォンを取り出した。阿波野だった。
「警部、夜分遅くにすみません」
 早口でないところが本当にすみませんと思っているようだが、時刻は午後九時になろうとしているところだ。夜分遅くというにはまだまだ宵の口だ。
「どうした?」
「さっき通報が入って、これから現場に向かうんですが、伊坂翔平と浅倉瑠璃が路上で揉み合いになっていたとかで。緊急ではないんですけど、一応報告しておこうと思いまして」
 伊坂翔平と浅倉瑠璃が……。二人は一昨日の夜も一緒にいた。古藤が浅倉瑠璃に話を聞いた後、二人は数時間を一緒に過ごした。古藤の慧眼によると伊坂翔平は彼女に惚れている節があったという。そしてその夜の別れ際、伊坂翔平は彼女のアパートの前で押し返されるようにして帰路に就いた。伊坂翔平が浅倉瑠璃に関係を迫っていたことが想像される。
 彼は近々フィレンツェに飛ぶ。嫌な予感がした。いや、手詰まりな今の状況のせいで、何もかもが嫌な予感に思えるだけかもしれないが。
 それでも天羽は、丹生脩太と樽本京介、そして永川雄吾を伊坂翔平が結ぶ可能性があることに気づいた。天羽はすでに背広を掴んでいた。
「今から向かう」
 そう言って通話を終了すると、天羽は脱衣所にいる妻に仕事で呼び出されたと伝え、外出した。妻は二つ返事だ。元警察官だから夫の仕事を理解していると思いたいが、単に興味がないだけ、というのが実際のところだろう。
 現場は新宿ゴールデン街から新宿駅に出るまでの路地とのことだった。現場に向かう阿波野に途中で拾ってもらい、天羽は新宿に出向いた。まず驚いたのが、伊坂翔平のTシャツの丸首の部分が一部破れてしまっていることだった。通報では揉み合っているとのことだったが、様子を見る限りそれだけとは思えない。
 新宿署にも過去の失踪事件の資料を提供してもらっていた。その際に樽本京介殺害事件の概要や諸情報は簡単にだが伝えてある。それがなければ、たぶん武蔵野署に連絡は入らなかっただろう。
 今は制服警官が二人を引き離し、それぞれ三人ずつで取り囲んでいる。浅倉瑠璃を阿波野に任せ、天羽は伊坂翔平を取り囲む警官の輪に割って入った。こんばんはと挨拶すると、伊坂翔平は仏頂面で顔を背けた。
「これ、どうされたんですか?」天羽は伊坂翔平の首元を軽く摘まんだ。
「別に、何でもないですよ」
「何でもなかったら通報なんてされないでしょう。一応、男女が揉み合いになっていると聞いていますが」
 伊坂翔平は荒い鼻息を吐き出し、まあ、と渋々認めた。揉み合いになった経緯を訊いたが、伊坂翔平は言葉を濁し、はっきりと答えようとはしない。
「飲んでて、この後どうするかってことでちょっと言い合いになっただけですよ」
「でもこれを見る限り、ただの言い合いではないようですが」
 天羽はもう一度伊坂翔平の首元に触れた。いくらTシャツとはいえ、破ろうと思って破れるものではない。浅倉瑠璃のような非力な女性だと特に。
「まあ、話さないというのであれば、後でもう一度伺いましょう。彼女の話をそのままあなたに話し、確認をしてもらいます。その前に、一つ確認したいことがあります。これは樽本さんの事件のことです」
 伊坂翔平は黙ったままだが、やや緊張が解けていた。瞬きの回数が微妙に減ったのだ。
「あなたは本当に永川雄吾という男性を知りませんか?」
 永川雄吾については、以前古藤が樽本京介の身近な人物から話を聞いている。その中に伊坂翔平も含まれていた。古藤の報告では、樽本京介の周辺の人物で永川雄吾を知る者はいないとのことだった。
「前にも言いましたけど、知りません」
「個人的な関わりはなくても構いません。たとえばあなたの修行している店に来たことがあるとか、その程度でも構いません」
 伊坂翔平は鉄鍋に鍛えられた太い前腕を組んだ。線は細いのだが……。
「お客の顔を覚えるのは料理人として重要なことです。塩と砂糖を間違えればとんでもないことになるように、お客の好みを間違えて料理を出せば二度と店には来てもらえませんから。だから店に一度でも来た人の顔なら覚えています。でも永川雄吾という方を見たことはありません。同姓同名の方なら何度か予約がありましたけど、顔が違いますから」
 空振り、か。もしかしたら伊坂翔平の勤める銀座イタリアンに永川雄吾が足を運んでいないかと考えたのだが。店で伊坂翔平とトラブル――たとえば彼の料理を侮辱したことなんかがあれば、それは十分動機になり得る。そして伊坂翔平は浅倉瑠璃にただならぬ想いを寄せていて樽本京介が邪魔。樽本京介の同居人にもあまりいい印象を抱いていなかった。
 永川雄吾と伊坂翔平の間にそうした因縁があれば、また違った仮説を立てることもできたのだが、永川雄吾が店に行っていないのならそもそも破綻した説だ。
 ちょうど浅倉瑠璃から話を聞いた阿波野がやって来た。
「こっちは全然話そうとしない」
 憎々しく言うと、天羽は阿波野が浅倉瑠璃から聞き取った今夜の顛末を伊坂翔平の前で聞いた。
 浅倉瑠璃によると、飲み屋を出た伊坂翔平がこの後近くのホテルに入ろうと提案したのだという。浅倉瑠璃はそれをやんわりと断った。だが伊坂翔平は引かず、しつこく浅倉瑠璃を誘った。浅倉瑠璃は「伊坂君が嫌なわけじゃなくて、京介を失ってすぐで、今は誰ともそういうことはしたくない」と丁寧に、しかも優しく説明したのだが、伊坂翔平は強引にホテルに連れ込もうとした。そこから揉み合いに発展し、理性を失いかけた男を引き剥がすために力一杯腕を振り払った。その際に伊坂翔平のシャツの首元に指が引っ掛かり、その勢いで少し服が破れたのだという。すぐに警官が駆けつけ、二人を引き剥がしたということだった。
 伊坂翔平は黙ったまま、何も言わなかった。
 浅倉瑠璃に怪我はないようだし、わざわざ署で話を聞くほどでもないので、浅倉瑠璃を保護して自宅に送り届け、天羽は直帰しようと考えた。ところが浅倉瑠璃を後部座席に乗せようとした時、伊坂翔平はその場で大声を出し、膝から崩れ落ちた。
「俺と京介の何が違うっていうんだよ! 音楽家として夢を追ってるところが好きって、俺だって料理人として夢を追ってるよ。今度フィレンツェに修行に行くんだぞ。何年掛かるかわからない。いつ日本に帰って来るかもわからない。京介も俺も、一緒だろ? 何が違うっていうんだよ……」
 天羽は浅倉瑠璃を阿波野に任せ、伊坂翔平の元に戻った。崩れ落ちた男の脇を抱きかかえて立ち上がらせた。
「樽本さんは真摯に音楽に向き合っていたんじゃないですか? モテたいとかかっこつけたいとか、そんなことは二の次で、形は歪でも夢にもまっすぐだった。あなたの場合はその逆、そんなふうな印象を受けますがね。結果というのはいつも後からついてくるものでしょう。第一に自分と向き合っているか、そこが樽本さんとの違いなんじゃないですかね」
 樽本京介がどんな声で歌うのか、どんな顔で笑うのか、天羽は知らない。だがこれまでの捜査で得た情報とシェアハウスに残された試行錯誤を繰り返した歌詞を見る限り、彼は自分というものを持っていて、音楽にはストイックだったことがわかる。バンド内での衝突も、その情熱故だった。
 今の伊坂翔平では、フィレンツェに行っても成功しないだろうと天羽は思った。伊坂翔平は天羽の腕を振り払った。天羽は警官らに伊坂翔平を任せ、阿波野の待つ車へと戻った。
「大丈夫でしたか?」後部座席を振り返り、天羽は訊いた。
 浅倉瑠璃はこっくりと頷いた。
「あの男とはしばらく会わないほうがいい。次は何をされるかわかりません」伊坂翔平は樽本京介殺害事件のれっきとした容疑者なのだから、とは言わなかった。

29へと続く……

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