見出し画像

連載長編小説『破滅の橋』最終章 夜明けの灯火2-2

 翌日、いつものように元気よく挨拶をしながら祐里はオフィスに入った。しかし――。
 何か汚らわしいものでも見たかのような冷めた視線が祐里に向けられていた。無意識のうちに声は萎み、不気味な感じがして挨拶もできなくなった。
 なるべく誰とも目を合わせないようにしながら祐里はデスクに鞄を置いた。なぜだかわからないが、同僚たちが皆祐里のことをじろじろ眺めてくる。
 昨日、何か大きなミスがあっただろうか。何か足を引っ張ってしまっただろうか。そんな不安が頭を擡げた。
 腰を下ろすと、祐里は周囲を窺った。やはり何人もの目が祐里を見ている。その目には軽蔑の色が滲んでいるような気が微かにした。祐里は原因を知ろうとして頭を悩ませた。五分ほどじっと考え込んだが、心当たりはなかった。
 突然、怖くなってきた。昨日までは普段通り接してくれたはずの同僚たちが、掌を返したように祐里から離れていく。
 まさか、と思い島本に視線をやったが、彼は祐里に軽蔑の色を含んだ目を向けることもなく、普段通りデスクに向かっていた。
 いよいよ当てがなくなった。考えられることは祐里が島本のことを拒絶し続けていることくらいだった。しかし島本はどうやら無関係らしかった。
 祐里は思わず溜息を吐いた。自分でもわかるほど、それは重いものだった。
 コンピューターを立ち上げようとすると、ちょっと、と背後から肩を掴まれた。ぞっとして振り返ると、険しい表情を浮かべた美樹だった。
 美樹は血相を変えているというのに、何だか祐里はほっとして「おはよう」といっていた。
「こっち来て」美樹に右腕をがっしり掴まれた祐里はオフィスを出たところの廊下に連れ出された。
 そのまま人通りの少ない一角に移動すると、美樹はようやく祐里の腕を離した。
 祐里は赤くなった右腕を左手で包んだ。「痛いよ」不安を抱えながら、祐里は唇を突き出して美樹の顔色を窺った。
 美樹も険しい表情をしているが、他の同僚たちとは少し違った目をしているように祐里には見えた。決して軽蔑などではない。しかし呆れ果てたような、失望感を含んだような、そんな目だった。
 どっ、といいかけて美樹は言葉を切った。思いの外、声が響き過ぎたのだ。美樹は囁くように、しかし怒気の籠った声でいった。「どういうこと?」
 祐里は苦笑いした。
「どういうことって何の話?」
「笑い事じゃないやろ。まさか祐里、気づいてないわけないやんな」
 祐里は視線を落とし、自分で自分の手を握った。「みんなから、じろじろ見られてる気がする……」祐里はいった。「私、何か悪いことした?」
 窺うように祐里は上目遣いをした。目が合うと、美樹は一層顔を険しくした。
 廊下の空気に混ざって祐里の頬に当たった秋の風が、今は不快に感じた。祐里はまた下を向いた。
「悪いなんてもんじゃないやん」
 美樹のその言葉が、祐里をひどく不安にさせた。人気のない廊下が、徐々に徐々に祐里のことを圧迫してくるようで恐ろしかった。じりじりと焦燥感が祐里の中で生まれ、それが同時に切迫感を併発させた。
「私、何した?」祐里は今にも泣きそうになって美樹に尋ねた。「すぐに謝らないと。私、責任取らないと」祐里は美樹の体を揺すった。「私、何したん? 教えて」
 美樹は祐里の手を優しく剥がすと、一歩後ずさった。それが故意に距離を取られた気がして祐里は悲しくなった。
 腰に手を当て、ひとつ息を吐くと美樹はいった。「祐里、彼氏がいるんやってな」
 祐里は思わず目を見開いた。職場で、自分の口から峯本の存在を誰かに話したことは一度もなかった。島本は、いつか祐里と峯本が二人でいるところを見かけたなどといったが、そんなものは出任せに決まっていた。
 なぜ美樹が祐里の恋人のことを知っているのか。それはいったいどこから手に入れた情報なのか。祐里は突然美樹が怖くなった。
「隠してるつもりはなかったんやけど……」祐里は顔を引きつらせながら後退した。
 美樹は祐里の肩に力が入ったのを動揺と見たらしく、「彼がどういう人間か、公にいうことができる?」といった。
 どきりとした。美樹の質問が祐里の胸を貫いた時、職場の雰囲気のすべてを祐里は察した。オフィスにいる人たちは、全員祐里の恋人が殺人犯だということを知っている。
 じっとりと季節外れな不快な汗が祐里の腋の下で滲んだ。
 何とかいい返したかったが適当な言葉は見つからず、祐里は息を呑むことしかできなかった。
「公になんていえるはずないよな」美樹がいった。「彼氏が殺人犯なんて、あたしは口が裂けてもいえへんわ」
「何で彼のことをみんなが知ってんの? 誰がそんなことをいい始めたん?」
 美樹は憐れむように嘲笑を浮かべた。「それは知らん。噂の出どころなんて、すぐにぼやけて埋められちゃうから」
「その噂が本当やったとして、何でみんなが干渉してくるの? みんなには関係ないことやん」
 いいえ、と美樹は首を横に振った。「印象がすっかり変わっちゃうわけ。あたしも、祐里のことが昨日とはまるで別人に見えてる」
「じゃあ私は、どうすればいいの」祐里は肩で息をしながら訊いた。仕事でのミスじゃないのであれば謝って収拾がつくようなものではない。
 あくまで祐里個人の問題であって周囲からとやかくいわれる筋合いはないのだ。しかしどうにかして弁明しなくては。このままでは重く冷たいオフィスで仕事をしなくてはならない。それで仕事が捗るはずもない。
 美樹は、祐里に恐怖を覚えさせるようにゆっくりと口元を弛緩させた。美樹の口を覆うように刻まれていた皺が、少しずつ大きく広がっていった。
「そんな男とは別れるしかないやろ」
 じりじりと押し込まれていた祐里の気持ちがふと立ち止まった。美樹の言葉に、祐里はかちんときた。
「そんな男?」祐里は拳を握りしめ、力を込めて美樹をねめつけた。「美樹は彼の何を知ってんの。いってみてよ。どんな根拠があって彼のことをそんな男なんていうのさ」
 美樹は祐里の剣幕に気圧されることなく、むしろ売り言葉に買い言葉で返してきた。
「祐里の彼氏、峯本浩平は今でも検索したら当時の事件の記事が出てくる。それを見れば彼がどんな人間かくらい一目瞭然よ。人としてまるで価値のない、腐り果てた人間。そもそも人の命を奪っておいてのうのうと生きてること自体がおかしいんちゃうの?」
「だから浩平君はもう罪を償って真面目に生きてるの。そんな血の通ってない文章だけで、浩平君のことを決めつけんといて」
「どれだけ罪を償おうと人を殺した事実は変わらないし、それは誰が見たって人の道に反してること。人殺しはどれだけ更生したって人殺しなのよ」
「たしかに美樹のいうことも間違ってないし、いいたいことはよくわかる。でも自分の過ちを糧に必死に人生やり直そうって必死に生きていこうともがいてる。その苦労が美樹にわかる?」
「全然わからない。自分が全部悪いんでしょ。なのにやり直そうなんて考えること自体がおかしいねん」
「浩平君にはちゃんとそれだけの理由があったんやって。犯罪がだめなことくらい私もわかってる。でも犯罪者全員が極悪人とは限らんやろ。……美樹」
 ふん、と美樹は鼻を鳴らした。
「極悪人に決まってる」
「何で? そんなん先入観やわ。みんな浩平君のことを知ろうとしない。殺人を犯したというひとつの事実と、その事件の表面だけを切り取った記事を鵜呑みにしてるだけやんか。何でその人はその時その犯罪をしてしまったのか。大切なのは、そういう部分じゃないの?」
 祐里は額にびっしり浮き出た汗を拭った。美樹も火照っているらしく、頬が紅潮していた。
 祐里は微笑を浮かべた。「殺人はいけないことやけど、もしかしたら犯人よりも被害者のほうが悪いことをしてたかもしれへんやん」
 美樹はそれには頷いた。しかしまだ不服そうに祐里と目を合わせようとしない。美樹も、額の汗を拭った。
「祐里のいいたいことはわかる」美樹は険しい表情でいった。「でも、人殺しを肯定する人なんておらん。とにかく、峯本とは別れること」
 そういうと美樹はくるりと向きを変えて大股でオフィスに戻っていった。少し離れたところで、ドアの開閉する音が聞こえた。
 朝なのに、ひどく疲れた気がした。頭に鈍痛がある。祐里は頬を叩きオフィスに向かった。
 廊下に出たところで島本と鉢合わせた。祐里は愛想笑いを浮かべて会釈した。島本はにっこりと笑った。
「もう九時過ぎてるから、どこ行ったんやろうって思って探したで」何だか少しだけ、島本の雰囲気が変わったような気がした。
「すみません。すぐに戻ります」
 祐里はお辞儀をして駆け出した。しかしすぐに呼び止められた。
「伊藤ちゃん、俺と付き合わへん?」
 祐里は島本の全身を目でなぞった。こんな時に何をいい出すのか。祐里は先輩に呆れ果ててしまった。
「絶対幸せにする。伊藤ちゃんの彼氏より絶対に幸せにできる。その自信がある」
 祐里は断りを入れてオフィスに戻った。祐里が部屋に入ると、やはり冷たい視線が浴びせられた。辛い気持ちを押し殺して、祐里はデスクに着いた。
 それから少しして島本が戻ってきた。何だか気まずいなあと思っていたら、突然島本が無念そうに首を振った。
 いったいあれは何なのか。そう思った次の瞬間に祐里は答えを得ていた。周囲からは恐ろしいほどの白い視線が祐里に向けられていた。
 ああ、島本との交際が、私がこの会社にいるための最後の手段なのか――。

3へと続く……

いいなと思ったら応援しよう!