連載長編小説『怪女と血の肖像』第三部 怪女と血の肖像 35
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任意同行を求めると、堂島翼は納得がいかないと言って抵抗した。それ以上に、堂島妙子が天羽の腕にすがりつき、なぜ息子を連れて行くのかとしつこく食い下がって来た。お話を伺うだけですからと何とか宥めようとしたが、院長は泣き落としでどうにかなると思っている子供のように、今にも泣き出しそうな顔をしていた。天羽はそっと堂島妙子を自分から離すと、部下に彼女を任せた。
堂島翼は取調室に入ると体を斜に構えて腰を下ろした。左肘をテーブルにつき、手で顎を触っている。銀縁眼鏡がずれると左手で直していた。天羽が取調室に入ってからすでに十分以上が過ぎているが、じっと堂島翼の様子を観察しているだけで、聴取は行っていない。彼はまだ手錠を掛けられていない。訊くべきことがなくなれば帰さなくてはならない。部下には調べることを指示してある。その報告が上がって来るまで、何とか堂島翼を引き留めなければならなかった。勾留期間には限りがある。
痺れを切らしたのは堂島翼だ。さっきから忙しなく足が上下に動かされていた。ずいぶん苛立っているようだった。
「早く終わらせてください」
「そのつもりではいますが、場合によっては三十日間刑事と顔を突き合わせることになります。すべて、堂島さん次第です」
「どういう意味ですか」
心外だ、と言うように堂島翼はこちらを睨んだ。体は横に向けたまま、顔だけをこちらに向けている。
「末包有紗を逮捕しました」
「どうして彼女を?」
そう来るだろうと思っていた。自分は彼女の凶行を知らない。だから彼女が逮捕された理由がわからない。自分はあくまで主治医として経過観察を行っていたのであって、山小屋での彼女の暮らしぶりは何一つ把握していない、と。
「永川雄吾殺害の容疑で」
堂島翼は何か言いたげに口をもごもごと動かしたが、ボロは出さなかった。永川雄吾殺害のみですか、とは言わない。
しばらく、沈黙が流れた。下手に口を開くのも、ボロを出して取り繕うくらいなら黙秘してしまったほうがいいと判断したのだろう。
「そういえば、先週のキャンプ、どうして君島さんを誘わなかったんですか。中学時代からの親友と伺いましたが」
「特に深い理由はありませんよ。脩太と二人で出掛けることもあったし、辰斗と二人で出掛けることもありましたから」
「浅い理由で構いません。教えてください」
堂島翼は鼻から息を吐き出すと、灰色の壁に視線を這わせた。
「今回の有休は割と最近認められたことだったので、都合を合わせられるとしたら脩太だと思った。それだけです」
「君島さんももしかしたら都合が合ったかもしれないですよね。なぜ訊きもしなかったんでしょう」
「シフト制とはいえ週五日か六日は仕事ですから。一泊するとなると、あいつは殆どの場合仕事で無理ですよ。それがわかっていたんです」
「親友だから?」
「ええ……」
天羽のスマートフォンが着信を告げた。君島辰斗の元に派遣した溝尾という部下からだった。天羽は君島辰斗がカフェで倉本亜沙美の写真を見た時「似てる」と呟いたことが引っ掛かっていた。それについて、天羽の推測を部下に持たせて当たらせていた。報告は、芳しいものだった。
通話を終えると、天羽は堂島翼に向き直った。
「桐谷香澄さんのことはご存知ですね。いや、かつて交際していましたね?」
堂島翼は一瞬睫毛をぴくりと動かしたが、答えなかった。答えたくなければ、それでもいい。天羽は続けた。
「あなたが桐谷さんと交際していたのは中学生の時、桐谷さんは当時大学生でした。あなたは当時、歳上で品のある、中学生から見れば大人の女性にさぞ惚れ込んだことでしょう。桐谷さんの写真を見ましたが、かなりの美人でした。スレンダーで、スタイルも抜群だった。あなたは本気で彼女を愛していたんです。中学生ながら。でもある時、彼女は自殺してしまった。それがあなたの心に深い傷を残した。あなたにとっての理想の女性は桐谷香澄さんであり、彼女以外の女性を自分の伴侶として認めることはできなかった。だからお母さんが話をつけた見合い話をすべて断っていたんでしょう。ところが今度ばかりは事情が違った。倉本亜沙美さんとの見合い話が舞い込み、その顔写真を目にした瞬間、あなたの心の傷がほんの少し癒えたんじゃありませんか。倉本亜沙美さんは桐谷香澄さんとよく似ています。勝るとも劣らない美貌、かつての恋人と似た体型をしています。だからあなたは見合いを受け、彼女を婚約者として選ぶことにしたんです。倉本さんの中に桐谷さんを見出して」
「何の根拠があってそんなことを……」
「私も、まさかあなたと桐谷さんが交際していたとは思いもしませんでした。ですが以前君島さんに話を伺った時、ちょうどあなたの見合いがうまくいったことをお母さんがインスタグラムに投稿していて、その写真を見た君島さんがこう言ったんです。『似てるな』と。あの時は丹生さんの元恋人について話をしていたので、初めはその元恋人のことかと思いましたが、君島さんが言うにはビッザロのデビュー作のモデルと倉本さんが似ているということでした。私は倉本さんが『血に溺れた女』のモデルなのかと疑いましたが年齢を考えてもそれはあり得ない話でした。その後永川雄吾さんの自宅で『血に溺れた女』が発見され、そのモデルが桐谷さんだと判明し、私はまずこう疑問に思ったんです。ビッザロ、つまり丹生脩太は、どこで桐谷香澄さんと出会ったのだろう、と。年齢は七歳離れていますから普通接点はないと思われます。ビッザロの肖像画は今でこそ面識のない女性からモデルを厳選し描かれたものも少なくありませんが、初期の作品では身近な女性しかモデルに使っていませんでした。たとえば岩沢美亜さん。他には恋人だった堀内葉子さんや小口凛花さんといった具合に。それを考えると、ビッザロのデビュー作である『血に溺れた女』のモデルが見知らぬ人物ではないことが予想されます。ではビッザロと桐谷香澄さんの接点は何なのか。その時君島さんの一言を思い出したんです。『似てる』と呟いたあの一言を。君島さんはあの時、デビュー作の絵の女性と似ていると話しましたが、それは三人の過去を隠すために咄嗟に口に出た言い訳だったんです。嘘を言ったわけではないので、言い訳です。つまり君島さんは桐谷さんと面識がある、と私は思ったわけです。では君島さんの知り合いだったのかというと疑問符が浮かびます。そこであの状況を思い出してみると、君島さんはあなたのお母さん、つまり堂島妙子さんのインスタグラムのストーリーを見て、『似てる』と呟いていたのです。その時私は、もしやと思いました。それがさっき話した、あなたがこれまで見合いを断り続けて来た理由でした。これについて、君島さんは先程認めました。桐谷香澄さんがあなたの中学時代の交際相手だったことも証言しています」
堂島翼はふっと息を吐くように笑みを浮かべた。観念したようにも見えるが、余裕を見せる笑みは天羽を挑発しているようにも見えた。
「香澄ちゃんとは付き合ってました。それは認めます」
「あなたの初恋相手だった」
「ええ、その通り。美人で優しくて、こんなに素敵な女性はいないと思いましたよ」
「そんな女性が、ある日突然自ら命を絶った。それから少しして、丹生さんが画家になったことを知らされたあなたは、そのデビュー作を見たんでしょう。そして君島さんから、丹生さんの絵を描くスタイルを教えられ、桐谷さんが自殺するきっかけを作ったのが丹生さんだったことを悟ったんです。元々華奢だった桐谷さんが生前ひどく痩せこけていたのはビッザロの絵に大量の血を流してしまったからだった。その時からあなたは丹生さんに底知れぬ恨みを抱いていた」
堂島翼は黙ったままだ。平然としているので、天羽はもう少し踏み込んでみることにした。取り調べで重要なのは、いかに相手を刺激して、熱くさせるかだ。頭に血が昇れば、勝手に自白してくれることもある。
「それに桐谷さんは、あなたが思っているような女神でも天使でもなかった。当時、桐谷さんにはあなた以外にも交際相手がいました。それが永川雄吾さんでした。当時のことを思うと、おそらくですが、桐谷さんの本当の恋人は永川さんであって、あなたは浮気相手、あるいはそこまでは言えない遊び相手だったのでしょう。それを後に知り、あなたは見ず知らずの永川雄吾という男を憎むようになった。そう考えると、今回の連続誘拐殺人事件の被害者についても納得ができるわけです。あなたの愛した桐谷さんを自殺に追いやった丹生脩太、あなたが愛し愛されていると信じて疑わなかった桐谷さんが本当に愛していた男、永川雄吾への嫉妬と恨み。この二人を始末する。そう固く誓っていたのでしょう。そこに、病院の広場で自分達を風刺する目障りなバンドのヴォーカル樽本京介を加えて、一度に排除しようとしたんです。そこであなたは、脳外科医として母親から引き継いだ末包有紗の出張診療に赴くうちに彼女の狂気を知り、自らの手を汚さず、彼女に殺させようとした。違いますか?」
殺風景な壁にまた目を這わせ、堂島翼は眉根を寄せた。横顔だけを見ていても、腸が煮えくり返っているのがわかる。顔が赤くなっていた。
「何のことだかさっぱりわかりませんね」
しかし冷静だった。天羽は口を噤み、そうですか、と首を縦に振った。
「もし刑事さんの言ったことが事実なら、俺はもう一人殺さないといけなかったことになりますけどね」
こちらの鼻を折ろうとしたのか、堂島翼は我が物顔で言ってのけた。
「そちらについても、調べを進めている最中です。あなたの母親、堂島妙子さんですね」
堂島翼はぽかんと口を開けた。そこまで手が回っているとは思わなかったのだろう。もう少し話を続けてもよかったが、手元に証拠がない今、切り札を切っても堂島翼は認めないだろうと思った。少し時間を置いて、証拠が揃ったところで勝負に出る。
天羽は席を立った。今度は捜査一課の刑事が取調室に入り、堂島翼と対峙した。
36へと続く……