連載長編小説『美しき復讐の女神』21
21
額を机に落とすとゴチンと鈍い音が鳴った。痛みはなかったが、振動が脳髄まで響いて背中が気持ち悪かった。
隼人が危惧していた通り、試験の結果は散々だった。まだ答案は返却されていないが、解答に対する手応えがまるでなかった。和葉の予想通り、受験を控えた生徒に配慮して易しい問題が多く出題されたのだが、隼人はまったく手に負えなかった。試験勉強を怠ったわけでもなく、体調を崩していたわけでもない。しかしずっと隼人の脳裏に太一と篠木渚の関係への疑問がこびりついて離れない。それが隼人の集中力を削り、試験への意識を妨げたのだった。
むろん太一と篠木渚の関係など答えが出るはずもない。それなのに隼人はどうしても意識がそっちに向いてしまった。赤点は避けられないだろう、まるで他人事のように身構えている自分もいれば、試験の手応えに焦燥感を覚える当事者としての自分もいた。そして今も太一と篠木渚のことが気掛かりで、隼人の頭の中は錯綜し、混乱していた。
机に伏せたまま目を閉じていると、微かに木の匂いが鼻腔をつく。自然を感じさせる机の匂いが、隼人には不快ではなかった。教室には暖房の嫌な風が充満しているが、休み時間に窓を開けて換気していることもあって、机には冬の冷気が染み込んでいた。寒さを好む隼人ではないが、今は机のひんやりとした感触が心地よかった。
うっとりと眠気を感じていると、肩をつんつんと叩かれた。体を起こすと下野だった。
「どうだった?」
唐突に下野は訊いた。
「何が?」
薄目のまま隼人は訊き返した。
「テストに決まってるだろ。ちなみに俺はだな、まあまあいけた――」
試験が終わった安心で下野は饒舌だった。活き活きとした笑顔を浮かべ、あの科目はどうだこの科目はどうだ、と快活に話していたが、隼人はまったく聞いていなかった。試験前はたじたじなのに、いざ試験が始まれば難なく乗り切っている。いつも通りの下野がそこにはいた。隼人は、試験はもちろん太一と篠木渚のこともあって余計な体力を使ってしまった感じがした。ひどい疲労感に襲われながら、同時に赤点必至の試験結果に怯えているのだ。余裕などどこにもなかった。
さっさと席に戻ってくれないかな、と隼人は思っていた。
しかし、隼人が話を聞いていないのに気づいていないのか、下野はずっと一人でしゃべり続けている。隼人は堪らず言った。
「俺は散々だったから凹んでるんだ。そっとしといてくれ」
弱々しい声が、やっとのことで自分の耳に届いた。下野は一旦話をやめたが、すぐに気を取り直した。
「じゃあ楽しい話にしよう。盛り上がるやつ」下野は何か企んでいる時にする口角を釣り上げた笑みを浮かべた。「で、南野とは最近どうなの?」
「べつに何もないけど」
「嘘つけ」下野は目を光らせていた。「二人で初詣行ったろ。目撃情報上がってんだよ」
「ああ」隼人はどうでもいいことを思い出したみたいに声を漏らした。和葉と初詣に行ったことが噂になっているなんて今までまったく知らなかった。下野が知っているということは一時期その噂が立ったということだ。だがおそらく、受験本番が目前となり、他人の恋愛など気にしていられる生徒は殆どいないのだろう。それに、登校するのは今日が最後だった。後は卒業式の予行演習と三月一日の卒業式で登校するのみだ。今更噂を気に掛ける必要などない。「行ったよ、川越八幡宮」隼人は認めた。「南野さんに誘われて。でも受験勉強があるからすぐに解散したけど」
「受験が終わったら、やっぱり付き合うんだろ? 二人仲いいもんな」
隼人は苦笑した。
「さあ、そんな予定はまったくないな」隼人は期末試験が終わったばかりなのに受験勉強に励むクラスメイトを指差した。「そんなことより、勉強しなくていいのか。二週間後だろ、入試は」
下野はふふーん、と笑った。自信ありげな様子が物珍しく、隼人は無意識にぽかんと口を開けて下野を見つめた。
「もちろんこの後も勉強漬けだ。ラストスパートだからな。でもわざわざ十分しかない休憩時間まで勉強しなくちゃならないほどじゃない。散々勉強したんだ。残りの二週間は苦手なところを潰すのと、ひたすら復習、今から新しいことをする必要はないからさ」
「そうか」隼人は下野の腹を叩いた。「頑張れよ、受験」
「おう。――おっ、先生来た。おい隼人、先生茶封筒持ってる。もうテスト返されんのか?」
下野は教卓のほうへ駆けて行き、担任教諭と二言三言やり取りした。隼人は、この後のホームルームでは二月中の予定などを連絡して解散だと思っていた。しかし担任教諭が抱えて持っている茶封筒が隼人を絶望させた。
だが考えてみれば、もう授業がないため各授業で試験を返却することはできない。試験初日や二日目の科目であれば、最終日のホームルームに間に合わせることも何とか可能だった。
下野が戻って来た。
「四つも一気に返すんだって。現国と英語表現とコミュ英、あと世界史」
隼人は溜息を吐いた。今回の試験に手応えのある科目など一つもないが、とりわけ世界史は自信がなかった。試験中に試験以外のことに気を取られ、解答しなくてはならない長く覚えにくい横文字が、対策をきちんとしていたのに頭の中でこんがらがってしまったのだ。
チャイムが鳴ってホームルームが始まると、担任教諭が試験返却の特殊な形式について話をした。担任教諭によると、今日この場で返却できない答案は、生徒本人の意思で点数を開示してほしいなら職員室を直接訪ねるように、とのことだった。それをしない場合は、卒業式の日に見る成績評価表で得点を知ることになる。
それなら全教科同じやり方を取ってくれ、と隼人は叫びたかった。だが担任教諭は機械的に答案を返却していった。当然、隼人も答案を受け取った。世界史の答案を受け取った後、赤点を見るのが怖かった。だが意を決して点数を見ると、四十二点あった。
赤点回避、それはいずれの答案もそうだった。返却された四つの科目はいずれも赤点を回避していた。
ついてるな、と隼人は胸を撫で下ろした。
22へと続く……
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